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by morristokenji
 『資本論』第2巻の「資本の流通過程」にとり一番重要なことは、「貨幣の資本への転化」に立ち戻って、マルクスが「資本の一般的形式」としてG-W-G'、つまり商品、貨幣とともに、流通形態として「資本」を定義したことです。流通形態だから産業資本もG-W--P--W'-G'の流通形態とすることになったし、資本の流通過程の分析もまた、G'-W--P--W'-G'の姿態変換(メタモルフォーゼ)から回転に入ることになったのです。W'の実現、生産された剰余価値の実現も、資本の姿態変換の一環に組み込まれて処理されることになるのです。とくに商品資本の循環=姿態変換形式W'-G'-W--P--W'により、W'のG'への実現は、資本家の所得の支出、貨幣の流通速度のアップなど、十分に可能であり、循環が進むことができます。
 資本の流通過程にとっての中心課題は、流通形態としての運動にとっての時間的経過、つまり「期間」であり、その期間に伴う資本の回転です。資本の価値増殖は、より多くの剰余価値を、より早く獲得することです。期間として資本の流通過程を捉えれば、流通期間と生産期間に大別されますが、そこでの資本の構成要素の機能と運動が、資本の回転を左右することになる。とくに、労働力商品に投資されれ、労働者へ賃金として支給される可変資本の循環は、資本の生産過程での労働による剰余価値の生産とは別の意味で、ここでも「労働力商品の特殊性」が資本の回転に特有な問題を提起し、可変資本の回転として論じられることになります。

 労働力商品の特殊性は、資本の生産過程では、必要労働により労働力商品の価値を形成し、それを労働者は賃金により生活資料として買い戻す。さらに労働者は、剰余労働により剰余価値を生産し、資本の価値増殖の手段に利用される。労働力の使用価値である人間労働は、必要労働だけでなく剰余労働を含み、マルクスも言及していますが「道具を作る動物」として人間社会を支えます。その人間労働を、資本は価値増殖の手段とするのです。①長時間労働などの労働強化による絶対的剰余価値生産、②必要労働の賃金を実質的に切り下げるための技術革新と生産性向上による相対的剰余価値生産の2つの方法です。この生産過程の剰余価値生産をより早く回転させる、それが資本の流通過程の課題です。
 資本の流通過程は、G-W-G'の一般的形式を前提にして、貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環のメタモルホーゼ繰り返しますが、労働者が労働力を資本に販売するA-G-W'は、資本の循環形式ではない。言うまでもなく形式はW-G-Wの単純流通です。ここで登場しますが、労働の生産物ではない、資本の生産物でもない労働力商品(土地自然エネルギーと共に)は、商品流通に参加していますが、そして資本の流通過程に組み込まれますが、しかし資本の流通形式ではない単純流通の形式です。ここに労働力商品の特殊性が発現する。

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# by morristokenji | 2017-10-28 20:31
『資本論』第1巻のタイトルが「資本の生産過程」、第2巻が「資本の流通過程」になっている。このタイトルからは、第一巻は「資本の直接的生産過程」であり、資本の生産過程の結果であるG-W---P---W'のW'の実現として、資本の流通過程が位置付けられるようにも見えます。事実そのような巻別構成の整理もあるし、マルクスも「直接生産過程の諸結果」など、そうした解釈や整理を予想させる時期もあった。少なくとも『資本論』以前の『経済学批判』段階までは、そうした考え方が強かったように思われます。しかし、『資本論』を執筆する段階では、その巻別構成は大きく変化しているし、それが『資本論』の理解にとり、極めて重要なように思われます。
 まず手がかりになるのが、『資本論』第3巻の冒頭にある以下の指摘です。「費用価格と利潤」のタイトルに直ぐ続いて、「第一巻では、それ自体として見られた資本主義的生産過程、すなわち、外的事情の副次的影響は、すべて度外視されて、直接的生産過程としての資本主義的生産過程が提示する諸現象を、研究した。しかし、この直接的生産過程は、資本の生涯の全部ではない。それは現実の世界では、流通過程によって補足されるのである。この流通過程が第二巻の研究の対象をなした。そこでは、とくに第三篇で、社会的再生産過程の媒介としての流通過程の考察に際して、資本主義的生産過程は、全体としてこれを見れば、生産過程と流通過程との統一であることが示された。この第三巻のかかわるところは、この統一について、一般的反省を試みることではありえない。肝要なのは、むしろ、全体として見られた資本の運動過程から生ずる、具体的な諸形態を発見し、説明することである。」として「諸資本」の競争や信用などの具体的諸態様を解明する方向を示しています。

