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by morristokenji

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 すでに説明したが、『社会主義』では第8章から、論文では第4章からになるが、「近代社会:初期段階」以降では、章別に関する両者の相違がなくなり、従って中世以前の前近代社会の取り扱いとの違いが目立つている。すでに述べたとおり、前近代社会については、①唯物史観に基づき階級社会ととらえるか?②それとも共同体社会の歴史的変化とするか?この重大な問題提起を意識し、モリスは3章を倍増させ、7章建てにして、内容も全面的な書き換えを試みた。共同体を重視した内容を明確化させたのである。こうした書き換えを行った理由としては、70年代以降の社会主義をめぐっての国際的論争が意識されていたものと言えるだろう。
 それに対して、近代社会に入ってからは、大きな書き換えがない。部分的な修正・加筆、部分的削除などは、かなりの個所で行われている。しかし、論旨の運びは、ほとんど変更なく展開されているのであり、それゆえ章別についても論文を踏襲することになった、と言えるだろう。そこで、章別に表現されている論旨の展開だが、モリスにとっては、1871年のパリ・コンミューン(第12章)に焦点を当てて、ユートピア社会主義からマルクス主義への発展と転換を位置づけようとしていると思われる。そうした角度から、少し論点を提起してみたい。

 まず第1に、言うまでもなく、マルクスやエンゲルスにとっては、1848年のドイツ3月革命が、非常に大きく意識されていた。とくにマルクスにとっては、「新ライン新聞」を中心に、革命運動に直接関わっていたし、またエンゲルスは、ロンドンに亡命したマルクスとは別個に武装闘争にも参加し、「将軍」とあだ名されるほどだった。つまり、いわゆる48年革命を強く意識しつつ、初期から中期のマルクス・エンゲルスによる理論構築が行われた。こうした理論構築の特徴は、2人が共にドイツ出身であり、また48年の革命に実践的に直接関与していたことから、ある意味では避けがたい時代的・環境的制約とも言えるだろう。
 第2に、48年革命は、前年の47年の金融恐慌による経済的危機によって起った社会的混乱、それが政治的運動に連動した。それゆえ恐慌=革命テーゼが、容易に定立されることにもなったと言える。ただ、47年恐慌は、イギリスに始まる産業革命を基礎とした周期的恐慌現象だが、次第にヨーロッパ規模に拡大していた。つまり、イギリスの1825年恐慌に始まり、36-37年の米・英、それが47年の段階では独・仏をも巻き込み、全ヨーロッパ規模に拡大した。ここで、ようやく世界金融恐慌の形態を整えるとともに、後進ドイツ、そしてフランスの革命情勢を誘発したのである。しかし、先進国イギリスでは、恐慌の規模拡大にもかかわらず、独・仏など大陸のような革命情勢には結びつかなかった。
 第3に、48年革命は、2月にパリで起った革命から始まったが、それは仏大革命の後産とも言えるブルジョア的市民革命であった。そこではブルジョアジーとともに、プロレタリアートの活躍も目立っていたし、サン・シモン、フーリエ、プルードンなど、ユートピア社会主義の影響を受け、社会主義的共和制の要求も強まった。しかし結果的にはブルジョア共和派の勝利に終わり、さらに王党派の進出もあり、ルイ・ナポレオンの政権掌握に道を開いた。さらにパリの2月革命が、ヨーロッパ的規模に拡大、とくにドイツでは3月革命として、ブルジョア革命と民族的統一の運動が結びついて革命情勢が高揚した。上記のマルクスやエンゲルスの「新ライン新聞」も、ドイツ共和国を主張していたが、しかしブルジョア的市民革命の枠を出るものではなかった。ここでも、結果的には反革命が勝利して、再び反動の時代に逆転したのであった。

