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by morristokenji

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  以上、古代と中世の部分を訳出したが、すでに目次からも分かるが、「コモンウィール」の連載論文と比べて、『社会主義』が公刊されるに当たり、古代・中世の前近代の部分が大幅に加筆された。論文では3章に過ぎなかったものが、6章立てに膨らんでいる。なぜ、このような膨大な加筆が必要だったのか?しかも、近代社会以前の歴史分析にページを割いたのは何故なのか?その設問に答えておく必要がある。
 1870年代から80年代にかけて、社会主義やマルクス主義をめぐり、欧米で論争の高まりがあった。モリスもまた、そうした論争への興味から、社会主義への関心を深めたように思われる。すでに資本主義社会は、イギリスを先頭にヨーロッパから米大陸へ、さらにアジアの日本も巻き込みながら、世界的規模に拡大した。その世界市場では、工業化による高成長が実現されたが、同時に約10年を周期とする景気循環と金融恐慌が繰り返された。金融恐慌(Financial crises)は、1848年のヨーロッパ大陸の革命情勢のように、マルクス・エンゲルスの恐慌=革命テーゼに直結するどころか、むしろその後の経済成長のバネとなった。しかし、周期的に繰り返す経済危機は、資本主義を批判し、否定するイデオロギーを助長し、新たな政治的運動を生み出した。
 こうした事情について、Max Beerの『イギリス社会主義史』は、第4篇「近代社会主義」の冒頭で、「近代の主要思潮」を時期的に「1855年から1920年までの65年間は、はっきり三つの時期を示している」と述べ、まず第1の時期は「自由主義の最高潮」の時代であり、「チャーチィズムの崩壊に続く20年間は中流階級の自由主義の黄金時代をつくった。」と特徴づけている。「それは、一方では労働組合主義の合法化のための闘争であったにしても、社会的平和の時代であり、およそ1880年ごろまで続いたのである」と。
 しかし「第2の時期は、自由党との新しい協力者としての労働者組織の興隆と、国家および都市社会主義と新労働組合主義の誕生と発達によって特徴づけられる。1875年以降、自由主義の栄光はしだいにかすんできて、1880年から1890年までの間に、その不適当なことが明らかになった。1873年および1874年には、鉱業、工業および農業地域で大きなストライキがおこり、また労働者がはじめて下院議員に当選した。これらの大事件に引きつづいて経済上の不況が襲来し、自由貿易は繁栄を維持できなかった。」「正統派経済学の教条はまさに疑われるにいたった。土地所有権制度の改革運動は勢力を増した。<国有化>という用語が創りだされた。社会主義の諸団体が発生した。H・M・ハインドマンによって設立された社会民主連盟は、マルクス主義の階級闘争論を宣伝し、シドニー・ウェッブを最初の代表者とするフェビァン協会は、社会主義を実際政治に適用しようとし、独立労働党はJ ・K・ハーディのもとに古い自由主義労働運動の指導者たちを信用しないで、新進の労働組合推進者たちに社会主義の精神を注入するために全力を注いだ。この年代は労働者階級の心をとらえるために、自由主義と社会主義とのあいだに激烈な闘争がおこなわれた時代であった。」
 ついでに第3の時期についてだが、「自由主義労働運動は1900年以来衰退しつつあった。その年労働党が組織され、J・R・マクドナルド、ハーディ、およびピート・カランの指導のもとに急速に発展した。1906年には、この政党は独立の政治勢力として議会にはいった。チャーティズムが復活し、国民はまもなく蔓延した労働不安に脅かされた。この不安は量的にもまた革命的熱情においても、その後ますます増大していったが、その原動力は産業民主主義に対する、多かれ少なかれ意識的な欲求であるように思われる。――この目的が達せられるには、もはや国家社会主義または集産主義でなく、直接行動により、経済闘争に従属した議会政治の方法によるべきものである」と述べられている。
 いうまでもなく、第2の時期に於ける労働運動や政治運動の高まりとの関連で、自由主義への対抗軸として社会主義の思想と運動の高揚がみられ、マルクス主義やモリスも参加した「社会民主連盟」の結成などがスタートした。社会主義をめぐる論争も、こうした社会的・政治的運動の高まりと結びついて、運動の内外で行われたわけだが、論争の軸として国家社会主義ないし集産主義の方向をめぐる提起があった。
 モリスの代表的著作となった『ユートピア便り』は、『社会主義』が理論的・歴史的著作だったとすれば、アメリカで1888年出版されたE・べラミー『顧りみれば』への批判的、論争的な「ユートピア物語」として書かれた。『顧りみれば』が、国家社会主義の立場からのユートピア文学だったのに対抗して、その立場を批判して共同体的社会主義を未来世界として描いたのであった。国家社会主義VS共同体社会主義の論争であり、思想的、政治的な対立だった。この根源的対立は、マルクス主義に内在する論点であり、唯物史観から『資本論』の理解そのものに関わる、重大な論点である。しかも、マルクスは晩年、共同体の歴史的位置付けをめぐって、ロシアのナロードニキ派から厳しい質問を受けていた。
 ヴェラ・ザスーリチは、ロシアの同志を代表し,1881年2月16日にマルクスに手紙を送り、ロシアの村落共同体の運命について、『資本論』にもとづいて「村落共同体は古代的な形態であって、歴史により没落すべき運命にある」と主張されているが、その是非を問うた。その質問に対して、マルクスは3月8日に回答し、「あなたが、私の学説と称されているものに関する誤解について、少しも疑念をいだかれないようにするには、数行で足りる」として、『資本論』のフランス語版を引用して以下のように回答している。
