森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

 ウィリアム・モリスと夏目漱石、それから宮沢賢治

 1) 『ウィリアム・モリスのマルクス主義―アーツ&クラフツ運動を支えた思想』を上梓して、そこでモリスが社会主義同盟の同志であるE・B・バックスとコラボレートの形で書いた『社会主義―その成長と帰結』を紹介しました。モリスが『資本論』を熟読し、バックスの協力をえながら、古代社会の根源にまでさかのぼり、中世ギルド組織の意義を明らかにした。そのうえで近代社会の歴史的位相を解明し、社会主義思想を『資本論』の科学により基礎づけながら、近代社会の文明の転換として社会主義のビジョンを提起したのです。「たたかう社会主義」の組織と運動であり、「勝ちとられた社会主義」=共同体社会主義のビジョンに他なりません。
 モリス・バックス『社会主義』は、初め社会主義同盟の機関紙「コモンウィール」に1886年5月から、途中一時中断があったものの、88年5月まで連載されました。マルクス死後3年の時点で、仏語版『資本論』第1巻の概説を試みながら、社会主義の思想を体系的ビジョンとして提起したものです。さらに同じ88年、当時「国家社会主義」のビジョンとして超べストセラーだったアメリカの作家で社会主義者E・ベラミーの『顧みれば』に対抗して、モリスはファンタジー・ロマンの名作『ユートピアだより』を連載します。1890年1月から10月まで、それはすぐ単著として1891年(翌92年にケルムスコット版)に出版されています。さらにつづけてモリス・バックスは、『ユートピアだより』とセットで「国家社会主義」に対抗する実践上の必要があったと思います、すでに連載した『社会主義―その根源から』に大幅な加筆修正を加え、新たな改訂増補版として1893年に共著『社会主義―その成長と帰結』を刊行したのです。
 こうした『社会主義』刊行の経緯からすれば、モリスvsベラミーの国際的な社会主義論争を背景に、マルクスの死後、もっとも早い時点で『資本論』を基礎にして、社会主義のビジョンを提起したのが、ほかならぬモリス・バックスの共著『社会主義』だった。すでに本誌No.16特別号の拙稿「マルクス、モリスの社会主義と唯物史観」で書きましたので繰り返しませんが、初期マルクス・エンゲルスが『経済学批判』(1859)まで持ち続けていた唯物史観―たんなる資本主義批判のためのイデオロギー的仮説にすぎない唯物史観―から解脱して、マルクスは資本主義経済の自律的「運動法則」を解明する『資本論』を書いた。その『資本論』の科学を踏まえて、社会主義のイデオロギーを捉えなおす「科学的社会主義」のビジョンの開示が、次の課題として残された。そのマルクスが残した課題への挑戦こそ、モリス・バックスの『社会主義』であり、その「根源」にさかのぼり、その「成長」を辿り、その「帰結」を共同体社会主義のビジョンとして提示したのです。
 マルクス自身も『資本論』につづくプランとして、『剰余価値学説史』を踏まえた学説史の完成、さらに単なるイデオロギー的仮説に過ぎなかった初期マルクス・エンゲルスの唯物史観を超えた、いわば「新史観」ともいえる「科学的社会主義」のビジョンを考えながら他界したと思われます。その点では、モリス・バックスの『社会主義』はマルクス主義の継承を目指したものですが、すでに書きましたようにモリスは、エンゲルスから「センチメンタルなユートピア社会主義者」として敬遠され、無視され、排除されてしまった。マンチェスターで長く実務についていたエンゲルスは、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観を保守し続け、そのためマルクスが『経済学批判』から『資本論』へ法則性解明の転換をはかった「プラン問題」(プラン変更の問題)を理解できなかった。それゆえモリス・バックスの『資本論』理解を含む、共同体社会主義のビジョンの新たな文明史観を受け入れられなかった。マルクス主義の不幸というほかありません。
