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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

第5章 宮沢賢治の花巻「羅須地人協会」

 
1)羅須地人協会の真実
  すでに述べましたが、宮澤賢治が1926年(大15、昭元)に花巻農学校を辞めて、自ら「自由学校」とも言える花巻「羅須地人協会」をスタートさせたについては、当時の無産政党運動、いわゆる労農派の運動からの影響が大きかった。労農派の運動との繋がりがあって、賢治は「羅須地人協会」を立ち上げる決断に至った、とさえ言えると思います。また、賢治が「労農党のシンパ」だったことは父親も認めていたし、集まった教え子の中にも労農党の党員がいた。また、彼らは賢治の立場を十分認めた上で集まっていた。しかし、労農派との関係が深いだけに、警察の事情聴取を受けるなど、教室に集まる「集会」形式の活動が出来なくなった。当時の花巻での政治的・社会的情勢からみて、当局の厳しい取り締まりを周囲が怖れ、出来るだけ触れないようにしていた。そのため、賢治の真実の姿が見え難くなり、結果的に賢治の虚像が創られたように思います。従って今日、賢治の実像に迫り、彼の真実の声を聞くためにも、また彼の熱いメッセージを正しく受け止めて、彼の作品を正しく読み解くためにも、羅須地人協会の活動を出来るだけ客観的に明らかにする必要を感じます。
 羅須地人協会を立ち上げた翌々年の1928年(昭3)には、共産党の大量検挙として有名な三・一五事件が起りました。労農派の組織や運動も、取締りの対象になったし、厳しい弾圧を受けました。すでに1923年(大12)関東大震災に続いて、25年には普通選挙と抱き合わせに治安維持法も可決、公付されました。大正デモクラシーの時代から思想統制、思想弾圧へと、時代は大きく転換を始めていました。とくに昭和恐慌と呼ばれる金融危機が拡大し、労働運動や農民組合の結成が相つぎました。すでに紹介した盛岡や花巻での労農党の旗上げなど、地方の組織や運動の盛り上がりを抑える意味もあったと思います、三・一五事件に続いて、その秋には盛岡で天皇行幸による陸軍大演習が行われました。
 それに伴っての予備検束も拡大し、賢治の身辺にも警察の手が伸びるし、その犠牲者が広がっていました。そうした中で、とくに羅須地人協会の「集会」形式の活動は不可能になる。賢治もまた、病気を理由に実家に帰って蟄居せざるを得なくなっていたようです。当初は順調だった羅須地人協会の「集会」活動が、2年半ほどの短期間に終わってしまったのも、そうした当時の政治情勢や周囲の地域的事情が大きかったことを、十分考慮に入れなければなりません。そうした配慮なしに、賢治が活動に自信を失い、絶望し挫折し、活動から逃避した、と一方的に決め付ける訳にはいきません。
 また周囲にとっても、弾圧が厳しいだけに、弾圧を避ける必要もあったし、また関わりを持ちたくない地元の人達としては、賢治の羅須地人協会と労農派の関係は、出来るだけ触れずに伏せたままで過ごそうとした。遡った話ですが、1908年(明41)の赤旗事件では、逮捕され有罪となった山川均の倉敷の実家では、それまでの家業を止めて一家閉門の状態が長く続いた。開明的な倉敷と比べて、より閉鎖的な東北の花巻では、もっと厳しい状態が予想されたと思います。それだけに宮沢家をはじめ、周囲の人達が出来るだけ賢治の活動を秘密にしようとした。資料も残されず、今なお不明な部分が多い「隠された真実」の時期とされています。ただ、この空白の部分も次第に明らかにされていますので、その限りで労農派の地方での活動の一例として、賢治の羅須地人協会を取り上げましよう。
 
 2)「農民芸術概論綱要」が教育基本法
 賢治は、花巻農学校を自ら退職しましたが、その前年からある種の教育改革があり、わずか3ヶ月間でしたが、花巻農学校に全寮制の「岩手国民高等学校」が併設されました。当時、デンマークに拡大していた農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の日本版とも言われ、キリスト教系などいくつかの流れがあり、大正から昭和にかけて全国に多数設立されました。農学校を卒業した優秀な人材を、さらに教育して、疲弊した農村の改革に当たらせる目的でした。岩手の場合、県の上からの指導が強かったようですが、花巻農学校に併設の「岩手国民高等学校」が設立、そこに新しく教科として「農民芸術論」が設けられた。その担当になったのが、花巻農学校の教諭との併任の形でしたが、宮沢賢治だったのです。