 『資本論』第三巻は、第一巻と比べてはもちろんのこと、第二巻と比較しても、エンゲルスがマルクスの原稿を単に整理編成しただけで、体系的にまとめられてはいない。しかも、原稿の執筆の時期がそれぞれ不明で、前後の連絡がつけにくい部分が沢山ある。上記の冒頭の部分も、「費用価格と利潤」のタイトルの後に、どこかから移動して来たように、全三巻の巻別編成について重要な指摘がなされている。とくに第三巻については、第一巻と第二巻の統一ではない点が強調され、さらに『経済学批判体系プラン』の「資本一般」の枠組みを否定して、「競争」「信用」「株式資本」(資産)などの具体的諸形態を説く方法論を明確に提示している。その上で「費用価格と利潤」として「諸資本」の競争の具体的形態の説明に入るのです。それとともに、第一巻をここでも「直接的生産過程」としていますが、第二巻の位置づけが問題です。
 ここで第二巻は、第一巻の全体を受ける形ではなく、第一巻の「直接的生産過程」の「補足」として位置付けられている。「補足」だから「直接的生産過程」を補足して「再生産過程」の媒介をする。「補足」媒介の結果として、第二巻、第三篇「社会的再生産過程」の位置づけとなっている。だとすれば、①資本の生産過程としての「直接的生産過程」、②それを補足・媒介する第二巻「資本の流通過程」、そして③資本の再生産過程=「資本の蓄積過程」、その最後に第三篇「社会的再生産過程」、こんな編別構成となる。そして、さらに上記の「競争」「信用」「株式資本」(資産)の第三巻の地平が拓かれる。このような「巻別構成」、そして「篇別構成」のスケルトンが浮かび上がるように思われます。

 以上『資本論』第三巻の冒頭の整理からすれば、第二巻の「資本の流通過程」を「資本の直接的生産過程」の結果である上記のW'の実現過程に矮小化することは出来ないでしょう。W'の実現論は、生産と消費が流通により切り離されていること、そして生産財と消費財をはじめ産業部門間の不均衡が大きいこと、そこからマルサスやシスモンディの過剰生産論や過少消費説が主張されていた。とくに金融恐慌や景気後退期には、今日でも「有効需要」の不足が叫ばれ、マイナス金利など金融の「異次元緩和」も主張され、しかも長期化する。しかし、恐慌や不況は単なるW'の実現問題ではない。実現問題は、流通市場の現象面で提起されるけれども、資本主義経済は「法則がただ無規則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式」によつて解決される法則的秩序を持っている。市場経済は「無政府性」だけれども、「無法則」ではない。
 すでに貨幣論で明らかなように、W'の実現のためには、貨幣の裏付けを持った「有効需要」が必要です。貨幣の諸機能が重層的に有効需要を形成しますが、「貨幣の資本への転化」論で明らかにしたように、貨幣を前提とする流通形態としての資本は、その「一般的形式G-W-G'」で明らかなように、G-Wで需要し、W-G'で供給する運動体である。自らの運動の内部で需要と供給を統合し、とくに労働力商品を前提に雇用労働で生産過程を支配して供給をコントロールすれば、生産過程を基礎とした需要と供給の統合が可能である。それを前提にして既に述べたように「一物一価の法則」が流通形態で貫徹されるとともに、労働力商品は必要労働により価値規定されて、労働価値説が論証をみるわけです。いずれにしてもW'の実現問題は、「貨幣の資本への転化」に基づく産業資本の運動形式により、法則的に解決されるのです。