 歴史は皮肉なもので、マルクス主義はマルクス・エンゲルス、さらにロシア革命の成功によりレーニンへの継承、それが正統化された。マルクス・レーニン主義であり、ソ連型国家社会主義がドグマ化された。逆に欧米先進国の社会主義の思想を『資本論』の科学により基礎づけようとしたモリス・バックスの『社会主義』は、エンゲルスの『ユートピアから科学へ』(1880)―日本ではユートピアを「空想」と訳してきたが適当ではない―の教条によって「ユートピア社会主義」として軽視され、とくに日本では「空想的社会主義」として異端視されてきた。例えば、『現代マルクス=レーニン主義事典』上下(1980-81)の「モリス」の項目では、「マルクスの著作を研究したが、マルクス主義の本質は理解できなかった。エンゲルスはそれを<心情的>と評している」とされたのです。こうして忘却の彼方に追われてしまった。
 マルクス・レーニン主義の教条化は、むろん1917年のロシア革命の成功、そしてコミンテルンによる国際共産主義の教導によるものでした。それ以前は、マルクス、エンゲルスの著作と共に、モリス・バックス『社会主義』も、社会主義の神髄を伝える一書として日本に導入されていたのです。幸徳秋水の名著『社会主義神髄』(1903)には、モリス・バックス『社会主義』の一節が引用されています。さらにマルクス『資本論』、エンゲルス『ユートピアから科学へ』と並んで、重要な参考文献の一冊にも挙げられていました。この時までの幸徳秋水は、まだアナキストのクロポトキンを読まず、渡米してアナキストに変身する以前のことです。平民社の堺利彦、山川均などとの同志的連携のもとに、幸徳によりモリス・バックス『社会主義』が日本に紹介され、続いて堺が、モリスのファンタジック・ロマン『ユートピア便り』の抄訳を平民文庫の『理想郷』(1905)として刊行、さらに山川均も、『大阪平民新聞』に「マルクスの資本論」(1907)と題して4回にわたりモリス・バックス『社会主義』から『資本論』解説をこころみた。日本で初めての本格的な『資本論』解説です。
 このように見れば、日本におけるマルクス主義や『資本論』は、のちのロシア革命以後のマルクス・レーニン主義に先立って、マルクス=モリス主義として紹介され、導入された傾向が強い。とくに幸徳秋水は、自由民権運動左派の中江兆民の弟子として、足尾銅山事件の田中正造を支援し、平民社もまた広く協力していた。堺や山川の人脈は広く、自由民権派の土佐藩留学生だった馬場辰猪、弟の弧蝶との人脈など、自由民権運動左派の運動が堺たちの平民社グループと結びつきながら、マルクス主義をマルクス・レーニンではなく、マルクス=モリス主義として受容していた。堺は自身の思想的立ち位置を、片山潜などの国家社会主義、幸徳の無政府主義から区別して「正統的マルクス主義」(表現は多少変わるが)と繰り返し確認していた。まさに内発型土着社会主義であり、コミンテルンの教条的支配のもとに受容された外圧型プロレタリア独裁社会主義との本質的な差異があるのではないか?

