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by morristokenji

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   第9章  革命への準備―英国

 我々は、ここで王と議会の間の英国で起こった大きな闘争の意味について、少し述べるべきだろう。王、チャールズ1世は、チューダー期に始まった絶対君主主義を完成させる目標だったが,一方同じ時期に、彼にとっても方向性がより明確になった。なぜなら、貴族と王との間の古くからの反目が全く消滅したからであり、前にも述べたが貴族が強力になり、しばしば手に負えない封建的な家臣となって、その目的や利益が君主のそれと一致する廷臣となったからだ。他方、ブルジョアジーの側に立つと、成長する商業の上に大きく繁栄し強力になったのであり、単に社会的,経済的自由にとどまらず,国家煮の支配をも目標とするに到った。クロムウェル自身、ヨーマンや田園地帯の大部分が味方したブルジョアジーに依存したのであった。
 議会の権限の確定をめぐっての闘争が、議会筋で始まった。この権限は、主に時代の産物ではあったが、ぺダンティックともいえる擬似歴史的な憲法へ向けての努力表明だった。恐らく反乱軍による最も憲法的な法律が、王の生命のための裁判の法律となったのであり、少なくともエドワード2世の有罪が一つの先例となった。しかし、議会の戦いが市民の戦いに席を譲り、ブルジョアジーが指導的地位を与えられなければ、反乱軍も最悪だったことは明らかだった。そこで、この偽の歴史的立憲主義が神聖国家の注入とともに、共和政体主義ニ最初の地位をあたえ、また最終的には名目の独立議会の浅薄なベールには耐えられなかったが、勝利した将軍の独裁に地位を与えた。ハッチンソン大佐のように、純粋な共和主義者が不満を述べて厳しく鎮圧され、中には水平派を教えなければならなかったが、その教義には16世紀前半のライデンのヤンにより提起された同じような性格の仕事も含まれてはいたが、宗教的熱狂者により試みられた小さな反乱の噴出にはなおさら厳しかった。
 英国での拡大された盛況と主義の成長を反映して、それは実に人口全体を包摂したが、それは何の政治的変革をももたらさなかった。闘争における両陣営が、バイブルのフレーズやイラストに没頭し、他のことについては英国版が広く人々に読まれるだけで、他に何の価値も無かった。
 他方、勝利した清教徒の厳格さや護民官の鉄の規律は、政府の荒っぽい機械的組織を日ごろ恨んでいた人々には、不評であった。いつまでも寛容主義が多数でもっとも強力であり、それが最後に英国において伝統的な君主政治の復活をもたらすことが、野心的な少数の利己主義者には容易になった。
しかしこのスチュアート王朝の復古は、全くの間に合わせだけで、クロムウエルの絶対主義の行った事以外、何も残らなかった初期の革命の過敏な原理から逃れるだけの理由だった。国は、国家的でなく、カソリックの傾向で堕落した宮廷とは同調しなかった。国自身は、清教徒主義の厳格さから免除されていただけで、まだ清教徒だった。チャールズ2世の「日曜法」は、一層さえなかったものの、立派な種類の清教徒主義に合法的刻印を与えた点で歓迎した。熱狂的な清教徒主義は、もはや支配的ではなかったが、消滅はしなかった。ジョン・バイヤン「巡礼」が、その時代の文学の退廃の中で、宗教的ロマンスを映し出した。クエーカー教徒は、はじめレベラーの平和で宗教的な側面を示していたが、迫害にもかかわらず上昇成長し、繁栄をみた。我々が前章で触れたスコットランドのカメロニアンは、死に体となった熱狂には、効果的と思われない武装抵抗を試みた。一方、大西洋を渡った初期の清教徒の子孫たちは、その殆どが清教徒をもっとも残酷に迫害した神聖主義theocraticの政府を持続させた。けれども、少しずつ総てが魅力を失い、なおざりではないものの、英国のプロテスタントは死滅しテ、世紀の終わりには極度の無関心主義に陥ってしまった。政治も宗教も、もはや何の連携も無くなり、清教徒の宗教的側面、福音主義もここでは消えたものの、ウイットフィールドの指導の下で、次の世紀には再び脚光を浴びるに到った。
