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by morristokenji

2)大正デモクラシーと社会主義ブーム

 「大正デモクラシー」のタームそのものは、第2次大戦後になって信夫清三郎『大正デモクラシー史』により提唱された、と言われています。第2次大戦後の民主主義の高揚から類推して、普通選挙制度を求める普選運動の高まり、集会・結社・言論の自由の要求、男女平等や労働者の団結権やストライキ権の要求など、民主主義や自由主義的な運動や風潮の盛り上がりを評価したのでしょう。したがって、その時期や期間については諸説があり、定義の内容で色々変ってきます。早いのは1905年(明38)の桂太郎内閣への倒閣運動から、最後は1931年(昭6)満州事変に至るまで、かなり長い時期を指すことにもなります。要するに、定義内容による違いが大きいわけです。ただ、大逆事件やその後の「冬の時代」を考えると、とくに社会主義の思想や運動との関連では、第1次大戦後の「戦後民主主義」の到来、具体的にはパリ講和会議が開催された1019年(大8)頃から捉えるのが適当でしょう。
 すでに説明しましたが、大逆事件1910年(明43)により、無政府主義(アナーキズム)の直接行動派は壊滅状態となり、また国家社会主義の議会改良派も片山潜が別件で逮捕され、その後1914年に渡米してしまったこともあり、表面だった運動は姿を消しました。中間的な立場の堺利彦は、丁度「赤旗事件」で逮捕され獄中だったため、運よく大逆事件に巻き込まれずに済みました。しかし、「ペンを以ってパンを求めることを明言」して『売文社』を開業(1910年)して、「パンとペン」の文筆活動に専念しながら、大逆事件の犠牲者の遺族の歴訪など「救援活動」を続けました。さらに、日本を捨てた片山潜とは異なり、1914年には月刊『へちまの花』を刊行しましたし、また「大杉栄君と僕」など、自らの思想的立ち位置を確かめながら、翌15年には「小さな旗上げ」として『へちまの花』を『新社会』に改題しました。いわば地下の文芸活動から、思想的政治活動へ徐々に浮上する意図からに他なりません。
 堺利彦と『売文社』の活動については、故黒岩比佐子さんの遺作となってしまった名著『パンとペン』が、実に詳細に、かつ多面的に紹介しています。それをお読み頂けれ十分ですが、堺の社会主義の思想的立場に限って、ここでも少し紹介します。『パンとペン』のタイトルの通り、堺は社会主義者としてよりも、「文士・堺枯川」として出発しました。しかも、森鴎外に作品が認められるなど、文士として十分に才能を発揮し、とくに海外の文学作品を沢山「翻案」紹介したり、「言文一致」の実践運動で活躍し、さらに独自の小説の執筆に打ち込んでいました。恐らく文学者としての道を歩み続けたら、一流の成功を収めたかも知れません。こうした堺の文士としての幅の広い人脈や活動が、彼の社会主義の立場にも少なからぬ影響を与えていました。その点では、19世紀イギリスの詩人、工芸デザイナー、そして「アーツ&クラフツ運動」で活躍したW・モリスとの共通性が、とくに指摘できるように思います。
 堺自身も文士として、多くの新聞社や雑誌社と関係しましたが、文学の面で大きな影響を受けた兄の乙槌を頼って大阪に出て、はじめ『新浪華』という新聞に入社しました。ここは国粋主義の系統に属する新聞で、「社会主義者、マルクス主義者として知られる堺利彦は、二十代初めには国粋主義の陣営に加わっていたのです」と黒岩さんも書いています。また逆に、堺たちの「平民社」が財政危機に陥った時には、後の右翼の大物となった当時21歳の「北一輝」が、「北輝次郎」の名前でカンパをしていたそうです。そうした文士・堺枯川の思想の幅の広さが、すでに紹介した彼の「社会主義鳥瞰図」で「あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続している」、つまり右の右は左、左の左は右であって、堺の社会主義の思想にも幅の広さを持たせたのでしょう。この点もモリスと共通します。と言うのもモリスもまた、マルクス主義者を自任しながら、エンゲルスからは空想的社会主義者として敬遠され、また私財を投じた「社会主義者同盟」もアナーキストに乗っ取られるなど、政治的に苦労しました。こうした思想的幅の広さは、ロシア革命後のマルクス・レーニン主義のドグマ化されたセクト性とは大違いです。
 こうしたモリスとも共通する文人・堺の思想の翼の広がり、右のウイングから左の幸徳秋水のアナーキズムまで、そうした中で堺は自分の思想的立ち位置をモリスの共同体社会主義に求めていました。黒岩さんは「平民社」の雰囲気そのものが、堺の人柄もあって『理想郷』だった、と紹介しています。たしかにそんな感じが強いのですが、堺が日本で始めてモリスの名著『ユートピア便り』の抄訳を手がけたのは、「堺によれば、安部磯雄からベラミーとモリスのユートピア小説を教えられ、読んでみると非常に面白かったので翻訳して紹介したという。安部はアメリカ留学中にこれらを原著で読み、とくにベラミーの小説に感銘を受けて社会主義者になった。」(119頁)ただ、安部のベラミーと違って、堺はモリスの共同体社会主義の立場に立ち、「国家社会主義」とは一線を隠したわけです。また、その時点(1903-4年頃)では、まだ幸徳秋水も堺と一緒の立場だったので、幸徳もまたモリスについて興味を持ち、すでに古典となった『社会主義神髄』では、すでに紹介の通りモリス・バックスの共著『社会主義』から引用し、さらにマルクス『資本論』エンゲルス『空想から科学へ』と共に社会主義の基本文献としたのでしょう。
 さらに山川均も、堺に薦められたと想像されますが、安部による『資本論』の翻訳が遅れていたので、上記モリス・バックスの『社会主義』の中から、「『資本論』解説」の部分を特に抜き出して、1907年に「大阪平民新聞」に連載して紹介しました。日本初の『資本論』解説です。こうして日本への社会主義、マルクス主義の紹介・移入は、主にモリスの著作を通して、堺を中心に進められていた点に注目したいと思います。この社会主義思想が、「冬の時代」が開けた後、大正デモクラシーの自由化、民主化によって、一挙に開花することになりますが、それを具体的に見ることにしましょう。
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by morristokenji | 2012-12-03 20:46