 2) 1900年に夏目漱石がロンドンに留学します。「漱石発狂す」などと話題になったようですが、日記などを読むとロンドンの有名な書店街「HolbornニテSwinburne及Morrisヲ買フ」、ここのSwinburnはモリスと同じく詩人、ラファエロ前派でモリスに近い。この時期、漱石がラファエロ前派やアーツ&クラフツ、そしてモリスに興味を持って本を買い集めていた。そして買った「モリスヲ連れてHyde park辺ヲ散歩ス」などと書き、それに隣接する自然史博物館やヴィクトリア&アルバート美術館(V&A)に足を運んでいた。とくにV&Aは、モリスが依頼されて工芸品の収集に協力していたし、世界で最初のMuseum Restaurantには、モリスがデザインした有名なGreen Dining room (Morris room)もある。
 漱石がロンドンで購入して散歩に連れて歩いたモリスの本ですが、東北大学図書館に漱石文庫がある。漱石の愛弟子の小宮豊隆、『三四郎』のモデルだそうですがが、むかし東北大学法文学部の教授で図書館長を務めた、その縁で「漱石山房」にあった蔵書を受け入れ、日記などと共に貴重図書になっている。その漱石文庫には、全部がロンドンで購入したかどうかは不明ですが、モリスに関連した本が4冊ある。列挙しますと、
1)Morris(W.)The Earthly Paradise. London:Longmans, Green & Co.1900  
2)Morris(W.)Lectures on Art. Delivered in Support of the Society for
the Protection of Ancient Building, by W.Morris and Others. London:
Macmillan & Co.1882
3) Morris(W.)Art and Its Producers, and the Art and Crafts of Today. London:
Longmans & Co.1901
これに訳書が加わります。
4)Volsunga saga. tr. by E.Mugnusson & W.Morris, ed by H.H.Spar
 『ユートピアだより』ではなく『地上楽園』ですが、漱石は当時ラファエロ前派からアーツ&クラフツ運動に関心を寄せていた。ただ社会主義という点では、義父への書簡の中でマルクスに触れて、こう書いている。
 「カール・マークスの所論の如きは単に純粋の理窟としても欠点これあるべくとは存候へども今日の世界にこの説の出づるは当然の事と存候。小生は固より政治経済の事に暗く候へども一寸気焔が吐きたくなり候間かような事を申上候。」そしてまた、マルクス『資本論』の英訳本も漱石文庫に所蔵されています。ロンドンで購入されたかどうかは不明ですが、漱石が『資本論』にも関心を寄せていたことは否定できないでしょう。
 Marx(k.) Capital. tr. from the Third German Edition by S.Moor & E.Avering.
London:S. Sonnenschein & Co.1902(International Library)
 漱石のロンドン生活は、文部省からの初めての官費留学生、海外での初めての単身生活、英語圏での英語教師の肩書もまた、却って荷が重かったでしょう。神経衰弱になるのは当然で、それでも留学の身で沢山の本を買い込み、また訪れてくる沢山の客を接待している。日本からは、仙台の土井晩翠を8月15日にVictoria駅に出迎え、さらに10月13日には「土井氏トKensington Museumニ至ル」と日記に書いています。漱石は、Morris Roomの食堂があるV&A Museum(地名からKensingtonと呼ぶ)によく出かけたようで、土井晩翠もそうだし、さらに漱石と同時にベルリンにドイツ語研究で留学の藤代素人もMuseum Restaurantに案内し、食事をしています。
 「其翌日君にケンシントン博物館と図書館を案内して貰ひ、図書館のグリル・ルームで一片の焼肉でエールを飲んだ。<モウ船までは送って行かないよ>と云う言葉を最後に別れた。」(藤代素人「夏目君の片鱗」『漱石全集』月報第5号、昭和3年7月)文部省からの電命もあり、藤代は神経衰弱の漱石を一緒に日本に連れ帰る目的でロンドンに立ち寄った。しかし、心配するほどのことはなく漱石は元気だし、たくさん買い込んだ本を日本に送るため、漱石の帰国は素人より一足遅れました。その事情を藤代は書いていますが、ここでもMorris Roomに隣接のGrill Roomで、二人は焼肉を食べながらエールで乾杯しています。これが「夏目漱石 in London」だったのです。