 英国の清教徒主義は、このようになってしまったが、それがはっきり定着し公的にも残された点では、ジェームズ2世のローマ・カトリック教を恨む程度には強力だった。その憤激を感じさせるものがあった。同時に、チャールズ1世の時になると、立憲主義が反絶対主義者になり始めた。それはクロムウェルの鉄のような、チャールズ2世の狂気の絶対主義に阻まれはしたが、再び合流して明確な形をとるようになった。スチュアート王朝は、ジェームズ2世に代わって、イングランドから出発した。立憲王制がウイリアム・オレンジ公で確立し、立憲政党の政治が始まった。
 中断はあったが、イギリスで中産階級革命が遂行された。他の革命と同じように現実に到達する地点に達した。しかし、それまで進展には、多くの助力や重要な部分で失敗もあり、多くの振幅が避けられなかった。宗教的な清教徒的熱狂が、とくに最初、中産階級の発展にとり反動的な障害物を除去する役割を果たした。しかし、この革命の提起した最終的目標,産業の搾取により個人的な利潤を引き出すことに対し、それを乱すかもしれないあらゆる気勢から自由になる強力な中産階級の創出と云う目標,それを傷つけ兼ねない要素として消去されねばならなかった。
 その時から我々の時代まで、英国で顕著な政治生活は  に包まれたいる。一面では、トーリーの名前で受け入れられる他には実践的成果が含まれない、全く非現実的な感情の形で封建主義の最後の残滓がかすかに奏でられた。多面では、民主主義に向けての僅かな感情、それは顕著な政府の下で静かに形成を見た民主制への手掛かりを掴むと言うより,王と議会の間の闘争の古くからの伝統的感情の復活だった。
 18世紀の始め、イギリスは強固に安定していた。妨害となっていた総ての古い要素や熱望は、制度的に官僚制度の方向にまとまり、宗教は国家の形式として認められたが、地方の共同生活には何の影響も持たなくなり、その現実は単に個人の感情だけで、実際上の事業生活に対しては、何の負担にもならなくなった。消滅した絶対主義者の反動的残滓は、危険な兆候さえあれば怠惰であっても、簡単に掃蕩されてしまった。貴族は、ブルジョア階級の上層に過ぎない。また、地方の繁栄やアメリカやインドでのドイツ人やフランス人の確保、そして植民地や海外市場の基礎造りが始まり、海軍が総て海上に君臨するようになった。労働者は15世紀以来、この時代ほど良い時代は無かった。しかし希望は無く、退屈で、冒険的でもないし、知的でもなかった。絵画は、実際には死んではいなかったにしても、宮廷画家やあるいは醜悪で愚劣な紳士淑女のそれにより代表された(いわゆる画家の王ヨシュア)。文学も、アディソンやポープのような、少しの言葉を操るエッセイストや散文詩人によって産まれたが、彼ら自身の言葉の過去に於ける男らしく、情熱的、あるいは高尚だった何事にも、散々に侮蔑して自慢した。一方、古典時代への彼らの貢献は、ルネッサンスの本物で強力な熱望から生まれたが、表現の気取り以外は何も無く沈んでしまった。
 そこで、ここではイングランドで、少なくともその間、封建制度の消滅が何に終わるのか、を見ることから始めたい。中世イングランドは去り、人々の作法や考えも大きく変わった。彼らは英国人と呼ばれているが、「出し抜いて後悔する」のが不公正、とする15世紀イングランドに住んでいた人間とは違っている。その時、財の生産や分業について支配していたギルドの支配は、まだ無かった。その時、人々は芸術や文学の両方に参画していた、と云うよりそれら両方が人々自身により生産されていた。戦闘的な清教徒は去り、冷静な形式の山の下に深く埋められた。イングランドはブルジョアであり、その全生涯を通しての成功者なのだ。熱望しなくても、どんなものへの自己満足が余りに完全であり、新しい種類の発展のため力を結集しつつある。それは新しい春に向けて息づく国だった。