 人一倍生真面目で熱心な宮沢賢治ですが、彼が講義ノートとして準備したのが、有名な「農民芸術概論綱要」です。詩人らしく賢治の講義ノートは、詩のスタイルで書かれ、さらにノートでしたから、講義に利用されるメモ風の「注」も付いていた。しかも、このノート作り、賢治は精神の高揚を覚えながら書いたに相違ない。彼の農芸思想、文芸思潮、「四次元芸術」など、広く文明思潮が凝縮された、極めて格調の高い文章で綴られています。賢治の作品の中でも代表的なものの一つで、多くのファンがいますが、さらに「羅須地人協会」にとって、その「教育基本法」に位置づける評価もあります。
 ここで「農民芸術概論綱要」の内容に立ち入りませんが、ただ同じ詩人であり、農芸ではありませんが、一九世紀イギリスの代表的な工芸デザイナー、そして社会主義者のウィリアム・モリスとの関連だけは紹介して置きましょう。賢治は、モリスについて多くは触れていませんが、「芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ」の個所に、わざわざWilliam Morris"Art is a man's expression of his joy in labour"と英文でメモ風の注をつけています。英文で引用されているのは、このモリスの注だけですし、労働の目的、働き方、ワークスタイルを転換させる、そのキーワードにモリスの言葉を引用しているのです。詩のスタイルで書いた「農民芸術概論綱要」、やはり詩人だったモリスの文章表現を、農民芸術のキーワードとして、賢治は利用したと思います。さらに岩手国民高等学校の講義だけでなく、その後の羅須地人協会での農民芸術論の実際の講義では、賢治はモリスの芸術論、労働観、生活観など、もっと詳しく踏み込んで熱心に講義したに違いありません。
 賢治は、モリスの労働観を基礎に、生活観や芸術論を展開しましたが、モリスからの影響は、単に当時流行の評論家、室伏高信などからの間接的なものではない。賢治自身が、モリスなどアーツ&クラフツ運動から学び、モリスの工芸を中心とした「生活芸術」の考え方を、農民芸術の領域まで独創的に拡大し発展させ、さらに農業、農村の改革を目指していたのです。その点で「農民芸術概論綱要」における賢治とモリスの接点は、単に講義ノートの準備作成段階の単なるメモ書きに留まらない、彼の羅須地人協会の活動全体に大きく影響を及ぼした、まさに「教育基本法」だったのです。また、デンマークの上記フォルケ・ホイスコーレに止まらず、賢治はさらにロンドンでの「労働者大学」にも関心を寄せていました。
 「賢治は羅須地人協会を学校と考えていた。それは集会案内の中に<今年は設備が何も無くて、学校らしいことはできません。>と語り、妹たちとその子供をつれて八戸へ旅行したとき宿泊先、陸奥館の宿帳の職業欄に<教師>と記入していることからもうなずけよう。
 賢治は劇のメモのなかで<借財により労農芸術学校を建てんといふ>と言い、花巻温泉社長の金田一氏より五百円借りようと考え、当時出入りした青年たちにラスキンの話をしている。(ラスキンが関与した『労働者学校』はフレデリック・モーリスが中心になって1854年ロンドンに創設したもので、ラスキンも求められて美術教育の講義を担当した。)
 青年の中の一人伊藤克己は<農民芸術学校と自称していた>といっている。その言葉からも十分納得できるというものである。」(佐藤 成『宮沢賢治 地人への道』)
 いずれにしても賢治は、デンマークのフォルケ・フォレスコーレから農村問題、農民教育の思想を継承した。また、イギリスのラスキンなどアーツ&クラフツ運動、とくにモリスの職人学校「ハマスミス社会主義協会」から農民芸術学校として、芸術思想の継承を目指したように思います。その点に関連して、モリスの芸術思想、文明思潮が、すでに触れてきましたが明治の日本の社会主義思想の形成にとって、重要な役割を果たしていた事情を、ここでもう一度想起する必要があるでしょう。
