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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

5)ロシア革命と日本共産党の創立

 ロシア革命に先行して、すでに述べましたが1915年(大4)には、後に『資本論』を翻訳した高畠素之なども協力して、堺利彦の『売文社』が「へちまの花」を改題、「新社会」を創刊しました。また同じ頃、アナーキズムの立場で大杉栄・荒畑寒村らが第2次『近代思想』を創刊します。第1次の『近代思想』は、純粋に思想文芸誌として、大逆事件の後1912年に刊行されました。その中断を、第2次が継承・発展させる形をとりました。また、1916年には「大阪朝日」に河上肇『貧乏物語』が連載されるなど、「冬の時代」の終わりを告げる動きも始まります。それだけに、1917年の10月ロシア革命は、日本の社会主義運動に新たな覚醒を促し、社会主義者はロシア革命の支持に動き始めます。「その当時の社会主義的な思想を持っていた者で、影響を受けなかった人はいない」(『山川均自伝』)と言われるほどでした。例えば、吉野作造「民本主義論」は大正デモクラシーを代表する論稿でしたが、それを山川均がマルクス主義の立場で批判し、「民本主義の煩悶」を書きます。さらに堺も、「新社会」にエンゲルスの「空想から科学へ」を訳出するなど、マルクス主義の立場を鮮明にする著作活動が活発になりました。
 当初は、日本政府のシベリア出兵もあり、それに反対する社会主義者は、ほとんど一致してロシア革命支持に回りました。「世界最初の社会主義」誕生は、それまでのセクト的対立を超えた朗報だったに違いありません。山川も「皆涙を流して喜びました」と書いています。しかし、日本への社会主義の導入以来、すでい紹介しましたが国家社会主義と無政府主義の根深い対立がありました。ロシア革命の実相が伝わるにつれ、次第に思想的な分派抗争が再燃することになったのです。1920年代を迎えると、労働運動の主導権をめぐり、ロシア革命の評価や労働運動の組織論などをめぐっての意見が対立、アナボル論争が始まります。アナルコ・サンディカリズムとボルシェビズム両派の対立です。とくに労働運動の組織論をめぐり、政党の指導を排除して自由な連合を目指すアナ派、対するボル派はロシア革命のプロレタリア独裁による中央集権的組織を主張しました。ロシア革命の成功、マルクス・レーニン主義に基づくボルシェビズムが、次第にアナ派を圧倒していきます。とくにアナ派の指導者だった大杉栄が、関東大震災(1923年)の混乱のなかで憲兵大尉・甘粕正彦に虐殺された、とされる「甘粕事件」によって、アナ派は急速に衰退しました。
 ロシア革命の成功により、同じ敗戦国ドイツでも革命情勢の高まりを見せましたが、レーニンなどの「世界同時革命」のイデオロギー的期待には繋がりませんでした。そのためもあったと思いますが、てコミンテルンの指導による国際共産主義の運動は、各国の実情を無視してソ連中心のマルクス・レーニン主義の教条的な国際的支配を強めざるを得なかった。具体的にはボルシェビズムによる世界各国の共産党の組織化の方針が打ち出され、その方針で日本でも1922年(大11)非合法で共産党(委員長は堺利彦)が創立されました。日本で最初のプロレタリア前衛党の登場に他なりません。
 この日本共産党の創立については、初め非合法で創立されたものの、創立に参加協力した山川均が、直後に「無産階級運動の方向転換」と云う有名な論文を当時の『前衛』誌に発表しました。これは、直接にはアナルコ・サンディカリズムを批判して、社会主義の思想と運動を広く一般大衆に浸透させる意図で書かれました。しかし、コミンテルンなど内外に問題を提起する形になり、関東大震災の混乱もあって、早くも24年(大13)に日本共産党は解党してしまいました。さらに山川、堺が反対したにも拘らず、背後にコミンテルンの指導があったのでしょうが、26年(大15)に共産党は再建されることになりました。こうした日本で最初の共産党の創立、解党、そして再建に見られる紆余曲折は、ロシア革命およびマルクス・レーニン主義をめぐっての極めて重要な対立、論争による混乱だったと言えます。この混乱から、共産党に対立する形で、日本に特有な労農派社会主義が登場することになったのですが、その位置づけを明確にする意味で、『山川均自伝』を手掛かりに整理しておきましょう。
