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by morristokenji

4)労農派と宮沢賢治(2)

 そこで当時の労農党の活動と宮沢賢治との関係ですが、労農党といっても、すでに説明しましたが単一の政党組織ではなく、労農派系の政党と呼ぶべきでしょう。堺利彦や山川均など、単一の無産政党結成への努力が続けられたものの、それがまだ十分実を結ばなかった。そうした中での岩手、花巻での活動ですが、 すでに述べましたが中央では、1925年(大14)に農民労働党の結成、しかし即日禁止。翌1926年(昭元)3月に労働農民党が結成されましたが、10月には分裂してしまう。岩手県では、その年9月に「無産党組織岩手県準備会」が結成されます。続いて、労働農民党が再組織化されたのを機に、「労農党岩手県支部結成大会」が盛岡市の藤沢座(党員加入者70余名)で開催されます。そこには、中央から戦後の日本社会党の委員長になった浅沼稲次郎が招かれ演説したそうです。翌日、花巻町でも花巻座で稗貫支部結成大会が開かれ(党員加入者30余名)、さらに翌1927年(昭2)3月には金融恐慌が始まる中、日本労農党の大山郁夫委員長が講師に招かれ、その上で5月に岩手県の連合組織が結成されたそうです。したがって、中央とのつながりでは日本労農党ですが、その当時、信州や九州、さらに中部などで結成されていた地方党、つまり「岩手労農党」として活動していたように思われます。
 だとすると、賢治が関係していた労農党とは、マルクス・レーニン主義の教条的なボルシェビキの共産党ではない、ロシア革命にも批判的な堺や山川の労農派の思想的影響の下での活動です。また、共同戦線党としての体質から、地方党としての独自的性格も強い政党活動だったと思います。その点では、青江舜二郎『宮沢賢治:修羅に生きる』(1974年講談社現代新書)が、堺や山川の労農派の流れを紹介し、その上で「これらの人の組織づくりは、東大系福本イズムの系脈をひく当時の共産党のように、錯雑した修辞法で相手を一方的に無理やりに仲間に引きこむ(その点では日蓮宗の折伏によく似ている)というものでなく、その根底には人道主義的正義感があって、メンバーは殆んど気持ちがあたたかくしんみな感じが濃い。/そのころこの労農派のほかに日本労農党というのがあり、これは共産党と同じ根だが合法活動の仮面としてその名が用いられた。これはしばしば労農派と混同されるが、東北の農民運動は労農派系で、だからこそそれは比較的すなおに、いわば体質的に地方の農民に受け入れられたし、賢治もその傘の下で、おのれをとことん燃焼させる決心をしたのではなかったか。」と述べているのは、適切な評価だと思います。その点でまた、賢治はモリスの文芸思想、そして堺、山川の労農派社会主義の流れを継承しようとしていた、と言えると思います。
 さらに、『岩手近代百年史』所収の名須川溢男の所説では、労農党稗貫支部では、当時地元で唯一最大の労働組合は岩手軽便鉄道労働組合で、その委員長だった立花利英と賢治の二人が親密な関係にあり、盛岡の労農派の研究会「啄木会」などにも参加し、一緒に活動していた。そうした活動との結びつきで、1928年(昭3)に行われた第1回の普通選挙に立候補した稗貫支部の代表、泉国三郎の選挙運動に積極的に関わっている。例えば「バケツいっぱいのしょうふのりにハケをつっこみ、片手に新聞紙いっぱいに<泉国三郎と書いたのをもって、町中貼ってあるいたばかりか、謄写版も貸してくれ、おまけに二十円の金まで使ってくださいとおいていった>(煤孫利吉談)こともしるしている」(青江『宮沢賢治』)と紹介されています。また、この当時の政見発表演説会のポスターも残っていて、そこには労農大衆党公認候補・泉国三郎となっています。(拙著『賢治とモリスの環境芸術』参照)いずれにしても、賢治が岩手の労農党の活動に積極的に関与していたことは間違いありません。こうした活動について、山川も『自伝』に中で、労農派の無産政党の活動については、その組織力の弱さを自認しながらも、「労農派も地方には相当いい、要所要所にいい人を持っておったですね」と述べていました。賢治などの「岩手労農党」の活動が、その代表例だったかも知れません。