 モリスの社会主義思想は、すでに見たように明治から大正、昭和初年にかけて、日本の文芸界だけでなく、社会思想や文明思潮に広く、多大な影響を与えていた。詳細な点は繰り返しませんが、幸徳秋水を始めとする明治の初期社会主義者の多くが、モリスの影響を受けていた。中でも堺利彦、山川均を中心とした「正統マルクス主義」を自称するグループは、R・オーエンからマルクス―モリスの流れを積極的に受け継ぎ、一方の無政府主義、他方の「国家社会主義」と対立してきました。「国家社会主義」は、言うまでもなくロシア革命の成功でボルシェビズム=マルクス・レーニン主義として教条化され、コミンテルンの国際共産主義を指導しました。日本でもアナーキズム=無政府主義の流れと対立し、いわゆる「アナ・ボル論争」が起こり、労働運動が混乱しました。その中で、マルクス―モリスの「正統マルクス主義」が、日本独自の「労農派」として、労働運動や農民運動など社会運動にに大きく影響していました。宮沢賢治は、その流れを東北・花巻の地で受け止め、モリスから学び「農民芸術概論綱要」を書いたのです。
 賢治の思想遍歴として、若い時いわゆる右翼団体「国柱会」の活動に参加し、死ぬまで会費だけは納入されていたそうです。彼は1921年(大10)に父親と対立して花巻の生家を飛び出し、上京して国柱会を訪れて、数ヶ月活動していました。ただ若い時、右翼として活動するのは珍しい話ではない。幸徳秋水も、堺利彦も、社会主義者として活動する前に、右翼の関係団体に属していた。宮沢賢治の場合、1924年に『春と修羅』を上梓しますが、中央の文壇では無政府主義の代表的な作家、辻潤により高く評価され,さらにアナーキズム関係の同人誌『銅羅』の草野新平の誘いで何本かの寄稿を重ねていました。24年9月の関東大震災、続く25年末には、治安維持法が可決される中、雑誌『虚無思想研究』にも「冬(幻聴)」を発表していたのです。賢治は、右翼からアナーキズムへ、そして「正統マルクス主義」のモリスー堺・山川の労農派の活動に参加する。すでに紹介しましたが、幸徳秋水や堺が右翼からアナーキズムなどへの思想遍歴があったとすれば、賢治の思想遍歴の軌跡も同じようなものだし、そうした中から賢治の文芸作品が次々に生まれたことを見落とすべきではないと思います。
 ところで、すでに述べましたが明治から大正初期の日本の社会主義運動は、労働運動や農民運動との結びつきがまだ弱く、単なる一部知識人の思想運動でした。そうした思想運動が大正デモクラシー、とくにロシア革命の影響で大衆との結びつきを持ち始めた。労働組合や農民組合も組織を拡大し、そうした中で上記の「アナ・ボル論争」の対立抗争も生じたし、コミンテルン指導の下で日本共産党の結成、それと対立する「正統マルクス主義」の「労農派」の運動に発展したのです。労農派の運動もまた、前章で述べましたが日本共産党に対抗する単一の無産政党として、いわゆる労農党の結成を目指しました。しかし、それは完全には成功しなかった。一方で官憲の弾圧も厳しかったし、他方で共産党からの「社会ファっシズム」「社民主要打撃論」などの組織妨害も大きかった。労農派の組織と運動は、単一の政党組織を持たないまま、中央から地方へ多様な活動を展開し、その中で上記の通りアナーキズムの運動にも関わりのあった宮沢賢治の花巻・羅須地人協会のユニークな活動が位置づけられると思います。
 なお、日本共産党が、国際共産主義運動の一支部として、ソ連共産党のプロレタリア独裁による前衛党だったのに対し、労農派の組織と運動は「共同戦線党」として、大衆運動の多様性を尊重しました。1922年(大11)山川均「無産階級運動の方向転換」では、労働運動や農民運動など大衆的な社会運動の高揚に応えるために、「階級意識に目覚めた少数者の思想的純化」の運動からの脱皮を強く訴え、前衛党ではなく「大衆の中へ」方向を転換する共同戦線党の主張です。。こうした労農派の組織論、運動論からすれば、労農党の組織活動では、地方の独自な組織や労働者や農民の大衆組織の運動が重要だった。したがって、ボルシェビズムの前衛党、地下秘密組織による権力奪取、プロレタリア独裁の集権支配、こうした尺度から賢治の羅須地人協会を評価することは全くの誤りです。「大衆の中へ」、賢治は花巻農学校を自ら退職し、「本統の百姓」を目指して、肥料設計所、稲作相談活動、花巻温泉の花壇設計、砕石工場の土壌改良など、広く大衆的、合法的な農業・農村改造の活動などに取り組んだ、それが羅須地人協会の組織であり活動だったのです。

