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by morristokenji

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 純粋資本主義の抽象に成功したマルクス『資本論』を踏まえ、モリスは「歴史と論理」の統一のドグマや、「理論と実践」の統一のテーゼからも自由になり、階級闘争の実践についてまとめることが出来た。その上でモリスは、さらに「科学とイデオロギー」のドグマからも解放されたことになる。現実の資本主義の発展を踏まえながら、恐慌=革命テーゼなどの自動崩壊論ではなく、人間の主体的実践の役割に基づく、社会主義の思想による人類の解放の理想を語ろうとするのだ。
 モリスは、社会主義の発展の成果を、「社会主義の勝利(Triumphant)」として総括している。彼の社会主義論の総括であり、唯物史観の延長上でのマルクス・レーニン主義のそれではない。『資本論』から学び取った、彼の独自の「科学的社会主義」論だし、「科学からユートピア」への提示に他ならない。ここには科学よりも、文化・道徳・芸術・宗教などが凝縮された理想の歴史的道程を描くことになるのだ。『ユートピア便り』を社会主義論として裏付ける作業でもあるだろう。
 歴史と論理、ないし理論と実践の統一と言う唯物史観のドグマなら、資本主義社会は恐慌や戦争で崩壊する。いわゆる自動崩壊論であり、実践の意味も単なる階級闘争に還元されるだけで、主体的意義は希薄になる。すでに周期的恐慌が6回も7回も繰り返されても、48年恐慌期は例外だったのだろう、政治的危機は訪れない。むしろ恐慌を梃子に、資本主義経済は成長発展を繰り返し、イギリスはヴィクトリア朝の黄金時代を謳歌したのだ。マルクスは、だからこそ唯物史観のドグマを超えて、純粋資本主義を抽象し『資本論』を書いた。そしてモリスは、その『資本論』を繰り返し読んだ。
 モリスは、23章の冒頭で、「われわれは、過去の生活については、一つの方法で描写するのは可能である。」持っている過去の正確な情報に基づいて描写すればいい。しかし「将来について言うなら、何も持っていないし、歴史的な発展の単なる抽象の他には、また適正に評価できなかった要素と抵触するかも知れない論理的結論しか持ち合わせないのだ。これらは、来るべき将来に進む生活の骨組みの抽象に過ぎない。」
 「それゆえ、近代文明が社会主義へ転換するのは疑いないとしても、われわれは将来の社会生活がどんな形をとることになるのか、正確には予言できないし、T・モアーやL・ベーコンが言う様に、商業化時代の初めの生活より良くなるかどうか、今日の資本主義の時代から見通すことができない。」
 「われわれは、将来の生活を積極的に実現できないにもかかわらず、現実の社会の原則が一般に受け入れられ、日常生活上の実践として適用される際、われわれは問題の否定的側面を見ることにはなるが、大部分が社会主義の闘いの必然的な結果により、空白が充たされざるをえないのだ。現在の社会は発展するだろうし、その付属物や安定装置も付いていくことを知っている。新しい社会の基礎が何たるかを、少なからず知っているのだ。だが、新しい社会が、自由や共同を基礎に、いかに構築されるか、それは思索以上のものではないのだ。」
 「疑いもなく、ある種の移行は、その状況で決まる性格にもよるが、政治の単位が国家れある現在の状態から、連邦化されたコミュニティの体制が国家に取って代わるものになるだろう。しかし、本章では移行期よりも、新しい社会の最終的な実現を扱うので、その点には立ち入らない」
 「われわれは新しい社会を読者が、政治的にはコミュニティの組織体としてイメージして欲しい。それは各個人の事情によるが、代表者の共和制で結ばれ、その機能は社会の洗練された原則を維持する。そこでは<教区の小区画」>であるTawn Ship又はコミュニティと共和制の権力の2つからなり、その体制では両者の間に2つの極があり、一方は共和制の原則があり、他方では自然的な環境、それには例えば言語、気象、あるいは地域区分などの共通性で結ばれる。」