 そこで第二巻「資本の流通過程」による第一巻「資本の生産過程」の補足は、資本の再生産過程=蓄積過程の前に置かれ、その上で資本の生産過程と流通過程の統合として、資本の再生産過程=蓄積過程が説かれる、そんな編別構成となるでしょう。流通形態としての資本は、直接生産過程とともに流通過程を内部に組み込み、W'の実現ではなく資本の「姿態変換」としての「循環と回転」、そして「流動資本」と「固定資本」の運動により、資本の再生産過程=蓄積過程の展開につながる。こうした「資本の流通過程」の「補足」・媒介により、資本の再生産=蓄積過程の運動がダイナミックに把握され、そして「資本主義的人口法則」として展開されることになります。とくに資本の蓄積論が、『資本論』では不十分だった周期的恐慌を含む産業循環の基礎として解明される道も拓かれます。
 資本の直接生産過程は、言うまでもなく剰余価値論として展開されますが、それは絶対的剰余価値の生産、さらに相対的剰余価値の生産が説かれる。資本・賃労働の階級関係が解明されますが、その結果もW'の実現ではない。資本による労働力の支配であり、その形態が『資本論』では、第一巻、第六篇「労働賃金」とされている。資本は、労働力を商品として購入しながら、剰余価値生産の支配を通して、労働に対して賃金を支払う形式を完成する。いわば生産過程を流通形態で覆い隠す形態でしょうが、そうした流通形態の支配が前提になり、第二巻「資本の流通過程」による補足・媒介を通して、資本の再生産過程=蓄積過程が展開されるのです。


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# by morristokenji | 2017-10-03 20:53
 労働力の商品化を前提にして、同時に土地自然・エネルギーの商品化とともに、「資本の一般的形式」が、産業資本の形式に発展します。『資本論』が明らかにしている通り、そこでは資本が購入し雇用する労働者の労働力の使用価値が生産過程の労働である。資本は購入した労働力を、その使用価値の限度まで使用する。できるだけ長時間にわたり働かせ、生産に従事させる。資本の価値増殖からいって、それは資本に与えられた当然の権利であり、長時間労働は不可避だし、過労死の可能性もある。しかし、長時間労働は無制限に延長するわけにはいかない。労働者の労働は、人権を無視して取引され、「人身売買」される奴隷労働ではない。奴隷は家畜同様に人権を無視され、死ぬほど働かせることも可能だし、それが奴隷経済の特徴だった。その点で、奴隷経済は人間社会として存立する「経済原則」の根拠をもたないし、市場経済に付随する部分的な経済制度(ウクラード)に過ぎない。奴隷社会を、階級社会として、歴史の発展段階に位置付けることはできないと思います。
 もう一つ、産業資本に雇用される労働力は、資本の管理のもとで価値増殖の手段に利用されて労働するが、その労働は必要労働と剰余労働に分かれる。もともと人間は、B・フランクリンの言う通りa toolmaking animal(道具をつくる動物)であり、一日働いて一日生活する「必要労働」だけでなく、それ以上の「剰余労働」が可能である。剰余労働で道具をつくり、道具を機械に発展させ、また老人や病人の介護もする。したがって、労働者は資本のもとで労働し、労働生産物は資本の所有に帰するが、必要労働の部分は賃金を通して買い戻さねばならない。ここでも労働者の人権を保障し、「経済原則」を充足しなければならないのです。こうした労働者の人権の確保という点で、産業資本は剰余価値による価値増殖をはかりつつ、価値法則とともに「経済原則」を充足して一つの社会として成立する。これが『資本論』の純粋資本主義を抽象した社会である。

