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by morristokenji

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資本の蓄積過程(結論)

 モリスは、Commonwealの第21章を、1887年8月6日付で、タイトルは「結論」としていた。しかし、内容的には『資本論』第1巻第7編「資本の蓄積過程」であり、第1巻の最後と言う意味で「結論」としたものと思われる。ただし、モリスの利用した仏語版では、独語版と異なり、「いわゆる本源的蓄積」が第8編「本源的蓄積」として独立の編になった。この独立の意味については後述しよう。
 モリスは先ず、前章の機械制大工業による資本家的生産方法での剰余価値生産について、さらに説明を続ける。技術の革新や生産力の上昇により、資本の労働支配は強められる。労働の強度が強化され、労働時間の延長も図られる。労働生産性の向上により、生活資料の価格低下など必要労働、つまり労働力の再生産に必要な労働の低減、言い換えれば剰余労働の増大を図ることができる。資本の剰余価値生産は高められる。
 ただ、マルクスは「工場法」の歴史と分析も行っているのであり、資本による労働者支配は一定の制限を免れない。しかし、その規制も資本が「自由な」労働者を確保するためのものだし、そのための組織的体制に他ならない。この工場法のもとで、労働の強化も行われたのであって、労働者は完全に機械の付属物に過ぎなくなるし、「機械に対しての人間の隷属の端的な表現でもある」とモリスは主張する。
 さらに機械化と労働者の関係として、「機械によって代替される労働者への代償」について述べている。「労働を節約する機械は、雇用される人数を減少させる傾向があるが、それは資本を雇用から自由にする。」しかしマルクスは述べるとして、『資本論』を引用する。いま、カーペット工場での機械化による合理化で、労働者の雇用が半減したとする。それにより可変資本が自由になるように見えるが、しかし機械化のために不変資本が増加するだけだし、「機械によるいかなる発展も、より少ない雇用をもたらすだけだ」と。
 さらに引用を続けて、「機械により作業場から押し出される労働者は、労働市場に投げ出されてしまう。そして、そこでは資本家からお呼びでない労働者の群れに加わる。‐‐‐機械のこうした影響が、労働者階級への代償であり、最も恐るべき鞭なのだ。ここで、これだけは言っておこう。労働者は、産業のある部門の仕事から投げ出され、他の部門の仕事を探さねばならない。もし探すことが出来れば、新たに労働者と生活手段の結合が新しくはなるが、それは投資を求めている新規の追加的投資の仲介によるものだし、それは以前に彼らを雇っていた資本とは全く別だし、それは機械に転換してしまったいるのだ。」
 モリスはここで、『資本論』の仏語版を利用したからであろう、第5分冊では「大工業に関する諸問題と社会の変化」、第6分冊では「賃金」、第7分冊では「資本蓄積の重要問題」を取り上げるとして、単純再生産から剰余価値の資本への転化としての拡大再生産、そして「商品の生産の資本家的領有を特徴付ける所有法則の転化を述べている。‐‐‐この部分には、長くて各種の点からの資本家的蓄積に付いての一般的法則に関する長い詳細な章が含まれる」と
、その重要性を強調しているが、ここでは簡単な解説に止めている。