 資本主義的生産の根底は、「生産手段との生産者の徹底的な分離が存在する。‐‐‐この発展全体の基礎は、耕作者の収奪である。イギリスほど徹底したやり方でそれがおこなわれたところはまだない。‐‐‐だが、西ヨーロッパの他のすべての国々も、同じ運動をたどるであろう。」このように『資本論』に書いていたのだから「この運動の<歴史的宿命>は、はっきりと西ヨーロッパ諸国に限られます。この限定の根拠は、第32章の次の文に示されています。」として、さらに「自己の労働を基礎にした私的所有は‐‐‐他人の労働の搾取、賃金制度を基礎にした資本主義的私的所有にとって代わられるようになる。」「ですから、この西方の運動では、私的所有のひとつの形態から私的所有の他のひとつの形態への転化が問題です。これに反して、ロシアの農民にあっては、彼らの共同所有が私的所有に転化されなければならないでしょう。ですから、『資本論』であたえられた分析は、農村共同体の生命力を肯定する理由も、否定する理由も提供してはおりませんが、しかし、私がおこなった特殊研究によって、‐‐‐この共同体がロシアの社会的再生の支点だと確信するようになりました」と。
 マルクスによる回答は、所有法則の転変に関する、さらに唯物史観に関する、重大な考え方の転換が提起されているが、今はここでは立ち入らない。後に『資本論』が解説される箇所で、詳しく検討したいと思う。ここでは、マルクスが労働力の商品化、賃労働の形成には「生産手段との生産者の徹底的な分離』だけが必要であって、①「自己の労働による私的所有」の小商品生産者の広範な成立、単純商品生産者の「市民社会」とその崩壊は、イギリスなど西ヨーロッパの一部の特殊事情であり、ロシアのような共同体社会の崩壊もありうること、そして②共同体が「ロシアの社会的再生の支点」だと確信している、指摘が重要である。
 さらに、ここで強調している「特殊研究」だが、ザスーリチへの返書そのものは、ごく短い簡単なものである。しかし、この簡単な返書を準備するのに、マルクスは4つの下書きを準備した。そこでは、じつに詳細な共同体についての研究、とくにL・H・モーガン『古代社会』1877刊などを参照しているのであり、実際マルクスは『古代社会ノート』(L・クレーダー編1972)とよばれる研究ノートを残している。これらの経緯を見ると、マルクスはモーガンの研究を読み、その後に原始古代、中世の共同体についての研究ノート作り、それを「特殊研究」と呼んだのだろうが、時期的には80-82年頃で、その過程でザスーリチへの返書が準備されたと推測できよう。
 エンゲルスも、マルクスの死後になって、「古代社会ノート」などの存在を知り、84年に『家族、私有財産、および国家の起源』を書いた。こうした事情からすれば、マルクス、エンゲルス、さらにモリスやバックスを含めて、マルクス主義のサークルの内部において、共同体を巡っての議論が進められていたと言えよう。併せて、アメリカでは上記ベラミー『顧りみれば』など、国家社会主義の運動も台頭していた。そうした思想状況のなかで、モリスの『社会主義』が刊行されたとすれば、やはり前近代社会の古代、中世の記述の中で、家族や共同体について、詳細な加筆、説明の追加が必要だった事は、容易に想像できよう。
   
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by morristokenji | 2010-06-23 11:44
    第6章  中世期の終わり

 1350年頃までに、職人ギルドは自由人と同等可能な社会として十分発展を遂げた。そして、その日付は、中世期の前半の時期の終わりと受け取っていい。
 この時期までに、農奴制もまた、ギルドや自由都市によって変化し始める。農奴は、一部が都市に流出し、ギルドに使われるようになり、一部は自由人になったが、生活の基盤であった土地の保有は、不自由であった。こうした農奴制崩壊への動きは、ワット・テェイラー、ケントのジョン・ブル、東部のジョン・リスターによって指導された英国の農民戦争によって示された。これらは、解放されたり、未解放にとどまったりだが、運動をチェックしようとする貴族の努力に対抗する、結束したヨーマンの回答に他ならなかった。
 しかし、職人ギルドの成長と都市への自由な農奴の集中は、産業主義におけるもう一つの変化に基づいていた。中世期の後半とともに、独立職人・ジャニーマン、いわゆる自由な労働者が現れた。親方や徒弟の他に、工房にはこれら「自由な労働者」がいて、彼らはギルドの支配下で、それに加入させられているにもかかわらず、特権を持たない働き手であった。しかし、中世の生活に本来的な共同Associationの考え方は、非常に完全なものだったが、それでもギルドの影響下で、まもなく崩壊への第一歩がやってきた。とくにドイツでは、ジャニーマンのギルドが、中央ヨーロッパ全体の完全なネットワークを形成する上で重要だった。どんな町でも、ギルドの前にジャニーマンが現れると、預からざるを得ないし、生活や雇用の面倒も見た。英国では、ジャニーマン・ギルド設立の試みは殆ど成功しなかったが、それは恐らく遅過ぎたからだろう。
 このギルドの人間が、今や特権的な働き手になり始めた。そして、それとともに今やこの要素から顕著になりつつある、交易面でのもう一つの発展に合流して、現在の中産階級の基礎が出来始めた。1453年にトルコによるコンスタンチノーブルの占領、その結果として、ギリシャの文書が発見、解読されるようになった。中世の教会の迷信、人々の伝統が残る古風な悪用、不十分な理解、などから脱却し、新しいもの、復活するもの、についての学習が勃興してきた。新しい印刷技術が1470年頃までに、驚くべき速度で拡大し始めた。すべて、こうしたことが中世の商業社会への移行を準備した。