 その繁栄の自己満足のもとで大きな変革が誕生する。産業革命であり、英国はまさに、その変革に向けて自己を待機させていることだけを書いている。その繁栄と強固な官僚的立憲政治、否、国全体の生活の標準の水準ですら、この変革と豊かになる自然資源の拡大に向けて、総て注目するに到っている。封建制の崩壊、財の生産と商品の単純な交換という個人的手法に対する攻撃は、この時期の最終的な発展に行き着かざるを得なかった。つまり、大工場制度の勃興である。その発展の時点は、もうすぐ手の届くところに来ている。成長する世界市場は、伝統的な生産方法が供給する以上のものを必要としているのだ。
 政治的偏見もまた、その必要に道を譲り、あらゆる障害が労働のための新しい画期の到来の前で掃き清められ。それにより、若し大きな変革が手に届かない事になれば、それに代わり、人類がに今まで起こった事のないような最大の災害が降りかかるだろう、そう言うエポックなのだ。
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by morristokenji | 2010-07-29 16:28
     第8章  近代社会:初期段階

 17世紀の幕開けまでに、中央集権的な官僚君主制が完全に確立した。否、少なくともフランスでは、近代的な政党政府の誕生を見たのであり、それは実際に立憲制のベールのもとで進み、以後総ての近代政治のタイプとなった。リシュリーが、その時はビスマルクの時代だが、一連の首相あるいは一時的な王の最初だが、それは階級社会の利益の中での統治であって負債は多くなかったが、彼らの仮面や世襲による偽の王に守られていた。イングランドでは、バーレイのような人々は、そのタイプをめざしたが、この首相の制度は完全ではなかった。エリザベスは、チューダー王朝の君主制を不条理で滑稽な君主制に後退させ、それが個人的な野心や強欲の満足のための極めて無原則で邪悪に満ちた闘争を次々に助長したのだが、彼は高い地位や権力を恣にするほかの総ての悪徳には臆病だった。
 16世紀の終わりと17世紀の初めまでの間、その時点の経済的、宗教的な革命により、人々の生活状態は厳しく抑圧された。そして「自由な労働者」は、発展しつつあった商業の利益の中で、「自由」を誇示したのだが、その原因の十分な力を感じていた。他方、英国では、土地からヨーマンが収奪、耕地の牧場への転換が進み、これら自由な労働者の人口増大をもたらした。彼らは、他方ではまだ幼稚ではあったが、徐々に地方の工場制手工業で働くことになった。しかし、それは一種の半浮浪者の創出だったし、彼らは上層や中層の階級にとっては、厄介者だった。ヘンリー8世とエドワード6世の統治の時代には、これら貧乏人に対しての法律が、ひどく残酷なものになり、無数の人々が路上を放浪した。
 エリザベスの時代は、まだ悪を治療するのに十分でなかったことは明らかだが、むろん宗教団体の圧力で集められたのだが、部分的に労働者が一時的に住んだり、食を得たりする機能を持っていた。それゆえ救貧法が、この悲惨さのために通過したが、変な言い方になるが、その時代に処遇された貧困者からすると、期待した以上はるかに人道的だった。実際、今世紀の初めには、功利主義の慈善家が、より厳しい方法で対処しようとしたのだ。そのため我々には、救貧法が非人道的、残酷なものになっている。17世紀の中葉に向けて、わが労働者にとって、事態が改善し始めた。都市の発展が、農業を刺激したし、耕地が利潤を求める新しい耕作方法の下で、再生し始めた。事実、事態は安定し始め、新たな産業革命に対しての繁栄に似た時代が準備された。
