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by morristokenji

第6章 日本資本主義論争と労農派対講座派

 
 1)「大原社会問題研究所」設立と労農派人脈
 労農派の名称は、無産政党としての労農党よりも、すでに紹介しましたが、戦前から戦後まで続いた日本資本主義の性格規定をめぐる、学者・研究者の講座派との論争として有名です。労農派は堺や山川の雑誌『労農』の同人グループを中心とする研究者集団、それに対する講座派の集団は、コミンテルンの指導下にあった日本共産党の革命戦略の理論的基礎を提供する研究者集団、岩波書店の『日本資本主義発達史講座』に依拠していたので講座派と呼ばれました。労農派と講座派の論争は、理論研究を超えた党派性の強い激しい対立と共に、さらに戦後も日本共産党の革命路線をめぐる論争に発展継承され1950年代まで続けられたことでも有名です。従って、両派の対立や論争点、論争の経緯についても、すでに沢山の紹介や研究がありますので、ここでは明治以来の労農派社会主義の流れに関連して紹介するだけにとどめましょう。
 労農派の場合、コミンテルンの指導によるマルクス・レーニン主義の教条的支配と違って、すでに述べた共同戦線党的な性格から言って、①無産政党の政治活動、②文芸集団などの社会的活動、③理論的研究集団の活動など、ある程度相互に自立して協力する傾向が強かったと思われます。その点で、共産党の合法活動と非合法の地下活動の区分とは違った意味で、労農派のグループには、理論的な研究者集団としての「教授グループ」が自律的に形成され、その上で講座派との激しい理論闘争が展開されることになったように思われます。もっとも「教授グループ」は、ある種の人脈が形成されていましたので、その人脈形成の跡を辿りながら振り返ることにします。
 20世紀初頭、日本に社会主義の思想が本格的に導入された時点から、すでに触れましたが、一方の政治的活動と共に、他方での理論的な研究活動も本格的に開始されました。とくに近代的な労働組合運動が発生した1890年代末、高野房太郎を最高指導者とする「労働組合期成会」による「鉄工組合」が創立、続いていくつかの労働組合も組織されました。若くしてアメリカに渡り、AFL「労働総同盟」のオルグとして帰国した高野房太郎の考え方は、ラサール流の国家社会主義、そして労働組合主義に立つものでした。しかし、それに結びついて日本においても社会主義の思想が台頭し、すでに述べたとおり同じアメリカ帰りの片山潜、安部磯雄、さらに幸徳秋水や堺利彦なども加わり、政治的活動が開始されます。ただ、高野は労働組合主義の立場から、片山や幸徳の政治的運動には同調せず、もっぱら労働運動の指導に当たります。また、アメリカで「労働騎士団」の運動を学んだこともあったと思いますが、横浜や八丁堀で生活協同組合の「共働店」を始めたりしました。それらの点で、高野こそ日本における労働運動の草分けと言えるでしょう。
 しかし、「共働店」の経営的な行き詰まり、また片山潜との政治面での対立など、さらに1900年に治安警察法の制定もあって、彼は一人で日本を離れて中国の青島に渡り、35歳の若さで客死しました。その人脈形成で重要な役割を演じたのが実弟の高野岩三郎です。実兄の学費の仕送りで第一高等学校、東京帝国大学法科大学を卒業、ミュンヘン大学に留学後、彼は東大法科大学助教授(統計学)になりました。さらに、後に東大総長になった小野塚喜平次らと「社会政策学会」を設立します。その左派として労働運動に協力すると共に、東京帝大の法学部から経済学部の独立にも尽力しましたが、そこに森戸辰男、大内兵衛など、マルクス経済学者が集まりました。しかし、経済学部が独立した年、1919年に政府からILO(国際労働機関)代表に任命されながら,その人事がこじれてしまい、日本代表と共に東大教授も辞職しました。そして、彼の辞職後の受け皿になったのが、丁度同じ1919年に設立された「大原社会問題研究所」でした。彼は、その所長を務めると共に、戦後1949年に亡くなるまで、研究所の経営だけでなく、日本で最初の「労働者家計調査」、『日本労働年鑑』の刊行など、多くの労働問題の研究や労農関係の資料収集を行いました。同時に、ここが労農派「教授グループ」のインキュベーターの役割を演ずることにもなったのです。
