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by morristokenji

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 第2章  最初の歴史的な古代社会

 古代の未開状態も自然に「古代文明」に成長し、その名の意味するとおり、都市生活の形態をとった。この成長は、部族が定住を始め、その住宅が地形により守られ、共同体の富の安全を保障する心配が、絶えず犯されないようになって、さらに一層促進された。そして、これら最も保護され、その結果として繁栄した所が、Memphis,Thebes,Babylon,Jerusalem,Corinth,Athens,Romeなど、古代の大都市の核となった。ついでに言うと、Babylonは、その城壁の認められた測定が何処でも正しいとすると、それは今我々が都市と呼んでいるものよりも、城壁に囲まれた地区のようなもので、それゆえ部族のグループの防護柵に囲まれた自作地から直接発展した、と考えられるかも知れない。
 ここでは、定住の部族や民族のように、先祖崇拝の一層の発展に向かう傾向があり、特定の地域を想定して、行動や墓を次第に固定するようになった。この場所が神聖であることが、そこを共同体の生活の中心にしたのであり、グループのメンバーの数が増加して、防衛のためと同様に、共通の崇拝や交流のために群がった。このより大きな集中化が、より小さい中心(氏族や部族など)を埋没させる事になり、最終的には単なる地方的な名前だけ、時にはそれに付随した宗教的儀式だけの痕跡が残った。
  部族の定住と共に始まり、また一般の家屋敷の壁や城壁の積み上げの建設の芸術artsは、さらに全共同体の祖先eponomous(つまり実際上、あるいは想定上の部族の最初の父親)の大きな寺院のためにも使いたいという一層の衝動をもたらし、そこでは各氏族一門が、それぞれ自分の特別な先祖に即した寺院や礼拝堂を持つことになった。
 これが完成するまで、都市は生活の一単位だったし、仕事やグループ組織のセンターであり、それを取り囲む共同体の土地は、一門の資産であり、彼らの生活のために開発される一方、彼らの社会的かつ宗教的な家庭は、都市自身の中にあった。
 しかし、都市における社会的socialなことは、古代のグループ独立性が失われ、メンバーの間の実際の人間関係が無くなることにより、政治的political生活に転化した。なぜなら、これが土地の所有における変革により、市民が都市の領域部分の代表者と所有者になる事と結びついたからである。一方では、土地は現在まで社会的グループの添付であり、ここのメンバーは集団のメンバーとして、単純にその優越を喜んでいた。簡単に言えば、より初期の段階では、土地がグループに属していたのだが、今や個人が土地に属しているのである。
この変革にともなって、市場の発展が起こったが、その集中以前には、偶然だったり、突発的だったり、戦争している部族間が休戦している期間だけに依存していた。しかし、今や城壁やそこでの市民の保護の下、恒常化し定期的施設になったし、都市の重要性や権力の成長における主要な要素の一つとなった。そして、この定着し保護された市場の足場となった様々な地方や国の間の交流が、古代の歴史的時代の指導理念の一つだった都市連合へ向かうことになった。
 家財道具のような奴隷が急速に成長し、その結果、原料が奴隷の一定の労働により市場性のある商品として作られたので、土地の使用権が一層価値あるものになった。この成長する富が、狭い意味での貴族を生んだし、そのメンバーは古い氏族の自由民だった。これらのものが上述とおり大部分が奴隷を構成する人口の中に組み入れられ、また奴隷の状態ではなかったが、旧来の血縁や都市建設の特権には与らない人々だった。それは近くの村落が崩壊して出てきた氏族の片割れだったり、最高の都市に向かおうとしていた解放された奴隷だった。この大きな歴史的事例は、ローマの平民の物語であり、それはローマ社会特有な出来事ではなく、不完全な古代文明の全体を通して、様々な時期に起こったのであり、「初期中世ヨーロッパ」のゲルマン諸国に起こっていた。
