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by morristokenji

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          第14章   イングランドに於ける政治動向

 フランス革命の間、特にその初期段には、イングランドにもそれに呼応する運動があった。それは、例えば「スタナップ伯爵」のような若干の君主制論者に主導された、一部の知的な問題であり、人々の生活には関係がなかった。今でもそうだが、様々な時代に出現する傾向であり、貴族的なボヘミアン主義の一種だった。しかし、部分的にはフランス革命の一般的な精神に同調する動揺もあり、それが拡がって、政府により危険視された。我々の時代には殆ど信じられないような高圧的な厳正さで、煽動が抑え付けられた。
 フランス革命は、自然に大きな反動を呼ぶことになり、専制君主の国だけでなく、立憲政治のイギリスでもそうだった。そして、その反動は、ナポレオンの没落でより拡大し、定着をみた。フランスに於けるブルボン王朝の復活であり、神聖同盟の総ての行動と無力さである。我々は、もう一つ別の代表として、大陸のオーストリアのメッテルニッヒ、イングランドではカスルレー候の名前がある。この影響下に働いた政府の馬鹿げた、また残忍な弾圧は、彼らが支持された限りない腐敗と同様に、イングランドでは、それに呼応して過激主義の始まりとなった改革的な煽動に遭遇した。バーデット、カートライトは、この煽動の初期の代表だが、後にはハント、カーライル、ロヴットその他がいた。W・コベットもまた、この時期に属するように指摘されるが、彼は一種の文学的才能のある人であり、彼の時代より遥か以前の社会問題にも見識の閃きがある人で、ブルジョアよりも農民的な暴力的で非合理な偏見、驚くべき利己主義に取り囲まれながら、強力で撹乱的な取り巻きは居ても、他のものと付き合うことも出来なかった。
 この過激な煽動の時代は、いわゆるピーター・ルー大虐殺(1819)の形での一種の強力な抑圧により特徴づけられるが,そこには極度に政治的な会合に,非武装の群集が襲われ、ヨーマンリーに打ち倒され、明らかに11人の人民が殺された。
 最後は、国が市民戦争の間際の時点で、1832年の改革法により、新しい中産階級の完全な政治的解放を実践的に保障した。それで、同時に静かに落ち着き、プロレタリアはその数も、政治的自由への闘争の熱意もあったが、切り捨てられた。
 結果的に、この煽動は一部が中産階級、一部が人民大衆であって、チャーチスト運動での自由へのプロレタリアの一層の要求に引き継がれた。この運動は、人民によって殆ど全面的に支持されたし、指導者の何人かは、ファーグ・オコンアーやアーネスト・ジョーンズは中産階級に属していた。チャーチズム葉、表面的には初期のそれと同様、政治運動だった。そのプログラムは、完全に議会の改革に向けられていた。しかし、我々が述べたとおり、それは民衆の運動であり、最初の動機は人々に時々襲う苦悩であり、それは機械産業の成長によって起きる労働の疎外に基づくものだった。そして、プログラムの選挙人名簿と議会の改革派、もしそれが実現されれば、人々の物質的な状況に影響するという想定で進められていた。けれども同時に、飢餓や窮乏による圧迫が、上記の改革に関する妄想とは別に、他の希望をもたらした。それは「社会主義」の思想が、彼らのプログラムにオープンに登場したわけではないが、チャーチストの間に現実化したそれに従い、ブルジョア階級の階級的本能は、勅許(charter)の政治的要求の下に潜在する社会的危機を見抜いていた。そして、過激派の煽動による中産階級の同調の動きから、チャーチズムが敵だと看做すようになったし、ブルジョア改革運動は確実に冷淡になった。チャーチズムが、主に中部や北部の地方から発展したこと、つまり大工業地域だったこと、そしてそれがロンドンには有益で無かったことは注目に値しよう。バーミンガムでは、運動が最高になったし、チャーチスト会議が町に出来るなど、際どい暴動も起きた。運動が、大衆的な文学を生むことになり、新聞が政府により厳しく統制されたことが想起される。
チャーチスト運動は北部や中部の州で活発に進み、上記のようにロンドンや南部には展開しなかった。そこでは、熟練と不熟練の労働者の間に対立があり、前者は手工芸で大部分が行われる交易に属していた。北部では、工場を生み出した産業革命が、主にこの区別を進めていた。その目標やそれを如何に実現するかの知識が不十分なことが、ついにチャーチズムに於ける弱点を曝け出した。チャーチストは、大体において、また必然的にそうだが、「社会主義」の意味や外郭について全く無知だった。また、経済的な成長は、産業的困難の現実的で恒常的な原因を提示するほどには十分ではなかった。その困難の最初の改善について、チャーチストの党は分解した。しかし、その難破の直接の、そして外的な原因は、組織体自身での物理的な力と道徳的な力の間の支持者に起った不幸な分裂だった。その他には、彼らが憲法上では殆ど成功のチャンスがないのに、彼らの要求が逢着した(総て憲法上ではない)多くのレジスタンスを考えていた。運動の歴史的機能は、その時の状況への労働者階級の内在的な不満を表現する事であり、我々の時代へ向けて因習をパスする事だ。
 チャーチストが常にプレーしようと考えていたトランプカードは、「神聖な月」の絵のような見出しのもとで、普遍的なストライキの組織に過ぎない、と指摘されるかもしれない。活動の多くの困難、無視労可能なことを考えるに、我々は支持者達がそれを始めれば、すぐに強圧的な弾圧を受けること、そして直接に市民戦争に発展してしまう事ことが理解できたかどうか、という点を想起すべきだ。
 1842年から、トップに分裂主義者が座り、チャーチストは死滅し始めた。けれども、その腐敗の原因は、原則の不完全な発展とか、誤って考えられた戦術にあると言うより、事態の経済的状態に於ける変化にあった。状況が、大工業の上昇に伴う変動から起こったと言える。中産階級は、ごく小さい部分だが、労働者は貿易の巨大な拡大による富の分配にあづかった。これらの階級は、より大きくなるし、より満足する傾向にあった。労働組合が強くなり始め、熟練労働者の期待も膨らんだ。いわゆる協同組合も増え始めた。それは、現実には株式会社(joint-stockery)の発展した形態だった。それには労働者も加入できるのだが、しかし「社会主義」への靴べらでは少しもないが、その代用だと甘く考えられていたし、考えられている。事実チャーチズム自身は、この時期に半分は一種の協同組合、半分は農民土地所有体に含まれていたが、むろんひどい失敗に終わった。
 この労働者階級の状態の改善は、単に飢餓の絶望に依存したチャーチズムの生活の部分を弱めたし、そのため中産階級の成長する政治力やトーリー党崩壊の反動が、その生活の政治面を吸収した。
