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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

2)『資本論』論争から労農派と講座派の対立へ

労農派と講座派の対立は、上述の通り「日本資本主義論争」における対立であり論争ですが、それに先行してマルクス主義、とくに『資本論』の理解を巡り、すでに活発な論争が行われていました。日本にも社会主義思想とともにマルクス主義が導入され、とくに『資本論』が紹介され翻訳が進む中で、すでに欧米でも始まっていた『資本論』に関する論争が活発に行われたのです。論争の論点は多岐にわたりますので、それぞれ研究書を参照して頂くとして、「日本資本主義論争」に直接関連する論争を中心に取り上げるだけに留めます。その点で、論争の理論的水準の高いこと、また「日本資本主義論争」の労農派と講座派の対立にも直接関係した点で、上記の森戸事件で東大を辞職し、大原社研の研究員となった櫛田民蔵と京都大学の教授だった河上肇との論争が有名です。
 その河上肇ですが、東大法科大学政治科を卒業、東大農科大学の講師などを経て、読売新聞に入社します。その後、1908年(明41)から、京都大学でマルクス経済学の研究・教育に従事しました。さらにヨーロッパ留学の後、新聞に『貧乏物語』を連載して好評を博しました。しかし、河上のマルクス解釈をめぐっては、櫛田や堺利彦などから批判が起こり、『資本論』論争が本格化しました。その後、河上は1928年(昭3)に、東大の新人会、各大学の社研に解散命令が出たことで、東大の大森・平野、九大の向坂・石浜らと共に京大を辞し、初めは大山郁夫のもとで労働農民党の結成に参加します。しかし、すぐ日本共産党(以下「日共」と略称)に接近して活動に協力、1932年(昭7)には日共党員として地下活動に入り、コミンテルンの「32年テーゼ」を翻訳紹介した、とされています。こうして『資本論』をめぐる論争は、しだいに日共の革命路線、とくに「32年テーゼ」を巡っての「日本資本主義論争」に発展することになったのです。ここから労農派と講座派が正面から対立することになり、党派的な論争の形態が鮮明になりました。
 櫛田については、すでに書きましたが、森戸事件に際し東大を辞職して大原社研のメンバーとなり、『資本論』研究に従事していました。それ以前の櫛田ですが、彼は京大経済学部の学生の一人として、河上とは師弟関係にありました。この事情は、労農派と講座派の対立の人脈でも異色といえますので、簡単に紹介しますと、1885年(明18)福島県磐城の農村に生まれた櫛田は、苦学して磐城中学から東京の錦城中学に編入、さらに東京外国語学校で権田保之助とともにドイツ語科を1908年卒業します。その後、権田は東大へ、櫛田は河上肇のマルクス経済学を求めて京大へ進みます。入学早々に河上を訪ねるなど、ここで師弟の強い絆が結ばれました。1912年に27歳で京大を卒業後、櫛田は河上の推薦状を持ち、当時まだ東大にいた高野岩三郎をと訪ね、定員外ですが経済学部助手のポストを与えられます。河上との師弟関係とともに、櫛田はここで労農派の人脈につながったわけです。ただ、この時点では、河上が「奢侈と貧困」の問題を、もっぱら人道主義の立場で、富者に奢侈を廃せよと主張したのに対し、櫛田は貧困の問題を、マルクス主義の立場から、資本主義社会の矛盾として批判しました。この批判的見地は、有名な河上の『貧乏物語』への批判にもつながり、師弟間の『資本論』論争が始まることになります。