全体的に人々の状態は、イングランドより大陸の方が悪かった。農奴制は、むろんフランスでは消滅していたが、とくにドイツでは、農奴制が封建時代より、はるかに重いものになっていた。また、商業面の搾取も、いろいろな面で追及された。他の面での中世の復活が、ドイツではギルドがかなりの生命力を持っていたし、イギリスでのように、人々は土地から解放されていなかった。けれども市場で優勢になる競争が、半ば消えかけていた関税を残すことにより、人々の営利活動を妨げる結果となった。同時に人々は、宗教が直接の口実だが、恐ろしい戦争に打ちのめされた。
 この一連の最初の戦争は、オランダにおけるカソリック系外国人、スペイン人に対する戦争であり、チャールズ5世一家の事件に巻き込まれた。例えば、エグモンやホーンなど貴族は、反逆者の側だったが、戦争は主にプロテスタントの教徒の利益に立ったブルジョア民主主義の戦争であり、ゲルマン民族のラテン民族への感情により助長された。それは革命的なサンキュロットの要素の当て込みも見られるが、荒っぽい船乗りのひどい厳しさが示すとおり、人々の帽子には「ローマ法王よりも良いトルコ皇帝」との印が付いていた。
 ドイツでは、30年戦争として知られる戦いであり、ドイツ帝国の巨大家臣団の戦争だった。それ以前は、権力の影響がチャールズ5世一家の増大のために使われ、また北方の国々へ向けてのカソリックの強化のための戦いだった。ついでながら、これらの国々はまた、帝国の規制に従っていた点では、十分に絶対主義者だったことも想起されたい。この悲惨な戦争は、不幸な人々に一層厳しい影響を与えた後まで、それらの人々は家畜よりはるかに慈悲や配慮もなしに扱われてきた。また、我々の時代に近づいた時点で、ようやくそこから抜け出る状況へのドイツの勃興する文明が破壊された後、それらを作り出したプロテスタントとカソリックの限界を脱しながら、しかし目標もなく悲惨な状況がダラダラ続く事になった。しかし、親方や官僚的な王候、騎士達に対しては、人々は全く無防備なまま放置されていたのであった。
 フランスでは、こうした宗教的闘いはひどい形をとったが、ドイツよりははるかに政治的だった。指導者達は、片隅に追いやられた彼らの教義を変えようと準備していた。例えば,聖バルテルミーの大虐殺の時代のナバラのヘンリーなどである。フランスでは、一般的に同感する点では、むろんプロテスタントに好意的であったし、聖バルテルミーの大虐殺でもユグノー派に風当たりが激しかったし、他でもそうだったに違いない。偉大なユグノー派のリーダーであるナバラのヘンリーは、ユグノー王になったが、事実彼の後継者は、結果的に勝利は収められなかった。ヘンリーはプロテスタントを辞めなければならず、仏ではプロテスタントの王は不可能だった。
 英国では、大きな闘争は遅れた。その結果、ピューリタンの側に勝利が決まった。メアリー=チューダー「血なまぐさいメアリー」とともに、熱狂が起こった。そして、彼女の後継者の下でのカソリックの反乱では、人々の気持ちは最初はカソリックの側にあった。しかし、ジェームズ1世の時代には、英国ではカソリックは死んでしまった。彼の政府が発行したスポーツの本は、町や村で日曜に中世のいろいろなゲームを奨励したが、それも当時成長していた中産階級の気持ちにアッピールするものだった。ここに、最初の奇妙な「安息日厳守主義」宣言がある。これは、この島に限定的であり、またその起源も非常に不明確であって、ジョン・ノックスやカルビン自身のような創成期のカルビン派からのもので、魅力的ではなかった。
 イングランドの海上権力は、中世とは対照的な後期チューダー時代に始まるが、その時点では航海のことは、殆ど国家的重要性が無かったし、北海の航行はほぼ完全にフランダース地方やハンザ同盟の人の手にあった。しかし、エリザベスの下で英国の船乗り、ジェントルマンの冒険家や商人が、アメリカ発見の刺激を受け、現実的な貨幣獲得の打算、恐怖や血を流す必要も無く商業の武者修行が出来る期待、また途方も無い富の遺産が待っている、その新世界探検への航海に向けて船を仕立てることになった。彼らは実際に、半球でスペインと戦うために出かけたのだ。そして、彼らの向こう見ずな勇気やすぐれた船員達が、途方も無く沢山の富を確保し、英国の商業的事業の基礎を築いた。それにより彼らは、かっては陽気で、怠惰で、大らかだった人達を,その大変な度胸は会計事務所の度胸だが、猛烈な取引業者や休み無き守銭奴のような、下劣な国民に変えてしまった。そして、その大部分は土地や海で雇われた人々の厳しい生活の負担の代償によるものだった。