 それゆえチャーチズムは、1842年以降動揺していたが、その最後の行動は1848年4月起った革命への有名な不発の脅威だった。こうした最後の行動には、若干の評価すべきものはあった。例えば、この時のデモは、その時起った大陸での絶対主義への攻撃に明らかに同調することに起因したのであり、チャーチズムは絶えず全ヨーロッパに進みつつある運動の一部という側面をもっていた。そして、それはフランス革命に続く反動、つまりブルジョア階級と人民の双方に対する絶対主義者の支配の「神聖同盟」と表現されるが、その反動に対立する方向性を持っていたのである。
 チャーチズムの没落で、ブルジョアの台頭の得体の知れない、グニャグニャな産物であり、原理や定義もないまま、全体としてイングランドの中産階級の偽善で、臆病で、近視眼的な表現なのだが、英国の進歩的政治運動全体を「自由党」が独占したのである。そして、それにより労働者階級が引きずられ、自分たちの利益や労働の団結には盲目になったのだ。この政党は、彼らが考えても、反カソリックへの偏見に関係が無ければ、大陸での進歩的運動には、殆ど全く同調しなかった。シ-ザー主義にさえ、危険を見なかった。それはブルジョアの利益の下、フランスを支配し、法と支配のチャンピオンとして輝いたルイ・ナポレオンを迎え入れた政治的、かつ投機相場の体制の頭目として、ルイ・フィリップの腐敗した欺瞞の憲政主義が台頭した。
考えのある人と言えども、1848に続く年に考えが及ぶ人は、一人も居なかった。人民の政党がイングランドにも遂に登場した。そして,階級闘争は死滅して、中産階級の平和的なルールに変わった。それは、「資本と労働」の間の合法的な仕方で進められる時々の口論による妨害も、
 殆ど見られなかった。しかし、総てこうした下で、社会主義が大きなうねりで、新しい科学的局面を発展させていた。そして、最後的には国際組織の樹立をもたらした。その目的は、世界の労働者を一つの組織に統一するものであり、意識的に資本主義の支配に対抗するものだった。
 インターナショナルは、1864年にイングランドで新たに発足し、ロンドンのセント・マーチンズ・ホールで集会が開かれた。そこでは、ビースリー教授が議長になった。それは、労働組合の内部に急速に浸透し、ヨーロッパの専制政府に大きな影響(実際、その本物の力が何を保障するかを超えて)をもたらした。それについては別の章で触れるパリのコンミューンでは、社会主義的影響が絶頂に達した。インターナショナルは、コンミューンを長生きさせられなかったし、またもやイングランドでは数年間、総てのプロレタリア休眠していた。唯、それとほんの僅かなイングランドの労働者が関係したが、そこに住む外国からの亡命者の間では活動が可能だった。1881年に、ロンドンの様々な急進派の集まりを、「民主同盟」の名の下に、一つの組織にまとめようという試みが起った。
異質な要素を別にして、主に単なる政治的急進派と言うだけで構成されていたので、1883年には脱退があった。しかし、他の要素、つまり社会主義の文芸的、文化的な側面については、一致していて、すぐに無制限な社会主義を宣言した後、「社会民主同盟」の名前となった。これが、イングランドでの近代的、または科学的社会主義の最初の登場だった。そして、この基礎の上に、殆ど完全に文化的、文芸的で、その時点では大衆化できなかったが、かなりな公的な注目を喚起した。
意見の違いは、主に時々の戦術上のことで、身内の分派やライバルに起因するもので「社会主義連盟」が形成された。両「協会」とも行動的な社会主義者の宣伝活動を行い、時が経つにつれしばしばコンサートで活動した。1886年2月8日、月曜日のウェストエンドの暴動と、その結果の「社会民主同盟」の4人の逮捕が、2つの組織の合体をもたらした。「同盟」「連盟」ともに沢山の良い支部ができたし、様々な資金で活動した。しかし、1890年に重大な無政府的要素によって起った連盟内の意見対立が、それを分裂させてしまった。一方、フェビアン協会が、連盟と同じ時期に、社会主義者の団体として形成された。それは精力的に宣伝を行い、主に既存の政党が社会的問題に注目するよう促し、大きく中産階級の人々が「社会主義」に教育するよう努力した。他の団体は、多かれ少なかれ独立し、各地にバラバラに分散したが、その中では「ブリストル・社会主義者」「アバーディーン・グラスゴー協会」そして「ハンマースミス社会主義協会」が注目されるが、後者は社会主義連盟」の支部である。けれども、いずれにしても社会主義者の思想が拡大し、これら地域の宣伝センターの周囲に定着したと想定すべきではない。他方、その影響が、各産業のコミュニティを通して認識できるようになるだろう。災難や議論にもかかわらず、運動はイングランドに根を持ってきたし、また社会主義が労働者階級に広く理解され始めているし、今や社会主義的本能があらゆるストライキや交渉に見られるようになって来ているし、そして階級闘争の率直な認識の上で新しい組合主義の成長をもたらそうとしている。そしてさらに、支配階級が労働者階級の状態に注目せざるをえなくなり、その結果政府も、気乗りはしないだろうが、もはや階級としての彼らの要求を無視できないし、既存の政党も総て彼らの利益や投票を手に入れようとしている。事実、社会主義者の扇動で何が起こるかこそ、目立たない少数派とともにはじまるすべての行動に起こることなのだ。現在、内的に多少失っても、外的には大きく獲得してきた。そして、増大する教育、また世論として一般化する不可避な経済的事件を待望し、次の段階へ近代生活を進歩させるべく、共同行動からの成果、つまり新しい政治、倫理、そして経済、端的に言えば「社会主義」への文明の転換の待望である。












 
 
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by morristokenji | 2010-08-27 20:36
       第13章  イングランドの産業革命
 前の章で、イングランドの状態に触れ、一般的な立憲主義の支配下で、言葉の普通の意味で、それが繁栄している国だ、と述べておいた。ここで、貴族的特権の暴力的な破壊について、とくに触れる必要はない。それは、それ自身が貨幣的特権に溶解され、世界が今まで見てきた労働の略奪において、もっとも完全、かつ確固たる体制として、万事整っていたのだ。
 イングランドは、ブルジョア的な意味では、比較的自由だった。すなわち、労働者が生きていくのに財産に払わねばならない厳しい取立てへの介入も、フランスに於けるより、はるかに僅かでしかなかった。一言で言えば、一方では搾取がベールに包まれ、他方では財産所有者は、上記の取立てのための見返りとして行うべき義務が、もはや何もなかった。にも拘らず、これは総て、暫くの間、小さな規模でしか進めざるをえなかった。
