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by morristokenji

2)日本における社会主義の導入

 
 具体的には、アメリカの労働運動を研究して帰国した高野房太郎、片山潜などが中心になり、1897年(明30)にアメリカの労働運動組織AFLを模倣して「労働運動期成会」を結成しました。しかし、すぐ政府により禁止され、そこで片山などが方向転換して、キリスト教的な社会主義を説く安部磯雄らとともに、98年に「社会主義研究会」を組織します。ここで、日本の社会主義が呱々の声を上げた、とされています。さらに、1900年には「社会主義協会」を組織し、もっぱらヨーロッパやアメリカの社会主義思想を紹介研究し、それを啓蒙宣伝する活動を開始しました。
 こうした社会主義の思想の紹介・宣伝とともに、片山や安部などは、01年に「社会民主党」の結成に乗り出します。その結社宣言では、社会主義、民主主義、平和主義を謳い、暴力を排し平和的に階級制度の廃止、土地・資本の国有化、普通選挙や教育の平等の実現など、特定の思想的立場に立つものではなかった。また、賛同者も幸徳秋水、木下尚江、西川光ニ郎など、その多くが自由民権家やキリスト教の関係者でした。にも拘らず、結党届に対して明治政府は即日結社禁止の措置を取り、我が国の社会主義政党の誕生は流産してしまいました。ただ、そのために結果的ですが、上記「社会主義協会」を中心に、社会主義思想の紹介、啓蒙が盛んに行われることになりました。しかも思想の流入は、後進的なるがゆえに、欧米の社会主義が一挙に、幅広く、かつ同時に進められ、いわゆる空想的社会主義者からマルクスやエンゲルス、さらにレーニンの著作も紹介されました。
 なお、ここでとくに注意しておきたいのですが、幸徳秋水の『社会主義神髄』(03年)では、参考にした文献として、モリス・バックスの共著『社会主義』も挙げられました。しかも、「社会主義の効果」としてモリスの主張を引用紹介、「ウイリアム・モリスは曰く『人が財貨の為めに心を労するなきに至るも、技芸、萬有、恋愛等は、人生に与ふるに趣味と活動とを以てす可し』と。」つまり、社会主義における芸術や恋愛の高度な自由について、具体的に紹介しています。
 この時期は、日露開戦の前夜です。それだけに社会主義への明治政府の弾圧も特に厳しかったのでしょう。開戦を巡り言論界も二分され、とくに「万朝報」が対露主戦論に転換したため、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三などが、抗議のため一斉に退社しました。そして、反戦平和を主張するために、新たに「平民新聞」を創刊します。そして04年2月に日露戦争が勃発、幸徳秋水は「平民新聞」に「与露国社会党書」を掲載したり、『共産党宣言』が訳載されますが、新聞は発禁処分を受けました。また、片山潜がアムステルダムの第2インター大会の席上、ロシアのプレハーノフと戦争反対で握手するなど、大きな話題を呼びました。05年9月ポーツマスで日露講和条約が結ばれましたが、その後「平民社」も解散に追い込まれました。
 しかし、日露戦後を迎え、第一次西園寺内閣が成立します。06年には、まず西川光次郎等が「日本平民党」、さらに堺利彦等も「日本社会党」を結成、すぐに両者は合同して日本で初めての社会主義政党「日本社会党」が、ここでようやく誕生をみました。続いて堺は、「社会主義研究」を創刊、『共産党宣言』を掲載するなど、社会主義思想の宣伝啓蒙も活性化しました。このように日露戦争を挟んでの激動の時代に、日本における社会主義の思想と運動が本格化しましたが、上記の通り後進的なるがゆえに、欧米の社会主義の様々な思想や運動の流れが、同時に、一挙に、そして幅広く導入されました。そのために、思想的立場の違いや、運動の進め方をめぐり、早くも党派的な対立や抗争が表面化してきます。主要な対立点を紹介しておきましょう。
