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by morristokenji

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 第22章から最終章まで、モリスは社会主義の運動論・実践論を述べる。最初のタイトルは「Socialism Militant」だが、文字どうりの「戦闘的社会主義」ではなく、表記のように「社会主義の闘い」にしておいた。もう少しMilitantな表現がいいかも知れない。
 さて、ここから社会主義の運動論・実践論に入るわけだが、モリスは「エキサイティングな課題に入る」と述べている。クール・ヘッドの理論から、ワーム・ハートな実践だろう。社会主義の運動、ないし実践と、マルクスによる『資本論』の「科学的社会主義」の内容との次元の違いを意識しての課題設定ではないか。すでに再三強調してきたように、モリスは初期マルクス以来の、そしてエンゲルス『空想から科学へ』で公式化された唯物史観のイデオロギー的仮説から脱却して、純粋資本主義の『資本論』を科学として継承しようとしていた。そこに資本の原始的蓄積をめぐっての「否定の否定」に関する歴史観の違いも、実際上提起されたのだった。唯物史観が「単純商品生産史観」とするなら、モリスのそれは、「共同体・ギルド生産史観」と呼ぶことが出来るだろう。
 モリスは、唯物史観のドグマから自由になり、純粋資本主義の法則性を学び、それと歴史的過程を区別する視点に立つことが出来た。歴史と科学・論理の峻別である。それはまた、理論と実践の区別、さらに科学とイデオロギーの区分をモリスに迫ることになる。新旧左翼に伝統的だった歴史と論理、理論と実践、科学と思想の3つの「弁証法的統一」のドグマからの自由に他ならない。モリスは、21章まで『資本論』の論理を概説し、その上で社会主義イデオロギーの思想とその実践についての章に改め、別の次元で社会主義の思想と運動をエキサイティングに論じようとしているのだ。そして、そのエキサイティングな課題は、「自分が単に純粋な理論の立場につくことを選らばなければ、社会主義者を自認する人すべてにとって、社会主義の政治実践にとり検討しなければならない」と述べている。以下、モリスの所説を紹介しよう。
 社会主義が、近代生活の総ての関心を含むものである以上、その時代の深刻な問題の一つである事が理解され始めたが、過去において攻防のあった相関関係について見ておこう。はじめに防御の側についてだが、われわれは忠告するように言葉を選ぼう。なぜなら、今日では支配的で優越していた階級が、それ自身で古い中世の支配階級を吸収してしまった以上、そしていったん後者によりその地位が占められていれば、もはや攻撃すべきものは持たないからだ。ある時期、ビクトリア時代の中産階級がその地位にあったが、しかし今やついに覚醒して、攻撃に転ずべき敵を見ることが出来るに到ったからだ。中産階級は、外見上も民主的ではなくなったし、表面的には労働者階級と一体化し、それに従属するに到っているのだ。事態の状況は、仏革命で最高に到達し、次第に労働者の団結の指標になった。そして、それは1848年革命時点まで続いたのだ。そこまで優勢だった中産階級は、中世の反対者の最後の余燼を踏みつけながら、成功を持続させる実蹟だけしか見えなくなった。成功を基礎づけていた原理と言えども、すでに到達点を越えた明確な目標を持てなくなっていたのだ。
 英国で、労働者階級が最初に独自で、能動的に共同体への感情を持って,明確な運動を起こしたのはチャーチストのアジテーションだった。しかし、これはすでに前章でも説明した様に、大陸ではマンチェスター・スクールと呼ばれた、コブデン・ブライトの成功に見られるとうり、イギリスの商業的繁栄の大きな波により押し流されてしまった。この繁栄の波の主な結末は、中産階級の数と力の著しい増大だし、それに応じた快適な生活水準への上昇だった。それは、しばしば労働者階級が50年前にそうだった水準より良い状態になった、あるいは19世紀の主要な成果であるとも申し立てられている。しかし、そうした改善は疑わしいし、それが嘘だということも推測されているのだ。50年前は、巨大な機械制工業により厳しい産業革命を通過していたのが現実だし、前にも述べたとうり労働者階級は、その間経験したことのないような悲惨な状態だった。また、その危機の収束も、限られた範囲で、一時的に特別に悲惨な状態を救っただけなのだ。しかし、それを離れてみても、労働貴族の状態でさえ、良くなったとはいえ大したものではない。現実には、上記の中産階級の増加や繁栄だけだった。しかも、その圧倒的に大きな繁栄さえも、いまや深刻な脅威にさらされている。世界市場の競争の激化、それは労働生産性の不断、かつ急速な上昇を伴いながら、相互に作用し合い、新たな商業革命をもたらしつつ、その利潤が消失するほど減少しながら、巨大資本に合同、合併などしつつ生き残るほか無かった。資本家もまた、経営者になったり、大資本の召使になるほか無かったのだ。この過程は、さらに進み完全に商業貴族に従属させられた、新たなより下層な中産階級を生み出している。