 48年革命が終息し、19世紀後半を迎えて、モリスも説明している通り、一方でイギリス産業革命が拡大・発展、ヴィクトリアのハイタイム期が到来し、政治的にも相対的安定期を迎えた。イギリスを先頭に、ヨーロッパ先進国では、機械制大工業にもとづく資本家的生産様式が確立、資本主義社会が本格的に発展することになった。しかし、こうした資本主義社会の確立は、約10年を周期とした近代的周期的恐慌とともに、労使の階級的対立、さらには新たな政治的混乱をもたらすことになった。70年代を迎え、早くも資本主義社会の内部矛盾が激化,拡大,発展することになる。そうした中で、19世紀最大の都市反乱であり、フランス大革命に始まる一連のパリの革命運動の頂点となった、71年パリ・コンミューンが起った。この反乱こそ、以後の世界各国の労働運動、社会主義運動に多大な影響を与えたが、このパリ・コンミューンについて、マルクス、エンゲルス、そしてモリス達が、どのような評価を下したか?まず、48年革命と対比して、その対応について見ておこう。
 
 第1に、48年革命の敗北の後、マルクスもエンゲルスも、相次いでイギリスに亡命し、マルクスは経済学の研究に没頭し、新聞や雑誌にも寄稿した。エンゲルスは、マンチェスターで父親の会社経営に従事、マルクス家の資金援助の役割を担った。こうしたマルクス・エンゲルスの強い絆が無ければ、近代的・科学的社会主義の基礎を提供した『資本論』も、生誕を見なかったに違いない。モリスも指摘の通り、2人が第一インターナショナル・国際労働者協会の組織的実践に関与した点は重要だが、48年革命の政治的実践に身を投じた活動とは違う。パリ・コンミューンに於けるインターの役割も、パリ支部が中心であり、それもマルクス主義の影響より、ユートピア社会主義のプルードン主義者の影響が圧倒的に強かった。
 モリスだが、彼の場合には、政治活動に参加したのは、1876年10月、東方問題について、自由党急進派の立場で投書したことに始まった。これが、公の場での初の政治的発言であり、それに引き続いてオスマン・トルコでの残虐行為に関する「東方問題協会」に関与し、役員にもなった。したがって、平和や人権の問題に関する政治活動であって、社会主義社としてのの活動は、80年代を迎えてからとみていい。その意味では、マルクス主義との関連から、ユートピア社会主義、そしてパリ・コンミューンに関心を持ったと言えるだろう。
 第2に、資本主義社会の確立の基盤となった産業革命は、19世紀後半にはフランスを初め、ヨーロッパ大陸に拡大した。この資本家的生産様式にもとづき、周期的恐慌も繰り返されたのであり、世界市場での金融危機は、政治的危機に直結するより、むしろ金融パニックがバネとなって、高度な経済成長が実現されることになった。周期的世界恐慌も、71年ではなく73年であり、マルクスの経済学研究も、そうした資本主義的生産様式の発展を対象にせざるを得ないし、恐慌の周期性の科学的解明から言っても、もはや48年革命の「恐慌=革命テーゼ」は現実そのものにより否定された。マルクスは、50年代末には「恐慌=革命テーゼ」を放棄し、周期的恐慌の必然性解明のための純粋資本主義の理論的抽象による『資本論』の執筆に苦闘したのである。
 「恐慌=革命テーゼ」を放棄し、純粋資本主義の抽象による周期的恐慌の必然性によって、社会主義のイデオロギーを基礎づける。そこにモリスたちの受容すべきマルクス主義があったし、近代的・科学的社会主義のイデオロギーがあった。「恐慌=革命テーゼ」から導かれた初期マルクス・エンゲルスの唯物史観、階級闘争史観を批判的に超克した社会主義にとって、パリ・コンミューンを如何に受け止めるべきか?改めてオーエン、サン・シモン、フーリエ、さらにコンミューンの主役となったプルードン主義者の思想的営為を、ここで捉え返す必要に迫られた。そこに、モリス達の71年パリ・コンミューンの問題設定があったと言えると思う。