 人口は、17世紀の初め以来、大きくは増加しなかった。農業は繁栄し、穀物の30分の1に上るものが、イングランドから輸出された。労働者階級は厳しく抑圧されなかったが、集団での売り買いは、まだ出来なかった。大きな工場制手工業の町はなかったし、その必要もなかった。仕上げるための材料の存在としては、機械的にそれを働かせる(労働)手段よりも、むしろ燃料、すなわち此処、其処の田舎に製造業の性格を与えた。例えば、ヨークシャの丘陵地帯の牧羊地であり、その近くの石炭の存在ではなかった。それが北部のブラッドフォードの近辺を紡毛地帯にした。ウィルトシャー エイヴォンの名前をもらった人は、その時代、少なくとも繊維産業のセンターとして重要だった。グロスターシャー谷のブロード生地、デヴォンシャーやハンプシャーのカージー織、ホイットニーのブランケット、ティツピン ノートンのツィード、それらは新鮮な草や長い羊毛を意味していたし、水車を廻すのに石炭ではなく、小型の水力であり、その原料は地球の4つの方向から輸入された。
 その時代の労働の外見は、現在と比較しても牧歌的だった。しかし、その時、今のように労働者が、土地と原料の独占者の手にあった点が、記憶されねばならない。後者は、より進歩し、増大させる制度を適用しなければ、200年の間、特権を享受できるわけがなさそうなのだ。
 職人ギルドの崩壊から18世紀後半の間に、中世の労働者には適用されなかった制度が発達していた。即ち、彼らは親方や搾取家ではなく、自分のために働き、その限りで彼ら自身が原料、道具、時間の親方であった。この制度は「分業労働」のそれであり、労働の単位は個人ではなかった。各人それぞれ無力ではあったが、そのメンバーであるグループのものだったし、その遂行に非常に正確、かつ迅速が要求されたが、仕事の小さな部分を常に反復実行することにより訓練された。簡単に言えば、各人が機械の一部になってしまうようなものではなかった。例えば、ガラス瓶を作るのに5人要るとする。瓶を作るのに、それぞれ一人ではない、5人のグループが必要なのだ。このシステムでは、個々の労働者は、親方のなすがままで、労働の管理者の範囲内では、明らかに資本家である。彼によって無茶苦茶にされないためには、彼自身の利益を、彼の雇い主と対立させるように結びつかねばならない。
 この制度により、18世紀の終わりまで、世界市場に拡大する需要が供給された。偉大な経済学者アダム・スミスは、彼の本を1771年に公刊したが、この制度から機械制大工業のそれへの移行の時期だったが、彼の本は「分業労働」の制度を通して書かれている。
 その制度も、今や新しいそれに溶解している。労働者は、機械であることから、機械の補助に変わった。1760年のハーブリーブスの多軸紡績機の発明は,この産業革命の開始の最初の兆候だった。ここから動力としての蒸気の発明まで、さらに今日の我々のものまで続いているのだ。鉄が立て抗により作られようになった発見は、南部や西部の森林地帯を鉄マニュファクチュアの地域に変化させたが、そこへは旧来から使われ、木材が燃料として使われた「錬鉄炉」と呼ばれたのだが、旧来の鉄鋼労働者が北部や中部の炭鉱地帯から移住させられたのだった。そして、どんなに重要な製造業も、総て燃料の地位に流されることになった。そこで、例えば南ランカシャーは、小さな商業町で古いマンチェスターの製造業の都市とともに、荒野と牧場の地帯だったが、まだ「村」とよばれているものの1万5千ないし2万から3万の人口が非常に多数連続してしまい、田園はすっかり消えてしまった。勿論、この大部分は鉄道の発明に続いた時代の所産である。しかし、この産業革命の初期でも、変革は大きく急激であり、労働者の悲惨さも大きかった。しかし、その圧迫を軽減する試みはなかった。これらは、人間の手の利用から機械への転換による事は確かだった。また、政府により政策が実際に強制されるまで、ブルジョア憲政によって支配された国でも、何も行われなかった。
 1811年にラッダイト運動が、最初に暴発して、一連の困難が予告された。これは機械を打ち壊す事に立ち上がった人々の組織的連合であり、それは雇用の要求と結果的にもたらされる飢餓の原因に対するものだった。この暴動が、もっとも頻繁だったのは北部中央であり、そこでは新たに開発された長靴下の形が、とくに彼らには不愉快なものだった。ラッダイトは、この時代に発展した産業革命の大部隊に対して、それに身を投げ出す半分眼の見えない昆虫のような暴動の形だった。
 1816年に、フランスとの間に平和が結ばれたが、戦時産業の後退が多くの人々を雇用から放り出した。それに加えて、不作がとくにひどかった。その結果、飢饉による暴動が、その年とくに凶暴化した。暴動は、それに対する強権により押さえ込まれた。暴徒は、最高の厳しさで罰せられた。しかし、時と共に、この種の騒動は鎮静してきて、我々が述べてように、単なる飢餓の問題になり、原則がないままに消滅した。しかし一時期、暴徒は彼らの目的として、財産を破壊し、とくに製造業者の設備や在庫の破壊が、世紀の前半を通して続いた。「プラグ暴動」は、チャーチストの宣伝の最中に、その一例として行われた。
 成人男子の数を減らすために、女性や子供が工場に大量に雇われるよう、精巧な機械が導入されるのは必然だった。新しいシステムによる利益増進のための資源は、もっとも向こう見ずな製造業者によって利用され、最後には直接の弊害を緩和するものがないまま、その悪用によって生じたスキャンダルが、その利用に終止符を打つ事で、ブルジョア政府にも明らかになった。そして、その結果として、一連の工場法の通過となった。そもそも法律は、究極的にはブルジョア階級の利益になるのだが、「景気のいい事業」の手提げかごに入るはずの資本家は、直接的な損失を嫌がり抵抗した。機能するように目論見られた、これらの法律の最初のものは、1830年に通過し、最終的に固まったのは1867年だった。それ以後も成年男子の大部分の労働者には利益がなく、むしろ女性や、とくに大量に雇われた子供などの状態への慈善家たちの要求に応えるものだった。
 また、地主階級と製造業者の間の政治闘争が、この変革を強めたことも記憶されるべきだ。
 一方、産業革命により生じた苦悩にも拘らず、資本家たちにとって、それにより獲得した利益の総てを独占すること、少なくとも利益を上昇する率で積み上げることは不可能なのだ。階級闘争は、単なる飢餓やひどい不況とは別の形、すなわち労働組合との闘いとなった。労組の当初の要求は、初期の中世ギルドと同様、利益団体の基金の実践的利用だった。それは、また同様に、最後的には労働の規制に関係するようになった。
 労組と資本との最初の闘いは、それが非合法の段階で起った。しかし、1824年に労働者の団結権を禁止する法律の廃止により、彼らは自由になり、地域での勢力となり始めた。商業的繁栄の上げ潮に助けられ、資本家たちは「場外の戦い」に従事するようになり、彼らに多くの利益を売るように促した。彼らもまた、多くの産業コンテストに勝利したし、国民所得の総額を大幅に増加させる点で、むろん熟練労働者の生活水準の向上にも成功した。しかし、彼らにとって、それ以上に資本家が労働者の組織の必要な部分とみなすことは出来ないし、また出来なかった。資本家階級により、彼らは最初に労組を公認のように理解されなかったし、結果として初期の成功の時代にも、資本家の組織の一部というより、労組は危険な革命家集団と看做されていたし、実際の地位もそうだった。そして、悪意に満ちた、臆病な悪用、そして店主が絶えず舌の端で店にとって怖がっている侮辱の種類に扱われた。