16世紀の始め以前に、職人ギルドは他のものを、無意味なほどに減退させたが、しかし基礎となった精神も、その間に廃れつつあった。それらは元来、彼ら自身が選ぶ役人に統治される、平等な技能社の社会だった。また、彼らの規則も、資本主義の成長には対抗的な方向を持ち、例えばフランダースの織布業のように、一人の親方の織機の数が4台に制限されていた。ギルドの地位も一時的で、どんな徒弟も奉公人も、時とともに親方になれた。しかし、今やそれが変わりつつあった。暫くしてジャニーマンが召使サーバントの名前で、工房に現れるようになった。入会料も安くなり,金の価値の下落より名目上は甚だしく、職人社会に必要な貢献よりも、むしろ独占的な企業への参加を購入することを意味していた。端的に言えば、16世紀の中頃までにギルドは、労働により奉仕される資本の発生以上のものを含むようになり,ここからの完全な資本主義の優位な発展のための環境は必要ない程になった。
 ギルドとは別に、資本家と自由な労働者の2つの階級が、商業の発展からも生まれた。それらは、進歩のための手段として、共に必要だった。中世の商業は、資本家的交易と関係なく、地方市場の需要は、様々な地方や国々の生産の余剰の物々交換や売買により供給されていた。この総てがいまや変革され、世界市場が形成され、底に総ての商品が流入せざるを得なかったし、その新たな商業の担い手として、貿易商人の階層が成長した。そして、十分に順序だてられた秩序を以って、古い階層社会を急速に崩壊させる中で、たちまち権力を手に入れた。
 コンスタンチノープルの没落は、アメリカ発見から30年後だが、レヴァノンやババリアの都市の古い交易ルートに最終的に取って代わったのは、喜望峰航路の年だった。そして、今や地中海は、大きな商業の海ではなくなった。遠隔地への若干の停留所以上のものではなくなってしまった。中央ヨーロッパの町、例えばアウグスブルグ、ヌーレンバーグ、ミュンヘンやハンザの都市などは、コンスタンチノープルの子供であるベニスやジェノアと市場を分け合うことになった。もはや、ヨーロッパの支配都市はなくなった。しかし、封建制度を打倒するのは、商業都市の勃興だけではなかった。彼らが敵とした封建貴族を征服しするとともに、官僚的君主制の支配の掌握にも没頭し、それを彼ら自身の領有のために把握したり、征服や集中のためのプロジェクトの手段として利用した。例えばチャールズ5世は、南部ドイツ、オーストリア、オランダ、そしてベニス、いずれもいわゆる「神聖ローマ帝国」の範囲だが、このゲームを一緒に演じた。一方、彼はまた同じ時期に、結婚によりスペインをも手中に収めた。そして、彼の擬似封建帝国を軽視しながら、これら諸国を現実的な官僚国家に纏め上げるのに全力を挙げた。フランスでは、都市の自由が、ルイ11世とその後継者によって崩壊した。英国でも、ヘンリ8世が宗教的な家屋の盗奪により、貴族の形成が可能になり、彼の絶対主義に従属させた。その代わり、最後の市民戦争により、古い封建貴族が没落することになった。
 どこにでも近代の政治的官僚国家が発展してきた。フランスでは、ブルゴーニュ地方とアルマニャック地方の派閥戦争が、君主の専制の機会を与えたし、ついにはルイ11世が最大の成功を収めたフランス王の先駆者となり、その最後の一人がルイ14世である。英国では、ばら戦争はフランスほどではなかったし、合い争った貴族の家臣団や家族として以外には,人民はその僅かな範囲で、役割を演じたに過ぎない。しかし、それにもかかわらず彼らは、封建制の崩壊において、絞首台や戦争で貴族を殺害して狭めるだけでなく、英国を世界市場に引き入れるのを直接助けたのである。
 中世の制度の下で、労働者はマナーの領主やギルドにより保護されるとともに、抑圧されていたし商業による必需品は手に入れられなかった。農奴は領主によって、彼らに割り当てられた生産の部分を食べるだけだった。ギルドの手工業者は、自分で作った生産物を、中間の人々の仲介なしに近隣に売った。どちらもまた、大きな市場にへの供給のためには何も残らなかった。
 しかし、イングランドは世界で最良の牧草地の国の一つだが、もしマナーやヨーマンの所有の耕地制度の制約がはずされれば、利益を稼ぎ出すだけの余力があった。地主は、長い戦争のため衰退していたが、英国産の羊毛への需要を見て、民族的にも世界市場の当時の支配を勝ち取るためにも、多くの元気だが無法な三百代言を駆使して、発展を助けようと使命を持つことになった。請負農家は法外に高い地代を払い、ヨーマンは土地を没収され、労働者は土地を追われて、町で「自由な」労働者として働くことになり、こうして英国は商業にその地位を確保することになった。しかし、そのために素朴な快活さ、豊かさ、また精神的な自立を失ったが、それ以上に重要な事はなかったし、英国よりも、もっと封建制やその悪用により崩れていた海外の人たちから、再び尊敬を勝ち取る事になった。
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by morristokenji | 2010-06-18 14:59
  

       第5章  中世の粗野な面
 中世期の社会構成の結論的な描写は、無論一般の人々の心の中にある時代の考えと一致する。最近の啓蒙的な歴史家の調査や労働にも拘わらず、世紀の初期のHallam、後期のGreen,Freeman,Stubbsのように、中世の説明の目的が、単なる強奪、混乱の時代から、近代社会の平和、秩序、繁栄への脱却を賞賛する点にあり、ブルジョワ歴史家による考え方が受け入れられてきた。
 他の時代と同様に、疑いもなく中世にも、粗野な面はあった。しかし、そこには本物の生活や、その進歩もあった。 我々が見たように、封建社会の階層秩序における一面が示されていて、それほど無法なものではなく、逆にそこでは法がある程度慣習を受け入れていた。そして他面では、我々が続いて考えなければならない時代の欠陥に対する代償が存在した。
 けれども今は、中世期の粗野な面に眼を向けよう。中世期のマイナスと近代生活のプラス面の間のコントラストを強調して描いてきた人々は、上記の代償を見ることが出来ない環境や性格を持っているからである。
 中世の生活の欠陥は、第1に生活の粗野な事や物質面での満足の不足に帰着する。第2に、生活の中での抑圧や暴力の要素、そして第3に、彼らの心から、我々の真実が隠されていた事への無知や迷信によるものだった。