 このように漱石の留学中、モリスに関連したエピソードは色々あります。漱石の文学の形成にロンドン留学、そしてモリスとの関連のエピソードが、多大な影響を与えたと思います。ただ、カーライルのように、具体的な作品としてまとめられてはいませんが、帰国後に東大で講義をした『文学論』には、Rossetti, Burne JonesとともにMorrisの名前が出てきますし、関連して「復興趣味」にも触れています。さらにNHKの新日曜美術館で話題になりましたが、松方コレクションに協力した「伝説の英国人画家」フランク・ブラングィンは、漱石の『それから』(1909)に登場します。代助が美千代と密会を重ねるクライマックスの箇所に近い部分ですが、代助が大きな画帳を見ながら「やがてブランギンの所に来た。代助は平生からこの装飾画家に多大の興味をもっていた。彼の眼は常のごとく輝きを帯びて、一度その上に落ちた。それは何処かの港の図であった。」
 このブラグィンは、ロンドンの船着き場ハマスミス橋の近くにあったモリスの工房、ここは後にハマスミス社会主義協会の講義室になり、現在は一部「モリス協会」の本部ですが、ここで働きながら学んだ画家です。漱石のモリスへの関心は、ここでもラファエロ前派からアーツ&クラフツにあったことが判りますが、こうした形で漱石はモリスの思想を学び取っていたのです。1903年に帰国した漱石が、大学教師の道を辞めて、朝日新聞で文筆活動を始めますが、この時期には上記のとおり日本では幸徳が『社会主義神髄』を、堺が『理想郷』を平民文庫に、さらに山川もモリスから
『資本論』の解説を書いている。漱石も1905年に『吾輩は猫である』を書き、それに堺が賛辞のはがきを送り、「僕の家に小猫が一匹居る。名はナツメという。ある人はこれをナツメ先生と呼ぶ。またある人はこれを金之助とも呼ぶ」(1906『家庭雑誌』)などと書いています。
 漱石は堺に親近感を深め、漱石が市電運賃値上げ反対運動に加担している、との風評記事に対しても「小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても豪も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と書き「都下の新聞に一度に漱石が気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候」などと書き送っています。手紙だし、いささか開き直りの文面ですが、帰国後の文筆活動で活躍する中で、堺たちの社会主義である「正統的マルクス主義」に好意的だったことは否定できません。漱石の堺たちへの接近も、やはり漱石のロンドン留学におけるラファエロ前派からアーツ&クラフツ運動への関心が背景になっている。さらに言えば、堺と福岡県豊津が同郷のだった小宮豊隆をモデルに『三四郎』を書き、また漱石門下の芥川竜之介が東大の卒論のテーマに「Yung Morris」を選んだのも、そうした影響ではなかったか、と思います。

 3)モリスと宮沢賢治との接点については、すでに拙著『賢治とモリスの環境芸術』(2007時潮社刊)などで書きましたので繰り返しませんが、賢治が花巻農学校を辞めるに当たり、有名な「農民芸術概論綱要」を書き、それが「教育基本法」になって花巻「羅須地人協会」を始めた。その時点でのモリスからの影響は多大だったと思います。ただ、「綱要」が講義ノートや生徒の聴講ノートを基礎としているため、A・スミスの『グラスゴー大学講義』にも似た解釈問題が生ずる。いわば「賢治・モリス問題」に他なりません。賢治は、誰の、何から、新鮮かつ重大な問題提起を受け止めることになったのか?
 「綱要」の「農民芸術の興隆」の中で、「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」について、賢治はモリスの「芸術は労働における喜びの表現である」をとり上げ、さらに注記のメモ書きの形式で、W.Morris "Art is man's expression of his joy
in labour."と引用している。これはモリスがオックスフォードの講演で、自ら社会主義者であると公言して述べた有名な言葉です。ただ聴講ノートだと、賢治が直接典拠としていたのは、当時ジャーナリズムで健筆を振るっていた評論家・室伏高信の『文明の没落』からの引用のように見える。ここから問題が生じ、賢治は多くの関連文献の一つに『文明の没落』をあげ、モリスに関説したに過ぎない、という解釈も出てくる。まさに「A・スミス問題」と同じで、賢治の直接の校閲を受けていない聴講ノート利用の限界でしょう。