 1846年に穀物法が廃止、その結果、労働者にとり食料、必需品が安く入ってきた。カリフォルニアやオーストラリアでの金鉱の発見、上層階級や中流階級の贅沢品への支出増加、大型機械産業による商業的刺激の動きや反動など、地方の全般的繁栄をもたらした。そこでは、すでに述べたとおり熟練労働者が、ある範囲で役割を演じていた。中産階級にもブルジョア的な発展が持続すると云う楽観的な見地、また労働者階級の「慎ましく勤勉な」部分がそこまで暫時吸収されるという見方が、最近の数年間に到るまで確信されていたようなのだ。それ以上に、もっと自由党の実践的な勝利が「政治」を緊急課題とするのを止めさせた。にも拘らず、地下の溶岩の流れを止められないように、大工業が成熟してからも、この約10年間、周期的に不況がやってきた。これらは、様々な独創的な方法で説明されたが、他方でそれは現在の体制の安定の証拠としての規則的な循環であるがゆえに、それを考えてきた資本家の気持を動揺させることはなかった。単にそれを一般的な平均にしてみたり、普通の方法で対処すれば足りるものとした。しかし、最近の数年間では、終局的なブルジョアの先見性も、我々を失望させている。最近の貿易の部分的な復興にも拘らず、不況が執拗に跡を付けてきている。国家は、原料を供給すること以外に何もしないし、製造業の我々のライバルになったり、世界市場での我々の競争相手になってしまった。一方、アメリカは肥料を必要としない処女地を容易に耕して膨大に拡張しているし、インドの風土もそこで生活するのが容易だし、これら二つの国々が安く大量に我々に穀物を供給するので、イングランドでは穀物が利益の上がらないものになったり、農家が窮乏化した。そのため地主は、以前のように地代を獲得できなくなった。輸出は落ち込み、6年前は産業が活発で、賃金も高かった町が、今では人々が雇用を探すことが出来ず、邪魔者になっている。次第に、そこには何も来なくなって、人々が昔の「とんとん拍子」の繁栄に戻してくれるようなマジックの波を期待せざるを得なくなっている。新たな商業革命が、この数年間、最初のそれを補足する形で進み、今や大工業の初期の段階に「発明」された機械の「完成」の時代を迎えている。その結果は、同根の事業の縮合体であり、生産の大きく進歩した組織である。これは製造業と販売業の間の商人ないし中間者が次第に廃止を意味しているし、機械によって手工業が最終的、かつ極度に急速な代替をみる成長である。こうして、必要品の生産において、手工芸が完全に存在を失う時期も、そう遠くないように見える。
 事実は、大工業の流通が、その第2段階に意識されぬまま入った事、また単なる国家間の険しい残酷な競争が、「大英帝国の産業革命」の第一段階の利益確保を十分に準備し、唯一の慈悲深い商業独裁国にとって代わろうとしていることだ。
 この第二段階は、明らかに全ブルジョワ的商業組織の死によって終わることは疑いない。一方、何が産業革命の真の社会的な成果なのか?我々は、物質的、文明的、さらに道徳的に、中産階級の最終的勝利と答える。フランスに於ける大きな政治革命の結果として、貴族支配の崩壊が起った。そして、ブルジョア政治の世界支配となった。此処からは、少しも何も出ては来ない。そこで、「英国産業革命」こそ、ここで世界で知られていなかった新たな商業中産階級を産み出したと言えるかもしれない。この階級こそ、一方において前の時代の中産階級のあらゆるグループを取りまとめている。大小の地方の地主、大農、商人、製造業者、専門家などだ。そして、彼らの団結を意識的に進めることにより、今日の一般的に洗練され、頭脳的な人は、他の階級のことは全然分からないが、自分自身の階級の外では異質なグループとして、その階級の一層の発展の手段になっている。他方、上層階級は単なる添え物だし、そのサーバントに過ぎず、その階級が完全な支配に到達した。事実、これらは一にも二にも商業に従事するブルジョア階級である。より高貴なのが、すべて家屋不動産、旺盛な商人、石炭問屋、あるいは起業家である。そのビジネスなしには、重要性を発揮できない。さらに下方か、上方かに拡大の努力をするにしても、中産階級は特に最近の30年間に、その方向に吸収されたのであり、単なる無産のプロレタリアを除けば、下の方に残っているものはいない。最後のプロレタリアも、完全にそれに従属していて、その前では完全に力を失っている。唯、それを生み出した体制の崩壊までには、(我々が指摘したように、その予兆があるわけだが)彼らを革命に駆り立てるに違いないだろう。この革命の一連の流れの中で、巨大な中産階級は、その結果としてプロレタリアに吸収されるだろうし、そこでは階級が存在しなくなるような、新しい社会が形成されるだろう。これが次の不可避的、かつ容赦なき「革命」であって、明日の太陽の上昇なのだ。
 
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by morristokenji | 2010-08-22 15:18
       第12章   フランス革命―プロレタリア段階

 8月10日の革命は、君主制を最後的に打倒して、最高潮に達した。テンプルに王と王家を虜にしたが、それは新たな完全に革命的なプロレタリアの力量の表現としてのパリの新しいコンミューンに主導され、組織された。その人を動かす精神がマーラーであり、議会では彼に議席を与えてさえいたのだ。すでに王がテンプル送られる以前に、代表としてジロンド党のフェルグニオが「世襲元首」の停職と国民議会からの召還に動いていた。ダントンが司法大臣に就いた。ロビスピエルはコンミューンの評議会にいた。新しい裁判所の法廷は、8月10日の犯罪に向けて作られた。「国民議会」のメンバーは二重の選挙で選ばれたが、「積極的、消極的市民」の資産資格は廃止された。
 これら総てが進む一方、フランスの反動的な軍隊は、まだ活動していた。後には、単に自己欲望的な征服者ナポレオンにより利用されたが、フランスの国民的興奮の熱狂的枠組みが残っていた。それは、その時点の必要性により輝きを示したが、彼の後も長期にわたり消え去ることはなかった。我々はここで、この後に何が続くかを判断するためにも、なぜ絶対主義の国々が武装し連合して、フランス人民の血による革命を脅迫したか、を想起しておこう。軍隊の一つは、有名なフレデリック大将軍、ブラウンシュワイク公に率いられ、すでに都市には数日の行程内に入った。パリとその爆破の間には、無境な徴兵や旧体制下放置された軍隊による騒動の他、何も無かった。一方、同じ頃、有名な王党派の反乱がバンデだ決行された。それゆえ、パリの総ての共和派は、彼ら自身と国の将来の双方について、フランスと人民を君主制がそんなに長期に復帰したのが何か、を気づかない者の手に渡す直接的な危険を感ずる十分な理由を持つに到った。
 ダントンは、軍の調査が必要だとして、8月29日に始めた。監獄は王党派と見られる罪人で溢れていたし、その多くは確かに罪を犯していた。
