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by morristokenji

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 いよいよモリスの社会主義論、最終章である。B・Baxの協力を得ての著作だが、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観の公式的枠組みからのマルクス・レーニン主義の社会主義論ではない。国家社会主義とは、まったく質を異にした社会主義論である。それは、共和制による民主的参加形式による地域に根ざした共同体社会主義であり、アート&クラフツ運動による生活の芸術化を目指した開かれたギルド社会主義あり、さらにモリスは人間のエトスを吹き込み倫理観を重視した社会主義を構想した。以下、第23章を紹介しよう。
 モリスは冒頭から、こう述べている。「<共同体社会>と表現される生活の基礎には、宗教的・倫理的なものが残っている。別の観点では、2つは調和的な全体を構成するが、宗教がその生活の表現だとも言える。」
 「宗教と言う言葉は、心の深層にあったし、あるわけだが、超自然的な信仰と結びついている。結果的に、言葉の使い方が、この要素のないところで正当化されずに攻撃されてきた。われわれが簡単な言葉で説明するように、それは本質的というより、アクセサリーなのだ。」
 「第1に、宗教は目的からして、親族・社会の維持と栄光であり、氏族、部族、人民のいずれでも、祖先の崇拝が最初の段階で主導的な特徴だった。そうした時代では、宗教は今日迷信と呼ぶものと結びつくのが不可避だった。その時には、人間と他の存在との間に、区分を設けられなかったからだ。動物も無生物も、ともに意識や知識に似たものだと考えられていた。
 その結果、人間による事物の支配から、事物による人間の支配への物質文明の発展に伴い、社会は2つの階級、持てる支配者と持たざる被支配者に分裂した。そして、有産者、奴隷所有者の階級に時間的余裕が生じ、上層階級には評価や反省の余裕が結果することになった。反省の過程から、この階級が他の自然から意識する人間を区別することになった。ここからまた、事物の2元的概念が生ずる。一方が、親しまれ知られている人間であり、他方が自然であって、神秘的で相対的に未知だった。自然は、それ自身が無意識な対象だが、見ることの出来る対象と、その背後にあり、それに働きかけると思われる力との区別に進む。それは、人間のように受け取られて入るが、知識や力において人類を超えていて、もはやそれなしに事物それ自身の一部にはなりえないし、それを動かしたり制御もできないのだ。」
「2元的概念のもうひとつの組み合わせはここ、第1に個人と社会の区別であり、第2は個人の内部的な肉体と精神の区別だ。今や宗教は、無限に超自然になっていて、知識階級からすれば完全に迷信となり、次第に過去にあった信仰の慣習を失っている。
 この局面では、矛盾は信仰だけでなく、倫理的概念にまで及んでいる。祭事や慣習は、初期の考え方に基づいてはいるが、すべて意識された存在から構成された自然のもとで、それは意味を失ってしまい、多くの場合、その時代の進歩的な考えに反発されている。ここから秘儀解釈や<ミステリー>が生じた。重要性が個人の精神にとって将来の生活の考え方に置かれ始め、積極的な教義に基づくものではなく、それが存在しないことを受け入れる不可能性に基づく、ほとんど崩壊した存在についての古い考えと共通するものは何も無くなっている。それは、例えば食糧、馬、腕など、死者と共に未知の国への旅立ちの準備として葬るような原始民族の埋葬の儀式に見られるものである。それらの考え方、また教義とそれを含む儀式は、数や団体が増え歴史の流れとして拡がって、仏教やキリスト教がその大きな歴史的事例だが、(種族や自然宗教に対して)普遍的で倫理的な宗教に最終的に流れ込んでいるのだ。そして、そこでは独創的な儀式やその意義が相互に融合し、これらの宗教の新しい倫理とも融合して、それらの倫理を象徴的に語るように考えられている。ここで述べられてきたことの例証こそ、贖罪Atonementの教義における犠牲という古くからの概念の融合に見出されかも知れない。」