 そこで「大原社会問題研究所」ですが、社会科学系の研究所としては日本で最初のもので、美術館として有名な岡山県倉敷市の「大原美術館」と同様、倉敷紡績株式会社の社長だった大原孫三郎が創立しました。彼は私財を投じて一方では倉敷市に大原美術館を創立し、他方では大原社研を設立しました。この辺は、モリスの「アーツ&クラフツ」運動と社会主義との関係に通ずるのかも知れませんが、大原美術館に関しては、同郷で友人だった画家・児島虎次郎との縁で、やはり1919年から美術品の収集を始めたと言われ、児島が若くして没した直後の1930年(昭5)に、彼の作品と共に倉敷に開館されました。大原社研の方は、その背景に孫三郎の小学校時代の同級生、そしてモリスの『資本論』解説を「大阪平民新聞」に連載したこともある、山川均との間接的影響が大きいと言われています。そうした事情もあり、大原社研の方は大阪天王寺に開設され、東京には事務所が置かれました。その後、財政難で1937年(昭12)に東京に移転するまで、大阪を拠点に民間の社会問題研究のメッカとして積極的に活動しました。この大原社研が、労農派「教授グループ」と関係することになったのは、1920年に起った東大の森戸事件でした。
 簡単に触れますと、東大経済学部の助教授だった森戸辰男が、新設の学部機関誌『経済学研究』の創刊号に、「クロポトキンの社会思想の研究」を書き発表しました。クロポトキンがロシアの代表的な無政府主義者だったことにもよるのでしょうが、これが新聞紙法第42条の「朝憲紊乱」に相当するということで、筆者の森戸だけでなく機関誌の編集名義人だった大内兵衛まで起訴され,有罪となった事件です。そのため森戸・大内両助教授が東大を追われることになり、さらにこれに対する教授会の態度に抗議して、講師だった櫛田民蔵、また権田保之助、細川嘉六の両助手も相次いで大学を去りました。この事件は、単に思想的な事件だけでなく、東大経済学部の法学部からの独立という学内問題が絡んでいたこともあったと思います、これら森戸事件の関係者を、創設された大原社会問題研究所だった高野所長が迎え入れたのです。研究員として櫛田、森戸、権田、細川、それに暉峻義等、久留間鮫造など、また大内兵衛のほか北沢新次郎、長谷川如是閑らを研究嘱託に迎え入れましたが、新設の研究所が、これだけのスタッフを揃えたのは、高野の所長就任と森戸事件が関連していましたし、さらにこうしたマルクス主義の関係者の陣容が若い研究者を引きつけることにもなり、宇野弘蔵、林要、山村喬などの新進気鋭の学者が助手に就任しました。
 このように大原社研の創立をめぐっての人脈が、労農派の教授グループの形成に大きな役割を演じましたが、むろん大阪でも社会事業家・小河滋次郎、京都大学の河田嗣郎や米田庄太郎、また徳富蘇峰や河上肇なども参与したと言われています。しかし、教授グループの人脈形成については、何と言っても高野所長の発言力が極めて大きかったし、そのさい大原孫三郎と労農派の理論的領袖・山川均、さらに高野岩三郎との人的関係が無視できない力を発揮したと考えます。さらに研究所の調査研究活動の内容ですが、スタッフの面々から経済学を中心とするマルクス主義、特に『資本論』に関する櫛田、久留間、宇野などの理論的研究が活発に行われました。また、大阪などの地域の社会問題、消費者問題の調査研究も盛んで、そうした中で権田保之助の社会調査に基づいた民衆娯楽の研究、細川嘉六の米騒動の研究、さらに森戸辰男の日本黎明期の社会主義運動の研究、とくに森戸は、ロバート・オーエンやウィリアム・モリスにも関心を寄せていたことが伺われます。また彼は、大阪・神戸などの生協活動や労働学校への協力と共に、森戸事件の際の無政府主義者・クロポトキンの研究から、大原社研では社会問題・消費者問題などの調査研究を通して、アーツ&クラフツ運動など、マルクスやモリスの研究を積み重ねていた。そうした研究の成果が、戦時下の1938年(昭14)には、岩波書店から「大教育家文庫21」として『オーエン・モリス』に纏められて発行されました。戦前のモリス研究として、水準の高い業績です。
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by morristokenji | 2013-03-19 20:40