 この『自伝』は、無論個人の手記ですから、歴史的記述としては限界があります。しかし、比較的客観的に書かれていますし、堺についても随所に触れていますので、労農派の成立事情を知るには適当な文献です。ただ、『自伝』全体としては、出生の頃から書かれていますが、ここでは第三部とされる<「小さき旗上げ」から(大正六年―第二次大戦直後)>の部分に限定しておきます。先ず1917年(大6)はロシア革命ですが、第三部も「ロシア革命のころ」から始まります。上記のとおり、山川を含め日本のすべての社会主義者が、それぞれの立場の違いを超えて、人類史上始めての社会主義革命を大歓迎した様子が紹介されます。ただ、「レーニンというのは薬の名前か何かとまちがわれたというような話があるけれども、大多数の人はレーニンの名を知らなかった」、そんな状態で「一時はロシア革命支持一色と言っていいくらい。しかし、それから落着いてきてだんだん意見が分かれてきました。」このロシア革命に対する意見の分岐、対立について、山川は明治の社会主義の思想の移入の時点に遡り、次のように興味深い整理をこころみています。
 「私の見た日本の社会運動には、近頃の言葉でいえば<理論闘争>の激烈に行われた時期が、三度あったと思う。その一つは、大正の末年から昭和の初めにわたる最近の時期だった。もう一つは、大正十年前後の、アナキズム対ボリシェヴィズムの論争だった。そして明治四十年前後は、その最初の時期だった。」
 すでに紹介しましたが、1890年代の終わり頃から労働組合運動が始まり、それと連動して主にアメリカ帰りのクリスチャン、また自由民権思想の流れから、日本の社会主義思想が始まったと言われます。しかし、最初は欧米の社会主義思想が一緒になっていて、大きな対立や分化は無かった。国家社会主義のベラミーの思想が安部磯雄、共同体主義のモリスは堺への影響が大きいとは言え、安部がマルクス『資本論』の翻訳を始めたり、堺もモリス、ベラミーをそれぞれ抄訳して紹介する、幸徳秋水も堺と平民新聞を始め、『社会主義神髄』にモリス・バックスの『社会主義』を紹介するなど、揺籃期の温もりを感じさせる時代でした。1906年(明39)に幸徳がアメリカから帰国、無政府主義者として直接行動派となり、安部や片山潜などの議会政策派と対立した。ここから日本の社会主義の思想と運動の論争、対立、分派が始まりますが、山川も「前年に外遊から帰った幸徳は、この時すでに議会政策の放棄を宣言し、これに対して片山氏らは、その頃の言葉では<国家社会主義>ないし<改良派社会主義>の新運動への明確な一歩を踏み出していた」と述べています。
 この時点での堺の立場ですが、山川は対立が鮮明化したと述べ「この茶話会で、堺君が自分の立場を述べた言葉の一節を、私は今日も忘れることができない―<私はあくまで正統マルクス派の立場を守る>。それから堺君は自分は両派のいずれにも偏しない中央の立場を取るという意味のことを述べた。-‐‐-私はこの夜の堺君の言葉の重要性を、後年になって味わうことができた。その後二十五年間の堺君の生涯は<私はあくまで正統マルクス派の立場を守る>というこの夜の約束の、課し化琴なき履行であったと思う。」この堺のいう「正統マルクス派の立場」は、すでに検討したようにマルクスーモリスの堺による受容であり、その立場から一方の国家社会主義、他方の無政府主義に対して、自らの立ち位置を確かめた、と言えると思います。
 そして、こうした堺・山川の立場が、第二の「理論闘争」の時点でも貫かれます。ここではロシア革命がすでに成功し、ボリシェヴィズムのマルクス・レーニン主義による教条的支配が始まっての論争です。ここでも対立は、いわば国家社会主義のソ連型ボリシェヴィズムと、無政府主義のアナルコ・サンジカリズムとの間で行われ、すでに述べた「アナ、ボル論争」に他なりません。「この時代から初めてマルクシズムが普及して、しかもかなり広い層の中に浸透してゆくと言うことになったし、また古い社会主義者のマルクシズムに対する理解も深まってきた。そして大正十年ごろになって、初めて無政府主義およびサンジカリズムの傾向とマルクシズムの分離が完了したわけです。この時分がいわゆるアナ,ボルの論争が行われた時代で、それが大正十年に大体終わりを告げたわけです。そして一応無政府主義およびサンジカリズム傾向の影響は凋落し、日本の大衆運動からはほとんどなくなったわけです。」
 その上で、第三の時期を迎えることになり、それが「大正の末年から昭和の始めにわたる最近の時期」、つまり日本共産党の創立、解党、再建の時期であり、それに対しての労農派社会主義の出発の時期です。それについて、山川は「マルクシズムとそれからそのほかの社会主義思想が共同戦線を張っていたかっこうだったのが、この無政府主義との分化が完了してしまうと、その間の分化が始まって、---これは大正十年以後になります。」この第三の時期については、マルクス・レーニン主義と堺・山川達の「正統派的なマルクシズム」「本来のマルクシズム」の新たな論争と対立であり、そこから労農派社会主義の誕生となりますので、次に述べることにしましょう。
by morristokenji | 2012-12-25 21:01