 『資本論』第1巻の最後には、いわゆる「本源的蓄積」が叙述されているが、モリスの利用した仏語版では、独語版と異なり「第8篇 本源的蓄積」として、独立の編別が与えられた。このように独立した地位が与えられた理由は不明だが、マルクスが独語版「第7編 資本の蓄積過程」の理論的解明の部分から、歴史的解明である「本源的蓄積」を分離して、純粋資本主義の抽象による法則性の理論と歴史分析を明確に区分しようとした意図を感じさせる。
 なお、「本源的蓄積」の取扱いの差異に関連して、独語版の第2編「貨幣の資本への転化」についても、仏語版では「資本の一般的形式」など、節が章に格上げされている。ここでも貨幣の資本への転化が、理論的に純化された形で解明される意図が強まり、歴史的過程との分離が意識されたものと推測される。こうした「貨幣に資本への転化」の取り扱いの差異が、いわば表裏の関係で、資本の蓄積過程での論理と歴史との分離した取り扱いと深く関連しているのではなかろうか。歴史と論理の統一のドグマの強かった唯物史観から、『資本論』の純粋資本主義の抽象への脱皮に向けての、マルクスの苦闘振りが感じられよう。
 モリスは『資本論』の「本源的蓄積の秘密」の初めの部分にある、有名な一節「この本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、現在が神学で演ずる役割と大体同じようなものである。---」を引用している。ここでは引用の重複は避けるが、「要するに暴力が大きな役割を演じている。穏やかな経済学では、はじめから牧歌調がみなぎっていた。はじめから正義と<労働>とが唯一の致富手段だった。‐‐‐実際は本源的方法は、他のありとあらゆるものではあっても、どうしても牧歌的ではなかった。」スミスの単純な商品生産者の牧歌的「文明社会」ではなかったわけだ。
 モリスは、さらにマルクスに従い、本源的蓄積の具体例として、英の「土地囲い込みみ運動」、浮浪者などに対する規制措置、賃金切り下げなど、さらに「マルクスは、そこで近代的な資本家的農業の誕生を描写し、都市産業での農業革命の反動や産業資本のための国内市場の創出にふれている。その矛盾を生み出した資本家的蓄積の歴史的傾向についての章に続き、将来的社会への関説として、ここで以下の文章を引用しておく必要があろう」と述べ、例の「領有法則の否定の否定」、所有法則の転変の箇所を引用している。さらにモリスは、重要な注を付して、注意を促しているのであり、ここで少し立ち入っておきたい。 
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by morristokenji | 2008-11-30 18:12
H君
 早いもので宇野弘蔵没後30年研究集会から、もう1年経ちます。この1年、とくに秋になって、歴史的な事件が続発していますね。
 君を研究集会に誘って、直後にメールをもらいました。「私は、自称宇野派だが、実際の宇野派の先生方の難しい話を聴いていると、宇野派を自称する自信がなくなる。それにしても、今時マルクス経済学関係の集まりに、これだけの人が集まるのは、さすが宇野学派とも言えなくもないが、40年前と違って、この議論で若い人が宇野理論になじむかと思うと、とてもそうは思えないのであった。」
 君らしい率直な意見で、僕も「やはりそうかな?」と考え込みました。色々反省しなければと思いながら、最近の世界史的事件をどのように受け止めるか、そんな点から去年の研究集会を振り返ってみたいと思います。君に少しでも自信を取り戻して欲しいからです。
H君
 米サブプライムローンに始まる金融破綻は、9月のリーマンブラザーズの破産によって、まさに「暗黒の金融パニック」を経験しました。僕は1932年生まれなので、29年大恐慌を経験していない、「一生に1度」の経験かも知れません。しかし、君にも話したように、株価の暴落を除けば、失業率など29年大恐慌と比べて、パニックはさほどひどくは無い。ドルの暴落も回避されている。19世紀の周期的恐慌と比べても、先進国経済に大恐慌を起こす、あるいは不幸な世界戦争へのバイタリティは無くなったと思います。