 総ては、宮廷とブルジョア階級との間の、次の支配に生ずる戦いに向かうのだが、それはまた宗教的と殆ど同じくらい政治的なものでもあった。
一方フランスでは,古い封建主義の最後の名残が、マザランと彼の堕落した官僚に対する「フロンド党」の党派の戦いだった。最終的に、ルイ14世は彼の貴族を廷臣の間で上げ下げすることを強化し、仏の君主制を仕上げようとした。他方、彼の大臣コルベールは、直前まで非常に低く衰退していたフランスのマニュファクチュアを強化し、その監督と能吏による徴税機構として王国を成長させた。それゆえ、宮廷でダンスに参加するのに費用が掛からなかった貴族の収入にも、手を触れる必要が無かったし、他にも何も掛からなかった。その世紀は、フランスの君主制が総ての家臣を制圧することで始まった。それは、大なり小なり総ての家臣を宮廷の状況に対して縮小することで終わることになった。こうした事は、田園には全く影響のないことだったし、地代は低下した。地代は単に最悪のタイプの不在地主に対してのもので、人々の飢えやブルジョワの怒りの犠牲でまかなわれるという特権が与えられていた。それが又、宮廷の栄光の基礎を支えていたのだった。
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by morristokenji | 2010-07-09 14:27
   
         第7章   ルネッサンスと改革

 こうして、ヨーロッパ全体での商業主義の勃興となった。自然に対しての新たな優位性を得て、個人の優越のための闘いに対しての古い束縛から自由になった人々により、新しいニーズが発見された。新鮮な情報や精神的エネルギーが、変革の時代の汚い面をも、その光が映し出した。一番手としては、ギリシャ文学の研究が、教養ある人々の間で、新しい知識を助長した。しかし、その精神が半分しか理解されなかったために、新たな誤りに彼らの心を捻じ曲げてしまった。なぜなら、歴史の科学や事実の批判的考察はまだ出現しなかったし、ルネッサンスの熱烈な精神に対しても、ギリシャとローマの2つの人々を除いては、その時代に重要とみなされていたどんなものにも、新しい弟子たちは模倣しようとしたが、必ずしも注目されなかった。
 今やまた、精神的動揺のすべての時代のようにオカルト主義、つまり自然の不思議なコンセプトが多くの信者を掴んだ。勿論、これは部分的には最近発見された移行の最後の時期の書物,つまり初期のキリスト生気ののそれに付いての研究成果であったし、それは言語の近代的な意味で、科学が最初の夜明けとなった事実とも結びついた新プラトン派や他の魔法の文学だった。ルネッサンスの科学は、主として中世の伝統的科学の組織化であり、疑いもなくそれに純粋な考察も一定量加えられたが、後期の古典的かつ東洋的な理論の混合物を伴っていた。それはパラセルサス、ノスタラダムス、コルネリウス アグリッパ、それに神話的なファウスト博士を加えられるが、そうした人々に代表される。
 これらすべての中で、古い宗教がもはやその時代の新しい精神に役立つものではなくなったことは明らかだ。中世の教会は地上の天国だが、そこでは一時的な階層性に同情的だったし、そこは誰もが予言的な満足の場所だったけれども、商業を規制し、高利を禁じた。そうした意味で、教会は新しい商業主義のための宗教ではなかった。宗教は、現世のビジネスに関係を持つことがなかったからだが、中世の教会の時代では、その背後に維持されていた初期のキリスト教の個人的な倫理が、もう一度正面に出てきて、その信者のいずれの者にも、単に部分的に過ぎなかったが、教会の共同の倫理の役割を果たした。
