森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

2) 労働力商品の特殊性と基本矛盾

 宇野は、『資本論』における純粋資本主義の抽象を明確にすることにより、『経済学批判』および「経済学批判綱要」の枠組みとなっていた初期マルクス以来の唯物史観のイデオロギー的仮設を超克することになりました。純粋資本主義を通して、商品経済の市場原理で全面的、かつ一元的に支配される資本主義経済が、人間と自然との社会的物質代謝を実現する。しかし、それは資本主義経済に特有な周期的恐慌を含む景気循環を通して法則的に実現される。その根本にあるのが労働力の商品化であり、労働力商品の特殊性によって、資本主義経済の再生産が資本の蓄積過程として、資本主義経済に特有な人口法則として実現されるのです。
 ここに、周期的恐慌の必然的基礎と同時に、宇野はさらに、資本主義の基本矛盾も設定されなければならない、と考えます。唯物史観のドグマとされた「否定の否定」、所有法則の転変では、生産の社会的性格と所有の私的・個人的性格の矛盾が基本矛盾だった。しかし、本来商品として生産されない労働力が商品化される。労働力商品の特殊性であり、その特殊性にもとづく基本矛盾によって、周期的恐慌を含む景気循環が法則的に実現される。この基本矛盾を止揚するためには、労働力の商品化を廃絶し、労働力を人間の能力として、人間疎外から脱却しなければならない。宇野は、純粋資本主義の経済法則の『資本論』を科学として、社会主義を基礎づけようとしたのです。
 この労働力商品の特殊性にもとづく基本矛盾に切り込んだのが、1948年(昭23)に『唯物史観』に掲載された「労働力なる商品の特殊性について」です。宇野は、この論稿の追記として、珍しくこう指摘します。「この小論はいわば一試論に過ぎない。----私にはなおこのW-G-W’の流通形式は十分に理解し得ない点が残っている。拙著『価値論』でもこの点未解決のままで執筆したので、不十分にしか展開できなかった。この小論でも確定的な解決を与え得たとは考えていない。読者諸君の御批判を得たいと希望している次第である。」並々ならぬ読者への挑戦の弁ではないか?

 冒頭、宇野は「労働力は本来商品として生産せられるものではない」と述べます。労働力Aは、資本の生産物W’ではないからです。しかし、生産手段を持たない無産の労働者は、自らの労働力を商品化せざるを得ない。この労働力の商品化こそ、「商品経済の発展の極点として理解すべきである。」ここから、市場原理には何らの従属関係が含まれないにもかかわらず、労働力を資本に売れば、実質的には社会的階級関係が成立する。労働力商品の特殊性にもとづく、特殊な社会関係として階級関係が形成される。そこにまた、資本主義の基本矛盾も設定されるが、宇野は資本の流通過程、資本の回転などの考察から、その特徴を明らかにします。
 
 そもそも流通形態 GーW-G’ である資本の一般的形式は、労働力の商品化を基礎に産業資本の運動形式を展開します。すなわち、
 G-W(Pm+A)---P---W’-G’  
本来、資本による商品W’ではない単純商品の労働力は、次のように流通する。
 A - G - W

 そこで、生産財を生産する資本(1)と、消費財を生産する資本(2)に分けると、

 (1) G-W(Pm+A)--P--W’-G’
      
         A - G - W---C---A

 (2) G-W(Pm+A)--P--W’-G’

 宇野の説明は、以下の通りです。すなわち、流通形態である資本の一般的形式G―WーG’が価値の自己増殖の運動体であるのに対して、
 先ず、(1)と(2)は産業資本の形式として、--P--の生産過程により流通が中断される。労働力商品が明らかに出来ず、古典派のように「労働の商品化」にしてしまえば、例えばA・スミスのように、生産過程が「労働=本源的購買貨幣」により自然から生産物を買い取る過程になって、生産過程は流通過程化してしまう。それでは「社会的形態は、実態自身に代って、永久的存在を主張する」「いわゆる流通主義」の似非非科学的表現となる。しかし、労働力の商品化を明確にすることになれば、流通形態の資本が生産過程を包摂し、そこに矛盾が設定される。
 次に、、(1)も(2)も産業資本として、労働力商品を形態的に包摂するが、その労働力商品は、資本の運動からは生まれはい。労働力Aは資本の生産物W’ではない、いわゆる単純商品として前提され、それを資本が包摂する。しかし、労働力はG―Wとして(2)から生活手段の消費財を購入し、資本の外部である---C---家計の消費生活で再生産されなければならない。ここから生産と消費の矛盾も設定されるが、あくまでも労働力商品を通しての矛盾である。

