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by morristokenji

トランプ革命はどこへ行くー原子力大国の没落

 米トランプ政権の誕生は、敗戦直後の日本を思い出させるような価値観の混乱を引き起こしているようです。神国日本の勝利を信じていた国民大衆は、敵国のアメリカから占領政策として押し付けられた「自由と民主主義」の理念と価値観を受け入れられないどころか、先ず民主主義が理解できない。小中学校の教師が、我々生徒に向かって「先生も民主主義が解らないから、皆で一緒に学びましょう」昨日までの軍国主義者の苦衷を、弱々しく訴えていたのを思い出します。教室から生まれる「手作り民主主義」の誕生でした。
 この「自由と民主主義」の価値観により、戦後日本は国民的統合が維持され、また外交など対外関係も進められてきた。また、「自由と民主主義」を党名に掲げた自民党の政権支配も続いてきた。そうした価値観に真っ向から対立するようなトランプ大統領が出現し、暴言・放言が連発される。大統領就任と同時に、いち早く自由貿易を象徴するTPPからの離脱、さらにその前提となるNAFTAの見直しを始める。そればかりか、合衆国として「民族のルツボ」の移民国家であるにもかかわらず、イスラム圏7カ国からの入国制限を強行し、内外の亀裂が拡大して民主主義の危機を招いています。
 トランプ革命は、「自由と民主主義」を踏みにじり、アメリカや世界をどこにに持って行こうとしているのか?戦後70年、いま日本人の多くは、再び敗戦時に似た価値観の喪失と将来への不安に陥っているのです。トランプ革命の行方を考えてみたいと思います。
 
 敗戦で先勝国アメリカから降ってきたような「自由と民主主義」も、今日まで多くの紆余曲折を経てきました。当初は、占領軍による敗戦国の統治のための「自由と民主主義」だった。占領政策の名のもとに、教科書から神国日本の説明や戦闘機の日の丸の写真に墨を塗って、それらを消去する作業から開始されました。占領軍の権力的な強制であり命令だった。また、戦後の民主化政策として農地改革、財閥解体とともに容認された労働組合のストライキ権も、マッカーサーの命令で1947年2月1日のゼネストは圧殺されてしまいました。占領軍の政策のための「自由と民主主義」に過ぎないことを、我々は身をもって学んだのです。
 この占領政策が終わらない中に、1950年6月25日、朝鮮動乱が勃発した。同じ戦勝国であり連合国として占領に責任を持っていた米ソが対立し、共産党政権が誕生したばかりの中国も参戦した。東西冷戦時代の開幕です。占領下の「自由と民主主義」は、アメリカを中心とする西側陣営を組織的に統合するイデオロギーに代わったのです。東の世界は、戦勝国そして連合軍を構成していたソ連を中心に、プロレタリア独裁による中央集権的な指令型計画経済の組織体制でした。東西二つの世界が、ベルリンの壁を挟んで真っ向から対立し、異なる価値観によりそれぞれ組織的に統合され、軍事的にも睨み合う。この冷戦状態が1991年のソ連崩壊まで、約半世紀の長期にわたり持続した、まさに異常な時代だったのです。

 この異常な時代の幕開けの時点で、冷戦体制の構築を加速させるためのサンフランシスコ講和条約が、日米安保条約とともに締結されました。1951年9月8日、朝鮮戦争がまだ停戦をみない時点での講和であり、占領状態の異常な終結だった。当時、単独講和か全面講和か、日本では国論を二分する激しい対立が起こり、大学はゼネストで単独講和に反対しました。単独講和論、それは連合国による占領を終わらせ、早期に米国を中心に西側陣営の構築を図る、そのためには東のソ連、中国に対する最前線基地の防塁として日本列島を利用し、日米安保条約の締結を急ぐための講和条約だった。それに反対する全面講和論は、朝鮮戦争は無論のこと、冷戦構造にも反対して、中ソとも講和条約を結び、領土問題や賠償問題も全面解決して、第2次大戦の戦後処理の完全解決を図る主張でした。
 世論の動向もあって、全面講和論は敗れ、単独講和と日米安保条約が成立、日本はアメリカを頂点とした西側陣営の「自由と民主主義」の陣営に組み込まれました。しかし、同時に単独講和だったために、中国は会議に招待もされず、ソ連は講和条約に反対し、朝鮮半島は戦闘状態、そのため単独講和は「片面講和」だった。そのためにソ連の北方領土をはじめとする竹島、尖閣、沖縄などの領土問題を、今日まで未解決なまま残すことになってしまった。その点で領土問題は、サンフランシスコ条約と日米安保条約の後遺症であり、負の遺産として今後も残り続けることになります。

