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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

4)W.モリス社会主義と大正デモクラシー

 ロシア革命を背景に、日本における社会主義の思想や運動が、次第にドグマ化されながらマルクス・レーニン主義として普及しましたが、その中でモリスの社会主義はどうなったのか?すでに紹介しましたが、堺利彦が日本で始めてモリスの『ユートピア便り』の抄訳を1903年(明36)に『理想郷』のタイトルで「平民新聞」に連載し、さらに翌年「平民文庫五銭本」の一冊として出版しました。初版2千部ですから、かなり高評だったようですが、さらに同志とも言える山川均が、モリス・バックスの共著『社会主義:その発展と成果』のなかの「資本論解説」の部分を、『マルクスの資本論』として「大阪平民新聞」(1907年)に連載しました。マルクス主義は、その後のマルクス(・エンゲルス)・レーニン主義ではなく、この時点では「マルクス・モリス(バックス)主義」の流れとして、堺・山川の手で受容され継承されました。しかも、とくに堺は、モリスが一方で米・ベラミーの「国家社会主義」、他方で「社会主義者同盟」のアナーキストと対立して、いわば中道の「正統マルクス主義」の立場を守ろうとした、それと同じように、一方の片山潜、安部磯雄の議会主義的な国家社会主義、他方での幸徳秋水の無政府主義と論争してきました。その堺は、さらに大正デモクラシーの社会主義ブームの中で、どう対応したのでしょうか?
 堺は、自ら発足させた「売文社」や優れた語学力によって、山川とも協力しながらですが、マルクスやエンゲルス、さらにレーニンの著作も紹介したり、翻訳しています。堺の思想的な幅の広さが、彼の翻訳活動にも十分伺われます。しかし、彼の思想的立ち位置は、少しもぶれずに変っていません。彼は、大正デモクラシーの民主化の到来の中で、1920年(大9)モリスの『理想郷』を再版しました。再版は「平民文庫」のパンフではなく、ベラミーの『百年後の新社会』を含めて刊行されました。本の表紙は『理想郷』NEWS FROM NOWHEREですが,言わば付録のような形でベラミーの抄訳も載せてあります。もともと堺は、モリスの『理想郷』、ベラミーの『百年後の新世界』を両方とも抄訳で公刊したので、一緒に再版したのですが、「はしがき」に以下のような興味深い、かつ無視できない重要な説明があります。
 先ず、はじめにモリス、ベラミーを簡単に紹介し、その上で「ベラミーの理想は前記の通り国有主義で、その余りに集中的な、画一的な、強制的な考え方に反対する者が少なくなかった。そこで社会主義者中でも、寧ろアナキスチックの傾向を帯びていた。モリスは少しくそれに当てつける位の心持で、極めて自由な生活状態を描出したものらしく思われる。故にこの二書の内容を比べて見ると、同じく社会主義の理想と云われながら、実は大変に違った二つの光景を現出している。そして今日になって見ると、ベラミーは最早や殆んど顧みられず、モリスはいつまでも多くの人に愛読されている。けれども我々としては、モリスを読んだ後に参考として、対照として、ベラミーを読む事も亦た決して無益ではない。」明らかに堺は、モリス『理想郷』の共同体社会主義の理想が主眼であり、その立場を明らかにする意味で、対立的なベラミーの国有主義=国家社会主義を参考に供したのです。
 再版が1920年ですから、ロシア革命の直後であり、レーニンのプロレタリア独裁によるソ連・国家社会主義に対して、堺は改めてモリス『理想郷』を公刊し、自らの思想的立ち位置を確かめておこうとしたのではないか?「はしがき」で堺は、さらに次のように書いています。「この抄訳は二つとも、私が余ほど以前に小冊子として発行したもので、近来は全く絶版になっていたのだが、この頃の陽気に促されて、少しづつ訂正を加え、さらに合冊として、発行する事にした。『理想郷』では、『危険』な箇所を大ぶん多く削除した。」ここでは堺らしい表現で「この頃の陽気に促されて」と書いていますが、大正デモクラシーとロシア革命による社会主義ブームに対しての彼の姿勢が伺われます。また、モリスの社会主義でも、危険な箇所を削除し、さらに目次ですら「無政府無国会」の「無政府」、「国家の消滅」の文字が、伏字で印刷されている始末でした。
 ただ、その後は訳書のタイトルが変りましたが、モリスの『ユートピア便り』は、『無何有郷だより』1925年(大14)布施延雄訳、続いて『無何有郷通信記』1929年(昭4)村上勇三訳(「世界大思想全集」第50巻)の2種類の全訳が出版されました。また、モリスの社会主義の論稿も、大正デモクラシーの社会主義のブームの中で、次々に翻訳されています。社会主義に関連した講演集は,すでにモリスの生前に論文集として纏められていましたが、それらは日本でも1920年代に、いずれも翻訳されました。列挙しますと、①『モリス芸術論』1922年(大11)佐藤清訳、②『芸術の恐怖』1923年(大12)大槻憲二訳(1925年に『芸術のための希望と恐怖』に改題、改訳)③『吾等如何に生くべきか』1925年(大14)と続きました。また1929年には『社会思想全集』第32巻にも、モリスの代表的論文が収められ、一寸したモリス・ブームが起っていたのです。
 1934年(昭9)は、モリスの生誕百年でした。当時のモリス・ブームを背景に『モリス記念論集』が発刊されましたが、その中で「モリス文献」が整理され、明治以来の日本におけるモリスの紹介・導入が、次のように纏められています。モリスの伝記、デザイン、詩集などと共に、彼の芸術思想、社会思想が集中的に翻訳・紹介された事情について、「社会思想方面の紹介が断然優勢で、文学方面、工芸美術の方面は甚だ寂寥たるものである」と。その後の日本でのモリスの影響と比較すると、全く対照的なモリス・ブームだったといえます。大正デモクラシーと社会主義のブームの到来の中で、モリスの共同体社会主義の理論や思想が、かなり大きな影響を与えていたことが解ります。
 しかし、大正デモクラシーの中での社会主義のブームは、すでに述べたとおりロシア革命の成功によるものでした。したがって社会主義は、マルクス・レーニン主義として正当化され、教条化されることになって行きます。しかも、ソ連共産党の一党独裁と共に、国際共産主義運動による支配が、コミンテルンによって行われることになりました。コミンテルンの指導の下で、社会主義はマルクス・レーニン主義が絶対化され、神格化されることになる。そうした教条的支配が、日本の社会主義運動にも、新たなセクト主義を助長することになります。さらに、1923年(大12)の関東大震災の渦中で、幸徳秋水の後継者だったアナルコ・サンジカリズムの大杉栄が虐殺され、再び政府の弾圧も強化されます。モリスの正統的社会主義の立場を継承した堺や山川もまた、そうした社会主義の新たな情況の変化に対応せざるを得なくなりますが、つぎに社会主義の組織と運動の動向に眼を向けてみましょう。
by morristokenji | 2012-12-22 20:53