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by morristokenji

④貨幣の資本への転化

『資本論』第2章の「貨幣または商品流通」では、「貨幣論」と言っても、貨幣の機能だけが論じられ、信用論や金融論との関連は立ち入ってはいません。しかも、貨幣の価値尺度の機能は、その購買手段としては、流通手段の機能と結びついている。流通手段は、とくに通貨の流通量の調節のために、さらに貯蓄手段である「貨幣蓄蔵」が必要であり、さらに手形流通との関連で支払手段を説くことになっている。最後が「世界貨幣」ですが、ここで「世界市場」が登場し、世界市場の価格差を利用して、「貨幣の資本への転化」を説く解説も可能かと思われます。
 流通市場には、確かに国内市場と世界市場の区別があり、商品の価格差としては、複数の国内市場にまたがる世界市場の価格差が大きい。その価格差を利用して商社などが巨利を獲得している。市場がグローバル化し、資本の商業的活動は、世界市場の価格差に根差している現実が判り易いと思います。しかし、『資本論』の純粋資本主義の世界では、流通市場も一般的に説かれるのであり、世界市場も国内市場も区別されない「市場一般」が、抽象されて理論化されなければならない。事実、世界市場だけでなく、国内市場でも価格差は不断に生じているし、資本はそれを利用して利殖を続けているのです。資本は、世界市場、国内市場を問わず、不断に形成される「無規律性の盲目的に作用する平均法則」が実現される場として、市場経済の価格差を利用し商業的活動が展開されるのです。生産過程を基礎とする産業資本についても、資本としては内部に生産過程を包摂しながら、G-W--P--W'-G'として形態的にはG-W-G'の形式で自己増殖しています。

 『資本論』第2篇「貨幣の資本への転化」でマルクスは、資本の一般的形式をG-W-G'としています。商品から出発し、関係概念としての商品価値を価値形態とする。貨幣形態から貨幣の諸機能を展開したマルクスは、商品・貨幣の流通形態として資本も流通形態としてG-W-G'を、「資本の一般的形式」としたのです。具体的には、商品・貨幣の流通市場に絶えず生ずる価格差を利用し、GをG'に価値増殖する運動体としての資本です。ここでマルクスは、労働手段など物的な資材(Stock)を「資本」としてきたスミスなど古典派経済学の資本概念を根本的に批判して、関係概念としての資本の新たな定式化に成功したのです。資本も商品、貨幣とともに、関係概念として資本家と労働者などの階級関係も解明されることになります。マルクスにとって資本概念こそ、資本主義経済の根底をなすものだし、だから『経済学批判』の続編ではなく、本のタイトルを新たに『資本論』と銘打って、自説を世に問うことにしたのでしょう。
 しかしマルクスは、ここでも冒頭の商品論をスミスと同じ労働生産物として、労働価値説を説いてきた。貨幣の価値尺度でも、労働実体による内在的尺度を前提とする貨幣機能だった。そのため流通市場における価格差、いわゆる物価変動が、「無規律性の盲目的に作用する平均法則」として、価格の基準を形成する価値尺度の意義を十分に明確にできなかった。また流通市場における貨幣の諸機能を前提としながら、流通形態としての資本の運動が、商品の価格差を利用しながら、貨幣の諸機能とともに、具体的には「価値尺度」としての購買手段の機能が「一物一価の法則」を実現する。こうした価値法則が実現されるメカニズムの解明も不明確なまま、資本の労働者の剰余労働の搾取による階級支配が強調されるだけに終わってしまっている。以下、その点を検討しましょう。

 「貨幣の資本への転化」では、マルクスは第一節で「資本の一般的形式」を説き、単純な商品流通W-G-Wと対比しながら、資本の価値増殖のためには商品Wの価格差を利用し、G-Wで安く購入し、W-G'で高く販売しなければならない。自己増殖する価値の運動体としての資本の説明です。ところがマルクスは、労働価値説の前提をここでも持ち出し、第二節「一般的形式の矛盾」では、労働価値説にもとづく等価交換からは「こういうことは分かった、すなわち、剰余価値は流通からは発生しえない、したがって、その形成には、何か流通そのものの中で見えないあることが、その背後に行われているに相違ないということである」として、こう述べる。「資本は流通からは発生しえない。そして同時に流通から発生しえないというわけでもない。資本は同時に、流通の中で発生せざるをえないが、その中で発生すべきものでもない」として、有名な「Hic Rhodus,hic salta!(ここがロドスだ、さあ飛べ)」として、第三節「労働力の買いと売り」に飛躍してしまうのです。
 しかし、こうした説明では、そもそも何のために「資本の一般的形式」G-W-G'を説いたのか?初めから労働力商品の売買を説明し、産業資本形式を説いてもよいのではないか?資本の一般的形式G-W-G'を持ち出しても、それを等価交換の法則で否定するために持ち出しただけではないか?そのため資本の一般的形式は、「前大洪水時代の姿である商業資本や高利貸資本」の存在に結び付けたり、先に述べた「世界貨幣」から世界市場の価格差を説明することになって、理論的な「貨幣の資本への転化」の説明にはならないのではないか?いずれにしても『資本論』の説明では、理論的説明にはならず、そのために歴史的な単純商品社会の想定や世界資本主義論の歴史観などを産むことになってしまうように思われます。そして、その原因は『資本論』冒頭からの労働価値説による等価交換の法則のドグマにあるように思われるのです。

