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by morristokenji

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 「はしがき」と「序論」を訳出しておく。

              はしがき

 本書を公刊するに当たり、次のことを述べて置かねばならない。社会主義についての論考は、大きいもの小さいもの、対立しあうもの賛成しあうもの、最近現れたものが沢山あるが、それらを復習することは無用だ、と考えた。われわれは主題を歴史的観点から扱うことにする。これは、「実践的な」ユートピアの建設、あるいは今日、社会主義者が戦っている直面する政治的問題解決の試みと比べたら、少しもエキサイティングでないことは、判っている。他方、抽象的な経済学の論考は、完全な統計資料で装備され、他の階級に一層迎合することになってしまう。にもかかわらず、社会主義に関連する歴史的発展を連続的に描写することは、それがここではわずかではあっても、それが効果的になされれば、価値があるに違いない。われわれの計画は、必然的に今生きている、そして未来の社会に向かっての、社会主義者たちの熱望にも応えるものだ。
 われわれは、さらにこれだけは付言しなければならない。この仕事は、言葉の真の意味での「協業」コラボレーションによって行われた。著作のさまざまな部分で、一人一人それぞれ示唆を与え合ったけれども、どんな文章も注意深く、2人が一緒に考え抜いている。

                               W.M.
                              E.B.B.

              序 論

 E.A.ポーのある小説の中で、浸水した難破船の乗組員の小グループが、空腹のあまり最後に、彼らに近づいてくる船を見て、どんなに喜んで錯乱するかを説明している。船が近づくにしたがって、奇妙なことに、船乗りらしくなく、ほとんど舵を切らずに運転されているようだが、それが近づくと、喜びがあまりに大きいために、その異様さを考えられなくなったのだ。終に彼らは、甲板の上に船員を見たし、とくにお辞儀をしている一人に気づいた。彼は、異常な好奇心で彼らを見ていて、もう少し我慢するように頭を振り、絶えず彼らに微笑み、白い歯をむき出して、頭の赤い帽子が水に落ちても、気が付かないほど彼らの安全を心配していた。
 船が彼らに近づくと不意に、彼らの心が救出の喜びに踊る一方で、思いもよらぬ恐るべき悪臭が水をわたって、彼らの恐怖と悲惨に漂ってくるのを見た。それが死の船であり、頭を下げている男がよろよろした死体であり、男の赤い帽子は、海鳥により彼の体から切り裂かれた肉片であって、彼の好意的な笑いも顎が失われ、肉が削がれたからであり、絶え間なくニヤニヤ笑って白い歯が揃っているかに見えたのだ。死の船は、貧しくも哀れなものを絶望に追いやりながら、果てしない大洋に向かっている。
 われわれ社会主義者にとって、この「死の船」こそ、難破した船員がもつれ込んで人間性を希望しているように、われわれの時代の文明のイメージなのだ。愛想良く挨拶する男も、その励ましや好感の現れが、死や破滅の結末であることが判るし、その存在から必然的な悲惨さから生まれた、わが社会の富裕で洗練された階級の沢山の賞賛された博愛を、よく示している。すなわち、その内外における使命感による事業の数々、病院、協会、避難所などの種類、その魂を救う人々が住む荒れ果てた家で、過酷に働く聖職者。時折、そこを訪れる高貴で熱心な女性達。英国の何処も退屈で半分飢えている教区で、洗練された家庭の影響を広げようとしている大学出の高貴で教養ある紳士達。貧乏人にとっては、教えられなくても失敗さえ出来ない節約の徳についての思慮深い講義。身体的な純潔についてさえ理解を禁じられてきた周囲の中での道徳的価値を高める事。それは19Cの中頃以前、または国外で書かれた本の出版が妨げられ、文芸における無作法な風潮、これらが身体の無いペチコートを着た人形の生産のため、絵画や彫刻を減少に導いたのだ。すべてこれは、洗練され人間的に見えるけれども、それは救いのない、漂流した人には逃げるよう勧めるし、遠くから見ると文明の新鮮でもない笑いを誘うような骸骨を見るようなものでしかない。しかし、それに近づいてみると、その破滅の悪臭で窒息させられそうだし、空しい期待をさらに前よりも恐ろしいものにする、生命の大海のうねりの中に放り込む、空虚で当てのない虚無に向かっているものなのだ。