 ただ、賢治の活動が労農党の党員(メンバー)ではなく、「シンパ」だった点について、次のような説明があります。「賢治が結局労農派のシンパ以上に進むことができなかったのは、ちょうど有島武郎、芥川龍之介、太宰治などと同じく、その育ちからくる気の弱さがあった。---賢治は自分が入党してその運動に専念することは、たちまち一族に累が及ぶということを恐れたといわれているが、それもあったと思う。さらにいえば日本左翼の致命的な体質である、陰険な分裂抗争を身近に知るに及んで、とてもやり切れなくなったのではなかったか。/賢治が労農派のシンパであることを、極力秘密にしておこうとしたことを、当時の教え子たちが私に話してくれたとき、私ははっと思いあたることがあった。---当時の思想弾圧や検閲に対して一つの逃げ道をつくっておこうとというものではなかったか。---にもかかわらず、賢治の身辺にはしだいに特高がうろつくようになり、とうとうある方面からの密告があって、賢治はたちまち羅須地人協会は解散だとその看板をおろし、肥料設計相談所のそれだけを残すということになるのだ。」(青江『宮沢賢治』)
 賢治の労農党への協力の仕方からみて、また父親の証言などもあり、党員ではなく「シンパ」の活動だったと思われます。しかし、ボルシェビズムの共産党ではなく、共同戦線党の労農党の場合、党員と「シンパ」にどれほどの違いがあったのか?「シンパ」も党の活動の「同調者」であり、選挙には立候補はしないものの、かなり積極的に活動をしています。その点、共産党員のように、地下活動でボルシェビズムの教条で固く武装し、「鋼鉄のように」鍛え上げられた非人間的な党員像ではない。あくまで合法政党で、共同体的な社会主義、しかもソ連型の暴力革命を否定した労農党の場合、党員は職業革命家ではなかった。普通の人間がオープンに活動することを前提にしていたはずですから、党員も「シンパ」も、党活動への協力について、その協力の仕方の違いとみればいいのではないか?とくに賢治は、羅須地人協会のような、開かれた農民教育、農業改良、農村振興などの一般的な活動団体の組織者ですから、「シンパ」として協力を求められたのは、ごく当たり前だと思います。
 にも拘らず当局の弾圧の手が、羅須地人協会にも近づいたことは事実でしょう。満州事変から戦時体制に入る軍国主義の思想弾圧が労農派にも及んだこと、それだけではない。当時の共産党が、主要打撃の対象を「社会民主主義」の労農派の活動にも向け、羅須地人協会がその巻き添えを食った疑いもあるように思います。累の周囲に及ぶことを賢治が警戒し、羅須地人協会での集会、表立った集まりを中止したことは事実でしょうが、それで羅須地人協会の活動が完全に終わった訳では決してない。賢治もまた、それで彼の活動が挫折し、絶望の果てに、その後「東北砕石工場」の技師のサラリーマンに転向した訳ではない、と思います。下根子桜での表立った集会や講義で集まるのは止めましたが、花巻温泉の花壇設計、肥料相談所や稲作指導などの農村活動は続けていたし、多くの生徒達も、羅須地人協会が解散した、とは思っていなかった、再開を期待していたと思います。