 ベルダンは、9月2日に陥落、しかしブラウンシュワイク公は、パリで食事する事を自慢していた。同じ日の夜、9月の大虐殺として知られる、異常な審理とパリの囚人の虐殺が行われた。
 次の日、大虐殺を認める公安委員会の回状だ出され、そこにはサージェン、パニー(ダントンの友人)、マーラー他7人が署名していた。
 議会に於けるジロンド派やその他は、その間静かだった。後に彼らは、ジャコバン派に対抗して事件を利用した。
 一方フランス軍は、アルゴンの森の丘に作られたヂュモリッの下で、ブラウンシュワイクを阻止し、ヴァルミで彼を撃破、パリは無事だった。
 9月20日に議会がもたれ、ジロンド党と山岳党、極端な革命派だが、形成された。特筆されるべきは、その基礎として、人民の統治と王制の廃止が明確になり、土地と他の財産が永久に神聖なものとされた事だ。ついでに、本屋のモモロが、耕地法と似たようなものにヒントを得て、縛り首を逃れるために、社会主義の少し弱い影を隠さねばならなかったことも、ここで指摘したい。
 それゆえ、その限りではブルジョア共和主義の完全勝利を出るものはなかった。事実、事件が示すように、その地位を維持する可能性は、プロレタリアの支持に依存していた。それは、もっぱら労働者の物質的な状況が、より改善されるかどうかにかかっていた。そして、長期的には、これらのことをブルジョア共和主義者が維持できなかったから、没落せざるを得なかったのだ。議会の中で、ジロンド党と穏健派は、9月の大虐殺の問題で,ジャコバン党に攻撃を仕掛けだした。また、個人的には(9月21日)マーラー攻撃によるものだったが、それは法外な失敗だった。ジロンド党は、その名前の通り、パリよりも強力な地方の支持に依存していたし、パリの民衆に対して、議会の防衛のための護衛係を招集しようとした。しかし彼らは、それを進めるための議決を得てはいたが、実行できなかった。政治経済学者の性格からも、穀物価格の上限を決めるのに抵抗があったし、もし革命の利益にプロレタリアが預かることがあれば、一般的な抵抗から欠乏が避けられなくなる政策にも、抵抗があった。端的にいえば,ジロンド党は人民の多数に同調できなかったことは明らかである。
 王の裁判が進んだ。それがジロンド党にとって新たな形で試練となった。彼らの大部分が死刑に投票した。しかし、世論は彼らに対立し、彼らもまたそれを信用しているような感情を抜け出るかのように、王は1793年1月21日に絞首刑された。その直接の結果として、イングランド、スペインが戦闘を宣言した。しかし、王のこの仕業は、政党間に休戦をもたらしたが、それもすぐ終わった。マーラーが、攻撃の最大の目標になった。そして1793年2月25日、彼は彼の新聞の文章の数行のために、忌まわしい天命が下された。それは、そこで起こった暴徒の訴えによるものだが、さらに1-2人の先走り屋の絞首刑の示唆によるものだった。他方、3月10日にBonconseil部会がジロンド党の辞職を要求した。一方、ダントンは、2つの政党の間の平和を維持しようと努力を続けた。しかし、4月1日ジロンド党は、デュモリエとの共犯の件で、彼を告訴した。デュモリエは、国境から逃げようとしていたが、彼らのもっとも精力的な敵の一人になる様に図った。ジロンド党の地位は、もはや絶望的だった。3月24日にマーラーは放免され、議会に勝利をもたらした。
 ジロンド党は、パリ部会に対抗し、議会の利益になるように12の委員会を結束するよう指示されていた。これへの回答として、部会の中央委員会が形成され、3月31日に市町自治体(それが大乗り気で)を支配し,軍隊とともに議会を包囲することになった。ジロンド党の一部に対し、彼らの行動の自由を損なう主張を試みた後、彼らを告訴した状態に布告して、そして逮捕した。その後彼らは死んだが、あるものは絞首刑、もっと酷いものもあり,数ヶ月の出来事だった。しかし、彼らの党は、この日が最後になった。この時点から、「テルミドール」に於けるロビスピエールのの没落まで、議会の中での出来事の総てが、僅かな革命派の行ったことであり、どれもが無産者の本能のレベルを確保しようとして、いずれも結局は失敗だった。彼らは、大きな秘密への鍵は持たなかったし、彼らはまだ有産者でもあった。そして、有産者から必然的に資産を失って無産者にならざるを得なかった利、あるいは最後に彼らに服従せざるを得なかった。彼らは、階級の区分の考えを受け入れなかったし、人民それ自身が最後の組織であることも、受け入れなかった。
 マラーの死は、7月14日シャルロット・コルデーの手にかかったが、唯一の実際上のライバルであるロビスピエールに移った。そして彼だけが、テロの異常な行動を修正することが出来た。
 今や、最大限の法律が通過した。けれども、累積収入税は通ったが、カーライルが注意したように、少なくとも働く人達は、それまでよりも恐怖政治の下でより改善されることになった。
 ロビスピエール、ダントン、エベール派は、今や力関係では議会の左派となった。第一人者は、素早く彼ら自身の手で権力の支配を握ることを決断した。一方、唯物主義に基礎付けられた新しい礼拝堂の建設が試みられた。しかし、こうした芸術的試みは長い時間が要するし、失敗した。ショーメット、エベール屋、その追随者はこの事業の指導者だったが、ロビスピエールは認可しなかったし、ダントンも不平を述べた。
 今や恐怖政治の下、フーキェ=タンビルによる特別な裁判所が、手早く革命の障害を取り除き、また多くのものがそれを助長する方向で働いた。ロビスピエール賀最後に実際上の指導者になったが、それは一つには彼が政党間や産業の巧みな舵取りや注意深い骨身の削り方、もう一つには彼の清廉さ
屋共和派の禁欲主義への評価によるものだった。
 リーダーのエベールの名前からエベール主義者と呼ばれたが、プロレタリアの本能や社会主義の芽生えを代表した。しかし,「凶暴」の名の下に告訴され、有罪で執行された。ダントンも、持ち前の怠惰な仕方で、多少の時間を稼ぐかに見えたが、自滅して1794年3月31日にカミユ・デスムゥーランとともに死んだ。最後に、ロビスピエールが実権的にも表面上も最高位について、6月8日「神」の祝宴により新たな権威に就いた。2日遅れて法律(プレイリアル法)が通過した。これで誰でも喜んでギロチンに掛けられることになったのだが、同時に不吉な不満の声が聞こえ始めた。その時の話だと、コルノーは逮捕された40人のリストを偶然に手に入れた。彼は、そこに自分の名前のあるのを読んでしまった。7月26日、ロビスピエールは議会で期待もしなかった反対派に遭うことになった。次の日、彼は議会で法律に従い告訴され、ヘンリオットは国軍の指揮官を罷免された。しかし、そこにはもっと周到で、少なくとも軍事的本能の働く男が利用されるべき時間的余裕があった。ロビスピエールにはその本能が欠けていたのだ。惨めにもヘンリオットは議会を破壊してしまう努力に失敗した。議会のアッピールにより武装したパリ部会が高揚し、譲歩した。ロビスピエールは逮捕された。実際、ロビスピエールは、死刑執行の継続により、人民の我慢に疲れ果てているように見えた。もし、彼が「神」の祝宴の後、大赦を要求していたら、恐らくより長く権力を貸与されたかも知れない。しかし、彼と彼の追随者は7月28日に死んだ。