こうした中産階級の上昇の下で、利便性が階級の落とし穴になっている。子供たちに、何か「期待を持たせる」事が一般家庭でも困難なことは、今や完全に在り来りになった。若者を「元気づける」職業もストックオーバーだ。安上がりな教育は普及したが、伝統的な商業的価値を失って、歴史的な場でさえ、教育が商業的競争に晒されている。芸術や文学の格が下がっても、仕事として続ける喜びからプロになろうとする人は多い。しかし、それらの人々も、普通の教育を受けたものと同じ低い市場価値しか見出せないのだ。商業的な学者と同様、職業について特別な才能が要求されぬまま、知的プロレタリアになってしまい、その労働は肉体労働より低い地位と同じぐらいの報酬しか得られない。雇用されている限り、その地位は他人の意思に依存し、満足は得られなくなるのだ。
全体として、中産階級にとり利便性の水準は向上し、むしろ良好だった時以上の財力を得たにもかかわらず、今はその力や所有地を失うことに恐れを抱いている。そして、今や労働者が団結することを学び始めたし、また良くなってもブルジョアよりは劣ってしまった地位に甘んじてしまっている後者、中産階級と連帯し始めている。
 しかも、労働者の地位が最高になるかも知れない、と言うブルジョアの考えは実現されないし、実現の可能性も無い。また上記のとうり労働者階級は、現在の時代に満足している特別な理由も無いのだ。不熟練労働階級は、そのシステムが仲間との不断の競争に駆り立てられるのに、たんに生活維持の賃金しか与えられていない。しかも、こうした階級が次第に増加し、新たな機械導入によって熟練労働の生産性は向上するが、不熟練労働の補助的地位に甘んぜざるをえなくなるし、熟練工芸家もその地位を失い、不熟練労働者の地位に甘んぜざるを得なくなろうとしている。
 細かく数字を見ても、一般的には労働者の地位は向上している。、それは正当なことだし、無論ケースにもよるが、労働者の一部のグループは、そうだろう。しかし、それでも彼らが求めているもの、例えば平均賃金がこれこれだと言うことを証明してはいない。また、どんな取引でもそうだが、すべての労働者が減額されずに総額を受け取ることは無いだろう。取引が盛んな時でも、ほとんどの労働者が常用雇用ではないし、評価されている賃金も、労働組合により決められたものだが、大部分の労働者が組合に守られてはいない。悪い時には、組合内部でも十分な賃金を得てはいないのだ。ビルディング組合のように、ある部分は年間大部分雇用されないし、ほとんどの産業で時折ストやロックアウトしなければ、賃金の上昇は不可能なのだ。また労働者は、しばしば組合費や共済費として寄付の形式で課税されるし、見方を変えると、貧困税の形式で雇用主を助けてもいるのだ。さらに、組合がいつも不況に対し十分強く闘っているかも疑問だ。
 しかしながら、このより恵まれた労働者の地位向上が疑問な点も、ついでの話なのだ。現実のポイントは、先ず第1に、この向上も労働生産性の不断の向上には繋がらないことだ。それは熟練の体制の状態が不確実なこと。第2に、労働者の状態が改善されても、彼らはその地位に不満が募っているのであり、それが劣等感の一つで、しかも必然的でもないことが、彼らにも明らかになりつつある。そして特に、いわゆるマニュファクチャが行っていた生産の管理が少なくなればなるほど、ますます手や経営が過酷な労働から恩恵を受ける、単なる金融家になったり、配当取得者になりつつある。
 これらすべてが、大陸の労働者、特に1848年のブルジョア革命以来、ドイツの労働者(それはイギリスの労働者より知的にすぐれている)に明らかになってきている。
 
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by morristokenji | 2008-12-15 15:14

続・資本の蓄積過程

 所有法則の歴史的転変だが、『資本論』とくに仏語版では、純粋資本主義の論理と資本主義の歴史的発生・発展の過程との区分が進んでいるのだが、しかし「本源的蓄積」を含む歴史的発展過程では、マルクスがなお唯物史観のドグマに拘りを持ち続けていたとも言える。
 まず①単純商品生産者を事実上想定し、その私的・個人的労働に基づく私的・個人的所有から出発する。ついで②資本家的生産様式では、工場制度など生産の社会化が進む。この生産の社会的性格のもとでの私的・個人的所有が維持され、そこに「基本矛盾」も設定される。生産の社会的性格のもとでの所有の私的性格の矛盾である。この基本矛盾は、「否定の否定」により、③生産の社会的性格に基づく所有の社会的性格=公的・社会的所有への転換により解決される。こうした所有法則の転換こそ、すでに紹介したがエンゲルスの『空想から科学へ』において、唯物史観のドグマとして公式化されたのだ。
 もっとも『資本論』では、定式の内容のニュアンスが、やや違ったものになっいる点が重要だろう。マルクスにも迷いがあったのかも知れないが、①の単純商品生産者の所有については、所有者の「自己労働に基礎を置いた個人的な所有」とも、また「各個人の自己労働に基づく分散的な私有」としているが、この点については、モリスが極めて重要な批判的指摘を注記している。②の資本家的生産様式に基づく「資本家的個人的所有」は、社会的生産に基づく私的・個人的所有だが、さらに「否定の否定」である③については、マルクスの説明には、はっきりしない点が含まれている。