「このような社会では、人々の安全や共同体内部の議論のために、法律が必要だし、それが社会の基本的原則の表現になる以上、普遍性を持たねばならないだろう。また、最終的には権力ですすめられるが,中央の規制体の保護が必要だろう。明らかにコミュニティは、どんな口実にせよ、労働の搾取や報復の刑法といった、反動的なものの復活は認めない。そうした政策が許されれば、地方のどんな些細な事件でも、コミュニティ社会の基礎を崩してしまうことになろう。こうした共和制の単位は、要するに政治的、かつ行政的な事柄を、最小限に縮小するため唯一の方法の表れなのだ。それは社会の単位として、個人を保障するし、その能力の発展や満足を得るための自由を、可能な限り保障する。」
「社会福祉や生存に必要な労働の方法として、広義の共同が必要だろう。もちろん、それは社会の実際の福祉には付随的なものであり、商品の生産は(現在は利潤の担い手の商品だが)社会の目的と見なされるのではなく、生活の便益や幸福の手段と見なされる。それゆえ、それは必需品についての誤った考え方や、安楽か奢侈かの月並みな点の犠牲にさらされてはならない。例えば、どんな社会でも、木綿の生地は最小の労働投下で生産されるのが望ましいが、黒人社会のように、共同体社会では、人口の一部を悲惨な状態で生活させられないし、どんな程度でも他の人々より悪く生活させるわけにもいかない。コミュニティにとり労働の投下を減らすためには、価格がどうあろうと、紡績や織布職人が他の人と同じように良い生活が出来るようにしなければならない。」
 「また、安楽の慣習的な水準に関しても、ある友人が与えてくれたのだが、奢侈ついての良い定義を引用しよう。ある品物について、消費者が自分で持っていれば、仕事の全価値を払う必要がない。それを自分で作るとなれば、それを作るのに等しい自分の労働を犠牲にしなければならない。例えば、いま一人の婦人がマクリーンレースのベールを自分で作るつもりになるか、あるいはそれを作ってくれる人の生活に支払いするか、そのためにはYpresとその周辺の沢山の婦人や少女が飢餓賃金で働かねばならないのだ。」
 「コミュニズムの下で生産することは、明らかにコミューナル社会が必要な様々な種類の仕事を考えねばならない。」
 「第1に、普通の人は嫌がるだろうが、しなければならない必要労働の一定量が存在する。その若干の量、恐らく大部分になるが、機械で行われるだろう。そして、利潤追求の要求による生産の限界が変わると、躊躇なく機械が改良され完成に向かう。しかし、必要だが嫌がられる仕事は、機械でもなされないだろう。この部分には、ボランティアが当てられるし、それも難しくなれば、社会的義務の見地から、必要労働に着目する習慣を考えることが一般化する。そうなれば、普通では好まれない仕事への反対も変わる、特別な国民的傾向が存在するかもしれないのだ。」
 「加えて、こうした仕事のほとんどが、受け入れにくいけれども、精神的能力は必要としないし、それに従事する人間には最小限の責任を負わせるだけでいい。われわれは、この点を、それ自身受け入れにくい性格の仕事への保証と指摘しておこう。」
 「必要だが嫌われる仕事の例として、廃品業、汚水清掃業、石炭採掘業、助産婦、機械的事務職を挙げておく。」
 「われわれの現在のシステムでは、この種の仕事の大部分が、利益を上げる資本のもとで育成されているのであり、雇用をめぐってのプロレタリアの競争が、そうさせている点を考えなければならない。一方、<共同体社会>では、そうした仕事は出来る限り配分されてしまうだろう。共同体社会が、過去の時代の復活として、受け入れにくい仕事をも、それ自身に課されたものとして、また必要でないように除去するだろう。」
