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by morristokenji

『資本論』と社会主義―スターリンとレーニン(その3)

 『資本論』と社会主義について、宇野は「スターリン論文」を厳しく批判し、さらにレーニン『帝国主義論』の意義を論じていました。当時のソ連共産党第一書記のフルシチョフが、1956年党大会で有名なスターリン批判を行いましたが、それは政治路線に関わる批判であり、個人崇拝の批判でした。当時、宇野はフルシチョフのスターリン批判、とくに個人崇拝批判を歓迎していたように記憶しますが、それに先立つ53年には宇野の「スターリン論文」批判が公刊されていました。このスターリン批判は、すでに紹介のとおり「経済学教科書」草案に対する批判であり、とくに『資本論』の価値法則のスターリンの理解、つまりエンゲルスの唯物弁証法を継承し、唯物史観のドグマに対する方法論的批判でした。それはまた事実上、ソ連型・国家社会主義への批判でもあり、マルクス・エンゲルス、さらにレーニンにおよぶマルクス・レーニン主義の教条に対する批判として、戦前の堺・山川の労農派の立場を継承した位置づけも可能でしょう。
 ただ、それにもかかわらず55年の「帝国主義論の方法について」では、一方で『資本論』にもとづく「原理論」、そして「段階論」としての『経済政策論』の方法については、レーニンの『帝国主義論』の方法、さらに帝国主義の「例証」の選択に関してもレーニンを厳しく批判しました。この批判は、エンゲルス、そしてスターリンへの批判に帰一するレーニン批判であり、その点ではスターリン批判に関連して提起されていたソ連型・国家社会主義への批判に通ずる面があった。宇野の三段階論、とくに純粋資本主義の抽象にもとづく『資本論』と社会主義の方法論的位置づけからすれば、当然ともいえるレーニン批判であり、ソ連型社会主義への批判的見地の大胆な提起だったと思います。しかし、同時に他方では、レーニン『帝国主義論』については、繰り返し積極的評価をあたえ、とくに帝国主義に関しての例証の選択については、自らの段階論としての『経済政策論』に資する面が大きかったのでしょう、段階規定としての前向きな評価を惜しまなかった。
 こうした宇野によるレーニン評価の二面性は、無論レーニンの帝国主義論についての学術的価値に対する評価を含むものです。それは無視されてはならないのあり、ヒルファディングやホブソン等の業績と共に、学術的に高く評価されるべきでしょう。さらにまた、こうしたレーニン評価がベースとなっていたと思います、それまで慎重にも慎重を重ね、見極めようとしていたソ連型・国家社会主義にたいしても、すでに紹介しましたが71年の『経済政策論』改定にさいし、1)ロシア革命以後の資本主義の発展も、帝国主義に続く新たな段階を画するような発展は見られない、2)ソ連を中心とする社会主義の建設を阻止できるような発展がみられない、したがって3)「第一次大戦後の資本主義の発展は、---社会主義に対立する資本主義として、いいかえれば世界経済論としての現状分析の対象をなすものとしなければならない」と述たのです。これはレーニン『帝国主義論』の資本主義の最高の、そして最後の段階規定を積極的に認めることだし、さらに唯物史観の方法を容認してマルクス・レーニン主義に対するイデオロギー的拝跪にならざるをえないのではないか?また、上記1)だけで、第一次大戦後の資本主義を現状分析として、世界経済論とする三段階論の方法は堅持できます。
 いずれにせよ、宇野もまた「時代の子」であった、と思わざるを得ません。しかし、ソ連型国家社会主義は、チェルノブイリ原発事故に続いて完全に崩壊した。ロシア革命の歴史的意義も喪失して、マルクス・レーニン主義のドグマも破綻した。初期マルクス・エンゲルス、そしてレーニンに継承されたイデオロギー的仮説に過ぎない唯物史観を前提とする歴史認識の破産に他ならない。ここでは立ち入りませんが、レーニンの『カール・マルクス』のマルクス主義の理解、『国家と革命』の国家論にもとづいた「プロレタリア独裁」など、初期マルクス・エンゲルス、そしてレーニン主義と称することのできる歴史認識に基づくものでしょう。この歴史認識は、『資本論』と社会主義について、宇野の三段階論の方法にもとづく知的営為が許容できるものではないと思います。イデオロギー的仮説に過ぎぬ唯物史観の前提の枠組みで展開されようとした『経済学批判』を方法的に廃棄して、マルクスは『資本論』を純粋資本主義の運動法則として解明した。それを宇野は「原理論」として純化して、『帝国主義論』を段階論として位置づけ、三段階論を構築した。ここから宇野の『資本論』と社会主義は、すでに紹介しましたが、純粋資本主義の抽象により、労働力商品の廃棄にもとづいて、人間と自然との物質代謝の経済原則を、主体的・意識的に実現するものとして展望しているのです。最後に、主体的・意識的に実現されるべき経済原則について、繰り返しまとめておきましょう。
 