 生活の粗野な面いついては、彼らの目の前で持つことができない、また心に抱くことも出来ない、満足の不足を人々が悩まない点が想起される。実際今日では、飛行機に乗ることができない事実によって不幸ではないのに、我々は飛行する事が、急行列車よりも進歩した喜ばしい方法だと思っている。人々の感覚というのは
、容易に周囲の事情に適応するし、その中にある不便さについても、それを利用できない人には感じられないものだ。この考えも、それを維持しなければならない人を不利にしなければ欠陥を表明するし、又生活の単なる外面的な粗野が不利でないことを認めるはずである。最後に、何の準備なしに近代の人々が、中世の状態に移し入れられればショックだろうが、中世の人が入れ替わって近代のロンドンの「満足」の中に入れば、多分すぐに病気になるだろう。
 もう一つの考察は、それ以上にもっと深刻であり、我々の自己満足を近代文明が動揺させるように計算されていて、つまり中世において、どんなに有利であっても、我々の人口の大部分には共有されないのだ。わが不熟練労働者階級の総てが、食糧、住宅、衣服について、中世のそれに相当する極く末端の階級のそれより、劣悪な状態なのだ。
 次に中世の無知や迷信いついて見よう。主に無知は、初期世界の自然信仰=アニミズムの復活の面を持っていたが、普遍的概念では、純真ウブ=ナイーヴを意味した。無知は野蛮の選択の問題ではない。逆に、真理や知識の後に続く、鋭く偏見なき洞察が存在する。そして、未知なる者の発見の領域の事実こそ、動作つえの驚き、科学的創造の魅力を加える事になった。また、我々にとり迷信になっている事も、彼らには科学であった事を忘れるべきではない。あらゆる可能性において、我々の科学は、将来の時点では、迷信だろう。今日、日常的に受け入れられている「物事の性質」についての科学的説明も、真実の知的満足とは適合しなくなっている事が知られている。天文学のプトレミー理論も、その時代の資料では十分だった。しかしコペルニクスの体系では、今日の普遍的知識の現状による説明としては、限定的である。世界はプトレミーの説明に戻る事はないだろうが、そのとき進められたものよりは進歩するだろう。
 暴力や悲惨への非難の取り扱いが残っている。悲惨いついては、部分的には暴力の結果だし、部分的には確保できる自然資源が限られていた事に基づく。その表現が、我々の時代の生産における悲惨よりドラマチックだったので、その距離から見ると、その時代彼らにとっては恒常的に重荷では無かったのが事実なのだが、日々の生活が見劣りする結果だった。我々の時代、どんな悲惨ことがあるかは、発作的なこと、偶発的なことではなく、我々が住んでいる体制に恒常的、かつ本質的なのだ。19世紀、上手く行っているブルジョアも、中世の拷問、首切り、大虐殺の悲惨さに身震いする一方で、彼ら自身の近代的な悲惨さには感じないため、現実にこの悲惨さに光を当てることが出来る。また、わが商業化時代のプロレタリアは、彼の負担を担うのに苦しんでいるが、汚いトラブルのプレッシャーに押し潰されるだけでなく、彼の目の前に毎時間のように突き出される彼の主人、つまりは持てる階級の豊かで安逸な生活との間のコントラストに注目できないでいる。中世の時代に、暴力や苦悩は一つの階級だけに降りかかることなく、全体的にコミュニティの中にいる多数の者に降ったのだった。王家の人でさえ、とりわけ神に捧げられた沢山の例が見出されるのであり、「王を撃て、そして民衆を助けよ」これがバラ戦争の追跡の中で上がった叫びだった。不成功に終わった政治家は、わずかな文筆労働や彼の過去の失敗への謝罪で味付けされた、安易で快適な田舎の邸宅に引きこもる事は出来ず、最大限の多数についての計算違いのため、彼の頭か、身体的拷問で支払った。
 さらに、その時代の生活の非常な粗暴さや冒険心が、今よりも身体的な苦痛には敏感にさせなかった。彼らの神経は、今の我々のそれより太かったし、拷問や死への評価が余り重くなかった。この歴史には、沢山の証拠がある。
 さらに死は、彼らの生命の過程における一時的な中断に過ぎなかったようだ。その時代の人々は実際、単純かつ絶対的な事実として、「生命の持続」を受け入れていた。将来の状態への確信は、まだ単なる漠然とした比ゆ的な表現ではなかった。今日のように、彼自身その実現を考えなくていいような時代ではなかった。それは、彼らにとり手で毎日触れるよう様な実際的なものだった。ここでは、聖人や神秘家、聖フランシスやシイエナの聖キャサリンのような中に生きていた。初期のキリスト教徒に生命を与えたように見える、神やキリストが一体となった精神的な信仰とは異なるものであるのは明白だろう。
 簡単に言えば、中性に存在している神秘性は、その本質において、我々のものとは異なっている。一片の証拠だけで決論を下せる。中世は、本質的に民衆芸術の時代、人々の芸術なのだ。その時代の生活状態がどうであろうと、彼らはそれ自体をとっても、沢山の眼に見える触知できる美の大量のものを生産したし、その時代の斑な人口を別に考えても、極端なものだった。その中から生まれた悲惨は、それが何であれ、全体として似てはいないし、近代のホワイトチャペルの貧弱さよりもはるかに低級とは言えないし、そこからは近代の博愛的なセンチメンタリストやその同盟者、印象派の小説家や画家によるスラム街の理想化にも関わらず、芸術のわずかに薄い閃きすら感じさせないのだ。
 我々は、中世の重要性を過大評価している、というような反対論に必ず出会うと考えてきた。しかし、近代とのかかわりを除いて、彼らのために弁明者の立場に立つことはない、と理解されるべきだ。彼らが、歴史の発展過程演じた役割は、世界の生活の発展に必要なばかりか、非常に特殊で性格的なるガゆえに、我々がゆっくりそこから現れれる無知な熟考にもかかわらず、将来に足跡を残すだろう。彼らは、彼らの失敗と悲惨さをもち、彼ら自身の有用さと便益を持っているし、彼らはその背後に、少なくとも幸福と喜ぶべき知識が、何時か何処かで、今や我々の馬鹿げた誤りの総ての重荷を担わねばならない労働者階級の間でも示すことの出来る作品は残したのだ。