 以上のように、資本の運動における「形態と実体」の関連を整理した上で、次に宇野は、労働力商品の価値規定に進みます。労働力は資本の生産物W’ではないし、労働生産物でもない。その価値は「その生産に要する労働時間によって」決定されるけれども、労働生産物でない以上、それは直接的ではない。「労働者の生活を維持するに足る生活資料の生産に要する労働時間によって」間接的に規定される。だから労働者は、自らの労働力を再生産するのに必要な「必要労働」部分を、生活資料として資本から買い戻す。そうした回り道により、労働力の価値規定も行なわれる。ここにも労働力商品の特殊性が認められるが、もともと労働価値説の意義も、ここに求められなければならない。その点から言えば、『資本論』の労働価値説をめぐって、例えば等労働交換や総価値=総価格の証明など価値論論争も、あまり意味のない論争内容だろう。この必要労働による労働力の価値規定は、「労働者は、自ら自己の生活のために労働する場合においても、その労働時間の一部分は、自己の労働力の再生産のためにするものである。」つまり、人間と自然の物質代謝の基礎によるものであり、同時にまた「資本主義社会における労働者の生活が労働力の再生産に限定される点」に労働者が労働力を商品化せざるをえない根拠にもなっている。言い換えれば「いわば生産過程が資本家的形態を与えられることから規定される面と、一般的社会的原則にしたがってこれを実現せざるを得ない点から規定される面とが重なって現れているものといえる。」
 宇野のここでの説明は、労働力商品の価値規定に限定されています。しかし、このように純粋資本主義の抽象において、労働力商品の特殊性を重視するからこそ、(1)『資本論』冒頭の商品論が資本による商品W’ではなく、単純商品W(A)から出発する方法を採らざるを得ないことが明確になる。さらに、(2)その冒頭商品論では、労働による価値規定が出来ず、純粋な形態規定による価値形態論の展開になるなど、『資本論』をめぐる「価値論論争」の宇野説の主張が、ここで明確な姿を現している点も、念のため指摘しておくべきでしょう。
 
 次に、労働力商品の特殊性が、不変資本にたいする可変資本に反映される点が論じられます。上記の通りG-W(Pm+A)は、Pmへの不変資本とAへの可変資本に投資が分かれます。不変資本は、あくまで資本のもとにあり、労働により価値がW’に移転されるだけなので不変資本です。生産手段が「資本家の所有に属する限り、生産過程の外部においても彼の資本そのもの」だからです。現に生産手段は、他の資本家に売ること、再販売することもできます。それに反し、可変資本はどうなるのか?
 「労働力は労働者の手にある限り商品たるものであって、資本家の手に販売された後は、すでに商品たるものではない」として、「労働者は奴隷と異なって、労働力と共に身体を売るものではない。そこでは労働力としての資本は資本家にとっても使用価値と共に価値を有するという商品ではあり得ないものになっている。資本家の可変資本は、この面からいえばもはや単純に価値を保有するものではない。これは資本の流通の面では資本の価値の転形に相違ないが、しかし単なる資本価値の変態とはいえないのである。」ここで宇野は、奴隷労働と賃労働の差異を提起し、労働力商品の特殊性から可変資本の特質を強調しています。
 そこで可変資本として投下されても、不変資本と異なり可変資本は、転売や「再販売」が出来ない。労働力Aは消費して労働させる以外にはないし、W’として製品を生産し、それを販売しなければならない。そして、それを通して、労働力は新たに価値を形成し増殖しなければならない。資本は可変資本として投資した「その価値を労働力なる商品と交換に労働者に引き渡すのである。」ここにまた労働力商品の特殊性があるし、資本の流通に「特殊の関係を含むのである。」ここからまた、「労働力の価値としての労働賃銀が、労働過程の終わった後に支払われるということも、実はかかる関係に対する資本家的警戒に外ならない。---新たなる生産物としての資本価値を再生産し、これを確保した後に、資本は労働者による生活資料としての資本の消費を承認しようというのである。」