 第3に、48年革命が仏2月革命に連動し、独3月革命に発展した。とくに3月革命は、マルクスも「ブルジョア共和制」を主張したように、後進ドイツの絶対主義に対するブルジョア革命であり、労働者の力は微弱だった。簡単に社会主義革命に転化できるようなものでもなかった。それに比べれば、71年パリ・コンミューンは、産業革命に基づく資本主義社会の発展と、都市型プロレタリアートの拡大を背景にした、19世紀最大の都市反乱だった。革命の主役は、ブルジョア革命とは違い都市型の労働者であり、すでに指摘の通りインターに加盟した労働者などが運動のヘゲモニーを担っていた。
 ただ運動の中心は、インターのパリ支部のメンバーであり、マルクス主義の影響より、むしろフーリエやプルードンなどの思想的影響下にあった。「空想的社会主義者」の運動として、また独・仏間の戦争も絡み、当初マルクス、エンゲルスの革命への支援が積極的では無かったとも言われている。さらに、パリ・コンミューンの評価は、マルクスとエンゲルスの2人の間に差異が認められるばかりではない。むしろ、モリス達の積極的評価との違いにも注目しなければならない。48年革命、71年コンミューン、いずれも革命勢力が敗北、運動は失敗に終わっている。しかし、それぞれの歴史的評価は異なるし、引き出される教訓も違ってくる。

 その象徴的な事例は、エンゲルスによる「プロレタリア独裁」の定式である。マルクスは、革命の渦中で『フランスに於ける内乱』(1871)を書いたが、その序文の中でエンゲルスは、コンミューンによる新しい「国家」について、こう述べている。「コンミューンがこうした従来の国家権力を打ち砕き、それを新しい、真に民主主義的な国家権力と置き換えた次第は、<内乱>に第3章に詳しく述べられている。」として、エンゲルスは新しい国家形態こそ「プロレタリア独裁」と規定し「よろしい諸君、この独裁が、どんなものか知りたいのか?パリ・コンミューンを見たまえ」と序文を結んでいる。この「プロレタリア独裁」こそ、レーニンに引き継がれ、ロシア革命に生かされ、旧ソ連の「国家社会主義」のドグマとなった。
 また、この国家社会主義の「プロレタリア独裁」の見地から、①コンミューンの革命軍が、パリの武装解除に失敗した政府軍をヴェルサイユまで追い詰め、国家権力を完全に掌握しなかった、プルードン的「連合主義」の誤り、②外部からの軍事的圧力に対抗し、コンミューン議会内の中央集権化を図る公安委員会の設置に対し、直接民主主義の立場から、分権・自治を主張する反権威主義の誤り、③特にエンゲルスは、コンミューンの経済的・政治的な誤りとして、フランス銀行の接収を怠って、集権的な貨幣・金融コントロールを進められなかった誤り、などがコンミューンの限界、課題として提起されてきた。

 いずれにしてもパリ・コンミューンの評価について、マルクスには相反する2面が指摘されているが、プロレタリア独裁を定式化したエンゲルス・レーニンの国家社会主義に対して、モリス達の共同体社会主義の見地が、対抗的に提起されることになった。マルクスの2面性について言えば、1871年の時点では、まだ『資本論』2-3巻の準備中であり、モリスたちが熟読した第1巻のフランス語版も出来ていなかった。当初、マルクスがコンミューンに消極的だった理由は、一つには事態の推移を見極める慎重さもあったと思う。さらに、初期マルクスの時点で、『哲学の貧困』でプルードン批判を展開していた。この批判は、プルードンのヘーゲル理解に対する批判だが、経済学に関しては、リカード理論に基づく程度で、後の『資本論』から見れば内容的には未熟な批判に過ぎなかった。しかし、プルドン主義には感情的にイデオロギー面の反発が強かった。しかし、事態の進行につれて、インターのコンミューン支援を積極的に推進した。