 「われわれが見たとうり、文明の発展と共に、種族社会が階級に分かれ、それは財産の共有に対しての個人的所有の成長によるものだった。人々の社会に対する古い関係が破壊された。それと共にその中にあった古い倫理的考え方の意味の多くも崩れた。種族社会では、彼がその一部になっている一定の社会に対する責任が強く感じられ、彼は種族の外部の義務は理解しなかった。実際、今勃興する新しい道徳の概念は、彼が帰属する共同体とは関わり無く、人間としてすべての人間にたいする義務であるが、しかし曖昧だし、逃避できるし、意識的束縛はほとんど受けないのだ。なぜなら、道徳が変革をみる中心点は、道徳の源泉となり、個人が直接意識する精神的な神だからだ。これら両者、つまり種族の倫理は、コミュニティに限定されるが責任を持ち、他方ユニバーサルで内面的な倫理、あるいは人間性がもつ神への責任は、自分を表す手段に過ぎず、それゆえ人間の人間への義務モ二次的な重要性しかもたない。そのような2つの倫理の対抗軸に分かれるのだ。しかし、傾向は文明化の始まりからの方向にあるけれども、歴史的にはその実現に向けて多くの世紀を要したし、その発展の最後がキリスト教に到達したに過ぎない。そして今や競争的経済の影響下に、<早い者勝ち>の教養と近代社会の実践に到達したのだ。」
 「道徳意識の将来の形態については、ある意味でわれわれは、古い社会の倫理へのより高度なレベルでの復帰である、と安んじて予言できる。狭義の親族社会への視野に限るが、それは古代社会の解体のひとつの要素だったし、それは消え去るだろう。そして、社会的利益と共に、個人のアイデンティが完全になるので、2人の間のどんな離婚も平均的な人間に思いもよらぬものになろう。」
 「われわれは、結論的に言えるのだが、この新しい道徳は、もはや単なる理論上の推論ではない。何千人のひとびとが、その啓示を受けているのだ。その最初で広く知られている真理と普遍的自由の宣言は、1871年「パリ・コンミューン」の労働者階級の英雄的で献身的な行為により示された。それは、人類の一般的な生活のために、人々の心を奪う情熱で、個人の生活のためには余りにも少ない献身、それはロシアの革命家の小さな同盟の全面的な献身そのものに継承されたのだ。
 同じ感情がどこでも広がっている。イングランドでも、ブルジョア貴族の選ばれた家庭は、企業国家の本能的な狡さで、個人的なかたちで、裕福な人たちに一般的な福祉を怠らないよう、色々な機会を提供しているが、それも日々抑制が効かなくなっている。倫理的感情の波は、疑いも無く階級闘争の発展の結果であり、それは急速に危機に向かっているし、すべての階級を廃止するだろう。事実、全面的に生活を楽にし、洗練されたものにする経済的変革の単なる希望、それが段々と実現に近づくと、この倫理的な考えを可能にする。新しい経済システムが引き起こすであろう慣習が、別の倫理の形態を不可避なものにするだろう。一度、社会の経済システムの全体的変動があれば、新しい倫理観がそれに付随せざるを得ないだろう。」
 「われわれは問われるかも知れない。これらの章で進歩の教義を示してきたが、結果的に社会主義は何を発展させるのか?これだけは答えられる。社会主義は、人類の進歩の終了を否定する。われわれが今、社会主義として受け入れる、そのシステムが新しい発展の道を必然的にしなければならない。しかし、その発展は、そこで生きている未完の闘争により、われわれから必然的に隠されているが、そこでの究極のゴールは、われわれの目指してきた社会主義なのだ。われわれはまた、われわれの洞察の限界について不満ではない。ゴールは壮大で、美しく、われわれにすべての人々の知的な幸福や喜びのエネルギーのレベルアップを十分約束している。そして現在、なかんずく人類の多くの部分の人々の貧乏や転落の代償によって、少数の選ばれた人たちは、そこに到達してはいる。しかし、その少数の人達でさえ、彼らにとり生まれた時からの恐怖、つまり彼らが生きている大衆の普通の生活の恐るべき現実の苦悩からの恐怖から、ほとんど良くはなっていないような不安定な所有に曝され続けているのだ。」
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by morristokenji | 2009-03-12 10:48