 この後は、普通のタイプで、自分だけの一連の政治家以外、革命を進める人材はいなかった。彼らは、自分の目的のために人民や軍を組織する独裁者が現れるのを待つだけで、事態を維持するだけだった。それは、ナポレオンという形で現れた。プロレタリアは、もはや連帯を必要としなくなった。そして、解体され、原則も無視された。リーダーを頼るようになり、「社会」に対抗する頭脳を創り出せなくな利、内部の分裂のために動揺したが、まだ崩壊することは出来なかった。
 一つだけ指摘しておきたい。バブーフとその追随者が、プロレタリア共和制を組織する試みについてである。それは暴動と呼ばれたが、そこへ行ったわけでは決してない。まだプロパガンダの初めだけであり、潰されてしまった。バブーフと追随者は、1796年4月に試みようとした。彼とダーテスは死を宣告されたが、それが執行される前に自殺した。他の10人が牢に繋がれ、そして亡命した。こうして、社会主義者の最初のプロパガンダが終わった。
 一般にナポレオンが革命を弾圧したと言われている。しかし、彼が実際にやったことは、法と秩序の最後のシールを貼っただけである。革命は、中産階級により、彼らの利益に基礎を置くものだった。ナポレオンは、彼の目標の表現として「能力のあるものに職業が拓かれている」と云う表現を受け入れたが、その文章は中産階級の優位のモットーである。それは、貴族的特権の放棄に代わり、いわゆる「自由競争」の世界で、搾取の特権に基礎を置く、貨幣の貴族をその地位に就けるものだった。中産階級は、我々が見たように、最初は中世に形成されたが、長期の強力な闘いの後、勝利し
たのであり、ここから以後の支配が始まったのである。
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by morristokenji | 2010-08-16 20:39
      第11章   フランス革命:憲政段階

 フランスは、無税の特権貴族の統治の下で、何かをしょうとする危険な段階で、宮廷を引き込もうとして破綻に向かった。そして、「植民地」その他の下で、財政的な機能を使って、過去の破綻に進む絶望的な努力をした後、一種の不定期の徴税機関である「名門」の集まりに助けられて、宮廷は最終的に1789年5月4日に「全国三部会」(State General)を開催せざるを得なくなった。これも極めて中世の王の議会によく似たものだったが、ある種の苦情処理のために、王への課税を許す宣伝の試みに過ぎなかった。この「全国三部会」は、1614年以来開催されていなかった。3院、すなわち聖職者、貴族、平民の間の口論がすぐ始まった。しかし、平民は若干の下層貴族を含みながら精神的には中産階級だったし、第一の聖職者から将来的な支配権の証書が与えられた。6月20日に宮廷はクーデタを試み、第3帝国は記念すべき部会をテニスコートで開催した。古い封建的理念が敗れ去り、宮廷はその時、無力な抵抗を試みながらも、憲政の下での「国民議会」となった。
 この合法的、かつ合憲的な運動と平行して、プロバンスの農民の「自発的無政府」とM.テインがよく呼ぶ運動も起こり、それにパリではレヴィヨンの工場の攻撃が同調した。王や女王、宮廷は、これらの反乱が簡単に収まると期待したが、ネッカー・デモの夜の事件、そこではフランス軍(彼らはレヴィヨンの暴徒には躊躇なく砲撃したのだが)は、王家ジャーマン連隊と呼ばれた装甲部隊に対立していた民衆を助けた。この事件により、軍事力で運動を粉砕する宮廷の希望は潰えた。
 次の民衆の革命の行動は、バスチィーユの獲得だった。この古城は,革命家たちには不快なものだった。なぜなら,その建設の最初から家臣の抑圧のための王家の要塞だったし、後には王の特権の象徴になり、さらに不評な封印状(lettres de cachet)で処刑された監獄だった。
 この事件に続いた、金融強奪者の典型のベルジアーやフーロンは、ここで報復の要素が大きな役割を演じる、野蛮な民衆の正義の最初の事例として注目すべきだ。
 宮廷は、直ちに道を開けた。王は降服のサインとしてパリを訪れ、高級貴族のあるものは迫りくる没落から逃げ出した。
 こうして基礎は明らかになった。立憲革命が進み始めた。封建的看板が破棄され、教会も雇われた公的部門に縮小された。国の地図も塗り変えられた。歴史的な名前の付いた古い地方も廃棄された。そしてフランク王国は、83の地方に分けられ、川や他の自然の状態に従い名前が付けられた。総て、中央集権化されたブルジョア的官僚の様式に整理されることになった。
 だが、他の革命の要素も、また引き起こされた。たんに餓えた者だけで、ブルジョア階級抜きに、連帯できなかったし、彼らがどうなるかによっていた。百姓一揆が国内に起こり,武装した農民がいたるところで城や地主の家を打ち壊した。また彼らの占有物を奪った。革命は必然的に全産業の混乱を招き、欠乏が随所で厳しくなった。
 宮廷内では、バスチィーユに起こった最初の混乱からの回復により、反革命の陰謀が始まった。王をベルサイユからルーエンかどこかに移し、反動的な軍隊や対抗的な反動議会のトップに据える計画が練られた。宮廷により、忠誠であるとされている連隊のための宴会が、この策謀を暴くことになった。それにより引き起こされた恐怖と興奮の只中で、ベルサイユに向かう女性の有名な行進に先導された人民の決起が、議会の助力を得て、王はパリに行かざるを得なくなった。そして、チュエリーに住居を定めた。この事件は、ほんのサンキュリットの要素しかないことは明らかだ。それは、財政上、また宮廷や個人の株式仲買が原因で、人為的な飢饉で混乱させられた。有名な中産者の大臣ネッカーが、小額の紙幣を発行により直接の原因を作ったのである。それはまた、ブルジョア連合やラファイエットを首領とした国軍、彼は憲政革命の体現者そのものだが、その反対に遭った。これはさらに、フランスから貴族や上層のブルジョアの脱出が続き、こうしたことが宮廷政党に対する憲政主義の完全な勝利に結びついた。
 暫くの間、王は展望が極端に無くなった事に気づかず、勝利を上げている中産階級への闘争を続けた。一方、ブルジョア政府に側では、どんな人民の行動も鎮圧する準備をし、今よりもさらに国軍の形で恐るべき部隊を持つことにした。しかし、この時までに有名なジャコバン・クラブ、言ってみればコーデリア・クラブの団体の域を出ない人民議会の一種が起ってきたし、勝利した憲政主義にとって、雲行きが怪しくなった。