 我々は、それに似たようなものもあるが、これが古代の大都市の原型と状況であったと思う。ギリシャやイタリアの共同体と共に、エジプトを含む東方大帝国も似ているし、東方の帝国のように、それは大きな都市連合に過ぎなかったが、都市自身が氏族や部族の連合から生まれたのだ。これらの帝国では、王の地位が半ば神のようであり、部族の祖先崇拝の再現である事は疑いないし、連合の集団的な祖先崇拝の形象的シンボルへ移行したのだ。先史時代から発展しつつある民族について、我々はここで以下大きく4つの部分、ないし4大文明に分類できる。第1に、最も重要なのは、ティグリス・ユーフラチィスの流域に住むもの、第2は、ナイルの流域での居住であり、第3は黄河の流域、第4はガンジス川のそれである。
 後の時代になって、発展する民族のエネルギーが、新たな発展を要求するに当たって、地中海の東部沿岸が、それらの民族の最も冒険的で進歩的な人々を住まわせることになった。彼らについては、今や我々も市民生活の発展にとり、もっとも典型的な例を提供するだろうし、またもっとも正確な情報を持っている。
 ホーマーの詩の時代には、古典的な人々の文明が、先史的な始まりから登場した。この時期の文学には、野蛮な集団社会を表わすような兆候は少しもない。完全で正当な「氏族」だったように見えるPriamの家計のイリアッドの中で説明されるだろう。また、オデッセイの結末は、近代的な文学の観点からすれば、歴史だったにしても、吟遊詩人もかわし切れない程に無目的で、拍子抜けするほどの求婚者への恨み事であり、その殺人は古代のやり方の近代的考え方に従えば、完全に正当な殺人だった。しかし、初期の社会では、それが処罰されるべき犯罪ではなく、血か血の代価により償われなければならない種族間の傷害だった。争いのメリットが何であれ、血縁の倫理が殺人者の積年の恨みを晴らし続けることになり、それがオデッセイの現在のテキストの状態になっている。
 いわゆる都市の残りの部分は、ミケネーやティリンヌのように、調査では氏族の首長の住居だったり、城壁だったり、都市文明の芽生えが出てきている。この都市の2つの典型として、長い発展を通して、ある段階では不明確だったが、ラケダイモンとアテネがある。前者は、その構造上、相互組織の大部分を保持していたし、そこから成長した集団社会の習慣にも残っていた。このことは一方において、自由人の共同の夕食や、リカーガン立法の傾向に示される。ただ、そのいくつかの例では、そこに単なる人工的で恣意的な規制、つまり発展の早い段階から具体化して生き残る代わりに、市民の好戦的な気持ちを残す意識的な結論を持つてしまった、後の説明者によって変に誤解されてきた。明白な例は、リカーガン法の説明に出てくる狐を盗んだ少年の窃盗を法律化した有名な話である。それは形式的に内密にされるなら合法的な盗みであり、無論実際何の根拠もないのだが、より近代的な個人財産の制度に対立すると感じさせる法律であるため、それは神話をエウへメロス説によって解釈する必要があった。
 他方アテネでは、変革がより過激であり、考え方も十分新しい形で断行された。それは、自由人による個人の関係による政治的社会への完全な転換が含まれていた。
 しかし、ソロンやクライスティネスの名前の残る革命では、何よりもまず集団社会が完全に腐敗した。古い氏族は、自由人の無組織な社会の中で、閉ざされた共同体へと成長したので、自由人は特権には預からなかったし、経済的には特権層により実行された金貸し業の法外で露骨なシステムにより圧迫された。スパルタでは、上記の通り、古い異邦人共同体が、新しい政治体制の中でも、大きな活動力を保持した。
 いずれにしても、新しい社会的発展の初期の段階では、それが実際上最悪とはいえないが、収益システムは、少なくとも最も直接的で明確な形で、その特徴的な悪徳を曝け出した。例えば、初期の総ての文化的共同体(最近ではグループ組織として現れているが)の中では、高利や訴訟が横行し、また他の例では、アイスランドの伝説の中で、その時代の生命の詳細な値段も示されている。また、巨大な資本家的産業の初期でも、事例は示されるが、それは表面的には「資本主義」の本質である冷酷な獣的行為であって、それらが初期にあった以上に、より深く、より広く、現代の罪悪が進行したが、その体制の下では取り返しがつかないために、さらに悪化している。