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by morristokenji | 2010-06-11 14:34
   第4章  中世社会―その初期

 いよいよ、我々は氏族共同体と、ローマの個人主義及び官僚制の思想の融合に基づく中世について、丁寧に取り組む事にする。
 ローマの平和支配(Pax Romana)、ローマ帝国の最終的確立、古典文明の最高潮、ここから5世紀の原始部族の度重なる侵略に続く混迷期への移行は長く、暗い。しかし、帝国の崩壊について、前にヒントを与えた単なる中央集権的な徴税機構への事実は、歴史の注意深い学徒には、十分明らかである。
 地域の古代官僚の家族は、Decuriones都市参事会員の名前で、税の責任を負わされ、徴税官として行為が非難を浴び、彼ら自身の地域が布告された量の十分な確保が出来ないほど心配だった。帝国の資源が減少し始めると、中央政府はより厳しく締め付け、前述の通り都市参事官の地位が耐えられなくなり、そこで奴隷の大量解放に駆り立てられた。これらは今や農奴になって、以前の主人への役務を提供し、また主人たちにより領有されていた広大な領地での必要な生活家畜であった。これらに必要な環境は、ゲルマン共有地Tentonic Markと交じり合いながら、次第に荘園Manorマナーを生み、それが中世の経済性か角の基礎になったと見るのが妥当だろう。他の非ローマ的な土地では、農奴がが征服された種族の子孫だったし、一方征服した種族の自由人は「ジェントルマン」、または氏族Gensの人として、多かれ少なかれ保有権の下、土地保有者となった。
 新しい社会の否定できない傾向は、どんな環境が関係しようが、その下では他の人間に所有されないし、他の人に唯では誰も役務を提供しない、そのような階層システムに向かっていた。最下層の農奴でも、ある権利は持っていた。その主たるものは、荘園の使用であった。事実、少なくとも理論上は、彼らから生存の権利を引離さなかった。
 封建制度の理論は、農奴から肯定への役務の切れない鎖であり、肯定から農奴への保護に他ならない。それは、土地の絶対的所有を意味しない。神こそが大地の所有者であり、皇帝や王は神の代理人に過ぎず、そこでは家臣への権威が移され、それが家臣へ、そして農奴の所に達するまで続くのであった。役務の質における差異があっても、農奴が生産的労働を払う一方では、部族を征服した人々は、ある種の軍事的義務以外払う必要はなかった。慣習により保障された生活資料の権利以外、一般に後者は何の権利もなかった。しかし、にもかかわらず彼の領主は、外部からの非行に対して、彼らを護らざるを得なかった。そして、このシステムの理論は、少なくとも領主に擬似宗教的性格を投影したのだ。
 このシステムへの変革は、伊、仏、スペインにおけるゲルマン民族の征服によって促進され、そのため古代ローマやローマ領の奴隷所有の貴族は、次第に荘園の原始的領主に取って代わられる事になった。もともと彼らは、少しづつしか完全な封建制度には発展せず、部族の慣習を持っていた。それが、古代文明の世界市場の崩壊により助長された。そこでは、生活資料の唯一の最終的源泉の土地の崩壊をもたらした。そして、我々が見たようにゲルマン諸国では、何処でも共同用地の自由人による古い保有が維持されていたけれども、それは村落の中の農奴や借地農の人々によって、領主のために耕作されていた土地であった。
 すでに示唆したように、この階層システムは宗教的な考えと融合していた。従って、ローマ帝国を破壊した力の一つであった初期のキリスト教から成長し、もちろんそれと同じだが、中世期もそれ自身で明確な宗教を持っていた。帝国が完全な状態で続いた限り、キリスト教は純粋に個人的なものだった。それは、どんな人間も来世で将来のためにベストを尽くす事を命じたが、神の王国からキリスト教の注目をそらしかねない争いごとや不満を取り除くために、非宗教的なことでは「当局に従う」よう命じた以外、現世の政府に命令する事はなかった。
 しかし、中世のキリスト教では、来世の完成への個人望みはなお存在するものの、それはバックグランドであり、殆ど眠っていた。ただ時折、(聖トーマス・ケンピ、聖フランシス、聖バーナードなどに代表されるが)「教会」の考え方の中に現れた。後者は、地上と天国の間の架橋だけでなく、それ自身の権威の宣言と考えられていた現世の力とその精神を、天国から地上に吹き込む事でもあった。それゆえ現世と来世の闘争が、中世の歴史の大部分を占めることになった。それは、両者の間の理念の対立ではなく、その理論を拒否する事なしに、他方を吸収するための社会の大きな組織的対応によるものだった。
 簡単に言えば、一方において教会が宗教的というより政治的、社会的であり、他方において国家が政治的、社会的である限り、少なくとも宗教的だったからなのだ。
 例えば、中世の支配的な姿を示した総ての大企業は、職人ギルドに対しても、騎士道の友情から一方では宗教的組織だったけれども、他方では明らかな実践的な目的のために修正された。また、医師や法律家に於いても、ある宗教的な性格が形式上理解され、その名残の影が公的な衣服や方式に今も存在している。
 中世の世俗的な政治形態と同じように、宗教にまつわるサービス保護のための順位の等級の考え方への接近の例として、そこでは天国と地上が相互にその正当な階層を備えるだけでなく、地獄も制度のようなものを持っている「宗教劇」を示すことが出来る。これは、擬似天動説伝承の奇妙な融合により、さらに学術的に修正されたが、単純な中世民は記憶されるべきだが、上に天、中に地、下に地獄の3つに分けるのが普遍的だった。
しかし、封建領主と家臣、その農奴の間の関係は、単に中世社会の一面に過ぎない。その内部の社会的つながりの傾向は、そのもっても顕著な姿の一つに過ぎない。事実、そうした社会的つながり無しには、その時代には何も出来なかった。生活も、共益作業抜きで、中世的心情では不可能だった。大も少も、総ての人が教会の大きな組織に属していた点は、すでに見た通りである。此岸も彼岸も、破滅は二者択一だった。固有の聖職者や、とくに宗教的生活に専念している者は、その仕事が教会と戦うものも含め、厳しく統制された秩序に身を置いていた。帰属も、その形式のなんらかにおいて、騎士の友情に縛られた。