 とくに戦時下は右翼へ、戦後は左翼に転身した変節漢の代表のような室伏の著作であってみれば、とくに左翼からの賢治批判に利用されかねない。しかし拙著で具体的に明らかにしましたが、賢治は花巻農学校、併設の岩手国民高等学校の講義だけでなく、花巻「羅須地人協会」でも、モリスの名前を出し具体的に説明していたことは、伊藤与蔵さんの「賢治聞書」から明らかです。むしろ「綱要」全体が、モリスのアーツ&クラフツ運動に依拠した芸術論だったと思います。モリスの芸術論は、漱石の弟子だった芥川竜之介を含め、当時は多くの文学者、知識人が問題にしていて、たまたま室伏の『文明の没落』を賢治が利用したに過ぎないのではないかと思います。
 さらに、賢治が花巻「羅須地人協会」を設立した事情があります。花巻農学校の「田舎教師」を辞め、羅須地人協会という不可思議な名前の団体をスタートさせたについては、いろいろ事情があったが、上記の岩手国民高等学校との関連が重要です。これは花巻農学校に併設された社会教育施設で、当時デンマークの「国民高等学校」フォルケ・ホイスコーレを見習い、農村青年の社会教育を充実、その奮起を促そうというものだった。全国に様々な形で設立されましたが、とくに岩手の場合、上からの官製型の社会教育であり、カリキュラムも国家主義的な色彩の強いものだった。賢治は不満を募らせていたようですが、その岩手国民高等学校の併任講師として、農民芸術の講義を担当し「農民芸術概論綱要」を詩のスタイルで準備し、同じモリスの上記の言葉を引用し講義した。その際の「伊藤清一の受講ノート」が、上記「賢治・モリス問題」に他なりません。
 ここで詳しく触れませんが、その当時はデンマークの農民教育だけでなく、イギリス各地でも労働者教育が、近代的な義務教育による労働力確保の制度的枠組を超えて拡大し、企業や政府、自治体の経営する学校ではない、いわば「自由学校」としての「独立労働者教育」が盛んになっていた。宮沢賢治も、そうした動きに関心を寄せていて、モリスの師ともいえるラスキンが協力していたロンドンの「労働者学校」を話題にしていた。その関連でモリスの「ハマスミス社会主義協会」、これも政治運動の組織というより職人・技能労働者のための「新しい学校」でしたが、それに強い関心を示した。当時すでに日本でも「大阪労働学校」などが有名でしたが、セツルメントや生協活動とも結びついて自由学校が拡大していた。賢治が、そうした内外の流れを受け止めて、農芸学校として「ハマスミス社会主義協会」を捩った花巻「羅須地人協会」を設立して自立しようとしたのです。
 東京や大阪の都市型の労働学校と並んで、賢治の花巻「羅須地人協会」は農村型の農芸学校の特色をもっていた。農民運動との結びつきもあり、早稲田大学の建設者同盟の関連で、同じ東北の縁で水沢出身の伊藤七雄「大島農芸学校」、新庄の松田甚次郎「最上協働村塾」などとのネットワークが形成され、戦後の日本社会党の委員長となった浅沼稲次郎も盛岡や花巻を訪れている。青江舜二郎『宮沢賢治:修羅に生きる』(講談社「現代新書」)が明らかにしていますが、賢治の花巻「羅須地人協会」の活動は、当時の「労農派」の活動と結びついていた。賢治が労農派のシンパとして活動し、協会のメンバーにも労農党の党員がいたし、教え子たちもそれを承知の上で協力した。三・一五事件が起こり、治安維持法による官憲の弾圧が迫る中での活動であり、宮沢家はじめ周囲も賢治とともに自分たちの身を守らざるを得ない。東北農村の保守的な自己防衛意識が働き、戦後も宮沢家を中心に賢治の実像を曝け出さないようにする。そこから花巻「羅須地人協会」の真実が見えにくくなっています。
 しかし、賢治がモリスのアーツ&クラフツ運動を学び、労農派のシンパとして花巻「羅須地人協会」の活動を立ち上げた事実は明らかです。賢治の病気もあり、集会活動としての「羅須地人協会」は、2年半ほどの短期間で一時休止に追い込まれた。しかし、肥料設計や花壇設計の活動は続けられたし、とくに「最上協働村塾」の活動は持続した。教え子たちもまた、花巻「羅須地人協会」の集会の再開を期待したにもかかわらず、賢治は「雨ニモマケズ」の詩を残して他界した。しかし花巻「羅須地人協会」は、賢治の作品とともに「永久の未完成、これ完成」さながらに、今も賢治精神として生きているのです。モリスから賢治への点と点は、幸徳、堺、山川の線となり、日本の「土着社会主義」としての労農派の運動として継承されたと言えるでしょう。
 
[PR]
by morristokenji | 2014-10-04 20:40