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by morristokenji

アベノミクスと『資本論』④:貨幣から資本へ―ここがロドスだ、飛んでみろべろ!

 アベノミクスの第一の矢、第二の矢が「成長戦略」の第三の矢に繋がらない。第三の矢は行方が知れず、もともと無かった?そんな批判もあります。金融や財政のマネタリーな面が、投資や消費の有効需要に結びつかない、そして実体経済の成長に結びつかず、デフレ脱却の道を足踏みし続けている。挙句の果てに、ついに「一億総活躍プラン」なる国家総動員体制に向けて「ヘリコプター・マネー」をばら撒く、金融の異次元緩和から「ばら撒き財政」へ舵を切っているようです。背後の舞台裏からは、集団的自衛権の「安保法制」による戦争への足音も聞こえてきます。

 『資本論』の貨幣の章では、生産と消費を繋ぐ流通、そこでの貨幣の機能を説明しました。資本主義経済は、商品と貨幣のモノとモノの価値関係が、価値形態を通して貨幣の機能、そして商品流通が生産と消費の「経済循環」を媒介する。言い換えると、商品・貨幣が「資本」に形態転化して、生産と消費による人間と自然の物質代謝を媒介するのです。この生産と消費の繋ぎ目である「資本」を説くために、マルクスは敢えて『資本』論のタイトルで『経済学批判』ではなく、別個に『資本論』を書いたのです。『資本論』の誕生に他なりません。
 しかし、マルクスが新たに『資本論』を出版したのを見て、マルクスの母親は「『資本論』など書いていないで、資本で儲けることでも考えたらいいのに」と、嫁であるマルクス夫人に手紙を書き、息子の貧乏生活を詫びたそうです。母親からの痛烈な皮肉ですが、この商品、貨幣から「資本」への転化こそ、『資本論』の真髄とも言える解明です。資本よって、その再生産によって、生産と消費の経済循環による社会的物質代謝が行われ、経済の原則が充たされ資本主義経済が近代社会として成立する。その経済的運動法則にはどんな矛盾が潜んでいるのか?アベノミクスのアキレス腱を探りましょう。

 『資本論」では、貨幣の章を『世界貨幣」で締めくくったからでしょうが、「貨幣の資本への転化」の説明に当たって、マルクスはまず、歴史的に16世紀に遡り、世界商業と世界市場による「資本の近代的生活史」を提示します。そして、そこでの貨幣財産を「資本の最初の現象形態」として、前期的な「商人資本と高利資本」を持ち出し、商品流通のW-G-Wに対し、G-W-Gの形式を対置し、「資本の一般的形式」としています。そして、G-W-Gの形式では、W-G-Wと違って、GのG'への価値増殖の運動体G-W-G'でなければならず、循環的運動を繰り返す「無限の価値増殖」を求める。資本の致富衝動に他なりません。ここから資本は「蓄積せよ!蓄積せよ!」の成長神話も生まれます。
 しかし、このように歴史的な商人資本や前期的な金貸高利資本を持ち出すと、『資本論』において、マルクスが折角、近代社会の経済的運動法則として「純粋な資本主義」を抽象した方法を否定することにならないか?そして、いわゆる「世界資本主義論」の方法、つまり世界市場の歴史的な拡大・発展への経済的運動法則の解消になってしまい、『経済学批判』以前の唯物史観の「歴史と論理の統一」のドグマに回帰することにならないか?その結果として、「資本の一般的形式」から産業資本を論理的に説明できなくなる。ここでは、前期的商人資本や金貸し本を持ち出すことなく、純粋資本主義から抽象された商品と貨幣、そして「貨幣としての貨幣」の機能から、論理的に「資本の一般的形式」を展開してみたいと思います。

 『資本論』では、冒頭の商品論から労働生産物を富として、等労働量交換を等価交換として、労働価値説を論証していました。そして、社会的労働を「内在的価値尺度」として、商品の価値が尺度され、貨幣の価値尺度も等価交換の実現だった。しかし、価値形態論を前提にして、価値の価格としての表現は一方的表現だし、、価格は価値を質的にも、量的にも、乖離せざるを得ない。貨幣の価値尺度は、貨幣の購買による「外在的尺度」でしかないし、それゆえに商品は、貨幣により繰り返し購買されるなかで、価格の基準も形成されるし、いわゆる一物一価の法則として実現されるのです。さらに、貨幣による商品の購買機能は、流通手段の機能、貨幣としての貨幣の機能、さらに資本の運動として、より具体化するのです。
 ところが労働価値説が前提され、そして等労働交換の「内在的価値尺度」の貨幣の機能が前提されてしまえば、価格の価値からの乖離は必然化しなくなる。等価交換のドグマは、G-W-G'の成立を否定排除し、G-W-Gの形式しか導くことが出来ない。そこで「世界貨幣」まで展開してきた『資本論』では、上記のように16世紀の世界市場まで歴史的に遡り、地中海やヨーロッパの地域市場、中東やアジアなどの複数の地域市場を持ち出して、そこで市場圏ごとに価格基準など価格体系が異なるのを前提する。そして、市場圏が拡大する過程で、G-W-G'が成立するとしたのです。地中海市場のカルタゴでWを安く買って、ヨーロッパ市場のロンドンで高く売る。それでGをG'にして、価値の増殖を図る「資本の一般形式」としたのです。このG-W-G'と等労働交換としての等価交換とは矛盾する。その矛盾を説く形で「貨幣から資本への転化」をマルクスは説明しました。
 
