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by morristokenji

2)労農派と無産政党の曲折

 日本においてコミンテルンの指導もあり、その支部として日本共産党が再建されました。それに対抗する形で、堺や山川の理論的指導のもとに、労農派の組織がスタートしました。雑誌『労農』に依拠したことで「労農派」と呼ばれますし、さらに後述する日本の革命路線をめぐる「講座派」対「労農派」の理論闘争に関連した呼称として理解されてきました。例えば、「昭和2年(1927)創刊の雑誌<労農>を中心に集まったマルクス主義経済学者・社会運動家・文学者のグループ。講座派との間で日本資本主義論争を展開」などと一般的に解説されています。堺や山川の「共同戦線党」に相応しく、単に政党組織だけでなく、文芸運動を含む社会運動、さらに経済学者が中心の理論闘争の研究者集団などの総称といえます。しかし、すでに山川が『自伝』で整理しているように、その再建への協力を拒否した日本共産党に対抗して、労農派も共同戦線党として無産政党の共同による統一を目指していた。その動きは具体的にどうなっていたのか?
 日本の政党政治は、明治の国会開設以来、自由民権運動を継承し地方出身者集団の自由党系、それと都市出身者中心の改進党系に大別されて来ました。それが大正末年から昭和8年(1933)5・15事件による犬養内閣の崩壊の頃まで、大正デモクラシーをバックに、「民政党と政友会」の二大政党制の時代が到来した、と言われています。それに対応して普選制による選挙権の拡大もあり、有産政党の上記二大政党に対して、第三の無産政党の運動が起ってきたのです。もっとも、明治期にも社会主義の思想と運動とともに、すでにみた「社会民主党」、「日本社会党」などの政党が登場しました。しかし、この時代の政党は、名前は政党でも社会主義の思想団体であり、いわゆる主義者の組織に過ぎなかった。労働運動も始まり、激しいストライキが闘われましたが、それもまた持続的なものではなく、したがって組織的運動にはなりませんでした。
 日本で組織的な労働運動、労働組合運動が本格的に始まったのは、大正デモクラシーの高揚とともに、大正8年(1919)に友愛会が「大日本労働総同盟友愛会」に改組、翌年に友愛会など15団体が「労働組合同盟会」を結成した時点からでしょう。労働運動もまた、ロシア革命からの影響を受けてのスタートだったといえます。それだけに労働運動は、初めから激しいアナ・ボル論争などの舞台になりましたし、セクト的な対立や政治的な引き回しに晒され、組織の防衛に腐心せざるをえなかった。その点で労働運動と政党との関係も、緊張したもの、複雑なものにならざるを得なかったと思います。
 そうした中で、大正10年(1921)に「日本労働総同盟」がスタートします。こうした労働運動の全国的な統一組織に呼応して、無産政党の方も統一組織を考えることになったと言えます。堺や山川が、社会主義の統一した政党組織として「共産党」の創立を考え、当初は積極的に協力したのも、そんな思惑があったように思われます。しかし、すでに見たとおり、コミンテルンの指導はソ連型の前衛党、地下組織であり、堺や山川の合法的で共同戦線的な党ではなかった。従って、共産党は解党に向かわざるを得なかったし、その再建にも断固反対したのです。こうした事情については、すでに山川の『自伝』に詳しく書かれていました。色々複雑な事情があったと思いますが、いずれにしても労農派は共産党に対抗して、単一の無産政党の結成に努力しました。しかし、当局の弾圧が厳しくなったことだけでなく、労農派が「大衆的で合法的な共同戦線党」を志向したことがまた、単一の政党結成を難しくしたことは否定できません。