 アテネで変革が起こるや、若干の儀式的、宗教的目的を除き、古い氏族は完全に崩壊した。そして、自由な市民は血縁の一族との以前からの地域との関係を除き、領土のしかるべき地方の土地に場所を確保することになった。若干の儀式上の利用目的を除き、ここの財産には共同的な領有が生じ、古代の都市社会は、その基本においては完全なものとなった。そのように都市の連合が形成され、ドリックやイオニアの同盟は、東部のような帝国に結集する傾向ではなく、真実の連合、その単位は依然として独立の都市であって、擬似官僚制の専制君主に次第に進むような重荷は無かった。
 イタリア先住民の都市の発展は、イタリアにおけるギリシャ植民地とは区別されるが、基本的な点でアテネのそれとの違いは無かった。それは、常に古い復活のの影を若干残していたドリアンの発展とは距離があるので、古典古代の一般的なタイプと見なされるだろう。
 ローマでは、イタリア先住民の都市の最も歴史的な重要性、つまり我々がアテネの都市について述べたのと全く同じ解決が起こった。その最初の分は、「Servius Tullius」に帰せられる法律に盛り込まれて、それが財産の所有に基づいた政治体制「Centuries」を産み出した。これらが血縁グループ、Curiaeや部族に押し付けられ、それらの状態は後者に同化して行った。そのようにして形成された体制は、自由人や初期の歴史的なローマの自由民となった。平民は、もともとひ特権的な自由民を構成したが、政治的システムに組み入れられ、特権的政策を取得して、次の3世紀の間、ローマ史の要素を構成したのであり、その増加のための戦いだった。これら平民の市民は、主に最初は都市の職人たちであり、その時代の奴隷労働は、多くの面にはタッチしていなかった。しかし、最初から常にローマの共同体には征服の考えが支配し、自由人の組織が主に実際上の兵力の保持に向かうことになった。勿論、事態の必要性に基づき、初期には目立っていたが、しかし後の時期には、軍隊組織が金権階級の国家への圧力のエンジン役になった。Equestrian乗馬の秩序が、その名の通り当初はローマの軍隊の装甲隊だったが、より豊かな市民から構成されるようになり、彼らの装備もより高価になった。しかし、後になると官僚制が形成され、富の所有を示す名前だけの名誉に過ぎなくなった。
Gracchan法は、この富裕層の勃興や、ローマの貴族は人口の上では少なくなったが、それら古い貴族との戦いを指摘している。それは、最終的に共和制の最後に支配的となったが、混沌とした時代をもたらした後、ローマ史は富裕層の内部での偉大な個人層の戦いの記録だが、初期の帝国による命令に追い込まれた。後者は定型的で安定した官僚組織であり、最終的には多くの人々のために生活が我慢できるよう発展させた。事実、政治的にせよ、社会的にせよ、法廷で認められた所有権の他、総ての権利が消失した。しかし、社会の下層の者は、奴隷を含め、変革でより良くなった。富裕層は、物質的な安楽さでは、世界の歴史でも抜群になった。
結婚の制度や奴隷が、上記の社会の発展において、大きな役割を演じた。初期の血縁的共同体の集団結婚が、財産の保有における変革が明確になるに連れて、擬似一夫一婦制にとって変わった。それは、少なくともホメロス時代と同じ早い時代には強力だった。けれども、財産や相続の権利から離れて「個人的」には、非常にゆるい絆だったし、広く認知された内縁関係で補完されていたことは、文学から明らかである。
 古典古代全体を通じて、実際上は事態は同じ水準を維持していた。しかし、ローマ共和制が没落に近づくにつれて、一夫一婦制はずっと弱まってしまい、意思により解消できる契約よりも弱まり、その事実の優位性が一般化した。帝国の最後には、結婚も非常に面倒なものになって、それはほとんど元に戻らなくなり、女性奴隷との性交で満たされるようになって、結果的に子供が後回しになって、人口が明らかに減少し始めた。
 この問題は、自ずからローマの家族の検討につながる。それは、家計もしくは家父長制家族のトップの絶対的権力の下、妻、子供、奴隷の総てが構成されていた。家父長制家族との関係を通して、家族は結びつき、保護された。家長が彼らを防衛し、一般的な保護者である以上、絶対的権力の直接的な下ではないが、実際上は経済的、社会的な絆によって、彼に結びついていた。様々な違いがあっても、血縁グループとのこの関係こそ、東方の一夫多妻の族長家族との境界と同じぐらい、明白である。総ての家族のメンバーの中で、端的に司法としても、家父長家族の死活問題が、単に形式だけでなく、実際上の問題だったことが想起されるべきだ。それゆえ一夫一婦制家族は、氏族が初期の集団社会でそうだったように、古典古代においては最低の単位だったようだ。そしてまた、個人の政治的社会への移行の働きは、古典的家族と原始的氏族、ローマ法王庁、部族との相違から、非常に明確である。