 櫛田は、1917年に大阪朝日新聞に入社しますが、1年ほどで退社し、同志社大の教授、さらに法学部長の職を得ますが、学内対立で辞め、再び東京に戻って、高野岩三郎の世話で東大経済学部の講師になります。ここで櫛田は、再び労農派の人脈に復帰したことになりましたが、上記の森戸事件で大原社研に移り、その後はドイツ留学などの期間を含めて、もっぱら『資本論』研究に没頭しながら、労農派を代表する論客として活躍します。とくに留学前後から、マルクス・エンゲルスの唯物史観に関心を寄せ、それを前提に『資本論』論争、とくに「価値論」論争に挑みます。論点は、海外から提起されていた『資本論』における労働価値説、価値と生産価格の矛盾についての論争です。日本でも、小泉信三などのマルクス批判家による『資本論』批判でしたが、櫛田は「マルクス価値概念に関する一考察―河上博士の『価値人類犠牲説』に対する若干の疑問」では、恩師・河上の労働価値説の理解を批判します。
 櫛田は、河上の労働価値説を「価値人類犠牲説」と名付け批判しましたが、もともと河上は貧困の問題にしても、上記のとおり資本主義の矛盾としてよりも、人道主義の立場から倫理的・道徳的に批判する立場です。労働価値説についても、スミスやリカード、さらにカーライル、ラスキンの労働観を踏まえ、「マルクスの所謂価値は、人類の立場から見た費用価値に外ならざること。階級的的立場から見た価値は、勿論これと相違する内容を有すべきこと」(『社会問題研究』第39~41冊「マルクスの労働価値説―小泉教授の之に対する批評について」)と主張しました。この主張を、櫛田は価値人類犠牲説と呼び、「マルクスの価値論上における標語ともいうべき『抽象的人間労働』ということには、人道とか人類社会とかいう道徳的意味は含むものではなくて、単に物的社会的なマルクス特有の学語である」としました。そして、河上の主張は「商品生産社会の永久性」を主張し、マルクス価値論の「ひいきのひきたおし」だと批判しました。この河上批判は正しいのですが、ただ商品の価値関係の実体的基礎の抽象的人間労働が、人間と自然の物質代謝や人間社会の資源労働配分の「絶対的基礎」を持って法則性を主張できる点を踏まえる必要があるでしょう。 さらにマルクス批判家の小泉による価値と生産価格の矛盾に対する反批判とすれば、河上もそうですが櫛田もまた、労働価値説の論証について、「理論的仮定」であるとか、歴史的単純商品とかで、マルクス擁護に終始していました。これでは反批判としては弱いだけでなく、『資本論』全体の法則的解明として不十分ですが、その点は宇野理論の形成と展開として論じましょう。
さらに『資本論』論争と「日本資本主義論争」の関連では、農業問題と関連して、地代論論争があります。この論争も、欧米でマルクス批判として行われていた論争の「日本版」ですが、ここでも櫛田がマルクス擁護の論陣を張りました。論点は、『資本論』の労働価値説では、地代の説明がつかず、マルクスも差額地代を「虚偽の社会的価値」とせざるを得なくなったという批判です。それに対して櫛田は、貨幣地代に対し生産物地代を持ち出し、生産物としては労働の裏付けによる価値実体があり、貨幣地代としては「単に一定の計算上のこと」であり、差額地代も特殊な剰余価値部分と主張してマルクスを擁護しました。しかし、市場価値論としての平均原理と限界原理の矛盾については、それを無視していますので、マルクス批判家への回答にはならない。論争は持ち越されたと言えますが、さらに『資本論』を日本資本主義分析に適用する方法上の問題として、唯物史観と『資本論』の関連が、あらためて福本和夫によって提起されました。いわゆる福本イズムの問題提起であり、この論点は『資本論』論争の次元を超えて、すでに触れましたが労農派対講座派の論争に関連することになりました。
 櫛田と河上の価値論論争に関しても、とくに櫛田は唯物史観の見地から、商品の価値関係を唯物史観の生産力に対する生産関係の矛盾として、主観的な人道主義ではなく、唯物的にモノとモノの関係と捉え、川上を批判しました。その限りでは櫛田の河上批判は正しいし、河上も弟子の櫛田に屈服しました。しかし、櫛田による唯物史観と『資本論』の関係の理解は、単にイデオロギー的仮説にすぎない唯物史観に、近代社会の資本主義の経済法則の『資本論』の論理を還元する、理論のイデオロギーへの解消の誤りを犯すものです。社会主義のイデオロギーを科学=『資本論』による根拠づけとは反対のイデオロギー的科学の主張に過ぎなかったのです。そこにまた櫛田の河上批判の限界を指摘しなければならないでしょう。それに対し、当時「福本イズム」旋風を巻き起こし、労農派の山川の「方向転換論」を批判して、プロレタリア独裁やボルシェビズムを擁護する、その方法的前提が唯物史観、とくに『経済学批判』のプランでした。