 流通市場には、時間的にも空間的にも、不断の価格差が存在する。その価格差を流通形態としての資本は、上記のようにWを安く購入G-Wし、それを高く販売W-G'して、GをGに'価値増殖する。この場合、とくに注意しなければならないのは、安く購入するG-Wは、それが活発に行われれば行われるほど、価格を上昇させ需要を減退させる。逆に、高く販売するW-G'は、供給の増大により価格を引き下げる傾向をもつ。つまり、価格差があればあるほど、資本の運動は活発になるが、結果的には価格が上昇して需要が低下し、逆に供給は増大して価格が引き下げられる。つまり、価格差を消滅させるのが、自ら需要し供給する資本の運動に他ならない。まさに「一般的形式の矛盾」ではないか?流通形態としての資本の一般形式G-W-G'は、価値増殖の運動体として需要と供給を統合しながら、安い価格を引き上げ、高い価格を引き下げる。結果的に需要と供給を統合しながら、価格差を解消し「一物一価の法則」を実現するのです。
 貨幣論では、もっぱら貨幣の機能によりG-Wの需要、購買力の裏付けのある有効需要のサイドから、価格差を解消する機能を説明してきた。それに対し、資本の一般的形式では、商業的機能G-W-G'に加えて、さらに金融的機能G➛G-W-G"➛G'により機能が補足される。その上で需要サイドだけでなく、供給W-G'の供給サイドからも価格差を解消する。すでに資本主義経済の商品形態は、労働生産物や資本の生産物だけではない。商品経済的富の根源である労働力や土地・自然エネルギーも価値形態を与えられて商品です。資本は供給サイドから、第三節「労働力の売買」を通じて、生産過程Pを通してW-G'を進める。資本の産業資本形式G-W---P---W'-G'の登場ですが、ここで初めて価値関係が生産過程の労働=価値実体と具体的に結びつくことになる。価値法則が「一物一価の法則」として、労働価値説の論証が可能になるのです。

 ここでは、『資本論』の「労働力の売買」の説明で、ほぼ十分だと思われます。産業資本はG-Wで労働力商品Aを購入し、労働者を雇用する。資本の購入した労働力商品の使用価値は労働であり、生産過程の労働は、人間労働として経済原則からも必要労働だけでなく、剰余労働を行う能力を持ち、したがって剰余価値を生産する。人間は「道具をつくる動物」として、必要労働+剰余労働を行う。しかも資本主義経済の労働力は、単純な労働力として「何でも生産」し供給できる。資本は有効需要のサイドだけでなく、産業資本として供給サイドからも全面的に供給を調節して、需要と供給の統合を図り、結果的に価格基準を「一物一価の法則」として実現する。しかも、それは必要労働+剰余労働として、労働の関係に基づき価格基準が形成される以上、たんなる購買手段としての外在的尺度にとどまらず、貨幣の価値尺度機能もまた、内在的に尺度されることになるのです。
 ただ、ここで問題になるのは、『資本論』のように冒頭から労働生産物を商品として、労働価値説を論証してきた。さらにマルクスの労働価値説の論証を批判して、「資本の生産物」に商品を限定した宇野理論にしても、ここで「ロドス島」に飛躍して労働力商品Aを外部から導入しなければならなくなってしまう。歴史的には労働力は、人間の能力であり、土地・自然エネルギーとともに、いわゆる「資本の本源的蓄積」により、中世封建主義の制度的崩壊により初めて商品化した。しかし、ここ『資本論』は純粋資本主義の世界であり、「歴史的・論理的」に世界市場の発展とエンクロージャー・ムーブメント(土地囲い込み運動)など、資本主義生成の歴史的過程を持ち出すわけにはいかない筈です。そのためにマルクスは、上述のように「資本の一般的形式」G-W-G'の矛盾をいきなり設定し、しかも「ロドス島」に命がけの飛躍を試みて、労働力商品を導入したのです。しかし、後に改めて取り上げますが、『資本論』では第7篇「資本の蓄積過程」第24章「いわゆる本源的蓄積」を説き、「貨幣の資本への転化」論を補足する。さらに「資本蓄積の歴史的傾向」として、単純商品生産史観ともいうべき「所有法則の転変」の歴史観を述べているのです。「ロドス島」での命がけの飛躍の代償は大きいのです。