 寡頭政治家は、民主主義に支持を見出して、より有能なメンバーの野心により、この社会的国家の支配者となったが、自滅的だった。そして間もなく、彼らの中核だった絶対権力者への道も与えられた。彼らの場所は、いわゆる専制政治のギリシャ世界、また帝国によるローマ世界に確保されたのだった。
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by morristokenji | 2010-05-16 18:56
 モリスとバックスの共著『社会主義』は、はじめ「社会主義同盟」の機関紙『コモンウィール」に連載され、1893年に共著の形で公刊された。共著には、すでに訳出したように,「はしがき」とかなり長文の「序論」が加えられたが、さらに古代社会と中世社会の部分が書き換えられ、大幅な加筆が施されている。その事情については、別に検討して解説したいが、そのために共著の目次―論文には目次はないが―において、はじめの3章が6章に拡大し、内容も豊富化された。したがって、まず共著を訳出し、論文は補注の形で参考に供するのが適当であろう。

 第1章  古代社会
 今日の体制が、時代の発展からもたらされ、また、現在われわれの意思が、その変革について無気力になっているし、そうなってしまった。しかし、また「古代のやり方」に立つ立場から見る人々は、事実そのものがその立場を批判している点を見損なっている。進歩的な気持ちの仕事は、変革の到来を認めるし、その隠蔽を暴露するし、それを受け入れて詳細に組織する。けれども反動家は、変革を否定したり、中和させて本質でない変化だと主張したりするが、今日すでに発展そのものが到達した点だと主張したいのだ。彼らは、一時的なことを、永久的なことにしてしまおうとしている。それゆえ、しきりに現在を、過去の記録の中に読み込もうとするために、歴史を駄目にしてしまう。歴史は単に実際の事実の連続ではなく、それを通して社会が直ちに、またずっと長い間、今実際ある形になるように本質を具体化させてきた。その道のりが切られて、Wれわれ自身その一部なっている現在の社会と一体になっているだけだ。事実、そのダイナミックな面で見れば、変革の医局と患者みたいなものだ。18世紀の歴史の見方は、完全に上記の概念の狭隘さに基づいていいるのであり、それが人々を「ホーマー」を文学者と見なしたり、ドライデンやポープが言うように、リュクルゴスを初期のジョンソン博士と看做してしまったのだ。
 将来の社会生活への希望は、過去の戦いに含まれているし、実際またそ新たな変革への戦いから生まれた現在の体制を造り上げてから、それを我々が意図するか否かに関わりなく、より一層の変革を求める現在の立場に迫ってきた。
 近代の文明社会は、個人的利益と社会的利益、個人的所有と共益的所有、さらに単純で限定的な親族関係と、複雑で拡大する政治的全体、もしくは個人を超えた国家との間の対抗関係から発展したし、それが原始的社会を文明社会に転換させた。
 社会のこれら対立する状況の差異は、事実上、有機体系と機械体系との間のそれである。初期の状況では、そこでは総てが、芸術、科学(それはずっと進んだが)、法律、産業が、属人的だった。この状況は、生きた身体の総てが、そこでは総てこれらの要素がメカニックになり、メカニカルな生活を形成するため結合しているし、物質的にも、道徳的にも機械の生産物に過ぎないのだが、そうした文明状態と対立している。
 われわれの産業や芸術の総てが機械で生産されていることは、余りにも明白な事実なので、ここでさらに説明する必要はない。しかし、人間生活の他の分野にまで、このシステムが支配的になっている点は、それほど明白ではない。例えば、血縁間の宿怨や贖罪金が初期の、または”慣習的”な「刑法」の基礎だった。違反者の罪は、積極的というより消極的だった。慣習法では、社会的保護が違反者に適用されなかった。しかし、政治的な法律では、社会自身がしかるべき人に委任し、その人が犯罪または彼の犠牲との個人的かつ社会的関連をもつことなく、彼を機械的に処罰しなければならない。そこで違反者は、社会の利益から排除されたり、無視される人間として扱われずに、その破壊者として敵になったり、毀損状態の存在になり、社会がそれに責任を持たねばならなくなった。 