 このように産業資本は、一方で「経済原則」を充足しながら、他方「経済法則」としては価値法則に基づき価値増殖を図る。労働時間の延長を中心とする「絶対的剰余価値の生産」であり、労度生産性の向上によって必要労働を短縮する「相対的剰余価値の生産」です。経済原則を前提にしつつも。「経済法則」に基づく長時間労働や労働の強度による労働強化は、絶えず「経済原則」と剰余価値生産の緊張を強め高める。労働生産性の向上もまた、「機械制大工業」に基づく協業や分業の拡大であり、工場制度のもとで機械体系が「組織者」として労働者が支配される。労働者は機械の単なる付属物となり、チャップリンの『モダン・タイムス』であって、「人間疎外」が確実に進む。ここでも「経済原則」の労働生産性向上と「経済法則」の価値増殖の緊張は高まります。『資本論』には、ロンドンの大英博物館の「図書室」が提供した膨大な資料が、法則の実証に役立っていることが判ります。
 このように産業資本による資本の生産過程では、剰余価値生産による「経済法則」の解明の中で「経済原則」が明らかにされます。A・スミスは、労働生産物を商品的富として、「本源的購買貨幣」である労働により、生産過程を自然から生産物を購入する過程とした。「生産過程の流通過程化」であり、流通主義による資本主義経済の絶対視だったのです。マルクスは、スミスの労働価値説を継承しながら、「価値形態」を明らかにして、労働生産物ではない、労働力の商品化の解明に成功した。価値関係による労働力の商品化の解明ですが、それにより流通過程と生産過程を区別し、スミスの流通主義の誤りから脱却した。人間が自然に働きかける労働は、貨幣で商品を購入するのではない。「経済原則」にもとづく人間の超歴史的行為であり、そこに「人権の保障」の基礎があり、人間解放の原点があることを提示したのです。「経済原則」を組織的に、主体的に実現する、それにより資本主義を超える地平が拓かれたと言えます。

 経済関係は、言うまでもなく人間が自然に働きかける生産過程、および生産した生産物を消費する消費過程から成り立ちます。その生産と消費の関係に基づく再生産により、生産過程も繰り返され再生産が可能となる。その点で労働力の再生産としての消費過程も、生産過程とともに「経済原則」を構成する。消費過程は、言うまでもなく経済主体としては「家計」(house holding)と呼ばれ、家庭(home)や家族(family)とともに消費生活が営まれる。その点では、消費過程は経済原則そのものであり、経済法則の支配は家計の面から所得・収入で制約されるだけである。しかし、ここでも個々人の労賃など、所得・収入から消費支出されるのであり、消費市場の経済法則からの影響を免れない。労働力の商品化により、生産と消費が切り離され、家庭や家族と言った共同体的な人間関係が切り崩されて、家族・家庭の崩壊も進む。ここでも経済原則と経済法則の緊張関係が強まり、労働力の再生産が歪められる点を無視できないでしょう。
 消費過程を労働力の再生産とした時、それは教育を中心に生産過程の技術水準の発展など、生産性の向上に資する必要がある。経済原則としての生産性の発展による「経済成長力」の上昇を進め、それがまた資本の価値増殖、上記の相対的剰余価値の生産に結び付く。資本による技術の向上、生産性の上昇、経済成長力の確保も、経済原則に基づく経済法則による社会的再生産の発展です。そうした発展を無視して、資本主義の成長が労働者の貧困の蓄積だけだ、と見ることはできない。その点で、いわゆる「窮乏化法則」のドグマに陥ってはならない。必要労働による労働力の再生産も、消費生活による消費財など歴史的、文化的、教育的水準の高度化を前提にする。そこに経済原則を踏まえた資本主義の歴史的発展による「人口法則」の特徴が認められるのです。「人口法則」については後述します。

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# by morristokenji | 2017-09-07 20:38