 さらに、このような可変資本の特徴は、その回転の面でも現れます。資本の回転は、投資した資本が回収されるまでの期間として表現される。しかし、投資と回収の仕方の差異から、固定資本と流動資本の差異があり、この差異はスミスなども論じてきた。さらに流動資本でも、不変資本と可変資本では、回転の面で差異が生じてくる。原材料など流動・不変資本は、単に価値が移転されながら回転するが、流動・可変資本には次のような特徴が生ずる。宇野は、『資本論』第2巻の可変資本の回転から引用するが、先ず簡単化のため不変資本を捨象し、1週間当たり100ポンドの可変資本投資、生産期間5週間だと500ポンドの可変資本投資となり、1年50週とすると5000ポンドの総投資額となる。ここでは500ポンドの可変資本が、繰り返し投資されている。しかし、この間「5000ポンドなる資本が逐次賃金として支出される。そして、この賃金はまた労働者たちによって生活資料に支出される。このようにして前貸しされた5000ポンドの価値の労働力が、相次いで生産過程に合体され、5000ポンドに等しいそれ自身の価値を再生産するだけでなく、なおその上に、5000ポンドの剰余価値をも生産する。」
 つまり、流通形態の資本は500ポンドが投資を繰り返しているが、実体的には第1回転期間の資本と第2回転期間の資本は同じではない。第一の資本500ポンドは賃金として労働者に支払われる以上、可変資本価値が労働者に引き渡され、それで労働者は生活資料を購入、労働力を再生産している。その代わり、資本の下で労働者がいわゆる「付加価値」、マル経では「価値生産物」を生産する。だから「可変資本は、労働者自身が生産し再生産しなければならない生活資料の資本家的形態に過ぎない。それはいかなる社会形態にも共通のものが資本主義社会においてとる特殊歴史的形態である」と宇野は整理します。そして、『資本論』からの引用、「資本家階級は労働者階級に対して絶えず貨幣形態で以て、後者によって生産せられ、前者によって占有される生産物の一部分に対する小切手を与える。この小切手は、労働者が同様に絶えず資本家に返還して、それから彼自身の生産物の内の彼自身に帰する部分を引き取ることになる。生産物の商品形態と商品の貨幣形態とが、この取引を隠蔽するのである。」
 流通形態としての資本の流通過程は、姿態変換としての循環・回転の運動を通して価値を増殖します。そこでは可変資本と不変資本の区別も、流動資本と固定資本の区別に還元され、さらには平均回転や総回転などが、資本の効率の指標になります。しかし、それにもかかわらず資本により生産されない労働力商品への可変資本の回転は、労働力が自らの労働で生産した必要労働部分を、生活手段である消費財として買い戻して自ら再生産する、社会的物質代謝の基礎を持たなければならない。労働力の商品形態がこの過程を隠蔽するが、「労働力の商品としての規定は、いわば仮象に過ぎない。本来商品として生産せられたるものでもないものが、商品の規定を与えられるのである。しかもそれは単なる仮象としてではない。あらゆる生産物をして商品たらしめる一般的基底として、商品経済社会に必然的な形態である。われわれはこの点を把握することなくして生産物の商品形態を論ずることは出来ないのである。」