 その勝利は、1790年7月13日に「練兵場」の大祝宴で祝賀された。その時、王はフランス全土の代表の前で、憲法に宣誓した。しかし、王党派の策謀は、既定どおり進められ、王を北部の国境に飛行の既定方針が最後に決まった。そこは、背後に脅迫のためのオーストリア軍がおり、正規軍に依存できるように残っていた。試しに、王はイースターにサンクルーまで出掛けようとして、その通り彼の決定を報道した。しかし、ラファイエットはピンチに擬似憲法体制を取り戻すべく、王制を助けるため全力を尽くしたものの、全部がサンキュロットではないが、群集により阻止されてしまった。最後に7月20日、王と王家は大変なことを試みた。それは、もし彼らが総て種類の富や奢侈品の馬鹿げた道具と一緒に身を隠さなければ、また彼らが支払うべき資産の種類について考えていたら、多分もつと成功していただろう。それにもかかわらず、あるいはそれゆえにかも知れないが、彼らはエスコートして貰うために途中で会うことになっていた軍隊との様々な接触を準備していたのに、彼らはヴァレーヌの小さな町でストップされ、パリに連れ戻された。この時点で、パリへの王の登場には、2つの考えがあった。純粋の憲政派の考えは、憲法に最後の仕上げが必要だった。また革命派からは、敵対的に反動化するヨーロッパに対して、フランス人による人質として必要だった。また、今や共和制の言葉が前面に出たし、最後的に憲法を作る上で、2つの政党が存在すること、つまり憲政王党派と共和派の2つである。
後者、共和派は人民により支持され、王制の廃位への請願により議会を盛り上げた。議会は、行政的な戦いの中で、反王党派への親近的な法制上の虚構の基礎上で王制と対決することを決めていた。王は裏切った評議会の悪魔に連れ去られた。しかし、2つの党派の分裂が、流血で強まった。ジャコバンの請願が「練兵場」での国家改造のサインとなり、大群衆がそれについてサインし、そばで見た。夕方、ラファイエットが国軍の大隊と一緒に「練兵場」へ行進した。新たに作られた命令に従い、赤旗の掲揚で戦闘が開始された。最後には、人民に対し発砲され、多くが殺された。
 「練兵場の大虐殺」と呼ばれた事件にもかかわらず,その時は憲政派が勝利した。国民議会は、その任務を完遂した。そして、完全にブルジョア的で、無政府的ともいえる憲法が生まれ、王もそれを受け入れた。時代が、非常に成果のある、この場合一般的に、群集に対し母親の腕の中に小さなDauphin皇太子の博覧が抱かれた様な、そんな特異な感情の吹き出る中でのことだった。国民議会は、誰も新しい立法府、最初の革命議会に選ばれない事を規定した後で、自ら身動きできなくなった。この立法府のブルジョア共和派は、タレントの貴族であり、明らかに最強の政党になった。立法府の外のサンキュリットの連合を、素直に受け入れる能力さえあった。しかし、もう一つ別の要素、対外戦争が付け加わった。オーストリアが攻撃を始めたからだ。王や宮廷への明らかに必然的な同情が救出の唯一のチャンスとなったし、それは同様にあらゆる種類の革命派への恐怖や義憤とも一体化した。それは極端な政党を力づけたし、外国の攻撃が成功するなら、総てを失うことでもあった。こうしたことにも拘らず、片隅に追われた王は、立法府と絶えず関係を持ち、彼の法的な拒否の自由な権限を行使した。けれども、その代表がローランドと一緒に、革命派の大臣を受け入れることになった。しかし、彼の上に生じた攻撃から逃れる希望を、また逃すことになった。宮廷は、「オーストリア委員会」の名で、切符を切ってしまった。6月20日、人民のデモが、チュイルリ宮殿それ自身を攻撃した。これはジロンド党(その時、ルイが直接攻撃した主要な革命政党)が組織したもので、この事件によって、政党政府により合法的に統治する王の努力の失敗が明らかになった。
 憲法的な抵抗打者のラファイエットは、彼の力を誤解し軍を残した。そして、憲政派をジャコバンは攻撃に集中させようとした。しかし、不名誉にも失敗し、国外に出てしまった。王は、もう一度、連邦の祝宴で憲政に戻った。着物の下には鎧だった。反乱が吹き荒れた。宮廷はチュイルリ宮殿を防衛し、王党派の軍が利用できるので、スイスの軍を含みつつ集められた。絶望的な抵抗が準備されたが、王は自ら切る希望すら失ったまま、限界に達するものだった。しかし、8月10日に事態は終わった。それら憲政派は、宮廷を支持する気持ちがあっても、失敗することが判っていたし、むしろ国軍の「合法的」大隊が、人民の側に付く準備をしていた。王と王家はチュイルリ宮殿を離れ、レジスラティヴに向かった。機械的に軍事的な勇気だけで彼らの側にいたスイス軍に命令するでもなく、反乱部隊はチュイルリを攻撃し、大きな犠牲もなく陥れた。1200人が殺され、スイス軍も若干監獄に送られたのを除いて、総てが圧殺された。8月13日、王と王家はテンプルに罪人として泊められた。革命の第1幕が終わった。
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by morristokenji | 2010-08-13 10:25
        第10章 革命への準備―フランス

フロンド党の反乱と呼ばれる市民戦争が、「大君主」の時代を先導した。この派閥抗争については、「政府派」と呼ばれる高等法院に率いられたブルジョアジー、彼らは最初はマゼラン宰相の側にいて、彼に利用されたが、そのうち彼と対立し、順次に彼らを使い、最後は火中の栗を拾った後では放り出したのだが、「皇太子妃」の側に寝返った点が、注意されるべきだ。けれどもフロンド党は、貴族や政府とともに、中産階級の不満の根源であるとして、関心を示している。すでに述べたように、ルイ14世は仏の君主制を純然たる独裁政治、完全な中央集権化された専制君主制を創出するのに成功した。彼のような野心的な王により、普段の戦争が内包されることになった。なぜなら、彼は自分が仏の領土や影響を必然的に拡大する、という理念を実現する運命を担うと感じていて、それが王の絶対的権限だと看做したからだ。ルイ14世の一般的な成功が、これらの戦争による富の増大をもたらし、仏が彼の支配の下で非常に強大となった。
 彼の大臣コルベールの支配下で、仏の産業主義は完全に商業化されることになった。コルベールは、それをもたらすために苦労し、かつエネルギーを使った。成功の多寡に関わらず、彼はしばしば絹や羊毛のマニュファクチュアを使い、産業を芸術的なものに推進した。彼は世界市場において、仏がより大きな地位を獲得するための戦いに勝とうとして、君主制は栄光のための必然的付属物と考えていたからだ。そして、それ無しには、仏の繁栄もまた、飢餓によって死滅すると考えていた。なぜなら、税によっては、生活必需的な食料は生まれないからだ。英国でも、成長する商業主義は、立憲主義や官僚制度の英国的形態に付属したものだが、その理念はすでにそこに根付いて、前者は手段と云うより目的と化していた。仏では、商業主義が専制君主の栄光に従属していたし、その単なる飼育者だった。統治による商業へのこうした投影は、それがマニュファクチュア的ブルジョアジーへの苛立ちの原因にもなり、一つの革命の原因になったことは疑いない。