 そこで福本ですが、1894年(明27)に鳥取県東伯郡の日本海の砂丘の近くで生まれ、小中校の成績は「いつも一番」田舎の秀才でした。1914年(大3)に旧制一高、さらに17年ロシア革命の年に東京帝国大学法学部政治学科に進み、社会的矛盾と言うより、もっぱら知的興味からマルクス主義の探求を始めて様です。20年に卒業後、新設の松江高校(旧制)の教授となり、その時点で当時京大教授だった河上肇『唯物史観研究』に載ったマルクスの『経済学批判』、その序文の唯物史観の公式に魅了されます。単なるイデオロギー的仮設だったマルクスの唯物史観の公式の教条化は、同じマルクスーモリス(バックス)の積極的受容を進めた労農派の堺や山川とは、全く異質な立ち位置と言えます。その福本が、1922年から文部省在外研究員として欧米に留学します。ロシア革命の成功、ドイツ社民党の政権下、独仏の大学ではマルクス主義者の講義が全盛を極めていました。最も影響を受けたのがドイツ共産党の最左翼のカール・コルシュですが、ここで最新の『経済学批判』の資料や唯物史観の研究成果を持って、1824年(大13)に帰国します。帰途には宇野弘蔵が偶然の同船し、『経済学批判』をめぐる議論が交わされてそうです。
 帰国後、独仏仕込みの『経済学批判』・唯物史観にもとづく福本の教条的なマルクス主義の主張が、上記マルクスーモリスの堺・山川による正統派マルクス主義、さらに櫛田などの唯物史観などと比較すれば、教条的かつドグマ的なるがゆえに、人々にカリスマ的な影響を与えました。とくにレーニンのプロレタリア独裁、前衛党論、外部注入論などの組織論が、山川の「方向転換論」の共同戦線党の組織論と比べ、「結合の前に分離」のテーゼが当時のインテリ層に強力なインパクトになり、短期間に過ぎませんが「福本イズム」の大旋風となりました。この「福本イズム」が解党した日本共産党の「再建」と結びつき、堺・山川の労農派と「福本イズム」の党派的対立となり、運動は大きな混乱に陥ります。
 しかし、福本の『経済学批判』・唯物史観のドグマは、彼の帰国後の論稿「経済学批判のうちに於けるマルクス『資本論』の範囲を論ず」のタイトルが示すとおり、『資本論』を『経済学批判』・唯物史観に解消、かつ還元し、その枠の中で『資本論』の範囲を論ずるだけのものなのです。その際「経済学批判体系プラン」を持ち出しますが、それが洋行帰りの新しさに見えますが、かえってマルクスが『資本論』については『経済学批判』の方法もプランも放棄し、内容的にも新たに書き換えた「プラン変更」の画期的意義は霧消してしまっています。また、その点で『資本論』論争もまた、単なるイデオロギー的仮設に過ぎない唯物史観に解消されたまま、そして理論と歴史、科学とイデオロギー、そして理論と実践の区別も曖昧なまま、『資本論』を日本資本主義分析、さらに日本革命に利用しようとしていた限界があったと思います。

 3)『資本論』論争から「日本資本主義論争」へ

 すでに説明しましたが、コミンテルンの指導のもとに日共が再建(1926年・昭元)され、とくに翌1927年に「日本問題委員会」で「27年テーゼ」が決定されました。ここではまだ、一方で山川均の共同戦線党が解党主義と批判されると共に、同時に福本イズムもまた、運動を孤立化するセクト主義の路線として強く批判されました。しかし、日本革命がロシア革命と同様に「2段階革命」であり、ボルシェビズムが一方的に強調された革命路線に過ぎませんでした。さらに、その後のヨーロッパ情勢の変化も反映されたと思いますが、河上肇が翻訳の「32年テーゼ」においては、「社会ファシズム論」に基づく「社民主要打撃論」が強調されます。それによって日共もまた、労農派を厳しく批判、排撃することになったのです。こうして労農派と講座派の日本資本主義論争は、日本革命の戦略を巡っての党派性の極めて強い論争になってしまいました。
