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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

労農派・あとがき

 1938年(昭13)2月1日の夜のことを、よく覚えている。子供の寝ている枕元で、両親が何時にもなく真剣な表情で、深刻に話し合って考え込んでいたからです。テーブルに広げられていたのが当日の新聞の夕刊で、「人民戦線事件」により、早朝「東大の大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、法政大の美濃部亮吉、阿部勇、そして東北大の宇野弘蔵の教授グループ」が一斉に検挙された報道でした。すでに前年の12月15日には、山川均や向坂逸郎、大森義太郎などが逮捕され、この第1次検挙に続く第2次が行われ、夕刊の一面トップで大々的に報道されていたのです。
 当時、両親は超零細の家内工業的な出版業を経営、大内兵衛、向坂逸郎、美濃部亮吉などの左翼系教授グループの著書を何冊か出版していました。また共産党系では風早八十二の『労働の理論と政策』など、1冊でも発禁処分を食らえば、中小零細の出版業など、たちまち倒産、一家は路頭に迷いかねない。両親の心配は発禁処分でしたが、その時は何とか切り抜けたものの、そのご戦時統制による企業合同で大手出版社に吸収、合併されてしまいました。
 そのとき6歳ですから、幼児体験とは言えませんが、労農派教授グループの名前だけは、その夜の情景と共に少年の頭に強く焼き付いてしまったようです。父親は戦争に反対で、「アメリカと戦争して負けるに決まっている」と漏らしていました。これが世間のいう「非国民か」と思いながら、大詔奉戴日には靖国参拝、勤労奉仕で掃除まで励んで「武運長久」を祈っていた銃後の少国民でしたが、父親の言うとおり神国日本は敗戦。ポッダム宣言受託で無条件降伏、亡国の民として「国家喪失」を経験したのです。
 戦後、労農派との出会いは、朝鮮戦争で冷戦体制が構築される中、大学一年の教養の「経済学」の講義でした。たまたま大内 力先生が、駒場の大教室で、宇野弘蔵の経済原論の内容を、熱心に明快に講じました。東大での講義は初めてであり、矢内原忠雄の東大改革の実践でもあったと思います。実に熱のこもった、アカデミックな名講義に魅了された学生も多かった。経済学部への進学を決め、大内先生の農業問題のゼミに参加しました。例年行われていた農村調査にも参加、今度の3・11大震災で原発被災の犠牲になった福島の相馬地方にも出かけた思い出があります。懐かしい思い出です。
 大学院進学では、宇野弘蔵ゼミを強く勧めたのも大内先生です。戦後、宇野三段階論の完成の過程に宇野ゼミに参加できたことを誇りに思っています。宇野理論の戦前から戦後への発展、ゼミの講義だけでなく、座談の名手と言われる宇野先生から、本郷界隈の喫茶店で、仙台の思い出を楽しく、繰り返し聞くことができた。そして宇野先生の勧めもあり、1963年から東北大に勤めることになったが、ここで労農派との地縁と人脈がさらに強まることになったのです。
 学生時代は、駒場歴研(歴史学研究会)に参加し、『されどわれらが日々』の世代でもあり、日本社会党との関係は特に無かった。仙台に移り、斉藤晴造はじめ東北大学の関係者、東北学院大の高橋正雄、それに美濃部都政と共に革新市長の仙台・島野武市長のブレーンの面々、戦前の宇野ゼミ関係者では、小岩忠一郎・仙台市助役などとの交流が始まった。社会党の委員長を務めた佐々木更三、彼は「人民戦線事件」で労農派教授グループの宇野弘蔵と共に塩釜警察署に留置された仲でもあった。宇野・佐々木の両人から、東京と仙台で戦前労農派の活動を、いろいろ聞く機会にも恵まれました。
 労農派の人脈や地縁の強さという点では、東北大の吉田震太郎さんに頼まれ、山形県の置賜の農村で、マルクス『資本論』の読書会に協力していました。宇野先生は戦前から、『資本論』なら「何処でも誰とで読む」のが信条で好意的だった。向坂さんにも、鷺宮の御宅で奥様ともども歓迎して頂きました。戦前の教授グループの出版の縁もあり、「社会主義協会」の流れをくむ置賜の研究会への協力には、非常に好意的で感謝された。宇野vs向坂の理論の対立はあっても、政治的に利用しない戦前の労農派の絆は実に強い。
 佐々木更三さんとの地縁もあったのでしょう、日本社会党の路線問題で「日本における社会主義への道」の見直し、いわゆる「新宣言」のための「社会主義理論センター」に協力しました。ソ連・東欧の社会主義の行き詰まり、中ソ論争と中国の文化大革命の失敗から改革開放路線への転換、広く冷戦構造の戦後体制の破綻の局面で「20世紀社会主義」と向き合うことになったことに後悔はありません。しかし、あまりにも遅かった「道」の見直し、さらに「新宣言」がモデルとした西欧社会民主主義の歴史的行き詰まり、それに戦後、労農派の結集軸になるはずだった「平和経済計画会議」が、その役割を果たしえないまま終わっている点が非常に気になります。
 ソ連崩壊の時ですが「じつは、私は90年モスクワの全ソ労評に行き関係者の話を聞いた。そこで、こういう言葉が出てきた。今のペレストロイカ、ソ連、東欧の激変をどうみているのかという問いに対しては、人間にとって幸せな社会というものを、イデオロギーだけで人々に押し付けてはだめである。それが七十年間のソ連体制の失敗の教訓だった、と語っていた。」(拙著『世界と日本 新しい読み方』講談社1991年刊)このボルシェビズムの完全敗退に対して、対抗軸だった西欧社会民主主義の政党から、勝利の歓声を聞くことはなかった。ヒアリングにたいしては、むしろ台頭するサッチャーなど新自由主義への強い危機感だったことを思い出します。
 これは人脈や地縁ではない、まさに奇縁です。1982年、在外研究で10ヶ月ロンドンに滞在したとき、マルクス死後100年の前年だったからでしょう、BBCが「K・Marx in London」を放送しました。キャスターはオックスフォードのAsa Briggs教授、当時から日本社会党の研究で知己だった日産日本問題研究所のA・Stockwin教授に同道を願い、Briggs教授を訪問した。その時、「貴方はマルクスを研究してきた、是非モリスを研究しなさい。自分はモリスからマルクスだったが、順序はマルクス―モリスだ」ここでライフワークのテーマが決まったのです。
 東北大を退官後、『資本論』と社会主義を中軸にして、マルクス―モリスを研究し、さらにマルクス・モリス社会主義の日本への導入を追跡、その際モリスと宮沢賢治の接点を知った。日本におけるモリスと賢治、この2人の天才的巨人の「点と点」を結んでいく、幸徳秋水の『社会主義神髄』、堺利彦『理想郷』、山川均「マルクスの『資本論』」点線が実線に、細い線が次第に太く、そして宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」、労農派シンパとしての花巻・羅須地人協会の活動であり、アート&クラフツ運動の実践につながった。
マルクス―モリスの社会主義は、日本の明治、大正、昭和へと「正統マルクス主義」としての労農派社会主義として継承されていたのです。
 この10年、仙台・作並に開いた「賢治とモリスの館」で、堺 枯川の書「蕨生うるや 茸いずや わが故郷の痩せ松原に」を目にしながら、モリスから賢治への労農派社会主義の山脈と水脈の豊かな伝統を痛感している。同時に、ポスト冷戦の現実を前に、モリスが『ユートピアだより』で訴えた、21世紀さらに22世紀を目指す「社会主義」のヴィジョンの復権を期待せざるをえないのです。
by morristokenji | 2014-09-01 14:06