 東西冷戦体制の中で、日本は「自由と民主主義」の価値観で西側陣営の一員になりますが、この「自由と民主主義」も、あくまで冷戦体制のもとでの価値観に過ぎない点が重要です。そこで冷戦体制ですが、世界大戦の戦争状態、つまり「熱戦」ではない。しかし、東西の両陣営が軍備を拡張し、不断の軍拡競争を展開する体制です。そもそも冷戦が、アジアでは朝鮮戦争の勃発で始まり、その中でサンフランシスコの単独・片面講和条約が結ばれて出発した。だから冷戦の下で朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争など、世界大戦のような全面戦争は回避されたものの、局地戦争、部分戦争が世界各地で次々に勃発したのです。だから「自由と民主主義」もまた、単なる市場の自由な競争だけでなく、局地戦争、部分戦争とセットだし、抱き合わせだった。
 したがってまた、冷戦体制は安保体制の構築と維持が不可欠だったし、冷戦体制下で米・ソの核開発競争が展開されました。第2次大戦の終結が、広島・長崎での原爆投下によるものであった以上、戦後の冷戦体制の下での安全保障もまた、核の抑止力によらざるを得ない。東西冷戦は、米ソの核の傘のもとに、二つの陣営が組み込まれて対立する構造だったわけです。実際、冷戦は米ソによる核開発、核拡大の競争であり、両陣営の対立だった。もちろん原子力開発は、第二次大戦中の軍事利用、米の「マンハッタン計画」として進められ、1945年7月に原爆実験が成功した。それを利用して8月に広島、次いで長崎に原爆が投下され、日本の無条件降伏により第二次大戦は終結した。しかし、核開発は終わらないのです。

 戦後の冷戦体制は、戦時下の軍事主導による核開発によって構築されたといってもいい。アメリカは、原子力開発の歴史をスタートさせた国であり、冷戦下の核開発競争をリードしてきました。上記の原爆製造に成功の後、軍事利用の目的で核燃料製造のための巨大施設が建設され、さらに巨大科学の研究開発システム、さらにまた多数の民間企業の参加・協力体制も構築されたのです。文字通りの「産軍複合体制」です。しかも、ヨーロッパではベルリンの壁、北東アジアでは朝鮮戦争による38度線で東西二つの世界に分断された。ソ連もまた、間もなく第1回の原爆実験に成功し、米ソ、東西の核開発競争が始まります。米トルーマン大統領の水爆実験(1952‐3年)が行われ、米ソの核軍事力の拡大競争はエスカレートし、53年にソ連の水爆実験も成功しました。この時点で、米ソ双方で約4万発の核爆弾を蓄え、飽和状態に達した、とも言われています。
 1953年、アメリカ大統領アイゼンハワーが、国連で有名な「Atoms for Peace」原子力平和利用を提案しました。すると翌54年には、ソ連がモスクワ郊外の原子力発電所で5MWの発電を行うなど、熱戦のための原子爆弾の製造から、冷戦のための平和利用で原子力発電が開始されます。しかし、米ソの核開発競争は、産軍複合体制の下で平和利用の名のもとに、原爆から原発の開発競争に拡大を見ることになったのです。その点で、冷戦体制の下で、熱戦の原爆と平和利用の原発は、まさに表裏一体であり、核軍拡と結びついて原発の開発競争が始まった事実を忘れてはならないでしょう。とくにソ連は、ちょうど100年前のロシア革命以来、いわゆる「国家社会主義」の集権型計画経済として、国家独占型の電力事業により社会主義を建設し、工業化を推進してきた。
 