 先進国は、いずれもポスト工業化を迎えて、経済成長のバイタリティを失ってしまった、慢性的に資金の過剰(過剰貯蓄)を抱え、それが慢性的な投機化のバブル現象となっている。米の過剰消費も投機資金によるもので、サブプライムローンもその一つです。もともと投機のバブルは、弾けるからバブルなので、今度の金融危機も慢性的過剰のバブルが集約され崩壊しただけでしょう。
 このように慢性的な投機のバブルに媒介された、過剰貯蓄と過剰消費によるグローバルな先進国経済は、60-70年代と比べ低成長への移行とともに、景気循環のパターンも「衰減」したものにならざるをえない。山が低ければ谷も浅い。だからまた、低成長のまま景気の拡大期間も延長されるに過ぎない。こんな先進国経済を、「グローバル資本主義」として、新たな資本主義の発展段階とするわけにいかないと思う。「グローバル資本主義」は、今や悪名高きネオコンの単なるイデオロギー的表現、戦略スローガンに過ぎないのではないか。
H君
 金融バブル崩壊の追い風に押されるように、接戦の予想に反し米・大統領選はオバマが圧勝しましたね。オバマ勝利は、80年代からのレーガン、とくにブッシュ父子の共和党政権のイデオローグだった保守派のネオコンの完敗に他ならない。旧ソ連の崩壊による米の覇権型一極主義の世界支配のネオコンこそ、市場原理主義を生み、アメリカ・モデルの価値観を押し付け、無謀なイラク戦争を主導し、経済的には金融バブルの拡大をもたらした。そのネオコンの世界戦略が、金融バブルの崩壊とオバマの「Change!Yes,we can.」の訴えと共に、今や完全に破綻したのです。
 僕は、「グローバル資本主義」とその新発展段階説は、ネオコンのイデオローグに過ぎないと思っています。ポスト冷戦による「一人勝ち」した米の一極支配、超帝国主義論とも言える幻想です。EUなどの地域共同体、冷戦下の「新植民地支配」の破綻と中国など新興国の工業化による勃興、こうしたポスト冷戦による新たな多極化への構造転換を無視した、米主導の冷戦型イデオロギーです。その世界戦略が破綻したのです。今度の金融危機に肩を押された北朝鮮のテロ国家指定解除なども、その一例でしょうね。
 また、新興国の工業化も、中国の改革開放など、市場経済を積極的に利用するが、土地や労働力、金融など商品化には大きな「歯止め」をかけている。それがまた今日、中国の強味にもなっている。単に「市場経済だから資本主義」、計画なら社会主義と言うのでは、西欧社民主義の位置づけも出来ない。世界資本主義論の発想かも知れませんが、新旧左翼のマルクス・レーニン主義のドグマに過ぎないと思います。ロシア革命とソ連が崩壊したいま、ドグマからの自由な発想が必要だと思うし、その点で宇野3段階論についても点検は必要でしょう。
H君
 僕も宇野理論が、ロシア革命とソ連の成立で資本主義の発展段階にピリオドを打ち、それ以降を現状分析とした点は、当然のことながら疑問です。しかし、金融資本を超える新たな資本の蓄積様式は登場していない。20世紀、国家主義が台頭し、東のソ連が「国家社会主義」として発展し、西側も福祉国家など「国家資本主義」として体制の組織化を図った。それがポスト冷戦でソ連が崩壊し、西側先進国は上記のごとくネオコン戦略での統合はできぬまま破綻した。世界史は、ポスト資本主義にむけて、慢性的バブルの転換期を「過程」している。人類の「前史」の長い苦悩でしょうか?