 3)「自由学校」としての「羅須地人協会」
 もう一つ、労農派の組織と運動では、後述の「学者グループ」による研究活動と共に、「新しい学校」による「教育の価値」が極めて重要でした。賢治の羅須地人協会も、すでに述べたように花巻農学校、岩手国民高等学校での賢治の教育実践から生まれた、一種の「自由学校」だった。近代的教育制度の義務教育や公教育制度の学校ではない。農村の生産と生活の中で、自由に学び、互いに主体性を高め合う「新しい学校」です。その点、コミンテルンの指導で前衛党、プロレタリア独裁の指令型「国家社会主義」では、上からの教条的なイデオロギーの「外部注入論」(レーニン)で武装する。それに反して、上記の「方向転換論」で共同戦線党を提起し、合法的で大衆的な無産政党を目指す労農派の考え方は、上からの外部からの指令ではない。自由で、主体的で、自主的な「教育の価値」を尊重することになるでしょう。事実、1920年代から有名な「灘生協」を創立した賀川豊彦が校長だった「大阪労働学校」をはじめ、労農派の強い影響と協力のもとで、「会社が作った養成所や政府や自治体が経営した学校」ではなく、あくまでも「独立労働者教育」を目指した「新しい学校」が各地に誕生していました。
 1922年(大11)に設立の「大阪労働学校」は、16年間存続しましたが、週3日の開校で夜学の「小さな学校」、多い時でも1クラス50~60名ほどの少人数教育でした。そのため経営は大変苦しく、校長の賀川がミリオンセラーになった自伝小説『死線を越えて』の印税をはたいて、学校の設立や経営を助けました。賀川は、1914年アメリカに留学、労働運動の重要性を学び、鈴木文治の友愛会に参加して、関西地方のトップリーダーになる。関西地区のストライキを指導しましたが組合側の敗北、そんな中で「愛にもとづく人格運動」として労働者教育の重要性を認識し、「大阪労働学校」の校長を引き受けたそうです。賀川の指導もあり、学生達が学校の運営に参加、主事が不在でも、学生委員会が自主的に運営、そればかりか「労働組合論」「選挙戦術論」など、実践面での講義は学生自らが講師を務める、それこそ「教師も学生、学生も教師」の教育=共育のユニークな教育実践でした。
 さらに大事な点ですが、「大阪労働学校」の発展にとって重要な役割を担ったのが、当時、大阪の天王寺にあった大原社会問題研究所の支援でした。所長の高野岩三郎は、学校の運営委員会の責任者を進んで引き受け、財政問題の解決のために尽力します。自分の著書の印税をそっくり寄付したり、友人知人から寄付を集めた。こうした所長の先頭を切っての協力により、大原社研のメンバーが講師だけでなく、運営委員会や会計事務まで引き受けたそうです。その中でも中心的な役割を果たしたのが東大の「森戸事件」で辞職し、その後大原社研の研究員だった森戸辰男でした。高野所長を助け、「彼は第10期以降第45期まで13年間に亘って一回の休みもなく無給で講師を続け、また運営委員会にもほとんど皆出席」(二村一夫『大阪労働学校の人びと』)でした。この森戸こそ、労農派「教授グループ」の中心でしたし、戦後の片山内閣の文部大臣として、教育基本法の制定に尽力しました。さらに森戸は、東大時代のアナーキストのクロポトキン研究から、大原社研ではもっぱら『オウエン モリス』を研究し、とくにモリスのアーツ&クラフツ運動、そして彼のロンドンでの職人学校「ハマスミス社会主義協会」を学んでの教育実践でした。
 こうした都市部の全国的な労働学校設立に触発されたとも言えますが、農村部では農民運動の組織とともに、農民学校が上記のデンマークのフォルケ・ホイスコーレの農民高等学校に連動し、各地で設立されます。労働学校が「大阪労働学校」に見られるとおり、東大、新人会の系列で友愛会の労働運動とのつながりが強かった。それに対し、農民学校の方は早稲田大学、そして建設者同盟の系列で、浅沼稲次郎、大山郁夫、北沢新次郎などが指導したと言われています。すでに労農党の岩手の盛岡や花巻の支部結成時にも、浅沼稲次郎や大山郁夫が出席し、宮沢賢治もそこに参加したそうですが、花巻・羅須地人協会の活動も、そうした労農派の全国的な農民学校の活動と無関係ではない。とくに労農党の盛岡、花巻両支部の結成の際、浅沼のブレーンとして同行し、そのさい賢治との交流も始まったそうですが、同じ岩手の水沢出身の伊藤七雄氏との関係が浮かび上がってきます。伊藤七雄氏が賢治の羅須地人協会に注目し、それを高く評価して、当時病気療養のため住んでいた伊豆大島に大島・農芸学校を計画し、その企画立案のために賢治は大島「三原三部」で有名ですが、1928年(昭3)6月に伊豆大島に出掛けています。