 コンミューンの武装蜂起が敗北した点では、マルクスも戦術レベルで批判的指摘を試みたが、エンゲルスのようにフランス銀行の接収など、中央集権型の経済統制の全面化など、戦略的批判から「プロレタリア独裁」の定式化による国家社会主義を提起することはなかった。そこに、マルクスとエンゲルスのパリ・コンミューンに対しての評価の違いを見逃してはならないと思う。また、モリス達が自らの『社会主義』を論ずるに当たって、あえてパリ・コンミューンに一章を割いたし、さらにユートピア社会主義として、オーエン、サン・シモン、フーリエだけでなく、プルードンの思想的役割を重視したのであろう。コンミューンについても、集産主義や公開集会、直接民主制の地域権力、生産協同組合や労働者自主管理などを積極的に評価することになった。そうした自分達の社会主義の主張を、マルクス『資本論』の科学によって基礎づける点で、モリス達はマルクス主義=近代的・科学的社会主義の受容に進むことになる。  
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by morristokenji | 2010-09-23 22:04
    第18章   ユートピア社会主義から近代社会主義への移行  

 ユートピア社会主義と歴史的進歩、科学的社会主義派の間をつなぐ上で貢献した社会主義思想家として、最も顕著な人物はプルードンである。彼は1809年、ブザンソンに生まれた。生まれた時から、彼は労働者階級に属し、彼の父は醸造業の桶職人で、彼自身も若い時は、牛飼いの職業に就こうとしていた。
 1838年に一般的な文法についての評論を出版、彼の生地に対してのシュアール夫人の贈呈により、3年間奨学金を貰った。その利益こそ、彼の膨大な著作活動にとり最も重要になった。同年、スワード婦人賞が義務付けていた評論を『財産とは何か』のタイトルで書き、彼の答えは「財産は強奪」であった。
 予想通り、この注目すべき評論『財産とは何か』は、多くの憤激を買い評判となった。この作品のためプルードンも、べサンソン・アカデミーから非難されたが何とか起訴は免れた。1841年、彼はべサンソンでフーリエ派のコンシデランに手紙を書いたが、相手にされなかった。1846年、彼は『貧困の哲学』を書いたが、これはマルクスから入念な反論をもって論破された。
 1847年には、パリに出た。48年の革命では、彼は自ら活発な討論者として登場した。そして、セーヌの議員に選ばれた。彼は、各種の雑誌に沢山の論文を書き、大部分が革命の過程での論評だった。議会では、租税の3分の1を、総ての利子や地代に課税するよう提案した。これは、当然の事ながら拒否された。彼はまた、相互信用銀行の提案もした。これは取引を簡単にして、利子が消えるまで下げることを望むものだが、これまた拒絶された。
 48年革命の失敗の後、3年間投獄された。その間に、労働者階級の若い女性と結婚した。
 1858年には、彼の「相互共同主義Mutualism」の組織を、最後の著作『革命に於ける正義と教会』に発展させた。この本の出版の結果、彼はブリュッセルに身を隠さざるを得なかったが、1860年には大赦によってフランスに帰り、65年にパシィで亡くなった。
 プルードンの主張と著作は、大きく2つの時代に分けられる。『所有とは何か』では、彼の立場は純粋で単純なコミュニストのそれだった。この後、我々は彼の著作の中で、一定のテーゼの明確な発展にぶつかる。彼の行動もそうだが、非常に多くの矛盾を付け加えなければならない。それは、簡単にある一定のプルードン主義の教条に定式化できないようなものなのだ。ある時点ではコミュニスト、他の時点では熱烈なコミュニストの敵対者であり、ある時は洗練された無政府主義、別の時には未熟な国家社会主義の政策を提起した。ある時は熱心な有神論者、別の時は明らかに強力な無神論であったりする。彼の著作の一頁では、オーギュスト・コントの女性崇拝へ熱烈な執着を見せながら、他の頁では女性を決定的に蔑むのだ。彼の著作を精読すると、一種の混乱が生ずる。
48年革命との関係が、彼の生涯の転換点だったようだ。セーヌの有権者への手紙の中で、国家社会主義の性格の強い布告に対し、彼は信用銀行で支えられる政策を述べた。そして、ビスマルク流の強い調子で、彼自ら「所有は略奪だ」と述べた人間として宣伝し、その意見を維持していると言いながら、その際、彼の最初の著作で絶滅されたはずの所有権が擁護され続けるのだ。