 無論、世界史の新たな現実を踏まえ、石炭・鉄鋼など基礎資源型生産財だけでなく、例えば米の自動車産業など、耐久消費財を十分射程に入れた金融資本の蓄積など、段階論の修正・補強は必要です。今日、GMはじめ米ビッグ3の経営破綻による「フォーディズムの落日」を迎え、例のレギュラシオン理論の再検討をも必要としているからです。
 しかし、この段階論の修正が、純粋資本主義の否定による、世界資本主義の発展に還元する事にはならないと思う。世界資本主義論は、グローバルに拡大する世界市場に資本主義を解消し、資本主義の法則性を否定して、市場経済の歴史的変化を無原則に追い求めつつ、世界革命の妄想を残すのみで、結果的には資本主義を永遠化することになるだけでしょう。
H君
 没後30年研究集会に出席し、その後の関連論文も読んで、純粋資本主義の抽象を否定する考え方が、余りに多いのに驚きます。世界資本主義論への回帰現象でしょうか?世界資本主義VS純粋資本主義の論争は、岩田・鈴木原理論の登場もあり、すでに宇野ゼミの内部でも、散々議論されました。論点も、多少の違いがあっても、ほぼ同じ議論の蒸し返しに過ぎないと思います。しかし、純粋資本主義を否定すれば、それは3段階論の否定であり、宇野理論の死亡宣告でしょう。告別式に君を誘った積りはありませんよ。
 『資本論』での純粋資本主義の抽象ですが、単なるイデオロギー的仮説に過ぎなかった唯物史観から、マルクスが「学説史的検討」(とくに『剰余価値学説史』)に基づき、理論的に脱却した結果でした。無論、マルクスも人間だから、脱却しようとして不十分な面が残る。『資本論』が未完だったので、なおさら残滓が多かった点はある。しかし、『資本論』の対象と法則が、純粋資本主義のそれだったことは、いまさら確認の必要は無いでしょう。問題は、抽象の方法です。単なる歴史の発展の「模写」でなく、抽象の方法の模写です。 この方法の模写は、ご存知のとうり19世紀中葉のイギリス資本主義の発展が純粋化の傾向を持っていた、その歴史的傾向の模写 とされています。
 ところが、マルクスは純粋化がどこまでも拡大するとしていたが、宇野さんは「純粋化が逆転する」、この逆転を根拠に方法模写論を主張した。しかし、これでは純粋化を否定しながら、純粋化を主張する自家撞着に陥り、純粋資本主義の抽象は誤りだ、との批判です。こうした批判は、30年以上も前、宇野さんの生前にも故佐藤金三郎氏などからの批判があり、論争されていたので、その蒸し返しです。
 この論争の事情については、桜井毅『経済学を歩く』Ⅱ,1「純粋資本主義のアポリア」を是非参考にして下さい。講演なので読みやすいし、僕は全面的に賛成です。①「逆転」は、段階論との関係で、資本主義の歴史が金融資本の発展に逆転した点からみると、原理論は純粋資本主義の歴史的・現実的抽象なのだ。桜井氏の言うとおり、宇野さんの説明に不十分な点があったように思うし、論争や批判の相手があっての宇野さん論文は、とくに含蓄が深くて、難解で誤解を生みやすいのです。逆転論は、段階論と原理論の関連で意味があるだけだと思います。
  ①拙稿「『資本論』と純粋資本主義」1967年10月(「経済学論集」33巻3号)参照。本稿は   世界資本主義論に対する批判として書かれたものである。
 純粋資本主義の抽象にとって大事な点ですが、桜井氏がとくに強調しているのは、経済学説の理論史との関連です。方法の模写ですから、資本主義の発生・発展に対応して、認識の方法とともに、学説も批判的に継承され発展してきた。17世紀までの下向法=帰納法、18-9世紀古典派経済学の上向法=演繹法を踏まえ、マルクスは単なる上向法ではなく、『資本論』ではヘーゲル弁証法により、自律的運動法則として、純粋資本主義の抽象に成功した。
 僕は、ヘーゲル哲学をあまり勉強していないけれども、彼の古典経済学批判と言い、弁証法の自律的法則のロジックと言い、やはり19世紀20年代からのイギリス中心の周期的恐慌を含む景気循環の歴史的現実があったからではないか。だから、純粋資本主義の抽象は、周期的恐慌の必然性=恐慌論の解明です。イデオロギー的仮説に過ぎない唯物史観では、「恐慌=革命テーゼ」の崩壊論にはなっても、周期的恐慌の解明にはならない。マルクスも、宇野さんも、唯物史観とそのドグマに還元されていた『経済学批判体系』とプランを捨て、『資本論』の純粋資本主義の恐慌の必然性解明に取り組んだのです。