 1) 人類の歴史的進化として、生産力の発展があります。人間が自然に働きかけ、生活に必要な物資を確保し、豊かな生活を実現する。より豊かな暮らしのために、生産性の向上にもとづく生産力の発展は必要不可欠でしょう。しかし、自然を一方的に破壊し、自然の再生を無視する生産力の発展が、経済原則として容認されるべきなのか?化石燃料の大量使用による大気汚染、安全神話による原子力の平和利用など、経済原則としての人間と自然の物質代謝のあり方の面から、エネルギーについては地域に賦存する「自然再生エネルギー」による自然との共存が問い直されるべきでしょう。その点では、唯物史観のドグマによる生産力の高度な発展にもとづく、近代科学技術至上主義の「生産力理論」が否定されるのが当然でしょう。
 2) 労働力の商品化を止揚し、雇用労働から相互扶助にもとづく協働労働が保障される。そのさい、人間にとって労働のあり方が主体的・意識的に問われなければならないのであって、近代工業化社会の機械制大工業に付属した労働力の止揚が重要です。そのさい、前近代的なギルドの労働組織など、職人・技能者の労働組織なども参考にする必要があります。機械による大量生産、つまり量的規模拡大の生産から、質的向上を重視した技能や技術による「手作り」の価値が再評価されるべきでしょう。
 3) その上で、労働力の再生産の場としての家庭・家族の生活の単位が保障される。そのさい家庭の成員の相互協力と共に、労働力の再生産として必要な必要労働が確保されなければならない。生存権の保障です。その必要労働の確保が前提になり、社会的物質代謝に必要な生活資料(消費手段)とともに、そのための生産財(生産手段)への資源と労働の適正配分が確保される。ここでも家庭・家族を基礎に、生産と消費の経済循環が円滑に進むような、いわゆる「循環型社会」の実現が望ましいし、地産地消の原則が必要です。
 4)人間と自然の睦み会いによる物質代謝の実現のために、前近代的共同体組織を参考にしながら、新しい開かれた共同体の組織が構築されなけれなならない。新たな共同体の組織は、自立した個人の主体的意識性が尊重されますが、同時にまた共同体の成員相互間の信頼、倫理、道徳の価値が必要であり、それによって共同体も維持存続される。協働による参加と相互扶助が自由や民主主義の価値観に代わり、新しい「社会的正義」として共同体=コミューンの価値観となる。
 5)その点では近代国民国家は必要なくなり、その意味で「死滅」する。新たな社会組織は、家庭・家族を基礎に「氏族」などコミューンによる組織化、さらにコミューン連合としての「部族」「民族」が相互に自立して交流する、新しい世界的交流が始まる。今日のウクライナ問題、中東紛争、中国のウィグル族などを巡る民族の自主権の動きを見るにつけ、「氏族」「部族」「民族」の自主権を容認するコミュニタリアにズム(共同体主義)がポスト資本主義の体制変革には要請されているのではないか? 



by morristokenji | 2014-05-11 12:59