 しかし、彼の政治的経歴に関しては、彼がそこで働くために、社会主義の考え変わらずに持ち続けるのは、成功し難いことだった。一方で、考古学的な復古の考えのジャコバンや1793年の政争もあった。他方、社会主義自身を提示して、人々の心を掌握すべきだが、しかしその原則を実現するには、未熟で混乱し、結果的に展望の無い行動計画によるしかなかった。総てこうした中で、プルードンは抜け目なく見えたし、洞察力もあった。また、その時の混乱への厳しい批判も、十分基礎付けられた出来事により示された。
 プルードンは厳密な意味でも、近代的な家族や一夫一婦制を守った。そして、それらの制度の歴史を学ぶ上で、混乱させたとは思えない。端的に、彼は歴史のセンスに欠けていたし、社会の進化の概念を構成しなかったように見える。彼の著作を読むものは、彼の考え方にある種の整合性を求めるなら、『所有とは何か』という最初の論稿に戻ることになろう。彼は熱心で粗雑な論争家ではあったが、彼のスタイルはブリリアントであり、散漫ながらも魅力的なのだ。彼の生涯を通して、彼は完全に純真、かつ無私だった。矛盾があるにも拘らず、彼の教訓の多くが生きているし、特に経済社会がサービスの相互交換、および労働の平等な報酬に基づかねばならない、と云う考えでそうである。プルードンは、生涯の晩年になりフランスのプロレタリアに多大な影響を与え、死の直後もそうだった。この影響は、今も完全に続いている。官憲の乱暴な弾思想の繰り返しにも拘らず、B・タッカー氏や米国のボストンで発行の彼の新聞「自由」により今日も代表される、個人主義的無政府派中心人物である。
 我々は、彼らの中で特別に重要ではないが、センチメンタルな社会主義の後継者や今日のキリスト教社会主義者として、とくに価値が無いとはいえない2人の名前を挙げたいと思う。ラムネ(F-R・De1782-1854)は、キリスト教社会主義者のタイプである。彼は、初めから牧師を志していたし真っ直ぐ進んでいた。彼は、カソリック教会を、幸福、社会道徳、改革のために効果的な機構になるよう、改革の努力を始めた。こうした努力について、彼は聖職の立場で助けられたし、激励もされた。そして、最初に彼が実際の行動を起こす前に、彼らから若干の知恵も得ていた。最後には、「将来」と云う論文の中で、総ての教会、とりわけ当時の法王ジョージ16世の怨恨を招くほど民主的な成果を収めた。彼の教会との完全な決裂の兆しは、彼の『信者の言葉』(1834年)の出版で見られたし、法王も「体は小さいが、ひどく強情」だと特徴づけていた。その後、彼はコミュニズムを理解したので、十分に民主的、共産主義的にさえなった。彼の新たな出発の意味で、一連の政治的著作やパンフレットが続いた。1848年彼の2つの論文が、次々に弾圧された。彼は、クーデターまで、議会に籍を置いた。そして、それは余りにも革命的で拒否されたが、議員として憲法草案を「左翼」の側に引き寄せようとした。彼は、市民会議的儀式ではなく、自分独自の方式で埋葬された。
 P・ルルー(1798-1871)は、もともとサン・シモンの弟子だった。1840年に、彼は最も重要な著作「人間性」を出版した。此処から彼の学派の名が「人道主義者」となった。彼は、文学評論でジョルジュ・サンドやニィアドフと一緒になり、それは彼女の小説の人道主義的傾向が持つている傾向によるものだった。1843年に、協同印刷協会を立ち上げ、共同体ないし彼が名づける「プロレタリアの問題の平和的解決」と云う雑誌を始めた。彼はまた、1848年に共和制議会に籍を置いた。そして1851年、亡命してエルサレムで生活し、1869年までフランスに戻らなかった。彼は、コンミューンの下でパリで死んだが、そのとき彼の葬儀に参列したメンバーの二人が代表し,”オフィシャル・ジャーナル”の発言の中で「今我々は、そこから悪を感ずる神秘主義の考え方のパルチザンの名誉ではなく、勇敢にも6月の日の後の政治家の名誉」と述べた。これは、彼の教えの非政治的、非実践的な傾向へのあてつけである。しかし、これは神秘主義で盲目になってしまった道徳の教え込みで社会を改革し、その結果として自発的な協同の漸進的な拡大を図ろうとするものだった。