 実際、マルクスに即して宇野さんは、『経済学批判体系』プランの放棄を確認しています。②しかし、生前は原理論の整序に全力を尽くされ、方法の模写のための経済学説の理論史による検証まで十分手が廻らなった。それを十分に自覚されていて、宇野ゼミのわれわれ学生の研究テーマとされたのです。僕は、価値論を分担し『価値論の形成』③を書き、桜井氏は転形論争を踏まえた『生産価格の理論』④を書いた。一種の「研究的分業」ですね。その後、僕は宇野さんとの約束もあり、先年『恐慌論の形成』(05年)を出版した。ただ、僕の怠慢のため、生前に間に合わなかった点、申し訳なく思っている。
  ②宇野弘蔵「『経済学の方法』について」(宇野『著作集』第3巻所収)
  ③『価値論の形成』1964年東京大学出版会
  ④『生産価格の理論』1968年東京大学出版会
 H君
 僕は純粋資本主義の抽象は、資本主義の純化傾向とか、その逆転とかでなく、周期的恐慌による資本主義の「自律性」に基づくと考えています。純粋資本主義の宇野「原論」は、宇野『恐慌論』として完成された。マルクスも1857年恐慌まで抱いていた唯物史観の恐慌=革命テーゼを捨て、プランを変更して、周期的恐慌の拡大を踏まえ、『資本論』の純粋資本主義の法則性の解明を行った。キーポイントは、資本の蓄積過程を踏まえて、競争による『資本の絶対的過剰生産』の解明に成功した点でしょう。そこには1870年代の限界革命の影響でしょうか、限界原理による追加投資の資本蓄積が説かれています。
 実際、『資本論』の「近代社会の経済的運動法則」は、周期的恐慌を含んだ「絶えざる不均衡の均衡法則」、「無政府的法則性」です。いわゆる近経の「一般均衡論」とは、恐慌論があるか、無いかで大違いですが、市場の均衡論としては同じですね。だから循環的法則になるし、自働崩壊論ではないのです。そこからまた、人間の主体的実践の意味も提起できる。
 H君
 純粋資本主義の抽象による宇野『恐慌論』は、言うまでもなく労働力商品化を基本矛盾に展開されます。土地の商品化と表裏になって、市場経済の社会的再生産の全面支配となり、経済原則と共に社会的均衡を実現する。しかし、労働力商品の特殊性から、周期的恐慌を不可避とする。「絶えざる不均衡の均衡法則」の”格差社会”です。労働力商品としてアトム化され、家族や地域の意味は失われる。土地の商品化の点では、市場経済による土地自然の環境破壊に繋がる。このような基本矛盾を抱え込んだ資本主義社会が、変革の対象です。変革の主体は、労働力商品の担い手であり、働き生活する人間です。
 僕は、純粋資本主義の抽象によってのみ、社会変革の「対象と主体」が明確にできる。段階論、現状分析は、その「対象と主体」の歴史的変化、具体的あり方を解明する。それに反して、純粋資本主義を否定した唯物史観や世界資本主義論では、プロレタリア独裁や植民地解放の名の下に、周辺革命論など権力奪取による上からの国家社会主義の運動の失敗を重ねてきた。旧ソ連の崩壊も、その例に漏れないマルクス・レーニン主義のイデオロギーによるものだと思います。
 宇野『恐慌論』は、純粋資本主義の抽象により、そうしたイデオロギーから自由だった筈です。そして、あれほど厳しくスターリン論文を批判していた宇野さんが、旧ソ連を擁護し続け、ロシア革命をもって資本主義の段階的発展にピリオドを打ったのか?僕には理解できませんが、やはり戦前・戦後、ソ連崩壊まで支配した日本の伝統的左翼イデオロギーに捕われていたのでしょうか?
 H君
 最近僕は、価値論、恐慌論に続けて、『資本論と社会主義』について、マルクスの晩年の1870-80年代の国際的な社会主義論争に遡って、学説史的・思想史的アプローチで検証しようと思っています。君もご承知の通り、手始めにマルクスとの接点として、W・モリスについて研究しているのも、そのためです。⑤どうか、これからも宜しくお付き合い下さい。
  ⑤W.Morris,E.E.Bax”Socialism,its Growth and Outcome”1983

 (付記:本稿は、「宇野理論を現代にどう生かすか」Newsletter(10)添付ファイルからの転   載である。)
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by morristokenji | 2008-11-17 22:29