 われわれはそこで、近代社会の特殊性である普遍的な偽善が、それ自身現わす若干の形態について、詳細に検討しよう。現在の血縁関係の家族は、絶対的な一夫一婦制を前提にしているが、外部自身には弱い責任しか認めないし、それらの血縁関係の程度に応じて、色々な人間に感ずる愛情の度合いを制御すると称している。例えば兄弟の愛情は、好みやお互いの趣味や慣習において、義務の意味は殆ど失われるだろう。そして事実上は、そうした絆が現実的になることは少ない。また、これは時々起こることだが、偽の血縁家族は別の子供を養子にすることで壊れるし、相続人は名前の変更、秘密な憶測、また多くの無意識な儀式で隠蔽されてしまう。すべてこの時、外部に対してと同様に、家族のメンバーの内部にも、意味のない感情に充ちているのは疑いないけれども、それでもルールはあるし、ある程度までは義務の絆は感ずるが、多かれ少なかれ厄介だし、また特別な友人のように、世間の前で絶えずポーズをとる不幸な人々の耳ざわりな性質のぶつかり合いによる憎悪や口論を避けることには全く無力であるけれども、われわれ皮肉屋にとって、この弦を弾くのは決して退屈ではないのだ。注意すべきもう1つの点は、違った道筋であっても、家族の絆は近代ヨーロッパの範囲でさえ、様々な国の中で存在する。英国では、すでに述べたとおり総ての美徳、名誉、感情が家族の柵の中に包み込まれている。フランスでは、むろんこの迷信的な習慣が非常に強い。それはローマ帝国の市民法の専制支配の明らかな復活であり、伝統的な束縛がそこにはあり、英国のどんな家族より強い。家族会議が、フランスでは総ての男女に、破れない不文律の1つとして受け入れられている。男性は、25歳以前は、親から離れる事なしに結婚できないし、母と子の関係も、多かれ少なかれ英国では誇張されているが自然であり、フランスでは殆ど聖職者なみである。そして文学では、下らない著作の部類では、最高の著者でも、時には価値を下げるが、慣習的な情操の好奇心で飾られている。われわれは、家族の組織によって育まれた感情の相当な量が純粋でない、などとは言わない。われわれの救いのない胸に秘められた苦しみや苦労を持った人々に対して、やさしい感情を持つのは当然である。そして、われわれが介護される必要がなければ、特別の同情を持たないような時でも、少しばかりの親切を分かち与えようと思うのも、その通りだ。また、彼らとわれわれが、無害で発展もない時でも、そうした親愛の情を持って何年間か生きてきた以上、成年に達してわれわれの生活と彼らの感情が離れたとしても、兄弟姉妹に特別の感情を抱いて見るのは、至極当然なのだ。しかし、何の関係で、この軽くて安易な感情の頚木が、われわれのすべて、もつとも大胆な人間でさえ、非常に痛く押さえ付けられている慣習的な偽りの義務の鉄の鎖に対し、耐えているのか?その鎖は、必要な時でも、今日理解されているとおり、商業上の必要により強制される時でも、実際の慣習的な恥ずべき様々な環境の中で断ち切られているのだが。短的に言って、家族はわれわれに、落ち着いた安息できる感情や、相互の助け合いや配慮ある人間的な影響の天国を与えてくれる存在であることを示してくれる。しかし、それはその存在の理由がそっと忘れられ、その現実的な目標、すなわち相続の手段として個人の資産を保持するために、また他の家族や公的利益の形式をとるかどうか、ともかく外部の世界に対する対抗のための中軸、そんなものになっている。
 しかし、これが総てではないにしても、やはり中流階級には作用しているように、近代の伝統的な家族の最良のものなのだ。より低い階級では、血縁関係の家族が、そのメンバーに若干の実際的な保護や援助をしているかも知れないが、それは工場制度の機能で完全に破壊され、父、母、兄弟、姉妹、夫婦ともども、労働市場で相互に対立し競争している。その結果、資本家的雇い主に利潤を提供している。そこで、この”家族”なるものは、中流家族の必要性のためにだけ存在を続けているのであり、労働者階級には必要が無くなってしまっているため、彼らは本当の社会的単位を失ってしまい、それを補給する何ものも持たないのである。
 多くの人にとっては、同じような負担が、近代社会の宗教に対しても、持ち込まれる事が明らかだろう。知識人の大多数は、一連の名前や形式だけで、それ以上のものを意味しないし、われわれの生活やその熱望が含まれる世界的大問題の根本的解決を発見する者が一人やそこらいるかも知れぬが、お互いどんな立派な人もそこに位置づけられるだけだ。彼が、この点で社会に対する義務で失敗すれば、そのために傷つく。そして実際、ある地位にいる人々で、聖職主義のシステムの外にいると公言するほどに失礼な者は殆どいない。非正統派そのものは、どこか知られている党派に属さねばならないが、彼らも非正統主義の中では正統派に違いない。しかし事実として、教養人の多くは、敢えてそこまでは進まないし、また宗教の一般的なしかめっ面に賛同していると信じて幸福を感じさせてくれる社会に満足だし、宗教はまだ迷信にはなっていないが、その強固な夢を縮めさせるように実際の信仰に取って代わっている。