 『資本論』では、「資本の一般形式」の矛盾として、等労働交換と「一般形式」の矛盾を説明しています。しかし、それは内的な矛盾でも何でもない。等価交換を前提し、例えばWを80円で買い、それを100円で売れば、20円儲かる。しかし80円で売った方は20円の損、「一方の剰余価値として現れるものは、他方では不足価値」にすぎず、これでは等価交換と不等価交換の両者の違いを説明しているだけではないか?ところが、価値形態を前提に、価格の実現としての貨幣の価値尺度機能は、価格の価値からの量的乖離を必然としていた。つまり、Wの価格差が前提されている。その価格差を利用する形で、Wの安い場所と時期に購買G-Wし、高い場所と時期に販売W-G'すれば、「資本の一般形式」は成立する。『資本論』では、前期的な金貸し資本の役割は、ほとんど説明が出てきませんが、「貨幣としての貨幣」の支払い手段の機能は、債権・債務の貸付・返済の関係から、「資本の資本」としての資本の金融的機能が、G-W-G'の商業的機能を積極的に媒介します。
 しかも、金融的機能に媒介され、商業的な商品の購買が積極的に繰り返され、価格差の解消に拍車がかかる。したがって、「一物一価」として価格の基準が形成されるのは、貨幣の諸機能とともに、それと結びついた商業や金融の資本の価格差利用に含まれた貨幣機能によるのです。さらに、ここで資本がWを安く購買し、それを高く販売する行為は、安く需要し、高く供給する行為に他ならない。一方で、安い商品Wへの需要は活発化し、価格を高める。同時に、高い価格でのWの供給は、供給の増加・拡大とともに価格を低下させる。結果的に、価格差の解消であり、それこそ「資本の一般形式」の内的矛盾の展開に他ならないでしょう。資本の価値増殖は、「流通部面で行われなければならないし、流通部面で行われてはならない。」そこでマルクスは「ここがロドスだ、飛んでみろ!」として、「労働力の売買」に進むのです。

 労働力は、人間と自然の物質代謝にとって、基本的な生産要素です。生産の主体であり、生産対象の土地自然とともに、近代社会の資本主義経済では、労働力と土地が商品の形態をとり、すべての富が商品として、形態規定を与えられているのです。単なる労働の生産物ではない労働力が、土地・自然とともに商品となり、価値形態を与えられ労働市場や不動産市場に登場している。それが『資本論』の対象となっている近代社会の資本主義経済です。土地と労働力が商品となり、資本による富の生産と消費が全面化し、自律的に運動する純粋資本主義の世界、それが『資本論』の世界です。マルクスは、労働力の商品化について、労働者が①身分的な自由、②土地を含む生産手段から切り離された自由、「二重の自由」が与えられる歴史的条件を挙げています。この条件は、労働力が商品化されるために必要な「助産婦」としての国家の役割、いわゆる「資本の原始的蓄積」が歴史的には必要だった。
 しかし『資本論』は、イデオロギー的仮設に過ぎない唯物史観として、ここで「原蓄国家」の役割を説く方法をとらなかった。マルクスは、『経済学批判』を『資本論』に書き換える中で、プランを変更して「原蓄国家」の助産婦的役割を、資本蓄積論の「付論」として、第一巻の最後の第二四章に置いたのです。ですから「貨幣の資本への転化」の章では、歴史的に「原蓄国家」を持ち出すことなく、資本が労働市場で労働力を商品として購入=雇用して、いかに流通面から生産面への「命がけの飛躍」を説くのです。では、労働市場から労働力を商品として購入した資本は、いかにして生産を支配し、価値増殖を進めるのか?マルクスは、ここで労働力商品の特殊性について述べています。

 労働力商品は、人間の労働能力であり、単なるモノではない。そこに労働力の特殊性があるのですが、しかし例えばポラン二ーのように「擬制的商品」であるとか、「本来商品たるものではない」(宇野『資本論入門』)というのは適切ではないと思う。むしろ、労働力が商品化している点にこそ、資本主義経済の価値関係の根本が指摘できるし、価値形態の根拠もあるのではないか?労働力商品の特殊性は、人間の主体的能力が商品形態のために疎外され、物化して資本に運動の主体が奪われる点にある。しかし、資本は購入した労働力商品を、他の生産要素、例えば原料や機械のように不用なら商品として他に転売できない。奴隷とは異なり、資本は労働力を自ら管理して使うほかない。つまり労働力の使用価値を消費するほかない。消費する点では、価値関係が切断されることになるが、労働者にとっては労働することで、人間労働は必要労働だけでなく、剰余労働も可能であり、資本は剰余労働を剰余価値として、資本の価値増殖に利用するのです。
 『資本論』では、労働力の特殊性を、もっぱら等価交換を前提し、剰余労働の搾取と資本の価値増殖の根拠にしています。労働力の使用価値が、生産過程の労働であり、剰余労働が剰余価値として阿智増殖をもたらす点は重要です。しかし、ここでも等価交換の前提が強調されると、労働力が①人間の主体的な能力である点、②モノや家畜同様に処理される奴隷との差異、③他に転売できず生産過程で労働させる以外にない、こういった労働力商品の特殊性が看過されることになる。その結果、労働力商品の特殊性から生起する資本の再生産過程での矛盾、とくに資本過剰による恐慌の必然性の解明への道が曖昧になる点などを指摘しておきましょう。労働力商品の特殊性の科学的解明こそ、単位剰余労働の搾取だけでなく、人間の物化による疎外論の基礎として、資本主義経済の基本矛盾であることが重要です。
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by morristokenji | 2016-07-18 12:06