 刑法という機械では、最初は警察から始動する。裁判所は、厳格かつ迅速な機械的ルールに従って陪審を行い、そのルールに基づいて陪審で表決され、犯人は同じ方法で判決を受け、そのあと牢番に引き渡される。彼もまた、決まっている機械的順番で拷問にかけざるをえないし、その犯罪や経緯について多分何も知らないし、名前ではなく番号によって、同じ囚人を区別しているだけだ。
 同じ事が、明らかに市民の行動についても言えるのであり、それは、いずれにしてもより日常的な性格になっている。富を富としてではなく、『財産」だけのものとして守る。このような狂気じみたケースとして扱われると、その関心が財産を守ることのみに置かれ、人間の扱いが別のもの、また補助的なカテゴリーに置かれる。この機械的な法律の利用と、慣習的な使い方に従う族長、ないし「同輩中の代表」による調停との差異は、明白である。
 どんな種類かはともかく、人類のいかなる人種も、一つの社会以外に、存続した痕跡がない点は、受け入れられるはずだ。生存できずに衰滅してしまう例を証明することは、僅かな例としては事実と考えられる。発見可能な最低の段階の原始社会でも、細部まで協業がかなり発達していたが、道具の知識は殆どなかった。鍬が発明される以前に、耕作の行為があった例が挙がっているし、そこでは大地の畝に単なる丈夫な棒が、一群の農民により打ち込まれ、土をひっくり返す際に持ち上げる結合の手段とされていた。実際、労働が行われる限り、ノルマンジーの遊牧民の状況でも、協業だった。しかし、自然に対するより大きな力の開始が、主に労働の協業における進歩によりもたらされ、社会のより複雑な形態が生まれ、それが我々の限定された知識に夜最初の社会なのだ。土地が共同体の富の根源と理解され、その上で牧場にせよ耕地にせよ、共同体の他の共同体へに一定の財産と理解された。「財産」の(所有に対立する)個人的占有の権利が完全に利用に基礎を置き、だから衣服や武具やその種の個人の装身具を除き、共同のもの以外は存在しなかった。この事は、一見矛盾するかに見えるが、例えば古い武士の武具の埋葬が、あの世の土地でも彼が使用するのに必要と考えられ、それゆえ彼と共に埋葬される事が、原始的な慣習からも理解されよう。
 このように原始的共同体は、狭隘な閉鎖的グループの形をとっていたが、実際にも、また想定されてもいたたが、そのメンバーの血縁に基礎を置いていた。この社会には、3つの統合の体型があり、氏族Gens,部族Tribes,民族Peopleである。種族は、実際の血縁に基づくグループだし、そこでは重婚が禁じられ、別々に生存できなかった。しかし、他の種族との補完を計らねばならず、男性”Eagle"は女性”Eagle"と性的関係がもてない以上、雑婚のための手近な”Wolf"が存在する。
これら種族Gentesは合体する傾向を持つのであり、部族Tribesを形成する。ここでもまだ血縁が前提されるが、実際上は必要ではない。時が経つに従い、種族は部族の中で、自立した存在ではなくなりがちだからだ。その代わりに部族が、より高度な統合として出現するからであり、その部族の連合体である民族Peopleに進むが、そこでは形式上も伝統的な血縁が一般的に単なる神話に過ぎなくなる。
 最初、Bachofeuによって提起された見解が、今は一般的に受け入れられているが、はじめ種族では家系が全体的に母親を通して継承されたので、結果的に母親がそこでは支配的要素と理解され、Herodotusによって指摘されたように、Lyciansのそれが歴史的な家系の例だった。
 この時代に「東方民族」Oriental Racesの中には、社会生活の単位として、家長制的家族が種族にとって変わった。ヨーロッパでも、本質的には同じようなものが、形は変わっていたが、Roman Familiaとして成長した。それについては、後で扱いたい。付け加えると、アラビアのBedouinsの間での生活の実際の状況は、種族と部族のそれとの家長制社会の不思議な混合を示しているようだ。その他、一般的に原始的な家長制家族は、種族の長老により始まった性的交流の格式の特権から生じた。この点は、他にもLevirateとして知られる慣習からGenesisやGospelsの中で「長老に種付けされて育った」によっても指摘されている。その最後に現れたのが、中世の慣習法である「jus primae noctis」だったし、それに付随するBorough Englishの保有tenureである。それは家長制に特有の一夫多妻制が発展し、最後に一夫一婦制に行き着くのがこの流れであった。