④貨幣の資本への転化

『資本論』第2章の「貨幣または商品流通」では、「貨幣論」と言っても、貨幣の機能が中心的に論じられ、信用論や金融論との関連は立ち入ってはいません。しかも、貨幣の価値尺度の機能は、その購買手段としては、流通手段の機能と結びついている。流通手段は、とくに通貨の流通量の調節のために、貯蓄手段である「貨幣蓄蔵」が必要であり、さらに支払手段を説くことになっている。最後が「世界貨幣」ですが、ここで「世界市場」が登場し、世界市場の価格差を利用して、「貨幣の資本への転化」を説く解説も可能か、と思います。
 流通市場には、確かに国内市場と世界市場の区別があり、商品の価格差としては、複数の国内市場にまたがる世界市場の価格差が大きい。その価格差を利用して商社などが巨利を獲得している。資本の商業的活動は、世界市場の価格差に根差している現実が判り易いと思います。しかし、『資本論』の純粋資本主義の世界では、流通市場も一般的に説かれるのであり、世界市場も国内市場も区別されない「市場一般」が抽象されて理論化されなければならない。事実、世界市場だけでなく、国内市場でも価格差は不断に生じているし、資本はそれを利用して利殖を続けているのです。資本は、世界市場、国内市場を問わず、不断に形成される「無規律性の盲目的に作用する平均法則」として実現される市場経済の価格差を利用し商業的活動が展開されるのです。生産過程を基礎とする産業資本も、資本としては内部に生産過程を包摂しながら、G-W--P--W'-G'として形態的にはG-W-G'の形式で自己増殖しています。

 『資本論』第2篇「貨幣の資本への転化」でマルクスは、資本の一般的形式をG-W-G'としています。商品から出発し、関係概念としての商品価値を価値形態とする。貨幣形態から貨幣の諸機能を展開したマルクスは、商品・貨幣の流通形態として資本も流通形態としてG-W-G'を、「資本の一般的形式」としたのです。具体的には、商品・貨幣の流通市場に絶えず生ずる価格差を利用し、GをG'に価値増殖する運動体としての資本です。ここでマルクスは、労働手段など物的な資材(Stock)を「資本」としてきたスミスなど古典派経済学の資本概念を根本的に批判して、関係概念としての資本の新たな定式化に成功したのです。資本も商品、貨幣とともに、関係概念として資本家と労働者などの階級概念を解明することになります。マルクスにとって資本概念こそ、資本主義経済の根底をなすものだし、だから『経済学批判』ではなく、本のタイトルを新たに『資本論』と銘打って、自説を世に問うことにしたのでしょう。
 しかしマルクスは、ここでも冒頭の商品論をスミスと同じ労働生産物として、労働価値説を説いてきた。貨幣の価値尺度でも、労働実体による内在的尺度を前提とする貨幣機能だった。そのため流通市場における価格差、いわゆる物価変動が、「無規律性の盲目的に作用する平均法則」として、価格の基準を形成する価値尺度の意義を十分に明確にできなかった。また流通市場における貨幣の諸機能を前提としながら、流通形態としての資本の運動が、商品の価格差を利用しながら、貨幣の諸機能とともに、具体的には「価値尺度」としての購買手段が「一物一価の法則」を実現する。こうした価値法則を実現するメカニズムの解明も不明確なまま、資本の労働者の剰余労働の搾取による階級支配が強調されるだけに終わってしまっている。以下、その点を検討しましょう。

