3)労農派と宮沢賢治(1)
2013年 02月 15日
宮沢賢治が、花巻農学校を辞めて、妹のトシが療養していた宮沢家の下根子「桜」の別荘で「羅須地人協会」を始めました。大正15年(昭和元年、1926)のことです。すでに見たとおり、労農派の運動が全国の単一政党の組織の形成に、ようやく近づいた時点のことです。ただ、羅須地人協会の組織そのものは、花巻の地域の若い農民たちのいわばフリースクール「自由学校」のようなものでした。しかし、宮沢賢治自身は、花巻を中心に当時の労農派の運動に一定の関係を持っていた。羅須地人協会の生徒達も、賢治先生が労農派の活動に協力していたことを十分承知していながら、彼に師事していたように思われます。
ただ、その時代は共産党の大量検挙3・15事件を始め、労農派の関係の組織や運動も取り締まりの対象だったし、厳しい弾圧を受けていました。弾圧を避ける必要もあったし、また関わりを持ちたくない地元の人達としては、賢治の羅須地人協会と労農派の関係は、出来るだけ触れずに伏せたままで過ごしてきた。また資料も残されず、今なお不明な部分が多い時期とされています。ただ、この空白の部分も次第に明らかにされていますので、そのかぎりで労農派の地方での活動として、羅須地人協会を取り上げましょう。
賢治は、花巻農学校を自ら退職しましたが、その前年にある種の教育改革があり、わずか3ヵ月ですが花巻農学校に全寮制の「岩手国民高等学校」が併設されました。デンマークに拡大した農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の日本版とも言われ、キリスト教などいくつかの流れがあり、大正から昭和にかけて全国に多数設立されました。農学校を卒業した優秀な人材をさらに教育して、疲弊した農村改革を実践することを目的にしたと言われます。そこに、新たな教科として「農民芸術論」が設けられ、その担当になった賢治が、講義ノートとして準備したのが、有名な「農民芸術概論綱要」と言われています。詩人らしく賢治の講義ノートは、詩のスタイルで書かれ、さらにノートですから、講義に利用するためのメモ風の注も付いていました。しかも、このノート作り、賢治は精神の高揚を覚えながら書いたに相違ない。彼の文芸思想、さらに社会思想、広く文明思潮が凝縮された、極めて格調の高い文章で綴られています。賢治の作品の代表的なもので、多くのファンがいるように思います。
「農民芸術概論綱要」については、拙著『賢治とモリスの環境芸術』(時潮社2007年刊)で説明しましたので再論しませんが、ただウィリアム・モリスとの関連についてだけは、もう一度ここで触れておきましょう。賢治は、モリスについて多くは触れていませんが、「芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ」の箇所に、わざわざWilliam Morris "Art is man's expression of his joy in labor"と英文でメモ風の注を付けています。英文で引用してあるのは、このモリスへの注だけですし、モリスの名前はもう一箇所出てきます。労働の目的、働き方・ワークスタイルを転換させる、そのキーワードにモリスの言葉を引用しているのです。詩のスタイルで書いた「農民芸術概論綱要」、やはり同じ詩人だったモリスの文章表現を、農民芸術のキーワードに賢治は利用しているのです。恐らく農民芸術論の講義では、賢治はモリスの芸術論、労働観について、もっと詳しく踏み込んで熱心に講義したに違いありません。
それだけではなかった。賢治は花巻農学校の辞職とともに、「岩手国民高等学校」も辞めます。当時の東北農民の窮状、東北農村の疲弊を救済するためには、上から作られた官制公立の学校教育の限界を超える必要があった。人一倍真面目に生きようとした賢治が選んだのは、公立学校を自ら辞めて、それこそ自分が納得できる本物の「農民高等学校」を創設して、そこで農民として生徒とともに生きようとした、それが羅須地人協会だったように思われます。賢治の花巻農学校の辞職、そして羅須地人協会の設立については、その後の彼の活動や早かった死とともに、色々論じられています。しかし、花巻農学校の真面目な教師の一人として、とくに「岩手国民高等学校」、そこでの農民芸術論の講義、労働をめぐってのモリスの文芸思想の受容、さらにモリスの教育論や彼の実践した「ハマスミス社会主義協会」の職人学校など、誠実な賢治の精神を強く突き動かす要因だったように思われてなりません。
さて、ここから羅須地人協会と地域の労農派の活動との関連について検討しましょう。羅須地人協会の活動は、広く地域の活動として行われたようですが、賢治が専門の土壌学や植物生理学、肥料学などと共に、講義としてはエスぺラントや農民芸術論などもあり、とくに農民芸術としてはモリスの芸術論、労働論が講義されていました。さらに、一番若い生徒だった伊藤与蔵さんの『賢治聞書』によれば、マルクスやエンゲルス、レーニンなどの社会主義、そしてロシア革命についても話題にして講義が行われたそうです。(拙著『賢治とモリスの環境芸術』を参照のこと)ですから羅須地人協会は、花巻農学校、国民高等学校の枠を超えて、広く思想教育も大胆に行われる地域の農民学校だったと言えそうです。しかも、ロシア革命に対しては、はっきりと批判的立場に立っていた。伊藤さんの『聞書』でも「私は今こうしてみんなと同じように働き、みんなの味方です。けれども万一、革命が起ったならば、私はブルジョアに味方するようになります」と語り、「私は革命という手段は好きではない」と言っていた。研究会などで、賢治はレーニン『国家と革命』のプロレタリア独裁に反対の意思表示をしていたそうです。こうした態度は、芥川龍之介などにも共通するロシア革命に対する批判的立場だと思われます。こうした立場を、生徒達にも率直に語りながら、当時の「労農大衆党」の候補者、泉国三郎の演説に生徒を誘っているのです。