 すなわち、まず一方で「私的所有を再現するのではないが、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくり出す。すなわち、協業を基礎とし、土地の共有と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とする個人的所有」とし、その上で他方では公的所有である「社会的所有」とも述べている。要するに、生産手段の共有を基礎とする個人的所有なのか、それとも社会的所有なのか、あまりはっきりしない説明になっている。こうしたマルクスの説明の不分明なこともあり、ここでの個人的所有は、私的所有ではなく「個体的所有」だ、という独特な解釈も生じたのである。このような解釈のもとに、「市民社会」的社会主義の主張も生まれることになった。
 マルクスはここで、土地や生産手段の共同体的所有を前提とした、個人の労働による所有なのか、それとも私的・個人的所有を否定された公的・社会的所有なのか、はっきりしない叙述なのだ。資本家的生産様式を否定した、共同体的生産様式のもとでの個人の労働と所有と、国家権力を労働者が奪取して、国有ないし公有のもとでの労働配分なのか、ここでは明確な区別がないまま論じられているのではないか。その点では、マルクスの「否定の否定」としての所有法則の転変については、内容が混濁して曖昧になっているのではないか。この曖昧さは、「否定の否定」の前提である、①の前資本主義的生産様式の設定の仕方が問題だった。そこを、モリスは以下のように注記して突くのだった。
 すなわち、モリスは上記「各個人の自己労働に基づく分散的な私有」,『Socialism』では「所有者の労働に基礎を置いた個人的な私的所有」にわざわざ注記して、次のように述べる。「重要なことだが、ここで使われているように、このフレーズを誤解すべきではない。<中世>の労働は、物理的には個人的だが、精神的には完全にアソシエーションの原理によって支配されている。われわれが見た通り、その時代の親方は、ギルドの代表に過ぎなかったのだ。」ごく短い注だが、極めて大きな意味が含蓄されている。
 第1に、本書では余り注が多くないが、特に内容の補足ではなく、内容の理解に関わる注は殆どない。ここの注は例外的であり、しかも『資本論』の資本蓄積の歴史的傾向の「否定の否定」の理解に関わるものだ、という点で重要視せざるをえないであろう。
 第2に、表現上は慎重であり、『資本論』を批判するものではない。「誤解」を恐れての注意書きだが、その内容は上記①の内容設定に関わるものと言える。つまり、単純な商品生産者を事実上想定し、その自分の労働による商品生産の自己所有としての私的・個人的所有という、唯物史観のエンゲルス流の公式を真っ向から批判しているのだ。物理的には個人的労働でも、その労働は共同体の内部で、ギルド組織のもとで、したがって「精神的には完全にアソシエーションの原理」にもとづく点を強調している。つまり、①は村落的・ギルド的な組織の労働であり、その所有であって、そうした共同体の組織が前提になり、市場取引は共同体と共同体の間に成立するに過ぎないことになる。
 第3に、モリスが①に関し、このような注を付したについては、③の「否定の否定」の内容とも関連しているように推測される。つまり、マルクスも③については、上述の通り共同体的な労働、生産手段の共有を前提にして、共同体の復権を事実上想定していたのだった。生産の社会化に基づく「社会的所有」は、国家社会主義型の公有・国有ではなく、文字どうり社会的な共同体的な所有を考えていたとも言えるだろう。このような③における共同体の復権と対応して、①の生産と所有についても、共同体におけるギルド組織を明確にしておく必要を感じたものと思われる。
 このようにモリスは、資本蓄積の歴史的傾向の「否定の否定」については、いわゆる唯物史観の公式における単純商品生産を出発点とした所有法則の転変を、注記の形ではあったが事実上否定したのである。そして、村落共同体やギルド組織に基づく歴史的転変を提起しているのであり、それを『資本論』の純粋資本主義の経済法則で根拠付ける形で、「科学的社会主義」の見地をマルクスから継承しようとしたと言える。労働力の商品化に基づいた機械制大工業の組織による大量生産・大量消費のシステム転換を、ギルドに基づくコミュニティの復権に求めたのである。
 この後、モリスはエポックメーキングな『資本論』の最後が、「近代殖民論」で終わっていることを述べ、さらに第1巻から第2-3巻に展開されることが付記されている。また、『Socialism』では、マルクスの死後第2巻が出版され、さらにエンゲルスの手で第3巻の刊行が準備されている旨、とくに注記されている。
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by morristokenji | 2008-12-05 16:06