 まず幸徳秋水の動きです。彼は自由民権の左派を代表する中江兆民の弟子であり、はじめは民権主義者として活躍していました。また、上記のようにモリスの『社会主義』を紹介するなど、堺利彦などと一緒に幅広く活動していました。ところが、アメリカに渡り労働運動や社会主義思想に触れ、さらに帰朝後、日露戦争に対しての反戦の先頭に立ちました。とくにアメリカで無政府主義の影響を強く受け、直接行動を主張するようになります。06-07年には、日本でも大阪砲兵工廠のストライキ、足尾銅山の暴動など、大きな社会的事件が続きました。そうした社会的背景が、幸徳達の無政府主義的な直接行動に強く影響したと言えます。しかし、過激な無政府主義の主張は、欧米でもそうですが、社会主義の思想を議会を通して実現しようとする社会改良主義、議会主義の運動とは対立することになります。
 07年の初めには「日刊平民新聞」が創刊され、社会主義の思想や運動が、次第に大衆レベルにも浸透し始めました。しかし、「日本社会党」の第2回大会では、幸徳達の直接行動主義と、片山潜、田添鉄二など社会改良的な議会主義とが激しく対立しました。その結果、せっかく誕生した日本社会党も、結党一年にして結社禁止に追い込まれてしまいました。また「日刊平民新聞」も廃刊に追い込まれます。その後、政府の弾圧が激しくなるとともに、幸徳達の思想も過激化し、少数精鋭分子として孤立化しました。そうした状況のもと、明治天皇の暗殺を企てたとされる「大逆事件」が起こり、1910年には幸徳以下数百名が逮捕、さらに首謀者とされる24人が死刑の判決を受けることになりました。
 この大逆事件を契機に、ようやく産声を上げた日本の社会主義の運動は、いわゆる「冬の時代」を迎えます。なお、幸徳達に対する片山潜の動きですが、彼は03年末再び渡米し、上記の第二インター大会へもアメリカから出席、その後も滞米生活が続き、農場経営などに従事していました。しかし経営に失敗、07年に帰国して「日刊平民新聞」などに普通選挙による選挙権の獲得拡大など、議会主義の主張を展開し、幸徳達と激しく対立しました。また片山は、西川光ニ郎と「社会主義中央機関」として週刊の「社会新聞」を創刊します。ただ、この時点では、まだ堺や幸徳の「日刊平民新聞」、また森近運平などの「大阪平民新聞」等にも片山が寄稿し、幸徳派VS片山派の対立も、なお共通の場を持っていたようです。しかし、次第に両派の対立が激化し、中間的立場にいた堺達が調整に苦心するようになります。当時の「日刊平民新聞」「大阪平民新聞」「社会新聞」などには、幸徳達の無政府主義、片山達の議会主義、さらに堺を中心とする言わば中間派の主張が鮮明になって行く様子が反映されます。次の堺の述懐には、そうした対立が赤裸々に描かれています。
 「余は最も公平に種種の思想を比較して、国家社会主義、社会主義、無政府主義、個人主義と、この四者の間に自然の連続があると思う。‐‐‐そこで予は思う、この社会主義と無政府主義の調和によって革命がなしとげられ、革命後の新社会においては、さらに進んで社会主義と個人主義との融合を見るであろうと。‐‐‐かのベラミーの『百年後の新社会』とモリスの『理想郷』とを比較すれば、いわゆる社会主義の理想といわゆる無政府主義の理想とが明らかに見えると思う。
 日本においては最初、片山、安部等の諸先輩によって唱導せられたる社会主義は、主としてドイツ式のものであった。‐‐‐しかしながらイギリスと同盟しているところ、米国と接近しているところ、英語の広くおこなわるるところ、などより考うれば、イギリス式あるいはアメリカ式にならぬとも言われぬ。それにまた一つ、シナと云う大怪物が隣国に横たわっているので、これがもしロシア式にゆくとなれば、日本もまた多いにその影響を受けぬとも限らぬ。」
 堺が、国家社会主義、無政府主義、そして個人主義の対立抗争の間に立って、なおかつ欧米だけでなく、中・露の国際的動向をも見据えながら、いかに激しく流入を続ける社会主義の潮流に立ち向かうか?いかに自らの社会主義の思想的立ち位置を定めたらいいか?彼の苦労が伝わってくるような気がします。さらに、堺がここで、一方でベラミーの国家社会主義、他方で共同体社会主義のモリスの『理想郷』を念頭に置き、熟慮している点が書き込まれているのが興味深いと思います。
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by morristokenji | 2012-11-04 12:05