 それゆえ、キリスト教の新たな形態が生まれつつあった、ヨーロッパの新しい必要性に適応する点が見いだされねばならなかった。しかし、キリスト教の適合は、2つの形態、それらは相互に非常に広範に異なっていて、一般的には対照的な宗教として対立していたのだが、両者は同じ盾の両面に過ぎないがゆえに、事態の粗雑な見方に過ぎない。
 これら2つの形態は、プロテスタントと近代的な,またはイエズス会のカソリックであった。両サイドの主役には、マルチン・ルッターとイグナチウス・ロヨラの名前が挙がる。殆どのゲルマン民族が、その形はどれか一つでプロテスタントをとり、彼らの指導者がその教えの深層や真理を教える役割を担った。ラテン系の国々では、現実の発展がなくフランス・プロテスタント派の場合のように、多くの継承者を得たところでも、それは政治的な徽章以上ではなかった。今日でもそうだが、ジュネーブのように、カルビン派の都市で、それは実際はフランスの都市だが、カソリックがプロテスタントの数をかなり上回る都市もある。スコットランド、イングランド、オランダ、スイスのように、宗教的な争いが最も激しい国々では、最終的に優勢になった素質が、中世カトリシズムからはるばる運ばれてきた宗教の形式をなしたが、ヨーロッパの北部では、プロテスタントの感情の現実的な力量を示しているのが記録されるかも知れない。一方、スカンジナビアやドイツ北部のように、表向きの変化が相対的に僅かな改革が、それ自身行われた。
 プロテスタントの清教徒は、これらの島々で今でも強力だが、ヨーロッパの他のプロテスタントとは類似性がなく、奇妙な孤立の現実だが、それは恐らく人々の中に内在する若干の性質や環境の変化による結果と思われる。事実、中世イングランドでは、ローラードの内部だけでなく、発見可能な根跡が存在する。その精神の根源は、その存在が有害だとして、その事実が隠蔽される事を認めているはずである。その長く持続し、深く根付いた力は、今日でも日和見政治家や大衆扇動的ジャーナリストによるアピールが常に成功する事でも推測できよう。
 上述の通り、近代のカソリックは、個人としてはI・ロヨラにより提起され、彼のキリストの命令が、宗教の全面的変革を実現した。中世のカソリックは、我々がコメントしたように、普遍性についての単純で幼稚な概念が自然に成長したものだった。また、中世の教会のメンバーは、彼の会員の意見に取り囲まれ、彼の生活の通常の行動様式の中から抜け出せなかった。プロテスタントは、初期のキリスト教の個人的な宗教の再燃だった。イエズス会のカソリックは、一方で古い中世の形式はとっていたが、両者を生み出した時代のプロテスタントとは、さらに血縁的だった。それは、時代の成長によるものではなく、ルネッサンスの教会の必要性の産物だった。時代を学んでいる人文学者は、最初すべてのキリスト教を無視したが、最後はキリスト教のイエズス会的、詭弁的形式に変わった。そして、ここで注意すべきは、カソリックの国々の、その世紀の教育が、殆ど完全にイエズス会の手に落ちたことだ。ミッションが、完全な組織として有名なthe Order礼拝により、また教会員のゆるぎなき祈りにより、未開人の間にも浸透したが、これらの人々に対する扱いの人間性も顕著であり、商業的な官僚制や海賊を働く周辺の野蛮さとは、まったく対照的だった。それでも彼らは、中世から近代の生活への良い面を示しており、彼らの強力な組織の目的は、変形されたカソリックといわゆる変革された宗教が、単なう付属物だった商業社会の精神の確立だった。彼らが、高利貸のようなより粗野な形態を非難する中世の教会の例を倣うのを注意深く差し控えたし、端的に言えば彼らの宗教は、プロテスタントのように現世のものではなかった。ここから彼らは、彼らの敵対者と同じ政策で官僚的体制を構築するための基本的な同盟者だった。