 我々は、このシリーズの最後を、周知のルイ・ブランで終わろう。彼やラムネーよりも、上述の人々の方が原則的に、より社会主義的で、より重要な人物である。唯、彼の政治的経歴が、その原則を無価値に終わらせた。それでも、彼は階級闘争を通してのみ社会の再生がはかられるという、大いなる真理が掴めなかった点が想起されるべきだ。彼は1813年に、母方がコルシカ人だった中産階級に生まれた。そして、彼と彼の兄弟チャールズとの間の関係が、あの有名なデューマの短編小説や戯曲『コルシカの兄弟』に示唆を与えたとも言われている。
 1840年、彼は『労働の組織』を出版したが、その考え方は、彼が最もよく知られるようになった有名な「国立仕事場」として実現された。 この著作で、彼は純粋な社会主義者の極致とも言える、そして実際の社会の生産の基礎でもある「能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」を提起した。
 彼は、1848年の革命政府で活動的役割を果たし、政治的罪による死刑を廃止する勅令を通した。
 48年に、彼は「国立仕事場」を建設したが、これは失敗した。しかし、この失敗は、必ずしもルイ・ブランのコンセプトが、不完全だったというような、欠陥に起因するものではない。事実は、交易農業大臣のべスモンが、意図的に失敗を仕組んだ。それは、現実にに、また基本的に必要ではないし、そこで生産されることが許される本当の需要がそこにないものであって、本当の商業市場の外にあるだけのものだ。牢獄の中のように、国の正規の交易や産業と衝突しない対象物である。こうした環境下で、それは自然に共和国の資源に負担になる。最後には、政府も聞かざるをえないような中産階級の禁止を求める声高な要求が起こり、彼らの差し迫った廃止が、1848年6月の暴動を引き起こす原因の一つになった。
 7月事件の結果、ルイ・ブランはフランスからイングランドに亡命を余儀なくされた。そこで彼は、『フランス革命史』を書いた。
 1869年にフランスに戻り、立法院に選出されたが、その後の動きの中では、補助的な役割を演じただけだった。実際、彼は3月の時点では、人々のことは見捨てて、パリを離れてベルサイユで反動的な内閣の「自由派」に収まったという、彼の性格の消しがたい汚点を残している。
 彼は1883年に死に、彼の世評と影響は消え去ったのである。
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by morristokenji | 2010-09-15 13:45
     第17章  ユートピア主義者:オーエン、サン・シモン、フーリエ

 我々にとって、社会主義の政治的展開からしばらく離れ、近代的・科学的、もしくは革命的社会主義に先行する思想家の流派を見る必要があろう。これらの人達は、愚行や不正を短期的に抑制すれば、また教訓や事例により、教師が自らの抱負や洞察から作り上げた再建のシェーマを教え込めば,社会の再形成ができると考えていた。彼らは人類に社会的変革をもたらした事件の結果について、その力を自覚しているかどうかの認識について学ばずに、彼らのシェーマが内面的な合理性の直感だけで受け入れられると信じていた。彼らは、人々を社会主義に変えることを希望し、現存する文明の混乱や貧困と、展望される世界の秩序や幸福との間のコントラストを、比較して提示すれば意識的に、また形式的に受け入れると思っていた。
 彼らの描いた将来社会の具体的で綿密なシェーマから、ユートピスト(Utopists)と呼ばれてきた。彼らの学派の色々な流れの代表は3人の最も著名な人物だが,ともに僅か数年間に生まれ、彼らの考えの不完全さにも拘らず、その時代、彼らの示唆や洞察が、後の社会主義の発展に大きく寄与した。