 一方、より反動的なサークルでは、彼らの心に対しては、ある倫理的責任から解放することを、皮肉なことに個人的に認める人々を見るのが普通になっている。公的には、少なくともそれ独自の倫理を持つことを述べる宗教を支持すると言う笑劇になっている。
 でも、いまだに道徳律が存在するし、宗教に関連を持つことが、今は偽善であるにしても、次の時代を創造するために支持される必要がある。この偽善についてはさらに、現状の生誕を道徳で隠蔽するのに役立つように使われているけれども、道徳との結びつきで浸透してきた。そして、その目標が
富や、労働者や、妻や子の個人的財産の相続である以上、これは断固として凶暴なほどに自然に結びついている。
 今日の時代のいわゆる道徳は、単なる商業上の必要、キリスト教の倫理の形式で仮装している。例えば、商業的な名誉は、それなしには存続できない商業関係の人々の必要による単なる規律に過ぎぬし、クリスチャンが「汝がなすが如く他人もなせ」などと同じように、結局のところ何でもないことに過ぎず、最大限その名において訴えられるだけだ。唯一、今日の商業道徳がクリスチャンと関係を持つのは、上に述べたように純粋に形式的なものだけだ。キリスト教の霊的象徴としての個人主義的道徳は、その究極目的として別世界とそこでの精神的救済だが、それはこの世の商業的闘争での個人の物的救済、(公然でなければ暗黙にか)究極の目的のために持っている個人の道徳の中に変形してしまう。これは福音主義と呼ばれる、質を落としたカルビン派の神学で、商業階級の中で優勢とされている。それは、これらの階級が理解可能な唯一の宗教形式であり、初期のキリスト教では詩的な神秘主義の要素や利益や損失”自然法”がそこから生まれた。そして、その概念の精神的世界に出来る限り近い形で再生産されたが、肉体的世界の一番最後を悪魔が支配したのだ。
 政治が、この非現実性を満たす、と語られるのも若干驚くべきことである。と言うのも、民主主義が最終的に勝利し、いまやその王国に入りつつあるからだ。疑いもなく、今世紀に入っての政治的出来事は、お互いが手を結ぶ関係での変革が、人々を納得させてきた。しかし、変革がやってくる前に、人々の進歩は政治家が今夢見ているのとは別の方向に進むべきだ、と理解されている。政治的自由が獲得されたのは本当だが、何が獲得されたものなのか?国のすべての政党が完成させるべく努力している、と主張する政治的自由の結果や目的は何なのか?もう一度、大多数の人々が現実に希望を失い、孤立化されるように仕組まれ、そのために彼らが強力な成功者の道具に成り下っている、それが偽りではないのか?それは、様々な形をとっている。例えば、土地は封建制の遺制から自由になっているし、利潤を生む単なる部分になっていて、貧乏な生活を低下させ、富者の巨大な集団を助けている。親や教会の牧師が、子供たちがどうするかを教えるのは自由だし、また人間の発展にとって、もっとも必要な援助を受けさせないことも自由なのだ。交易や製造は、すべての束縛から自由だし、その結果、人々の多くが生産者として、また購買層として、そこから利潤のために売ることを目的にしているが、そうした必要性に従事せざるを得ないのだ。
 この輝かしい自由の維持のために、「契約の神聖」とも言われて、政党政府が認められ、有効な手段になっている。議会のメンバーは、ここの配列では、2手に分かれ、フットボールの試合をするように、この原則では、両サイドは大きな違いがなく、時には人々の要求から、許容されたり、抑制されたりする範囲で、暴力的・党派的論争が行われることもある。しかし、その違いが存在することはほとんどなく、両方の政党によって提起される立法もほとんど同じもので、ゲームの行われる前に求められるべき安全弁なのだ。こうして”代議制議会”と言う馬鹿げたタイトルで、近代政治の無常の偽善が行われている。そして、民主主義の名前が、多かれ少なかれ寡頭制の拡大のマントに利用されているし、さらにその一方では、政治に興味を示すまともな人間が、今やほとんど名前だけになって、影のまた影になった大政党の一方か他方のもとに、彼ら自身が配置されることが期待されている。