 すでに指摘しましたが、レーニンは1920年12月、第8回全ロシア・ソヴィエト大会の報告で「国内の敵は、小経営のうちに保存されており、これを覆すためには一つの手段がある――それは、農業をも含めて国の経済を、新しい土台に移すことである。そのような土台とは、ただ電力だけである。<共産主義とは、ソヴィエト権力プラス全国の電化である。>」と演説しました。プロレタリア独裁の下で国家独占により電力の全国的ネットワークで工業化を図る、これがレーニンの「国家社会主義」のテーゼです。とすれば、冷戦体制の下で熱戦の原爆開発とセット抱き合わせで、中央集権型指令経済として原発を推進することは、まさにソ連型社会主義の建設であり、発展だった。米ソの核開発競争は、原発の拡大発展により、ますます加速され、増幅されてエスカレートすることになったのです。
 冷戦下の核開発競争は、原子力の平和利用の原発開発の段階を迎え、ソ連型である「黒鉛減速沸騰冷却型」原子炉の開発に進む。その原子炉こそ、1986年4月レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故を引き起こし、91年にはソ連そのものが崩壊、冷戦体制は終結を迎えました。ソ連崩壊に対して、アメリカの原子力産業はどうだったのか?原子力平和利用が提起され、原子力法の改正など濃縮ウラン燃料が民間企業に貸与される方式で、動力炉の開発が進められました。その結果、アメリカでは巨大電機メーカーの手に、発電炉の開発技術が蓄積されます。しかし、1960年代には、中東の低廉な石油の利用による石油火力発電が台頭し、原発は実用化の準備段階だった。それが70年代、2度に及ぶ石油ショックにより、原子力発電ブームがやってきます。アメリカの原子力産業の圧倒的優位の下に、原子力産業が世界的に拡散しました。日本でも、東京電力による福島第一、第二原子力発電所の建設が進み、東北の「原発銀座」と呼ばれたのです。

 こうしたアメリカの巨大原子力産業の拡大発展は、上記のソ連の原発開発に刺激され、核拡大競争として推進されます。ソ連のレーニン主義、プロレタリア独裁に対抗するためにも、西側陣営は「自由と民主主義」の価値観でコントロールして組織化を図る。ソ連の核軍拡と安全性への脅威に対して、一方では核拡散の防止に努め、他方では原発の安全神話のキャンペーンの総動員体制が構築されたのです。その意味では、「自由と民主主義」の理念は、あくまでも冷戦体制の下で、ソ連の核の脅威に対抗するための価値観だったと言えるでしょう。そして、ソ連が上記の通り、チェリノブイリ原子力発電所の爆発事故により、体制の根底にあった「全国の電化」の理念が喪失し、その結果として体制の崩壊を迎えたとすれば、西側の『自由と民主主義」も対抗する根拠を失うことになってくる。
 しかし、ソ連崩壊による冷戦体制の終焉の前に、アメリカの原子力産業国家の内部から亀裂が表面化しました。言うまでもなく1979年のスリー・マイル島の原子力発電所の第2号炉の事故です。すでにこの時点で、安全設計や設備の不備、また運転員の誤操作などの問題が大きく提起されていました。実際、スリー・マイル島の事故の後、アメリカ国内では新たな原子力発電所の建設がストップした。そうしたアメリカ国内の矛盾の上に、86年のソ連のチェルノブイリの事故が発生し、とくに事故による放射能の汚染が西方のヨーロッパ各地に拡散したことは、原子力発電計画に大きな打撃を与えました。にもかかわらず日本を含めアジア諸国では、いぜんとして原発導入に積極的な国が多い点が指摘されてきました。それに終止符を打つような巨大津波を伴う2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の発生だったのです。

 

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by morristokenji | 2017-02-02 18:30