 生産や交易は、商業や産業の保護のために、商人や職人による大きなアソシエーション団体の手中にあった。
 中世の都市は、2つの源泉を持っていた。第1は、ローマ時代の都市の再生だった。英や西部ドイツの例にも見られたが、その殆どはヨーロッパの南部、伊、スペイン、仏などで発見された。もう一つは、「市場」の利便性から成長した新しい都市であって、大部分が封建的な荘園体制に組み込まれるようになった。自由人は境界内の土地保有者だが、それら未完成な市町において、官僚を構成していた。彼らの中から行政体が選ばれた。町が封建的な大君主により保障された特権により統合され始めた時、恐らく保護や利便を求めて都市に流れ込んだ人々に混じって、彼らは征服された種族の生き残りだったが、古い半独立の住民が職人や商人の人口を構成した。これらのうち商人は、依然として後の帝国のように、組織的な商業の中心であるヨーロッパの東、主にビザンチンから商品を売ったり運んだりした。彼らは数こそ少ないものの、その地位は最も重要だった。彼らこそ輸入された名前として、それは擬似宗教的な基礎の上に、また自由人の会員の復活を含みながら、中世の総ての組合と同様に組織されたけれど、最初の「商業ギルド」の建設者であった。グロス(Grosse)氏による最近の研究は、結論的に古い「湾口ギルド」から発生したのではなく、他方住民がメンバーに加わらなかった以上、町の組合組織と同じ様なものではなく、(Lineages,Geschlechte,Poterey、Ehrbarkeit,Patricians,etc)の組合メンバーは、かっては種族のものであった土地の保有者に限られていたのだ。
 しかし、アソシエーションの原則は、その時の有用な階級の中で、一層の発展を確保した。手工業が、生産の能力を発展させ始めるや、特殊な技能のギルドが全ヨーロッパで設立された。彼らは、言葉の広い意味で、職人道のどんな分野も包摂するまでで拡大し、農民ギルドは、イングランドの村や小さい町で最も重要になった。このギルドの規則は、厳格な中世のアソシエーションのモデルの継承だったが技能の極小の細部まで関連するものだった。彼らは、それらの特殊なルールを破壊すれば、罰を強く受けることは十分認識していた。そして、彼らが自分達の団体のメンバーにより、連合体に対し一般的に強い示威が出来るように、以前から町の最高の行政の参画者になっていた。中世の後の時期には、彼らはそれを超えて、進み、本源的な貴族政治であるLineages,Geschlechte,あるいはParticianなどから押し出され、職人ギルドの代表になるものも少なくなかった。例えば、15世紀の終わりまでには、チューリッヒ、ハンザ・ウォルドマンなど有名な町のブルガーマスターは、もともと農民ギルドのメンバーだった。それが力を付け、最初は半分が自治体の貴族、半分はギルドの人間で構成されたが、後には3分の2の代表〆るまで増加し、永久的な多数派となったし、経営体の組織を変えたのだ。これより少し前も、14世紀後半には、有名なジェントの闘いのフロアサート矢封建領主と対抗した同盟者達、つまりアール・オブ・フランダースにより説明されるが、自治体貴族は職人ギルドに指示されなければ、殆ど力を発揮できなかった。フランダースでも、「より小さいクラフト」(主に手工業職人)は協力であり、連合体は道を譲り、アールに対する闘いに着手せざるを得なかった。そこでは「より大きいギルド}(マナーのような)が勢力を振るい、連合体はそのために町を手に入れたのだった。
 要約すると、連合体は、例えば種族の土地保有体など、マルク共同体の直接の継承者だった。そして、商人ギルドがその成長により影響したあと、職人ギルドのために、貴族に取って代わる傾向があった。我々はまた、これら連合体やギルド、簡単に言えば産業的組合とは、封建的身分階層の義務的で法的なメンバーとして受け入れられた。我々は、今や彼らの間の関係や、王と貴族の関係に注目の必要がある。
 ヨーロッパにおいて、封建主義が支配的になるや否や、種族的なマルク共同体は独立性を失い、マナーの領主や貴族の西は以下に入った。けれども、その制度やその習慣の殆どは、彼らがローマの官僚制の下でやったように、封建的統治の下では手が付けられず、そのまま維持された。マルク共同体も、その土地とともに、町に合併されると、新たに領主や信徒、聖職者から、新しい特権を要求するようになった。これらの特権は、貨幣の必要に迫られて、大部分が大君主から買い取られたものだし、それは彼らのやっていた戦争によって育まれたり、また彼らがそこに属していた外国の法廷やローマとの陰謀、豪華な建物での傲慢な愛情による教会領だった。これらの特権は、主に独立した裁判権、市場の権利、道路の使用料、軍事的役務の免除、等々からなっていた。
 彼は離れていたし、彼の支配も封建的な近隣や直接の領主のそれより、実際的でないし、またいらだちもより少なかった以上、王や君主の力の伸張を促すのが、町の利益でもあった。王は、彼のサイトでは、常に彼の貴族と争う運命だったし、町における自由な共同体を創出したり、支持したりして利益を確保した。それにより、彼の臣下の傲慢な力を抑制し、同時に町の増大する生産物を財源に加え、供給の新たな資源を生み出し、軍事的に貴族が生み出すものより多くの搾取を容易にした。
成長する中世の町の独立性を確保するこの過程は、11世紀と同じぐらい早く始まり、14世紀に頂点に達した。最初のイギリスの特許は、Edward the Confessorにより与えられた。仏では、最初の特許が1072にLe Mansnnitaisi,1076にCambrai,さらにLaon,Beauvais,Amiens,そして他の町に続いた。後には、王自身が有名なEdward一世のように自由な町を建設したし、Guienne