 ここでは簡単に整理して複雑な経緯の大筋を述べますが、まず大正14年(1925)に大阪で「無産政党準備会」が開かれ、続いて年末に「農民労働党」が結成されますが即日禁止。年号が大正から昭和に変った翌年3月、杉山元次郎らにより「労働農民党」が結成されます。しかし、10月には平野力三らが「日本農民党」を結成、一方で労働運動も上記「日本労働総同盟」の分裂が続き、同時に「労働農民党」から「社会民衆党」と「日本労農党」が分裂して、結局「労働農民党」は三つに分解してしまう。この時点では、地下で共産党の再建も進みました。ただ、昭和4年(1929)世界金融大恐慌が迫る中で、第1次山東出兵に反対し「対支非干渉運動全国同盟」の反戦平和運動が行われ、翌年の第一回普通選挙では、無産政党の各派が8名当選しました。当選者の中には、「日本労農党」からですが、戦後の日本社会党の委員長になった河上丈太郎も含まれています。そうした運動を背景に「日本農民党」「無産大衆党」、それに地方政党などを含む中間派7党が昭和5年(1930)に「全国大衆党」、その上で翌年の昭和6年(1931)7月に労農派の鈴木茂三郎らも加わり「全国労農大衆党」へ発展しました。この辺が、単一の無産政党への歩みの到達点だったように思われます。その後は、満州事変から日支事変へと15年戦争の戦時体制に変り、政党政治の存在そのものが全面的に否定されてしまいました。
 共産党ですが、コミンテルンの指導もあり,上記の通りたい昭和元年(1926)時点で地下で再建されました。翌27年、コミンテルンは「27年テーゼ」を決定し、「福本イズム」と山川の「方向転換論」の両方を批判しますが、マルクス・レーニン主義の教条化とロシア革命方式の絶対視は変りません。さらに昭和7年、「32年テーゼ」を発表、西欧諸国の社会民主主義とともに日本の労農派なども「社会ファシズム」として、それを主要な打撃の対象にしました。加入戦術による組織撹乱や分裂策動のため、労農派系の無産政党の内部でも対立、抗争、分裂に晒され、単一の無産政党への統一が大幅に遅れ、無用な混乱を重ねることになったのです。だからこそ山川の『自伝』では、国家権力の右からの弾圧だけでなく、むしろ共産党による「社民主要打撃論」が労農派による共同戦線党の結成と活動の「敵」であった、と強調しているのです。
 さらに「試練の労農派」と題して、次のように述べます。「労農派の運動の意義は反共運動ではない。労農派の見解や目標の前に共産党が立ちはだかったから共産党と戦ったが、同じように無産政党の右翼分子とも闘ったのです。---だから労農派が負けたといえば、共産党や無産政党右派の共同戦線―無意識的な―の力に負けたと言う方が当っているでしょう。しかしほんとに勝ったのは日本帝国主義」と述べ、さらに労農派の運動について、こう述べます。「私は労農派の力の不十分ということは、主として組織がなかった、組織として働かなかったことにあると思います。労農派も地方には相当いい、要所要所にいい人を持っておったですね。初めから労農派が党を作るという方針でやっておれば、相当にいけたと思うのです。ところが労農派は戦線の統一、無産政党の合同という主張の建前からして、独自の政党のような組織になることはできないし、またもう一つ別の政党を作るというような意図を全然持っていなかった。労農派の人たちは二度、党をつくりましたけれども、やむおえず、追いこまれて、それ以外はしょうがないから合同の足だまりをつくったわけです。」
 ここには、山川の共同戦線党がもつ宿命的なジレンマが述べられている。無政府主義のような組織的運動を頭から否定し、直接行動に出るのではない。組織的な運動を目指すが、政党政治に参加、介入する議会主義ではない。国家社会主義のように、国家権力を奪取して上から組織するのではない。政治運動を通して、共同戦線の連帯を図り、近代社会の国民国家の機能を無力化しながら、死滅させる。同時に、下から新たな共同体の組織を構築する共同体社会主義のジレンマだったように思います。それだけに労農派としては「七党合同」の「日本大衆党」にみられる九州、中部、信州や島根の名前の出てくる地方党、それに様々な地方分権型の組織や団体を重視していた。だから山川も、上記の通り「労農派も地方には相当いい、要所要所にいい人を持っておった」と、その組織論の特徴を強調しているのだと思われます。そうした特徴から、岩手・花巻の宮沢賢治「羅須地人協会」を取り巻く地方の労農派の組織と運動について見ることにします。
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by morristokenji | 2013-02-11 12:31