 「貨幣の資本への転化」では、マルクスは第一節で「資本の一般的形式」を説き、単純な商品流通W-G-Wと対比しながら、資本の価値増殖のためには商品Wの価格差を利用し、G-Wで安く購入し、W-G'で高く販売しなければならない。自己増殖する価値の運動体としての資本の説明です。ところがマルクスは、労働価値説の前提をここでも持ち出し、第二節「一般的形式の矛盾」では、労働価値説にもとづく等価交換からは「こういうことは分かった、すなわち、剰余価値は流通からは発生しえない、したがって、その形成には、何か流通そのものの中で見えないあることが、その背後に行われているに相違ないということである」として、こう述べる。「資本は流通からは発生しえない。そして同時に流通から発生しえないというわけでもない。資本は同時に、流通の中で発生せざるをえないが、その中で発生すべきものでもない」として、有名な「Hic Rhodus,hic salta!(ここがロドスだ、さあ飛べ)」として、第三節「労働力の買いと売り」に飛躍してしまうのです。
 しかし、こうした説明では、そもそも何のために「資本の一般的形式」G-W-G'を説いたのか。初めから労働力商品の売買を説明し、産業資本形式を説いてもよいのではないか?資本の一般的形式G-W-G'を持ち出しても、それを等価交換の法則で否定するために持ち出しただけではないか?そのため資本の一般的形式は、「先大洪水時代の姿である商業資本や高利貸資本」の存在に結び付けたり、先に述べた「世界貨幣」から世界市場の価格差を説明することになって、理論的な「貨幣の資本への転化」の説明にはならないのではないか?いずれにしても『資本論』の説明では、理論的説明にはならず、そのために歴史的な単純商品社会の想定や世界資本主義論の歴史観などを産むことになってしまったように思われます。そして、その原因は『資本論』冒頭からの労働価値説による等価交換の法則のドグマにあるように思われるのです。

 流通市場には、時間的にも空間的にも、不断の価格差が存在する。その価格差を流通形態としての資本は、上記のようにWを安く購入G-Wし、それを高く販売W-G'して、GをGに'価値増殖する。この場合、とくに注意しなければならないのは、安く購入するG-Wは、それが活発に行われれば行われるほど、価格を上昇させ需要を減退させる。逆に、高く販売するW-G'は、供給の増大により価格を引き下げる傾向をもつ。つまり、価格差があればあるほど、資本の運動は活発になるが、結果的に価格は上昇して需要が低下し、逆に供給は増大して価格が引き下げられる。つまり、価格差を消滅させるのが、自ら需要し供給する資本の運動に他ならない。まさに「一般的形式の矛盾」ではないか?流通形態としての資本の一般形式G-W-G'は、価値増殖の運動として需要と供給を統合しながら、安い価格を引き上げ、高い価格を引き下げる。結果的に需要と供給を統合しながら、価格差を解消し「一物一価の法則」を実現するのです。
 貨幣論では、もっぱら貨幣の機能によりG-Wの需要、購買力の裏付けのある有効需要のサイドから、価格差を解消する機能を説明してきた。それに対し、資本の一般的形式では、商業的機能G-W-G'に加えて、さらに金融的機能G➛G-W-G"➛G'により補足し、その上で需要サイドだけでなく、供給W-G'の供給サイドからも価格差を解消する。すでに資本主義経済の商品形態は、労働生産物や資本の生産物だけではない。商品経済的富の根源である労働力や土地・自然エネルギーも価値形態を与えられて商品である。資本は供給サイドから、第三節「労働力の売買」を通じて、生産過程Pを通してW-G'を進める。資本の産業資本形式G-W---P---W'-G'の登場ですが、ここで初めて価値関係が生産過程の労働=価値実体と結びつくことになる。価値法則が「一物一価の法則」として、労働価値説の論証が可能になるのです。

 ここでは、『資本論』の「労働力の売買」の説明で、ほぼ十分です。産業資本はG-Wで労働力商品Aを購入し、労働者を雇用する。資本の購入した労働力商品の使用価値は労働であり、生産過程の労働は、人間労働として経済原則からも必要労働だけでなく、剰余労働を行う能力を持ち、したがって剰余価値を生産する。人間は「道具をつくる動物」として、必要労働+剰余労働を行う。しかも資本主義経済の労働力は、単純な労働力として「何でも生産」し供給できる。資本は有効需要のサイドだけでなく、産業資本として供給サイドから全面的に供給を調節して、需要と供給の統合を図り価格基準を「一物一価の法則」として実現する。しかも、それは必要労働+剰余労働として、労働の関係に基づき価格基準が形成される以上、たんなる購買手段としての外在的尺度にとどまらず、貨幣の価値尺度機能もまた、内在的に尺度されることになるのです。
 ただ、ここで問題になるのは、『資本論』のように冒頭から労働生産物を商品として、労働価値説を論証してきた。さらにマルクスの労働価値説の論証を批判して、「資本の生産物」に商品を限定したとしても、ここで「ロドス島」に飛躍して労働力商品Aを外部から導入しなければならない。歴史的には労働力は、人間の能力であり、土地・自然エネルギーとともに、いわゆる「資本の本源的蓄積」により、中世封建主義の制度的崩壊により初めて商品化した。しかし、ここで「歴史的・論理的」に世界市場の発展とエンクロージャー・ムーブメント(土地囲い込み運動)など、歴史的過程を持ち出すわけにはいかない。そのためにマルクスは、上述のように「資本の一般的形式」G-W-Gの矛盾をいきなり設定し、しかも「ロドス島」に命がけの飛躍を試みて、労働力商品を導入したのです。しかし、後に改めて取り上げますが、『資本論』では第7篇「資本の蓄積過程」第24章「いわゆる本源的蓄積」を説き、「貨幣の資本への転化」論を補足する。さらに「資本蓄積の歴史的傾向」として、単純商品生産史観ともいうべき「所有法則の転変」の歴史観を述べているのです。