 「論点」世界資本主義論の「虚妄」
 貨幣論の最後を、「貴金属」としての金ではなく、「世界貨幣」にしたこともあるでしょうが、「貨幣の資本への転化」を歴史的に世界市場の前期的な商人資本の運動に求める見解が有力です。マルクスは、『資本論』では流通形態としての商品、貨幣に続いて、資本も「一般的形式」を流通形式G-W-G'としていました。しかし、純粋資本主義の対象で流通形式を具体的に展開できずに、労働価値説に還元して「命がけの飛躍」に身を投げてしまいました。
 『資本論』の労働価値説の論証に疑問を提起した宇野理論ですが、ここ「貨幣の資本への転化」論では、商品、貨幣を流通形態として価値形態論を重視する立場から、『資本論』の資本の「一般的形式」を高く評価します。にもかかわらず、ここでは純粋資本主義の抽象を否定するかのように、前期的な商人資本を突然持ち出し、「G-W-G'の形式は、具体的には資本主義に先だつ諸社会においても、商品経済の展開と共に、あるいはむしろその展開を促進するものとして現れる商人の資本に見られるのであるが、それは商品を安く買って高く売るということにその価値増殖の根拠を有するものである。多くの場合、場所的な、あるいは時間的な価格の相違を利用するか、あるいはまた相手の窮状乃至無知を悪用するか、いずれにしろかかる条件を前提とする商人の資本家的活動によるものであって、資本自身がその価値を増殖するものとはいえない。」(『経済原論』40-41頁)
 ここでは、「具体的には」と限定していますが、前期的な商人資本によって資本の「一般的形式」を説明しています。しかも、一方で「場所的な、あるいは時間的な価格の相違」を利用し「安く買って高く売る」ことに価値増殖の根拠を求める点を認める。しかし他方、それは「相手に窮状乃至無知を悪用するか、いずれにしろかかる条件を前提とする商人の資本家的活動によるものであって、資本自身がその価値を増殖するものとはいえない」として、さらに「資本に対する資本」としてのG---G'前期的な高利貸資本を持ち出し、「かかる形式をとる限り資本は、その価値増殖の基礎をなす相手を、いいかえれば自己の前提を自ら破壊することになる」と主張し、マルクスとは違った意味でしょうが、ここで「資本の生産物ではない」労働力商品を前提とする産業資本形式に「命がけの飛躍」をします。『資本論』は労働生産物ではないために、宇野理論は資本の生産物ではないために、冒頭商品から土地自然と共に労働力を排除していた。そのため価値形態論を基礎に資本を流通形態としながら、ここで「命がけの飛躍」ならぬ「身投げ」を余儀なくされてのではないか?
 しかし、とくに宇野理論は、純粋資本主義からの抽象により、流通形態の資本を説く以上、ここで前期的な商人資本や高利貸資本を「具体的にも」説明するわけにはいかない筈です。場所的、時間的な価格差は、純粋資本主義でも絶えず生じている。安く買って高く売るのは、産業資本も同じであり歴史的な商人や高利貸に登場してもらう必要はない。「無規律性の盲目的に作用する平均法則」としての価値法則は、不断の価格差の形成と「資本の一般的形式」を成立させながら、しかしそうした貨幣の機能や資本の運動を通して「一物一価」の法則が実現される。そこに価値法則の形態的特徴があるのであって、それを無視して世界市場での前期的資本を想定することは、「貨幣の資本への転化」の必然性を曖昧にしてしまう。ここで「命がけの飛躍」を避けようとすれば、純粋資本主義の抽象を否定して、より大きな価格差を求めながら世界市場の拡大による「世界資本主義」の拡大発展、さらに「グローバル資本主義」の想定に進み、「世界国家」なきグローバル化などに巻き込まれ、電脳化などを妄想するだけになるでしょう。


by morristokenji | 2017-08-29 20:53