 「第2に、仕事はそれ自身、多かれ少なかれ受け入れ難いし、それが絶対的に必要でなければ、そのために支払われるものが少ない方が望ましい。それが機械で容易になるなら、そうしたら良いかも知れない。そうでなければ、その目的のために、ボランティアを頼む価値もないかも知れない。なぜなら、それは自分の犠牲で行うべきだ、と市民が考えるからだ。一般的には喜ばれないが、必要だし期待される仕事の問題から離れる前に、われわれはもう一度、多くの人々がやりたいと思っている特異な性癖(idiosyncrasy)に注意したい。多くの点で、われわれの困難を解決する上で、idiosyncrasyには分類できないが、普通の趣味の多様性に注意したいのだ。例えば、ある程度苦難を伴う荒っぽい職業が存在する。それは、冒険や変化もあり、健康や体力を超えても、多くの人に受け入れられる。また、海釣りや新たな国への探検のように、特別のエネルギーがいる楽しい運動のように、勇気や速断、敏捷を示す職業もある。また、多くの人は田舎の生活を愛したり、動物を飼ったりして、その種の仕事も退屈には見えないだろう。端的にいって、われわれはこの主題に長くかかわりすぎているが、われわれの進む一歩一歩が、生産における努力への刺激が多様なこと、複雑なこと、そして万事が金銭で計量されるいまの時代に考えられているよりも、されに一層そうなるのだ。」
 「第3に、われわれが希望するある種の仕事が、現在のそれより共同体の生活においては、ずっと高い地位にあるところに来ている。それが多かれ少なかれアートの仕事であり、われわれはアートが喜びであり、いかなる手仕事の技能にも感じられる総ての基礎である、とここでは言うべきなのだ。一般的に感じられることだが、物事はどんなものでも、有名人が牢獄に入れられるように、通常している職業から引き離された時、人間は職業のために、手仕事を切望することが証明されている。職業としてのアートについては、われわれはそれを<付随的>なものと<本質的>なアートに分ける。<付随的アート>とは、実利的機能に資するようなアートであり、例えばナイフやカップに付けられた飾りのようなもので、物を切ったり飲んだりするのに役立っている。一般的には、装飾芸術と呼ばれるものが、この呼び方に入る。<本質的アート>は、それ自身のために美術や文学が生産されるアートであり、絵画や音楽であって、実利的な目的はない。付随的アートについては、商業社会では、美しくなければならない生産品からその存在と報酬を引き離すことにより、破壊してしまった。それは、実利的な商品のメーカーに対して、装飾品のメーカー、オーナメントのデザイナーを分離してしまった。2つのメーカーは、単なる機械となり、あとの一つも商業により、他の業者同様、社会的に市場型のウェアの生産者にならざるをえない。<共同体社会>では、この労働の分割は、できるだけデザインのアートが統合されて形作られるように、一つ一つの品物が解るように配慮される。アートそれ自身が、皆の疑問のないよう要求を充たすように機能するのだ。そうした需要を強いるものは存在しない。
 本質的アートについては、それは現象的には、常に個人の労働や熟練の産物のように見える。しかし、底流には他のどんな産物と同様に社会的産物なのだ。最も独創的なアーチスト、あるいは作家の能力といえども、実際は伝統の結果であり、彼の作品は個人に凝縮された長い社会の発展の傾向の表現に過ぎないのだ。」
 「 現在は、文明の圏外にある民族に起こりうる将来について、一つの質問が出るかもしれない。彼らに降りかかる最善の運命は、文明の不均衡による妨げなしに、現在の状況から自力で発展すべきだと言うことだ。彼らは、文明それ自体が社会主義と一体化するまで、文化を隔離しておく最も幸福なものなのだ。そして、その時こそ、彼ら自身の自然的発展が、彼らを次第に普遍的社会の生活の大海に引き込んでいく時である。」
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by morristokenji | 2009-02-03 11:52