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# by morristokenji | 2017-08-29 20:53
 『資本論』では、商品論に続いて第3章で「貨幣または商品流通」を論じています。その最初が「価値尺度」ですが、たんに一般的な価値表現、つまり価格形態の表現材料の貨幣ならば、すでに価値形態論の最後で明らかにされている。とすれば、貨幣論としては、貨幣商品による商品の購買機能として、価値尺度を論ずることになる筈です。しかし、ここでも労働価値説が前提されているために、マルクスは一方で、商品の労働生産物として価値実体が、貨幣による価値によって内在的に尺度される。すなわち、「価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である。」「貨幣は、人間労働の社会的化身として、価値の尺度である」と述べています。
 しかし、他方で一般的等価物としての貨幣は、まず商品の価値を価格として表現し、「確定した金属重量としては、価格の尺度標準である。」ここではまだ価格形態であり、貨幣は観念的形態にとどまっている。また尺度標準は、「不変の価値尺度」ではなく、変化する尺度で変化する価値を尺度せざるを得ない。その上での尺度機能になりますが、貨幣が一般的等価として商品を購買し、価格を実現することによって、外在的に尺度することになる。そこでマルクスは、「価格と価値の大きさとの量的不一致の可能性、すなわち価値の大きさに対する価格偏差の可能性は、かくて価格形態そのものの中にある。このことは少しもこの形態の欠陥ではなく、逆にこれを一生産様式によく当てはまる形態にするのである。この生産様式では、法則は、もっぱら無法則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるのである」と述べています。

 マルクスが、ここで価値形態を前提にして、資本主義経済の法則性の特徴を、「法則は、もっぱら無法則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうる」と定式化した点は、極めて重要です。マルクスの価値法則は、たんなる等価交換の法則ではないし、たんなる平均法則でもない。「無法則性の盲目的に作用する平均法則」であり、無政府的ではあるけれども「無法則」ではない。「盲目的に作用する平均法則」、それが価値形態論から展開された「価値法則」の特徴であり、さらにマルクスは価値と価格の量的乖離の必然性にとどまらず、ここでは「質的乖離の必然性」にも説き及んでいる。「何ら価値をもたない未耕地の価格のような想像的な価格形態も、現実的な価値関係、またそれから派生した結びつきをを隠ししていることがある。」「隠していることがある」のではないのです。そもそも商品形態は、古典派経済学やマルクスのように、たんなる「労働生産物」だけではなく、富の根源となる労働力や土地・自然をも商品形態、したがって価値形態を与えているし、労働力も土地・自然も貨幣が購買し価値尺度するのです。
 こうした価値尺度機能からすれば、貨幣が商品を購買し「盲目的に作用する平均法則」がどのように具体化するのか?マルクスは、貨幣の外在的な尺度機能については、「価値の観念的な尺度の中に、硬い貨幣が待ち伏せている」として第2節「流通手段」の機能に移行しています。確かに貨幣の購買手段の機能も、貨幣が各種の商品を購買し商品流通を形成する中で具体化する。しかし、価値形態を前提に、価値の観念的な尺度が現実に具体化するさい、商品の需要と供給と価格の変化が生じ、そこに上記の「盲目的に作用する平均法則」が示される。その解明こそが、貨幣の外在的な価値尺度になるはずです。その点では、マルクスの説明は中途半端に終わっているし、補足的説明が不可欠でしょう。

