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by morristokenji

宮沢賢治と高橋秀松:生誕120年の二人

 今年2016年は、岩手・花巻に生まれた宮沢賢治の生誕120年です。その1896年は、明治三陸大津波の年であり、賢治が若くして他界した1933年もまた、昭和三陸大津波の年だった。彼の生と死が、東北の厳しい自然災害の年だったことは、彼の人生と文学に自然への強い睦みあいの念を刻み込んだように思えてなりません。盛岡高等農林、花巻農学校、そして羅須地人協会へと、東北の農村と農業と農民の厳しい自然経済環境のなかで賢治は生きたのです。
 
 さて、ここで高橋秀松の名前を挙げても。殆んどの人が賢治との結びつきを知らないでしょう。賢治研究は盛んに行われてきたし、2011年の東日本大震災もあり、賢治への関心がさらに一層高まった。でも、賢治と秀松の二人の名前は結びつかない。しかし、高橋秀松もまた今年が生誕120年、賢治と秀松は同い年だった。二人は、盛岡高等農林で初めて出会い、同級、同寮、そして同窓の親友だったのです。

 簡単に高橋秀松の経歴を書きましょう。1896年に宮城県名取市に生まれました。生家は「亘理屋」という宿屋でした。仙台に隣接する港町・名取も、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた。広瀬川に繋がる名取川の河口、ゆりあげの小学校では、沢山の泥にまみれたランドセルを残したまま、生徒が津浪の犠牲になってしまった。仙台空港も津波にやられ、航空機の残骸が打ち上げられていた。
 1915年、秀松は宮城県立農学校を卒業、岩手県盛岡高等農林学校農学科に入学、ここで宮沢賢治と寄宿舎で同室で過ごした。1918年、盛岡高等農林卒業後、賢治は花巻に帰ったが、秀松は茨城県立農業教育養成所兼農学校教諭となる。さらに、1920年京都帝国大学経済学部選科入学、1923年卒業、その後、安田保善社勤務、1944年名取に帰郷し、名取郡増田町で初代の農業共済組合長(後に農業協同組合に改称)、1956年初代の名取町長、1958年名取市に昇格で初代の名取市長、1959~63年まで2代目の名取市長を務め、1975年に79歳で死去されました。

 賢治と秀松の接点は、1915年から1918年までの盛岡高等農林の3年間、決して長くはありません。しかし、誰でも経験するでしょうが、旧制高校とか大学の時代に、生涯の友となる交友が生まれます。学生生活は、そうした真の友人を得るためのものと言えるかもしれない。しかも、二人は寄宿舎で同じ部屋で起居を共にしたし、賢治は盛岡中学に在学していましたから、名取から出てきた秀松を連れて、毎日のように盛岡市内を案内した。市内にある教会を訪れ、秀松は信仰を深めながら、クリスチャンになったようです。賢治の作品には、宗教の影響が強く流れていますが、特にキリスト教や賛美歌が出てくるのは、秀松との盛岡生活によるものと思われます。
  秀松が賢治について書いたものは、沢山ありません。『宮沢賢治全集』(筑摩書房)の月報9(1956年)に「寄宿舎での賢治」という小品がありますが、「賢治と私は南寮の第一号室で室長は三年生の渡辺五六先輩で室員は各科二名宛で計六名、室長と私の机は向合い賢治の机は私の右斜め、一つの電灯を中心に囲んで配されてあった。寝につくときも位置がきまっていて私と賢治は布団を接していた。親しくなるのは当然であるが、賢治は学生時代は殆んど友達をつくろうとしなかった。」そんな中で、二人の交友は深まっていたのです。キリスト教との関係で、秀松だけには心を開いて打ち解けた賢治からの書簡があります。
 <「これは又愕ろいた牧師の命令で。」
 如何にも君の云ふ通り私の霊はたしかに遥々宮城県の小さな教会までも旅行して行ける位この暗い店さき にふらふらとして居りまする。忘れて居りましたが先日停車場迄何とも有りがたう。
  「優しき兄弟に幸あらむことをアーメン」>
 賢治は天才だと思う。天才に特有なシュールなところが、奇人、変人と見られるし、友人も多くはなかったのだろう。しかし、そんな「賢治とわれとは全く兄弟同様の交友をつづけた。そして賢治はその妹敏子さんが目白の女子大から一週間に必ず一度の消息をよこすと私の前で開き読み合う。ここに三人の兄弟が出来上がった。」と秀松は書いています。そのうえで、「せめて学生時代の資料を纏めようと企て」ていたし、「私にもそれらのことをもう少しハッキリする義務が在ると思うが、まだまだ手が届かないで、今は専ら新らしい農村の建設に意を用いている。」秀松としては、賢治との交友を引き継ぎながら、仙南の農業協同組合運動や名取の町づくりに専念しようとしていたのです。
by morristokenji | 2016-07-06 18:27