 「大君主」のこの時期の宗教は、一方においてガリア主義をめぐる牧師による闘争以上のものを示さなかった。また、それはフランス教会にとって、例えばローマからの独立に弱い光を求めるだけだった。他方、ローマ中心主義の代表的人物だったフェヌロン、ボシュエ、またイエズス会によって代表されていた。この時期の主導的な情報はガリア側のものだったが、長期に亘る王は官僚支配の出来合いの道具としてイエズス会を引き立てていたに過ぎない。牧師達の闘争を別にすると、宗教上は何もなかったが、宗教的神秘主義者やジャンセン主義者といった教養人に限定された密教の非常識な派閥の存在が例外的にあった。前者は、神の出現に於ける人間性の完全な自制に向かう事になり、後者は神秘的な働きの中で、中世の信仰のガリア主義を伴うカトリック教会の敬虔派の復活の試みとなった。最後的には、エルベシウスやコンディヤック、その他に先導された革命的な著述家の到来、そしてヴォルテール、ルッソー、ディドロ、百科全書派の影響で最高潮に達するが、それが仏の知識階級の宗教的信念の最後の痕跡を打ち砕いた。
 我々の指摘する2つの闘争は、ルイ15世の初期の統治の間に進行した。つまり、イエズス会とのそれと、愚鈍なユニジュニタスとのもので、ローマ教区との統一の必要を示すもので、そこでは議会がガリア派の側、一方の法廷は一般にイエズスの側についた。そして、王と議会(法廷)の間は、名声と権威をめぐっての競技となった。最初これら議会は、王により男爵から領土の法律について、助言を与えるための審議会だった。この男爵は、次第にそれらから脱落し、法律家(恐らく彼らの法律補佐官)が、その地位を得ることになった。それゆえ、その時には彼らは完全に専門的な法律家により構成されたと言える。彼らは、王により封建的貴族に権力を固めるためために、広く利用された。彼らは、王のために慣習法の総ての疑問点を決定する習慣になっていたからである。しかし、ルイ15世の時までには、形式上法的な観点から尊敬すべき市民の擬似憲法的な権利の選手となっていた。そして、相変わらず一方ではイエズス会と、他方では自由思想家と対立したのである。
ルイ14世の統治に継承された遺産は、革命の予告となった最後の腐敗が始まりを見せた。拡張の戦いは進んだが、すでに一般的に成功はしなかった。コルベールにより進行がセットされた産業主義が着実に進んだ。しかし、それにより得られる利潤は、その時代の冒険的な精神を満足はさせなかった。そして、南海泡沫会社事件でイギリスでは反発を招いたが、法の「ミシシッピー計画」の形で、その時代の前に株式仲買の奇妙な状況を、摂政政治が見たのであった。それこそ「無から有を生じる試み」の金融操作であり、その時代の重商主義経済学説にもとづくものだった。それは、人々の眼には入らなかったが、産業革命の不完全な知識を示していたし、国富が保有する貴金属の量から成り立つという前提に立つものだった。いずれにせよ、この前提は半分が商業、半分がデフォーの海賊の物語に例証されるが、前章で指摘したとおり、18世紀における英国の退屈な単調さを証拠立ている。
 仏革命に先行する、この時代の文学と美術について、若干述べておく必要がある。なぜなら、とくに仏は典型であり、美術についは堕落による腐敗について、特にそうだった。英国のように、文学は形式的で、堅苦しく、価値の無い教養的エッセー、詩と呼ばれるほども無い無価値な韻文の他、何も生まれなかった。しかし、仏では詩人が、英国より少しは高い目標を持ち、注目を集めるための形式や華麗さによる作品が生産されたものの、その他のものは現実性も生命も無いものだった。その中で、多少現実性の方向を示すものはモリエールである。しかし、彼の喜劇の持つ生命や天才ぶりは、ラシーヌの死んだ古典主義と同様、時代の崩壊を明確にするのに役立った。彼の作品の主要な部分には、その時代英国で注目されたとき、賞賛と云うより寛大な後援者を獲得した。そのため、時代の一人の天才は、単に犬儒哲学(皮肉)の代表にされてしまった。その同じ時期に、偽の悲劇の流行があったし、また単なる偽の恋愛物もあった。その時代の紳士淑女は、仏の地主の哀れな奴隷だった実際の農民を忘れ、ドラマや詩の中に偽の羊飼いや農民を見逃したのだ。それらは、意識的な非現実性の塊だったが、後の古典の空虚な模倣だった。この文学や芸術は、もしそれが革命につながる社会の兆候がなければ、注目するにしては余りにも恥ずかしいものだろう。
  16世紀の終わりに、人々の信頼や熱望の表現から、幻想や独創、さらに与えられた個人の気まぐれに降りてきた純粋芸術だが、まださらに転落した。彼らは、美や尊厳の原点を喪失し、初期ルネッサンスにあった独創性を殆ど残すことなく、たんに高価で見せ掛けだけになった。それは完全に装飾だけで、虚飾や儀礼の単なる付属だし、富者のための孤独と尊厳の自己満足の表現に過ぎなかった。もう一度言うが、その時代の一般的な文学や芸術としては、社会の不可避的な崩壊の予兆を除けば、理性的な人はそれに目を呉れようとしなかった。
 そこで、ここフランスでは、イングランドの状況とは対照的である、と我々はみる。ここには、立憲主義はない。絶対主義は、特権階級から軽蔑される以外の何物でもない。それは、発展の方向になかったし、ルイ16世の最後ですら、上に述べたように教養的な保守主義に向かっていた。人々の間に破産が起こったし、商業もまた、単なる支柱に過ぎなかったが世襲的な特権に妨げられていた。絶えざる戦争により不信にさらされ、そこで道に出る勇気が閉ざされたので、内向きに人々の権利や自由の抽象的な理念に直面してしまった。これらの理念は、現状を維持するのが利益な人々によって公言されたが、現状を維持できないとみる人々にとっては、傾聴し熟考すべきものだった。
 イングランドとフランスの間に対照的な点は、明らかに根本的な変革に向けて意識されない発展から生じている。イングランドでは、継続的なホィツグ主義の統治の下、国の物質的状態は良好だった。中産階級は繁栄し満足していた。労働者階級もまあまあの満足で水面に落ち着いていたし、彼らの考えからは、革命的変革以上のものはなかったが、にもかかわらず彼らはすばやく、しかし静かに押し流されていた。
 他方フランスは、大君主時代の長い戦争により疲弊していた。低い階級は、ごく表面的な観察者にも、明らかに悲惨に落ちぶれていた。商業的な中産階級も不満であり、封建主義の残滓の圧力で容易ではなかった。もっとも、それはルイ14世によりすでに弱らされ、古い木の生命を失った空洞に過ぎなかったけれども、それでもまだ繁栄しているように見えただけだった。総て王冠に対して、雰囲気的に知的離反の精神が拡がった。自由や合理主義の理論が、それはイギリスの思想家からもともと生まれたのだが、発展を遂げ哲学者の名前で(すでに指摘したが)フランセ作家の同人による文学形式が出来た。その形式でもって、彼らの母国以上に多くの影響をもたらしたし、実際の革命の定式を供給しのだった。物事の全領域で、いかに熱烈に示された百科全書派を別にしても、ボルテールやルッソーの名が、受け入れられた新理論の中で遥かにドラマチックだった。簡単に言えば、事態の全体領域を通して、イングランドよりフランスが、遥かにドラマチックであり、フランスでは革命が基本的に政治的な運命だったのに対し、イングランドでは主として産業的だった、と云う事情によるのであろう。
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by morristokenji | 2010-08-02 15:27