 伊藤与蔵さんの「賢治聞書」では、宮沢賢治が農学校を辞め下根子桜に移った「1926年(大15)4月から1928年(昭3)8月病気になるまで」の2年半としていますから、羅須地人協会の集会は賢治の病気で中断したことになります。そして、病気が一時回復するころには、伊藤与蔵さん始め、生徒が満州事変のため入隊、従軍してしまう。賢治の弟の清六さんまで弘前の連隊に入隊して、賢治が代りに店番をしなければならなくなる。賢治にとっては、戦争で肝心の生徒が居なくなってしまった。賢治は、満州に出兵した与蔵さんに「御武運之長久」の年賀状を出し、それを与蔵さんは大切に持って無事帰国した。「私は先生が元気になられただろうとばかり考えていましたので、国へ帰ったなら又先生からいろいろ指導をいただけると思って楽しみにしていましたが、帰った時はもうお亡くなりになったあとでした。」(『賢治とモリスの環境芸術』)ここには強い師弟の絆を感ずるが、これを読む限り賢治も生徒も「一時閉店」の羅須地人協会の再開を信じていた、と解すべきだと思います。
 もう一点、賢治の宗教、法華経との関連です。臨終に際して「南無妙法蓮華経」を唱え、父親に「法華経」千部印刷して知己に配ることを遺言したことは有名です。賢治は、法華経の信仰を捨てず、そのため「一方からは賢治は宗教のわくを出ることがなかったと賛美的に強調され、一方では<結局賢治は何もしなかった。民主主義の考えかたには、すっかり目をふさいでいた>とこきおろされているのである」(上掲、青江)と述べられています。左右の硬直的なイデオロギーから引き回される賢治の評価ですが、さらに1921年(大10)25歳の時、右翼団体の国柱会の門を叩いたことに結びつけ、もし賢治が長生きしたら超国家主義者として戦争に協力しただろう、といった失礼な極論さえ飛び出します。しかし、マルクス・レーニン主義の教条的なボルシェビズムと、その裏返しともいえる右翼の教条主義の間に、小突き回される賢治像を救済する必要があります。同じマルクス主義でも、マルクスーモリスの共同体的社会主義、そしてそれを明治から大正、昭和の賢治の時代へと継承した堺・山川の労農派社会主義、つまり「木下尚江、綱島梁川、内村鑑三、賀川豊彦などの当時すでに有名だったキリスト者とともに、堺枯川、荒畑寒村」に賢治も繋がっていた点が重要です。
 賢治について言えば、堺が抄訳で紹介していたモリスの『ユートピア便り』の最後は、英コッツウォルズの農村の教会で、ロンドンからボランティアとして参加した工芸職人と地域の農民達の収穫祭の喜びのシーンです。こうしたモリスの農民芸術論を受け止めて賢治は「農民芸術概論綱要」を書き、モリスの労働論を使いながら伊藤与蔵さんなど、羅須地人協会に集う農民達に講義した、それが正しく協会の活動だったのです。さらに、賢治自身は読む機会がなかったと思いますが、モリスとバックスの共著『社会主義』では、共同体社会主義の思想の根源に遡り、そこから共同体の人間関係や労働のあり方の裏づけに自然崇拝や宗教・倫理の意義を提起しています。賢治が労農派社会主義を追求すれば、それはボルシェビズムの硬直した唯物論(ただものろん)ではない。法華経の世界にも共通する思想に帰依していたのではないでしょうか?賢治が青年時代に国柱会に短期間参加した点は、堺利彦や幸徳秋水だって、若き日に右翼の組織にいて活動したことがあります。教条的な左右のイデオロギーで賢治精神を評価する時代は終わったと思います。
 賢治は羅須地人協会の活動の夢を追い続け、法華経への信仰も捨てることなく、1933年9月21日、37歳の短い生涯を閉じます。自ら身を清め、南無妙法蓮華経を唱えながら、そして「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の独白を手帳に残しましたが、それはまた羅須地人協会の労農派の思想に裏付けられていた。同じ1933年、満州事変に対し全国労農大衆党の対支出兵反対闘争の先頭に立った労農派の堺利彦も病没します。『蟹工船』の小林多喜二の拷問による死、大正デモクラシーの旗手だった吉野作造の死と続く。故佐藤比佐子の遺著『パンとペン』では、「一九三三年は暗黒時代の幕開けを予感させる年となった」と締めくくっています。
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by morristokenji | 2013-02-22 12:24