 これら上記のグループは、種族・部族・民族のどれも、基本的に閉鎖的である。彼らの限られた中での平和と資産の共同体のルールだった。戦争の状態は前提されなかった。明確なのは、戦争ではなく、平和だった。例えば、市場は2つの社会グループの間の中立のゾーンに開かれ、そこで両者が会って商品を取引した。
 事態のこうした状態からもたらされた引き続く戦争が、必然的に奴隷を生み出した。この奴隷は、相互に区別される2種類のものからなっている。一定の人口を征服し、攻撃の終わった後、移住性のある部族、または民族は、領主にサービスする状態で、征服地に住むことを余儀なくされた。彼らは、征服者の農奴である。
 種族や氏族の相互の度重なる戦争は、もう1つの奴隷を生むことになった。捕えた側が、自分たちの生存以上のものを生産するかどうか、労働に使えるかどうか確認するや否や、捕虜は地上の戦いで殺されずに捕えられ、これが牛、馬と同様に、征服した集団の実物資産となったが、これがChattel Slave奴隷の始まりであった。
 血縁社会の長は、本来の継承者の代表としての地位により、その富とその戦争のリーダーの後見人だった。しかし、戦争がだび重なると、世襲の首領のほかにも、別のリーダーを作り出した。これらは、平凡な親族の男より、自ずから支配力を高め始めた。一方、生産力は上昇していて、石の道具が青銅に変わり、それから鉄に変わった。遊牧部族は、原始的な野草から穀物を生産する技能を発見して定住を始め、ミルクやミール、パンのついた新鮮な食事が補給された。富が増進し、限られた自然資源の中で、抑制された人口の直接的な必要性を上回り始めた。
 それゆえ単純な必要性を上回る富の剰余が存在する以上、分配が不平等になり始めたし、世襲や選ばれた指導者が、富の普通の標準を超えて消費するようになり、階級社会が現れ始めた。その最初の表現が、首長とその直接の家計である。
 この時までに古い遊牧部族は、村の定住型共同体の生活に戻ったし、そこは耕地に囲まれ、防壁により全体が囲い込まれた。山や丘陵の地方には、Bury又はBurgと呼ばれる丘の上の要塞がそびえた。そして、このburgに囲い込まれた村の中で、我々は「都市」の最初の要素を持つことになる。
未開状態の宗教は、普遍的なアニミズム(精霊崇拝)と結びついた祖先崇拝だった。つまり、世界中のどんなものの概念も、生物だろうと無生物だろうと、人間の意思や意識を付与されると言うものである。原始宗教のこれら二つの要素の出会う点は、集団のトーテム(崇拝像)であったし、それは特別な宗教的尊敬が払われる動物や植物であり、そしてそれは祖先のシンボル以上のものだし、また事実上、祖先それ自身であるともみなされたのだ。それは、我々近代人には原始人よりも自然から離れれば離れるほど、この考え方を生み出した心の状態を受け入れるのが、ますます難しくなっている。反映の能力の発達が、感覚の直感を鈍らせてしまい、それゆえ初期の人には現実とされた多くのものが、我々には不合理にも受け入れられなくなっている。けれども、自然に近い関係にある子供には再現される例があるように、例えば彼らのあるものは、ペットや玩具などを自分たちと同類の友人として受け入れられるのだ。
 我々は、ここで次のように云うことができるだろう。若干の人類学者は、野蛮な種族の現在の状態と、進歩した種族の祖先の状態の間のアナロジー引用して、これらの状態ガ同一だと受け入れるのに、自信があり過ぎるように、我々には見える。今日の野蛮人と初期の歴史的な民族との間には、本質的な差異は無いかも知れない。違いは、前者の場合、野蛮な状態を超えて発展することが禁止されているだけで、それゆえこれら歴史的な民族も、現代の野蛮な民族とまったく同じ社会の状態を通過することは無かったのだ。  
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by morristokenji | 2010-05-06 17:05