 政治に関しては、チャールズ5世が事態のこの局面で大きな変革を代表する人物である。スペインの国家統一は、フェルデナンドとイサベラのもとで始まり、グラナダの征服者によって完遂した。同じ方法でのドイツ統一へ向けての努力による圧力で、領土の支配者達、帝国のプリンス達は、その領土を統合し、プロシャ、ブラウンシュワイク、ザクセン、バイエルン、ブランデンブルグ、ヘッセン、カッセル、ウェルテンベルクやあまり重要でないその他が、封建的支配から政治的国家へ転換した。
 チャールズ5世のライバルのフランツ1世は、フランク王国の統合を続け、ルイ11世による非常な精神力、機動力、結果としての成功が緒に付いた。英国では、チューダー君主制が王の神聖な権利と云う奇妙な幻想の広がりの下で、政治的国家の創造へ向けた最終的着手がなされ、王の権利は一般的には封建的階層への主の責任と云う中世的な考えには反するものだが、部分的には専横的な東方の原則とともに、旧約聖書のピューリタン崇拝の成果だったようである。
総てこれらは、古い封建家臣団の解体、王に完全に従属した新しい貴族の創出、人に仕えるだけの宮廷人、または領地の経営を指示された役人、が意味されていた。なぜなら、新しい政治的国家は、王の資産と看做され、王はもはや誰にも、神に対しても責任を持たなくなった。
 こうした変化は、聖職者や市民の変化であり、直接の革命の形をとった抵抗抜きには達成されないし、そのもっとも価値ある事件がドイツ農民戦争(1525-6)だった。この時は、ヨーロッパ全体、商人との取引のための貨幣の確保より、奢侈の増大が土地の領主を手荒な強制的取立てに駆り立てた。その際、高利貸が重要性を高めた。こうした抑圧に対して、その中心人物の一人がトマス・ミュンツァーだったが、中世のどんな従前の抵抗より広範な反乱が(上記の時点で)異常な速度をもって起こり拡大した。彼は、キリスト教徒の兄弟を求め、総ての人間の経済的、社会的平等を求めて、ある種の神秘的使命を追求した。彼の教義は、広く受け入れられたが、彼は権力を手に入れた数週間で失敗、1525年に(チュリンジアの)ミュルハウゼンの近くで処刑された。けれども、ここには農民戦争という無理をこえたものがあった、と言わねばならない。反逆者への抑圧網のもとで、帝国の巨大王国が統合し、より小さな封建貴族、つまり「騎士道」の服従を完成させようとした。これらは有名なウルリック・フォン・フッテンの中で、最後のチャンピオンを持った。彼は、ロマンチックな冒険や勉強好きな職業の生活の中で、文学的才能の総ての力を奮って、より高い貴族に挑戦、1522-23年にフランツ・フォン・シッキンゲンのリーダーシップの下、騎士の側で一生懸命働いた。国王は勝利し、そこで中世ドイツの政治局面が終わりを迎えた。ミュンツァーと言えば、彼は後期の再洗礼派の抵抗の先駆者と考えられている。なぜなら、この崩壊の後、彼が働いて再度立ち上がり、地下の方式で続けられた行動は、ジョン・オブ・ライデンの下で起こった再洗礼派の最後で頂点に達し、その最後の行動が包囲攻撃とミュンツァーの逮捕、そして年における反逆者の大虐殺だった。
 フランスでの宗教戦争と君臨する君主へのユグノーの反乱は、これら一般的な行動の範囲には、殆ど入らないかも知れない。しかし、むしろ党派間の競技であり、そこでは維持されるための特別の原則は何も無かったといえる。
 英国では、一連の反乱は最後の二人のヘンリーの支配、およびエリザベスの統治の時代に起こり、それは直接は財政的抑圧、新しい官僚支配の必然的な結果起こった。これらの中で一番重要なのは、ノーホークのケントで引き起こされたものである。それらはどれも程度は様々だが、無差別な虐殺,残酷に断行された。
16世紀の中ごろには、中世社会の生き生きした精神は死に絶え、ヨーロッパ的規模と時間で、封建主義に取って代わる官僚的制度により、それ自身の目的のために使用された事が提起されている。これこそ近代の最初の時代の始まりと考えるべきだろう。
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by morristokenji | 2010-07-05 15:33