ただ、その時代は共産党の大量検挙3・15事件を始め、労農派の関係の組織や運動も取り締まりの対象だったし、厳しい弾圧を受けていました。弾圧を避ける必要もあったし、また関わりを持ちたくない地元の人達としては、賢治の羅須地人協会と労農派の関係は、出来るだけ触れずに伏せたままで過ごしてきた。また資料も残されず、今なお不明な部分が多い時期とされています。ただ、この空白の部分も次第に明らかにされていますので、そのかぎりで労農派の地方での活動として、羅須地人協会を取り上げましょう。
賢治は、花巻農学校を自ら退職しましたが、その前年にある種の教育改革があり、わずか3ヵ月ですが花巻農学校に全寮制の「岩手国民高等学校」が併設されました。デンマークに拡大した農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の日本版とも言われ、キリスト教などいくつかの流れがあり、大正から昭和にかけて全国に多数設立されました。農学校を卒業した優秀な人材をさらに教育して、疲弊した農村改革を実践することを目的にしたと言われます。そこに、新たな教科として「農民芸術論」が設けられ、その担当になった賢治が、講義ノートとして準備したのが、有名な「農民芸術概論綱要」と言われています。詩人らしく賢治の講義ノートは、詩のスタイルで書かれ、さらにノートですから、講義に利用するためのメモ風の注も付いていました。しかも、このノート作り、賢治は精神の高揚を覚えながら書いたに相違ない。彼の文芸思想、さらに社会思想、広く文明思潮が凝縮された、極めて格調の高い文章で綴られています。賢治の作品の代表的なもので、多くのファンがいるように思います。
「農民芸術概論綱要」については、拙著『賢治とモリスの環境芸術』(時潮社2007年刊)で説明しましたので再論しませんが、ただウィリアム・モリスとの関連についてだけは、もう一度ここで触れておきましょう。賢治は、モリスについて多くは触れていませんが、「芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ」の箇所に、わざわざWilliam Morris "Art is man's expression of his joy in labor"と英文でメモ風の注を付けています。英文で引用してあるのは、このモリスへの注だけですし、モリスの名前はもう一箇所出てきます。労働の目的、働き方・ワークスタイルを転換させる、そのキーワードにモリスの言葉を引用しているのです。詩のスタイルで書いた「農民芸術概論綱要」、やはり同じ詩人だったモリスの文章表現を、農民芸術のキーワードに賢治は利用しているのです。恐らく農民芸術論の講義では、賢治はモリスの芸術論、労働観について、もっと詳しく踏み込んで熱心に講義したに違いありません。
それだけではなかった。賢治は花巻農学校の辞職とともに、「岩手国民高等学校」も辞めます。当時の東北農民の窮状、東北農村の疲弊を救済するためには、上から作られた官制公立の学校教育の限界を超える必要があった。人一倍真面目に生きようとした賢治が選んだのは、公立学校を自ら辞めて、それこそ自分が納得できる本物の「農民高等学校」を創設して、そこで農民として生徒とともに生きようとした、それが羅須地人協会だったように思われます。賢治の花巻農学校の辞職、そして羅須地人協会の設立については、その後の彼の活動や早かった死とともに、色々論じられています。しかし、花巻農学校の真面目な教師の一人として、とくに「岩手国民高等学校」、そこでの農民芸術論の講義、労働をめぐってのモリスの文芸思想の受容、さらにモリスの教育論や彼の実践した「ハマスミス社会主義協会」の職人学校など、誠実な賢治の精神を強く突き動かす要因だったように思われてなりません。
さて、ここから羅須地人協会と地域の労農派の活動との関連について検討しましょう。羅須地人協会の活動は、広く地域の活動として行われたようですが、賢治が専門の土壌学や植物生理学、肥料学などと共に、講義としてはエスぺラントや農民芸術論などもあり、とくに農民芸術としてはモリスの芸術論、労働論が講義されていました。さらに、一番若い生徒だった伊藤与蔵さんの『賢治聞書』によれば、マルクスやエンゲルス、レーニンなどの社会主義、そしてロシア革命についても話題にして講義が行われたそうです。(拙著『賢治とモリスの環境芸術』を参照のこと)ですから羅須地人協会は、花巻農学校、国民高等学校の枠を超えて、広く思想教育も大胆に行われる地域の農民学校だったと言えそうです。しかも、ロシア革命に対しては、はっきりと批判的立場に立っていた。伊藤さんの『聞書』でも「私は今こうしてみんなと同じように働き、みんなの味方です。けれども万一、革命が起ったならば、私はブルジョアに味方するようになります」と語り、「私は革命という手段は好きではない」と言っていた。研究会などで、賢治はレーニン『国家と革命』のプロレタリア独裁に反対の意思表示をしていたそうです。こうした態度は、芥川龍之介などにも共通するロシア革命に対する批判的立場だと思われます。こうした立場を、生徒達にも率直に語りながら、当時の「労農大衆党」の候補者、泉国三郎の演説に生徒を誘っているのです。
by morristokenji
| 2013-02-15 20:20