やイングランドの両方でもそうだった。Hullの上のKingstonやWinchelseaは、将来的には2つは大きく違った方向に進んだが、今も同じものを維持している例証である。
 スペインでは、初期にVisigothic条項が、それはローマ法とチュートン族の慣習の混合ではあるが、はっきり連合体を認めていた詩、最初の特許が1020年にLeonに認められた。
 ドイツでは、町は中世の早い時期に、帝国の自治体の付属物になっていた。そして、彼らの教区の教師である司教により治められた。ここでの解放のプロセスは、最初12世紀に入って、町民がが司教に代わって、次第に政府を機能させた。13世紀には、司教から購入だけでなく主要な力が奪われ、最後は帝国の直接的な掌握に到達した。これが達成されるや、彼らはヨーロッパの何処よりも完全に自由になり、ハンザ同盟がもっとも有名だが、都市連邦の形成により独立が確保された。
 フランダースでは、手工業による生産の大きな発展により、理論的にはそれほど自由ではないが、ほぼ14世紀を通して、都市は封建領主との戦いに十分な力を持っていた。そして、Rosebequeの戦いと、Philip van Artaveldeの死で、この戦いのドラマチックな場面は終わるのだが、そのときでも都市は殆ど崩壊しなかった。これら都市の地位の法的な承認の完全な例として、フランダースのEarl との戦いの第2幕で、若いArtavelde が場面に登場し、Ghentの都市は旗幟に対して、騎士や領主に軍事的な封建役務労役を義務付けたが、一方これらの領主は、EarlsのキャンプでGhentに対する戦いを準備していたことが指摘できるかもしれない。しかし、歴史家は「紳士的」な土地における自治体の選択権に拍手を送るけれども、事柄としては、都市の完全な権利を認めていることは明白なのだ。
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by morristokenji | 2010-06-06 15:48
    第3章  古典から中世期への移行
 
 古代文明は、近代社会の直接の生みの親と考えられてきたが、その間は何もないまま、たんに消極的な空白の時代の混沌のように見えるが、後世に中世期と呼ばれる時代があった。
 しかし、この混沌と考えられるものも、それ自身の秩序を持っており、近代生活への進歩が始まるには不可欠、かつ必然的な部分と考えられている。そして、ここで次のような事が言えるのだが、古代の前期古典的な時期、ホーマーの詩の時代と中世期の間には、多くの点で密接な類似性が特記されなければならない。我々は、一つの体制が他のそれへの変革をもたらした移行について、考察しよう。
 最初は経済の面である。生産の古典的システムは、家内奴隷、中世の農奴の上に形成された。それは、移行の特殊な特徴だった、一つの労働の組織から、他のそれへの変革だった。
 農業が古典古代の世界の支配的産業であり、この分野の労働は、ほぼ完全に大地主の資産としての家内奴隷の労働だった。帝国が、その中枢で平和だった限り、この体制は厳しいチェックなしに機能した。帝国以前には、奴隷の反乱は、市民戦争の時代に属していたからだ。けれども実際には、奴隷の悲惨さの現れは、その全時代を通して、慢性的に古代文明には山賊や海賊がはびこっていた点に見出される。しかし、帝国が領土を収縮させ、現実の戦争が中枢に引き寄せられると、貪欲で堕落した徴税官が資源を枯渇させ、市場を破壊し、人口を減少させる一方、そこに残されていた家内奴隷の基礎を崩して完全な没落に近づいた。そして、何よりもまず幸運も不運も、良いも悪いも、戦争も平和も、この徴税の疫病からローマ社会を救えなかったことを想起すべきだ。その点、貧者の生活のために金持ちの責任感が高まり、また個人の権利に対する新たな意欲があれば、近代社会は利潤追求から少しは自由にできる。
 ローマの大商業国家は、ラティフンデュームの名の下に、初期のローマ国家の農業の総てを吸収した。それは以前、血縁関係や家父長制の家内奴隷の手中にあった。しかし、今や上手に組織された奴隷を手段にした土地の利益は、古代の世界市場の崩壊、その結果迫った没落により、消滅しつつあった。これらの奴隷主には、彼らの生活のための責任放棄の他には、何も残されなかった。彼らには、原始的で非組織的な方法で土地を耕作することが、部分的に独立した農民として許され、土地所有者には現物や役務で地代が支払われた。これは家内奴隷が中世の農奴に合流していく方法の一つだったようだ。
 同じ時期に、これが非常に段々と進むだけでなく、家内奴隷や職人の奴隷状態も、同時に起こった。
 封建制度が誕生する他の要因として、帝国の最後に破綻した部族の未開人が加わる。彼らの考え方や慣習は、初期の古典古代のそれと、基本というより、詳細な点で異なるものだった。疑いもなく彼らは、例えば家内奴隷のような「奴隷」であり、最悪でも初期のローマの農場領主の家内奴隷と同じように良い位置にいて、しばしば解放されたり、また役務の提供があったものの、以前の主人の自由は確保していた。
 保護の代償としての役務の考え方だが、それは以前ローマの考え方だった。それが部族の未開人の生活の基本的部分だった。そして彼らは、それを古典古代の残骸から、次第に成長しつつあった社会に移入した。
 かくて2つの要素が、新しい時代の社会生活に必要であり合体した。一つは古い体制内部の腐敗の結果、もう一つは壊れていないオリジナル原始的制度の発展である。
 しかし、倫理的、宗教的な状態も、経済的状態の変化と共に変化した。都市の制度的な崩壊は、都市崇拝の社会的宗教を破壊した。そして、古代部族の祖先崇拝や自然崇拝のいくつかの形は生きていたが、その宗教の現実の性格は消滅した。