 「賢治の友人の一人に伊藤七雄がいる。伊藤(明31~昭6)は水沢生まれ。浅沼稲次郎とも親交がある労農党員であった。その後、大島に土地を求めて移住、島に農芸学校を設立しようとして賢治の意見を求めていたようである。」(伊藤光弥『イーハトーヴの植物学』)少し補足しますと、「七雄は胆沢郡水沢町の豪商の出で、ドイツ留学中に胸を患い、療養のため伊豆の大島に転地し、ここに土地を買い家も建てて暮らしていた。妹は兄を看病していた。」(堀尾青史『年譜 宮沢賢治伝』)つまり、伊藤七雄は早大出身でドイツに留学、「建設者同盟」系の労農党員であり、浅沼稲次郎の有力なブレーンとして盛岡や花巻の党支部結成に参画していた。その際、賢治にも会って花巻・羅須地人協会に関心を持ち、その後、七雄は妹チエを伴って花巻を訪問、その返礼の意味もあり、賢治の伊豆大島行になったようです。
 賢治は、大島へ行く途中で、わざわざ仙台に立ち寄りますが、当時開催中の「東北産業博覧会」を視察し、農産品や水産加工品を調査しています。おそらく花巻・羅須地人協会と共に、大島・農芸学校の計画に関連して、資料収集の必要があった。大島訪問も、伊藤七雄の妹・伊藤チエとの関係が重視されていますが、それは全くの誤りでして、訪問の目的は専ら大島・農芸学校の設立に当たっての企画立案の協力だった。大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会は、立地条件に違いがあるものの、七雄と賢治の二人の共通の理念で結ばれていた。そして、1931年(昭6)初めに開校に漕ぎつけましたが、創設者の七雄氏が同年8月に死去したために、生徒募集などが進まず、立ち消えになったようです。少なくとも七雄氏がまず花巻を訪れ、賢治が大島まで足を運び、大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会は、東京や大阪の労働学校と並んで、当時全国的に「新しい学校」として展開されていた農民学校のネットワークとみることが出来ると思います。
 農芸学校のネットワークとして考えると、例えば盛岡高等農林の後輩で、山形県最上郡鳥越村で「郷土文化の確立、農村芸術の振興」に励みながら、「鳥越倶楽部」を立ち上げ活動していた松田甚次郎が、花巻・羅須地人協会の賢治に教えを乞いに来た。さらに言えば、同じ高等農林からの親友だった保坂嘉内の山梨・韮山の「花園農村」の活動も、関節ながら関連していたなど、いろいろな動きがあります。いずれにしても、当時の農芸学校が「新しい学校」として、広いキャンパスを持ち、一流の教授陣を揃え、教室や実験室で授業するのではない。むしろ、実際の農業実践、農家経営などに結び付いた、田んぼや畑が教室になった教育であり、モリスの自宅工房でのアーツ&クラフツ運動とも連動する教育実践だった。だから賢治の羅須地人協会も、労農派の活動と結びついた「新しい学校」と理解すれば、下根子・桜の宮沢家の別荘で行われた「集会」の集まりだけではない。「集会」の形式は、警察の事情聴取など当局の干渉もあり、2年半で一時的な中断を余儀なくされました。しかし、肥料設計や土壌改良、花壇設計など、農業実践に直結した「新しい学校」の教育は、賢治の病魔との闘いの中で続けられた。それと共に、満州事変で出征した教え子の無事な帰国を祈りながら、下根子・桜での「集会」が再開できる日を待っていたのではないでしょうか。