 以上、労働力商品の特殊性を論じた上で、宇野は資本主義社会の基本矛盾の設定を提起します。まず「W-G-W'の形式は、生産過程を捨象した抽象的規定である。したがってこれを理解する場合に、われわれが強いて生産過程を想定することになると、勢いいわゆる単純なる商品生産者を仮定せざるを得ないことになる。」「労働力なる商品によってこのW-G-W' を理解せんとするとき、われわれは始めて、この抽象性を明確に認めざるを得なくなる。」「労働力が他の商品と同様に単に商品として生産せられるに過ぎないものであれば、資本主義にとってはそれに本来的な矛盾も困難もないであろう。いわゆる単純なる商品社会は、資本における矛盾を単なる商品の矛盾に解消せんとするものに過ぎない」と主張します。
 宇野はここで、単純な商品生産の矛盾を批判しながら、労働力商品の特殊性にもとづいた資本主義の基本矛盾の設定の見地を提起します。同時に、「単純なる商品生産者」や「単純なる商品社会」の想定を「仮定」に過ぎないとして、初期マルクス・エンゲルス以来の唯物史観の「否定の否定」による所有法則の転変の基本矛盾の設定を批判したことになります。労働力商品の特殊性にもとづく矛盾の設定から、さらに資本主義に特有な人口法則との関連で、周期的恐慌を含む景気循環の必然性にもとづく宇野『恐慌論』の方法的見地も、ここから提起されます。
 その上で宇野は、流通形態である資本の流通過程と連鎖・交錯する単純流通W-G-W'を取り上げ、単純流通が労働力商品A-G-W' として、「要するにW-G-W'のいわゆる単純なる流通形式は、資本の流通におけるように価値の変態としてこれを片付け得ないものをもっている。それは寧ろW-Gにおいて使用価値を渡して価値を得、G-W'では価値を渡して使用価値を得るという関係を有している」として、「W'は、使用価値として消費せられるに過ぎない。これに生産過程を想定することは、資本の流通に対する労働力なる商品のW-G-W'における変態の意義を明らかにしないことになる。」さらに、単純流通を媒介する貨幣の機能、貨幣の資本への転化に関連して「特にここで述べて置きたいのは、W-G-W'が決して一社会を規定する流通形式とはなり得ないということである。われわれはこれによって小商品生産者の社会を想定してはならない。それは寧ろ資本の流通の一部として、具体的には労働力の商品としての売買に伴う過程を示すものとして、資本の流通に付随するものとして理解しなければ、その抽象性を十分に認めるものとはいえない」とします。
 こうした見地からすれば、「W-G-W’の形式は、これを単純なる商品の流通として理解し去る前に、労働力なる商品が資本主義的商品経済において商品として売買される形式として考察すべきものではないかというのは、そういう意味である。しかもそれは労働力なる商品の特殊性を明らかにすると同時に、いわゆる単純なる商品経済の限界をも明らかにする。」ここでは、初期マルクス・エンゲルス以来の唯物史観の仮説を脱却し、『資本論』の純粋資本主義の抽象の意義を明確にした宇野の方法的見地が、実に明確に提示されたと見るべきでしょう。単純流通における商品・貨幣・資本の流通形態を、A-G-W'として明らかにする。冒頭の商品も労働力商品A、したがって労働生産物ではない以上、労働による価値規定は不可能であり、むしろ形態規定として純化できる。その上で「われわれは、商品の価値を単なる交換価値としてでなく、商品の生産を通して行われる価値の生産において把握しなければならないが、それは資本の生産過程において始めて確保される。」「労働力自身を商品化する社会的関係を確立しない限り、商品経済は、一般的な社会形態とはなり得ないことを示すものといえる。実際またかかる関係が確立された時、われわれは始めて商品の価値関係を、単なる物と物との関係としてではなく、物と物との関係の背後に人と人との関係を明確にし得るものではないかと思うのである。」

 商品の物神性について、「労働力の商品化は、物としてあられる人間関係の極点をなすもの」として、人間疎外を労働力の商品化による「物化」とする見地は、労働力商品化の止揚を人間解放の基礎におく宇野理論の真髄といえるでしょう。

[PR]
by morristokenji | 2014-02-24 21:00