 貨幣が商品の価値を購買により尺度するにあたり、まず前提されるのは、価値形態の貨幣形態ですが、貨幣形態は相対的価値形態の商品が、等価形態である一般的等価物を観念的に表示する。具体的に商品取引の場を想定すれば、商品が自己の価値表示として、例えば「一金○○円」という正札を下げる状態に他ならない。色々な商品が正札をぶら下げながら、貨幣所有者である顧客の購買を期待して待機する市場の状態です。
 その上で、商品の側から積極的に、押し売りは出来ない。商品は、価値表現については積極的だが、販売は受け身で、貨幣に買ってもらう、言い換えれば貨幣が積極的に購買手段として購買する。その際、取引に当たり、購買者と販売者は「値切り小切り」の商談をするが、最終的に価格は貨幣の購買手段の機能で決定されます。この際、商品の販売者は実現されつつある価格を見ながら、価格が上昇するなら供給を増加させる。いわゆる供給曲線の右肩上がりの傾向を示すでしょう。また商品の種類により違いが出てきますが、需要する側は反対に、価格が上昇するなら、購買を差し控えるから、右肩下がりの曲線になる。したがって、通常の状態であれば、右肩上がりの供給曲線と右肩下がりの需要曲線の交点で価格が均衡する傾向がみられることになる。
 このように価格は、需要と供給の相互の関係で決まりますが、しかし価格の決定は貨幣の側にあり、貨幣の購買手段が価格を決め、価格が均衡し価格の基準が形成されます。価格基準の形成は、一般に「一物一価の法則」と呼ばれていますが、マルクスの「価値尺度」は購買手段が商品の購買を繰り返し、価格変動になかで価格基準が形成され、「一物一価の法則」が実現されること指すと見ていいでしょう。マルクスが、上述のように「盲目的に作用する平均法則」もまた、貨幣の価値尺度機能が商品の購買を繰り返しながら、価格基準が形成される、そうした無政府的な傾向の中で、それを通して法則が実現される特徴を説明したと言えます。

 資本家的商品経済の「価値法則」は、マルクスが『資本論』冒頭の労働価値説による等労働量の交換の法則ではない。したがってまた、単純商品生産社会の商品生産者の「自己の労働に基づく商品生産」の所有法則でもない。価値尺度による「無政府的」で「盲目的に作用する平均法則」としての「一物一価の法則」として実現されます。しかし、言うまでもなく貨幣の購買機能は、貨幣が商品市場でマルクスも事実上、流通手段の機能として説明していますが、流通手段の機能、さらに「貨幣としての貨幣」の蓄蔵貨幣=貯蓄手段の機能、さらに支払い手段の機能による仕組みの中で購買手段の機能も具体化する。さらに、商品の供給を調節する点では、「貨幣の資本への転化」による産業資本の運動が、価値尺度の機能の機構的裏付けにならざるを得ないのです。
 「価値法則」は、形態的には価格変動の基準が形成され、「一物一価の法則」として実現される。しかし、価値法則の実体そのものは、「貨幣の資本への転化」を通して、産業資本の運動形式、とくに「労働生産物」ではない、しかし資本家的商品経済的富の根源にある労働力商品の価値規定により、「商品の再生産に必要な労働量」によって決定されることになる。そこで、貨幣論の諸機能については、『資本論』の多くの研究に譲り、ここでは問題の焦点になる「貨幣の資本への転化」について、とくに『資本論』の純粋資本主義の抽象による論理によって解明することにしましょう。 

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# by morristokenji | 2017-08-13 15:43