 講座派の名称は、岩波書店が刊行した「日本資本主義発達史講座」に由来しますが、この講座は「32年テーゼ」に基づいて企画され、1932年(昭7)から33年にかけて全7巻で刊行されました。その企画・編集に当たったのが日共の地下活動に入った野呂栄太郎と言われ、東大を辞した上記の山田盛太郎,平野義太郎、さらに羽仁五郎、服部之総、小林良正などが執筆しました。ここでの日本資本主義分析の立場は「32年テーゼ」の日本認識とほぼ同じであり、ロシア革命を教条的にモデルとした2段階革命論を裏付けるべく、地主・小作制度など「半封建的」特質をこぞって強調し、日本の天皇制を絶対主義国家権力であるとして、ブルジョワ民主主義から社会主義革命への2段階革命が強調されたわけです。
 そこで労農派ですが、すでに説明のとおり再建された日共に対抗し、1927年(昭2)12月に創刊された雑誌『労農』の同人が中心で、堺利彦、山川均、猪俣津南雄、荒畑寒村、向坂逸郎など、それに同調するシンパとして大内兵衛、櫛田民蔵、宇野弘蔵などの「教授グループ」が論陣を張りました。明治維新が日本型のブルジョア革命であり、日本資本主義は金融資本の支配の下、高額小作料も小農間の競争によるものとして、1段階の社会主義革命が主張されたのです。この主張そのものは、講座派との論争に先立ち、堺や山川などが独自に日本資本主義の分析を試みていた見解でした。その分析の特徴は、すでに明治維新は近代的なブルジョア革命で、日本は近代社会の資本主義として発展し、しかも金融資本による帝国主義の時代を迎えているという時代認識のもと、天皇制など権力機構も金融資本が支配しているものとしていました。そうした理解を前提にして、労農派はコミンテルンによる外部からの教条的なイデオロギー支配を拒否する立場を明確にしたわけです。
 要するに、一方の講座派の立場が、ロシア革命を教条化し、コミンテルンが日共をクレムリンの日本支部のように支配した点で、外部的支配従属型の革命論だった。それに対立した労農派の理論は、土着自立型の社会主義革命を主張していた、と特徴づけることもできるでしょう。さらに、この日本資本主義論争との関連で、上述の『資本論』論争もまた、さらに党派的対立の色彩を強く持つことになります。例えば、上記の河上・櫛田の労働価値説を中心とする論争にしても、河上が32年テーゼの翻訳など講座派、櫛田は労農派の論客で、両者が党派的に対立することになりました。しかし、もともと櫛田は、京大における河上の教え子であり、師弟の関係だった。弟子が恩師の『資本論』理解を厳しく批判する形の論争ですが、それは党派的関係ではない。師弟関係での理論的な論争であり、それだけに質的レベルの高い論争が展開されたと思います。さらに、すでに紹介したとおり『資本論』全3巻が翻訳され、『資本論』論争も河上・櫛田のマルクス経済学の内部論争だけでなく、反マルクス派との論争に発展しました。例えば、小泉信三「労働価値説と平均利潤率の問題―マルクスの価値学説に対する批判―」1922年(大11)『改造』が発表され、それを直ちに山川均が批判するなど、日本でも国際的レベルの価値論論争が始まりました。『資本論』論争は、マルクス経済学の内部だけでなく、マルクス派対反マルクス派の論争に拡大し、発展したわけです。しかも、さらに日本においては、日本資本主義論争との関連で、講座派対労農派の激しい党派的な論争と結びついた、国際的にみても顕著な特徴をもった『資本論』論争に発展したのです。
