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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

宮沢賢治と「産業組合」

 宮沢賢治の研究は沢山あります。とくに文学関係の作品については、おそらく日本の作家のなかでは、最も研究が進んでいる作家の一人でしょう。そして、文学作品のなかに出てくる人物や事象についても、いろいろな角度から研究が行われています。しかし、ここで取り上げる「産業組合」については、まだ十分に検討されていない、空白ともいえる部分ではないかと思われます。

 まず「産業組合」ですが、これは戦前の呼称であって、現在は使われていない。現在は、一般に「協同組合」と呼ばれる組織、団体のことで、戦前は農業団体を中心に、広く生活協同組合まで含む組織の名称だったようです。日本では1920年に、当初は信用事業が中心だったようですが、「産業組合法」が公布されました。それ以前は、頼母子講や無尽講、報徳社などの勤倹貯蓄の組織、また地域の販売・購買の組合などが自発的に誕生していた。それを品川弥二郎や平田東助などが、ドイツの協同組合を参考にして法制化したものだそうです。

 その時点では、信用事業を中心とする農村組合だったので、組合員も富裕な地主や農民が中心だった。しかし、1905年に中央会が創設され、さらに各県に分会が組織され、系統化が進んだ。こうした盛り上がりを背景に中央会が23年に「国際協同組合同盟」(ICA)に加入、また中央金庫法が公布、設立され、さらに全国購買組合連合会も設立されました。労働運動の盛り上がりと共に生協運動も活発化し、「日本一のマンモス生協」として有名な神戸の灘生協も、21年に賀川豊彦の指導のもと「神戸購買組合」「灘購買組合」として誕生しました。24年には利用事業の兼営も許可され「醸造工場」を設置し、味噌・醤油の製造・販売も開始しました。

 当時は、第一次大戦後の「大正デモクラシー」の時代、1917年のロシア革命で民主主義や社会主義の運動が高揚し、その中で日本では「産業組合」の名前で協同組合運動が始まっていました。しかし、間もなく戦後景気が終わり、23年には関東大震災があり、25年には治安維持法が成立、政府の労働運動、農民運動への弾圧も厳しくなります。27年には金融恐慌が起こり、さらに29年の世界大恐慌につながる時代でした。そうした中で、とくに東北農村は凶作の年がつづき、農民は疲弊のどん底に突き落とされ、娘の身売りなどが続出する惨状を呈していました。宮沢賢治は大正が昭和に代る1926年、花巻農学校を依願退職し、「本物の百姓」を目指して、地域の農民たちの「自由学校」である「羅須地人協会」を始めたのです。この辺の事情は、拙稿「宮沢賢治の<羅須地人協会>―賢治とモリスの館開館十周年を迎えて」に詳しく書きましたので省略します。

 では、宮沢賢治は当時の「産業組合」、つまり協同組合の運動に、どのように関心を寄せ、運動に関わっていたのか。賢治が花巻農学校を退職し、羅須地人協会を始める2年前、1924年に「産業組合青年会」という詩を書いています。ここで賢治が産業組合に関心を持ち、とくに若い組合員である青年会活動に期待を寄せていることがわかります。この青年会活動は、1930年代に入って、さらに活発になり、40年には「農村共同体建設同盟」に発展したといわれています。それだけに政府の弾圧も受けて解散させられますが、賢治は早くから青年会の活動に注目、それに期待を寄せていたのでしょう、彼は死の直前33年の9月の初めに、上記「産業組合青年会」を『北方詩人』に発表のため送っていたのです。
 
 それだけではない。死後1934年に雑誌『銀河』に発表された「ポラーノの広場」ですが、その初稿、最初の草稿「ポランの広場」もまた、産業組合の活動を題材にして、1924年に書かれているのです。さらに花巻農学校の生徒と一緒に、演劇「ポランの広場」の脚本を書き、それを上演しました。みずから「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「銀河ステーション」とともに、自伝的な「少年小説」としていた「ポラーノの広場」の初稿は、さらに1927年に羅須地人協会の活動の中で書かれ推敲され、それが賢治の死後ですが、上記の通り『銀河』に発表されたのです。羅須地人協会の活動も、砕石工場の技師としての仕事も、賢治にとっては産業組合、その青年部の地域活動と深く繋がっていたように思われます。

 こうした経緯をみると、賢治の羅須地人協会の活動の夢、そして彼の理想郷である「イーハトヴ」の夢は、じつは協同組合としての産業組合、とくに青年部の活動により「ポラーノの広場」に実現されると考えていた。青年部の若い農民たちが「立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と酢酸とオートミル」を製造する。それらを「モリーオの市やセンダードの市はもちろん広くどこへも出るようになりました」と賢治は『ポラーノの広場』の最後で述べて、『ポラーノの広場』の歌を皆で合唱し乾杯する。この点では、ウィリアム・モリスの代表作『ユートピアだより』の最後のシーンにも通底する。「世界で一番美しい村」といわれるロンドンからテムズ川の源流、コッツウオールズの教会で秋の収穫を祝う祭りです。モリスの共同体主義(コミュ二タリアニズム)の夢が、田園の小さな教会の賛美歌と共に歌われています。賢治の「ポラーノの広場」の合唱も賛美歌448番です。日蓮宗の南無妙法蓮華経が、なぜ賛美歌なのか?

 その点で紹介したいのは、賢治の盛岡高等農林のクラスメイトであり、寮友、親友だった高橋秀松の影響です。彼は敬虔なクリスチャンで、宮城県の名取出身、高等農林を卒業後、賢治は花巻農学校、秀松は茨城の農学校で教鞭をとった。その後、京大の経済学部の選科生として勉強し、安田系の金融機関で働きました。賢治とは生涯の友として、お互いに励まし、かつ刺激し合った。賢治も羅須地人協会を始めた時点で「自分の弱い農業経済について仙台の東北大で勉強したい」と漏らしたそうですが、親友・秀松からの影響もあった。二人は、当時の「産業組合」の活動に深い関心を寄せていたと思う。

 クリスチャンの秀松は戦後、故郷の名取に戻る。初代の名取市長でした。また、仙南地域の農協活動に熱心に取り組み、宮城県農業共済組合連合会理事長を務め、自ら「新しい農村建設に意を用いている」と書いています。賢治と秀松、二人の交友を辿り、さらに秀松の戦後の農協活動を調べることは、戦前の産業組合、そして戦後の協同組合運動を継承発展する意味からも、大変意義あることだし、大事なことだと思っています。

by morristokenji | 2015-12-02 17:53