 羅須地人協会の宮沢賢治が、「労農派のシンパ」として活動したとして、謎の多い羅須地人協会について検討してみました。当局の弾圧などがあり、「不都合な真実」が長く隠されてきたことは否定できません。しかし、労農派の思想的な立場、その組織や運動に照らすことにより、羅須地人協会と賢治の実像が明確にされる部分も沢山ある。例えば羅須地人協会が上記の通り1926年にスタートしたことは事実として、果たしていつまで続いたのか?下根子・桜での「集会」は当局の干渉もあり、約二年半で中断したことは事実だとして、それで「羅須地人協会」が解散して終わってしまった訳ではない。賢治自身も関係者も、解散してピリオドを打ったと明言している訳ではない。明確な解散宣言に類するものが無いからこそ、羅須地人協会が何時まで続いたか?の議論が続いてきたのではないか。「新しい学校」としての羅須地人協会は、多様な活動を賢治とともに続けられ、我々に多くのメッセージを残してくれていると思います。
 ましてや、当時の一時的なブームに乗せられて、宮沢家の息子が「身の程知らず」に農学校の教職を犠牲にしてまで、農民の真似事をして「下の畑」を耕した。しかし、それが当局の弾圧を招き、病気になって絶望し、挫折して転向した。さらに砕石工場の技師としてセールスに励み、「モーレツ社員」となって働いた末に、病気が再発し、最後は日蓮宗の宗教に救済を求めて死んだ。賢治の作品も、彼の死後「雨ニモマケズ」など、軍国主義が利用することになり、賢治の思想は結局のところ「超国家主義」に発展を遂げた。そんな誤解や曲解、虚像も跡を絶ちませんが、明治の初期社会主義からの労農派の思想と運動の水脈からすれば、ソ連崩壊のポスト冷戦の21世紀の今日こそ、我々に近代科学技術を越える文明思潮を賢治・羅須地人協会の実践が提起してくれたと思います。
 4)賢治の法華経信仰
 最後に、賢治の宗教との結びつき、法華経との関連です。賢治は臨終に際して「南無妙法蓮華経」を唱え、父親に「法華経」千部印刷の上、知己に配ることを遺言して亡くなりました。法華経の信仰を捨てず、そのため「一方からは賢治は宗教のわくを出ることが無かったと賛美的に強調され、一方では<結局賢治は何もしなかった。民主主義の考えかたには、すっかり目をふさいでいた>とこきおろされているのである」(前掲、青江)と述べられています。左右両方の硬直的なイデオロギーから、引き回されている賢治の評価です。こうした評価から、若い頃に右翼団体の国柱会の門を叩いたことに結びつけ、もし賢治が長生きしたら、超国家主義者として戦争に協力した、という上記のような失礼な極論が跡を絶ちません。しかし、マルクス・レーニン主義の教条的ボルシェヴィズム途、その裏返しとも言える右翼の教条主義の間で、小突き回される賢治像を救い出す必要があります。同じマルクスでも、マルクスーモリスの共同体社会主義、それを継承した堺や山川の労農派社会主義、つまり「木下尚江、綱島梁川、内村鑑三、賀川豊彦など当時すでに有名だったキリスト者とともに、堺枯川、荒畑寒村」に賢治も繋がっていた。
 賢治について言えば、堺が抄訳したモリス『ユートピア便り』の最後は、英コッツウォルズの農村の教会で、ロンドンからボランティアで参加した工芸職人と地域の農民達の収穫祭の喜びのシーンです。こうしたモリスのアーツ&クラフツ運動を受け止め、賢治は「教育基本法」となった「農民芸術概論綱要」を書いて花巻・羅須地人協会に集う農民に講義した。それこそ羅須地人協会の活動だった。モリスの共同体社会主義の根源には、共同体の人間関係や協同労働の裏づけに自然崇拝や宗教・倫理が提起されている。賢治が労農派社会主義を追求すれば、それはボルシェヴィズムの硬直した唯物論(ただもの論)ではない、法華経の世界にも共通する思想に帰依していたのではないか?
 宮沢賢治は、羅須地人協会の活動の夢を追い、法華経の信仰も捨てることなく、1933年(昭8)9月21日、三十七歳の短い生涯を閉じます。自ら身を清め、南無妙法蓮華経を唱えながら、そして「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の独白を手帳に書き残しましたが、それもまた羅須地人協会の思想に裏付けられていた。同じ1933年、満州事変に対し対支出兵反対闘争の先頭に立った労農派の堺利彦も病没します。『蟹工船』の小林多喜二の拷問による死、大正デモクラシーの旗手・吉野作造の死と続く。故佐藤比佐子の遺著『パンとペン』は「一九三三年は暗黒時代の幕開けを予感させる年となった」と締めくくっています。
by morristokenji | 2013-09-06 11:30