すべての生活、家庭の、宗教の、道徳的、政治的、すべての点で、このような単なる仮面に堕してしまい、人々のエネルギーのすべての部分が、どんなものであるにせよ、実際に目標を持てない、それに向かって行動できない、彼らが現実になんであるかも理解されず、その現実の運命についても盲目になっている時、いかに芸術が、言い換えれば社会生活の表現としての芸術が、虚偽以外のものでありえようか。事実、よき日々には夢想だにしなかった心配や苦労によって生まれた、抑え切れない個人の魂の表現、美しくも力強い芸術作品が、ここそこにあるだろう。けれども、それらは巨大な環境との絶望的な闘いでの苦しい努力により、また絶大な権力行使からの動揺によって、損なわれてしまっている。しかし他方、”大多数の人民のため”に立派な芸術は存在できない。彼らは、どうするのか?近代社会の一つの現実は、産業的奴隷であり、すべての人々の生活から遊離し、身近ではなくなり、超越してしまって、大多数の行動が少数のものに支配されてしまっている。誰も、どんな人々も、彼らがそれに対し、意識的に謀反を起こさない限り、この奴隷が指示する方向に、対抗すべき何事もなしえない。こうした条件に生きている人々には、社会的な絵画や彫刻(言葉の意味する芸術の装飾的な周辺のものすべてが含まれる)を、そう思ったとしても生産することが出来ないのだ。彼らは、それが何か、という理解すら喪失している。大多数の人々は、より高い市場価値を彼らにもたらすような、そのような衣服を機械的に商売として完成する偽物の生産に強いられている限度を超えて、芸術的な彫刻には関わらない。事態のこの条件と芸術を生産してきた時代とを比較対照する、またはその違いの結果を説明する紙面の余裕が、ここでは無い。もう一度だけ、ここで言えば十分だろう。例外的な天才による、ごくわずかな仕事を除いて、一般的な公衆は作品を好まない、あるいは少なくとも理解しない、その意味で芸術は大部分が休止状態である、と。
 近代生活の色々な面、家族関係、道徳、宗教、政治、芸術などを簡単に見ても、まだ社会主義を学んでいない読者でも、悲観的にならざるをえない。最近まで、教養のある人の中にいて、文明から色々利益を引き出す事を喜んできた人でさえ、まだそれほど壊されていなくても近代のブルジョア文明が、人類社会の最後の形態であることが、殆ど共通の信念になっている。若しこの場合、われわれが悲観論者だとすれば、幸運にも文明が、野蛮時代がそうであり、進歩した国でも奴隷がそうであるように、人類の発展の一段階に過ぎないことを理解したことになる。文明は、必然的にもう一つの形態に発展するはずであり、その「傾向」を「詳細」にではないにせよ、見ることはできるし、今や社会の新しい状況が、壮大な経済的、道徳的、そして政治的変革、それこそ社会主義と呼ぶのだが、そうした変革を通して到達しようとしている事が明らかになりつつある。そして、その基本的な基礎は、労働者階級が自らの労働とその生産を制御する点まで、高められるところにあるのだ。
 読者が、この正しい見地に立つためには、歴史的方法を使う必要がある。つまり、初期の段階から商業時代の十分な拡大への社会の発展を追跡する事である。その発展は、その必然的部分となる抑圧から直接生づる働く階級の間の不満だけでなく、その働きで一見したところ利益を得て上手くやっている人々の間でも、時折様々な不調和な形での巨大な不満の塊が生まれてきたし、今も生まれてもいるのだ。われわれは、この本を終わるに当たっては、現在の社会・政治的な生活の混乱や騒動の直接の提起だけでなく、今日でも増大しつつある混乱に、最終的にとって代わる新しい社会で合理的に期待される、われわれ自身の意見を述べよう。この最後の部分は、われわれ自身の個人的な意見以上のものではありえないし、それにに大きなウェートをかけたくはないが、それだけは前提されねばならない。それは、しばしば試みられてきたけれども、誰一人自分の時代から抜け出すことは出来ない以上、将来の社会のスキームを構築するのは不可能だし、来るべき彼の宮殿も、現在の取り巻く環境によって制約を受けたり、彼自身が多かれ少なかれ本質的でない想像とせざるをえない様な、過去の生活の夢からの願望から構築されるに過ぎないのだ。
 少なくとも、大胆ながら以下のように断言できる。われわれの時代の文明が、形の上でも、本質の点でも、一切変わらない、と考える人の意見は、あらゆる歴史の証言に真っ向から反対する事になる。これは歴史の絶対視や正統的な教義から引き出される”人間性”という決まり文句への逃避で、無視するわけにはいかない。そもそも人間性も、時代の成長それ自身だし、またそれが自ら見出す条件によって、今までも今後もずっと鋳込まれるのだ。 
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by morristokenji | 2010-04-08 19:58