 つまり、日本資本主義論争はマルクス主義の論争として、いかに『資本論』の理論を日本資本主義の分析に利用し、社会主義革命に役立てるか、それが大きな課題になったのです。欧米各国でも、社会主義を目指す政党間の論争では、多かれ少なかれ『資本論』の現実への適用、革命の戦略・戦術との関連をめぐって路線が対立してきました。とくにドイツ社会民主党は、その組織的な規模や影響力からみて、第2インターなど国際的な社会主義・労働運動を代表していました。そこでは『資本論』による現状分析や運動への適用をめぐり、いわゆる修正主義論争が激しく戦わされました。当時のドイツ資本主義について、ドイツは後進国ではあるが、『資本論』の適用は可能だし、また次第に発展し『資本論』の世界に近づくとして、『資本論』の法則をそのまま適用する正統派の立場があり、カウッキーが代表しました。他方、ドイツ資本主義の発展は、イギリスをモデルとした『資本論』の世界やその法則は適用できない、とする修正派の主張が対立しました。修正派の代表は、ベルンシュタインであり、いずれもマルクス派に属していましたから、マルクス主義の内部論争でもあったわけです。
 もともとドイツ社民党では、マルクスと並んで運動面ではエンゲルスからの影響が大きく、とくにロンドンやパリに亡命したり移住したメンバーを通して、理論的に影響を与えていました。その点では、同じマルクス主義とはいえ、ロンドンでネーティブだったモリスやバックスとの関係は薄く、マルクス・エンゲルスの流れ、それがさらにロシアとの関係では、レーニンに大きく影響していました。ただレーニンは、ロシア革命を理論的に指導するに当たり、イギリス資本主義に対してドイツの後進資本主義、さらに遅れたロシア資本主義の歴史的地位を十分に考慮しつつ、資本主義の歴史的発展、とくに後進資本主義の歴史的特徴を重視しました。レーニンの『帝国主義論』は、そうした彼の歴史認識に支えられた研究であり、『資本論』を固定化して、その適用の是非を争ったドイツ社民党内部のの修正主義論争のレベルを超えていました。にも拘らず、『帝国主義論』などレーニンの研究も、『資本論』の資本主義経済の運動法則と金融資本の歴史的段階への発展については方法的に曖昧であり、トラストなど独占資本の発展の一面的な評価、さらに国家資本主義への歴史的転化については、十分な展望を持たないまま、ソ連を国家社会主義に帰着させてしまったと思いますが、その点は後で論じましょう。
 日本資本主義論争との関連での『資本論』理解では、当然ですが講座派の立場は、『資本論』の積極的適用にはなりません。前近代的、半封建的な面を殊更に強調するために、『資本論』の地代論などにある歴史分析の片言隻句を利用する解釈論になってしまいます。また、マルクスにとっては『資本論』研究の単なるイデオロギー的作業仮説に過ぎなかった「唯物史観」の公式に『資本論』の理論を還元する。例えば、「所有法則の転変」などの見地が強調され、「論理と歴史」、「理論と実践」、「科学とイデオロギー」の統一のドグマの強調により、ロシア革命やコミンテルンのテーゼを絶対視する教条主義に陥りました。その点では、労農派の立場は科学的に自由な分析を可能にしますが、こちらも日本資本主義が『資本論』の世界に近づき、その法則が多かれ少なかれ直接的に適用され、社会主義革命に実践的な利用が可能とする、ドイツ社民の正統派に近い見解が支配的になりました。もちろん、労農派は金融資本の支配による歴史的発展を重視しましたが、しかし『資本論』との関連では、資本の蓄積が独占を生み、金融的支配が強化されるといった『資本論』の法則の単なる延長上の理解に留まった、と言えます。その点では「歴史と論理」をはじめ唯物史観の公式的ドグマを超えることはできませんでした。そうした中で、労農派の教授グループの例外として、マルクス・レーニン主義の公式的ドグマを超える理論的営為が、仙台・東北大学の宇野弘蔵によって続けられていました。それを紹介しましょう。  






















































































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by morristokenji | 2013-03-28 11:51