 この公的な信仰が没落した後、人々が心の空白を埋めるべく、古い社会的絆から完全に解放され、個人の人格に利益が集約された、もう一つの信仰が持ち上がった。実際、それは超自然的なもののように、また世界の超自然的な力との不思議な関係を維持しながら、個性に集約されていた。こうして、それは彼がそこでその一部になっている社会に一体化されるように、仲間の人々への責任の意識の下で、彼の行動を通して示される物質的な人間の正義から距離を置いて、魂の神聖さの宗教が生まれた。
 この個人的宗教は、「神秘」の形をとり、そのあるものは祖先や自然の崇拝を根源にはしていたが、今や新しい適応を受け入れ、死後の魂の状態や、完全に浄化された時、事物の「神性」とか「最高の本質」への永遠の一体化が、儀式の光景の中で象徴化した。その流れとして、無宗教の人に中では、高度な理解に関心を寄せる教養人と、不思議な儀式の中で風変わりな現象だけ見る暇もない低レベルの群集の間に、完全な差異が含まれる事になった。この新しい宗教心が「キリスト教」に発展し、キリスト教が総ての人たち、「教養人も無学な人」も平等に恩恵を分け与える近付き安さを宣言した。それにより、その排他性が異教徒の没落を証明した。結局、排他性ががそれ自身を主張することになるし、この時点では、指導的と世俗的、哲学者と一般人の差異ではなく、神聖な生活に捧げるか、世俗的な生活か、という区別になったのである。
 こうしてキリスト教は、人口のある特定部分に限定される前に、社会全体を一つの傾向に進めることに成功した。こうして教会は勝利したが、直接の経済的理由がない勝利でもなかった。富が現実には大部分貧者の維持に使われ、我々に残されている歴史上のヒントから判断して、直接キリスト教を公的に確立したのは、その職業が禁じていた奢侈品を富として蓄積するためだった。
 疑いもなく4世紀を通して行われ、テオドトスの勅令により終わった、異教徒による儀式の練習は禁じられたが、競技は様々な異教徒の聖職の財宝の形象に手をつける協会側の願望とも入り混じっていた。ヨーロッパの公的な宗教は、反動の望みもなく変革されてしまった。
 経済と宗教の改革と共に、芸術の変革もあった。古典古代の国々の「時代遅れ」の芸術は、表現的、自然発生的、かつ装飾的だった。ギリシャのように、総ての種類の十分有能な人々の手中で、完成が可能なところで、人々が完成を熱望するまで、仕上げのスキルは急激に進歩した。彼らの強力で論理的センスは、その中での必要な限界を知覚していたし、限界の外に出ようとする総ての試みをテックした。その結果、一方では叙事詩の表現の十分な可能性において、他方では彫刻的な装飾について、自分の負担で望ましい完成を成し遂げた。都市のサービスを喜ぶ意味での公共的感情は死んで仕舞ったので、その完全で限定された芸術も、それと共に死んだ後、どんな生活がそこにあるのか、最後には単に尤もらしいアカデミックな芸術である「caput mortunm」が残された総てだったが、それでもキリスト教の前に古典主義が没落するまで、事実上持続した。そこで同時に、粗野で小心でもある劣等感にみちた空白期間の後、疑いなく東方との交流による影響で、新しい芸術が開始した。最後は、とくにコンスタンチノープルのSt.SophiaのJustinian により提起された建造物で明らかだが、古典主義から生まれた象徴として維持され、新しい創造を示したが、しかし全体としても、詳細としても、形式も精神も異質なものだった。この移行の背後にあった原因の十分な重要性は、我々が十分発展を遂げた中世の芸術に関説する際、より良く評価するだろう。ここでも、十分に新しいスタイルが創造されたと言える。ただそれは、原始的な部族の影響も完成を待たねばならなかったし、その必要性や意欲と完全に一致した、新しい社会の発展と歩みを揃えて成長したのであった。
 この総ての展開の中で、ローマ帝国の分裂崩壊は、表面上はより恐るべきだったが、社会が再建されるのにはもっとも効果のあった、北方の野蛮な種族の進入による、変革の要因に対処しなければならなかった。
政治的変革は、以下のような形でもたらされた。ガリアとスペイン、北アフリカ、ローマ領ドイツ、イギリス、つまり植民地、およびローマ人の住んだ国々、イタリー自身もそうだがゲルマン人種族の支配下に落ちた。そして、世襲的な種族の首長が王や支配者になり、古代ローマの貴族(Patorician)、(Comes)など殆どローマの称号で知られたものはなかった。征服された国々の法律もローマの市民法であり、それに慣習が接木された。彼らが伝えてきた想像上の口伝でさえ、彼らの文字はローマのそれだったし、偉大な叙事詩的、また神話的な民族の詩も、決してローマ文明と交錯しない民族だけ生き延びることができた。
彼らの種族的宗教は、少なくとも名目上は帝国の公認の宗教に道を譲った。しかし、決して西方の「中世教会」に彼らの慣習的伝統を押し付けはしなかったし、その東方的性格のものとも距離を置いた。中世のカトリックは、結果的に世俗っぽさの部分や、原始社会との連帯を維持していた。また、一面では、共同による共同体的利益を示していた。教会、ギルド、教区、修道院などであり、それらは腐敗した帝国のキリスト教の個人的な内省主義に全面的に依存していた。他方、後者は中世期を通じて散発的に現れ、最後の時点では、ロラードのもとで量的に集中し、最後は改革派のプロテスタティズムで最高潮となった。
 こうした進歩的な原始主義と腐敗するローマ文明の相互的浸透が、新しい時代の生活には基本的だったが、406年Gothsによるイタりーの最初の侵略に始まり、混乱した戦争や騒乱の世紀を通して、さまざまな要素が溶接されるプロセスが800年にローマで戴冠したチャールズ大帝の時まで完全な成長をみた。こうして神聖ローマ帝国の幻想が生まれたが、実際中世期の帝国であるドイツのそれを創造したし、封建制度自体が崩壊した後もローマ支配の伝説が続いたが、一方ローマは過去の歴史の記憶に過ぎなくなったが、人々にとっての考え方は、そうした考え方を形成する傾向の時代を振り返り続けたのであった。
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by morristokenji | 2010-06-01 11:16