 ロバート・オーエンは、1771年にモントゴメリー州のニュートンで生まれた。中流・下層階級の家庭だが、「機械制大工業の勃興」の初期、自らの工場と機転により工業家として成功した。その時、製造業は「飛躍的に」発展した時代だった。彼は、良い意味での生まれながらの博愛家だった。そして、最初に登場した時から、あらゆる事に寛大であり、雅量に富んでいた。1800年、まだ30歳にもならなかったが、彼はニューラナークの水力工場の経営者になった。そして、最初の偉大な実験を始めた。それは哀れで、馬鹿げていて、不品行な人を、幸福で、勤勉で、協同的な人間に変えることであり、人間は環境の生物であり、完成に向かうことのできる性質を粘り強く発展させる理論に基づいていた。この実験に彼は完全に成功したが、彼はそこに留まらなかった。彼の自らの成功についての端的な表現、「まだこれらの人々は私の奴隷だった」に示されている。彼は、あらゆる種類の博愛の計画を始めたし、あらゆる行動を環境の改善によって、人間の完成に導くという理論に基づいていた。そして彼は、今日の協同組合家がやっているようには考えなかったが、普遍的な協同組合の短期間での実現が、社会問題の解決になるという、最初の偉大な協同組合のチャンピオンとなった。また1815年、グラスゴーの製造業者を水力紡績業においての労働時間の短縮のために、議会に請願するよう後押しした。そして、彼が支配階級の認可から禁止への変革を体験したことは、彼のヒントのブルジョア的伝記記者としては、その業績から起草できるかも知れない。しかし、彼が協同組合のために宣言した後でも、まだ彼は庶民的な博愛家の地位を保っていた。最後は、(1816年8月21日)総ての「協会」から内偵された日であり、今や明らかな敵になったが、その受け継がれた宗教を通して、「お歴々」を公然と批判することにより,自ら断交したのであった。しかし、彼は挫けなかった。1823年、彼はアイルランドの困窮からの回復のために、「村落共同体」を提起し、1832年には、Grey's Inn Roadに、労働と労働が等価で交換できる交換所を建設した。そして1825年、すでにそこに建設されていたコミュニティから、New Harmony を買収し、そこで共同生活の偉大な実験を行った。後に彼は”Book of the New Moral World" を出版、そこに彼の原則の主張が述べられている。
 このように見ると、彼は実践的実験では、何の心配も無いようである。しかし、欠陥はユートピア主義者Utopist に必然的なものだった。発展の政治的側面を全然見ていないことだ。彼は、ある観点では有用な経験でも、その経験の外では展開できないことを見るのに失敗した。つまり、「協会」の支配層が強力に支持し、いわゆる「財産権」や、この組織の下でも必然的に存在する階級対立を、見逃してしまったのだ。そして、長期的には、そこに進んで行くのだが、 彼はもっとも寛容で、もっとも善良な人間として、その社会主義の実現のために努力し、全生涯を捧げた。1858年に亡くなった。
 サン・シモンは1760年、パリの高貴な家庭に生まれた。彼は、並はずれた浪費から、極貧に至るまで、生活の様々な形を放浪の上、経験した。彼には、オーエンに特徴的だった、「準社会主義」のシェーマによる実践的傾向は見られない。彼の哲学は、新しい神秘主義が混じり合ったもので、生活の新しい情田尾を実現するよりも、むしろ新しい宗教を創り、拡大させる傾向だった。そして、それは彼の直接の後継者達による一種の崇拝ともいえる不合理性に帰着する。それはまた、彼がもっとも可愛がった弟子のオーギュスト・コント、今日では実証哲学の基礎となっているが、その実証哲学により多かれ少なかれ模倣された。彼の社会主義は空虚なもので、サン・シモン主義のモットー「彼の能力に従って、彼の行為も従う」という、知能階級の存在を容認した。けれども、神秘主義的傾向にも拘らず、彼はオーエンに先行して歴史的、かつ経済的な転移、内的な光を当てたのだった。彼は、どんな手段によってでも、またどんなに高価でも、新しい宗教に身を投じるために、あらゆる生活を学ぶことを自分に課した。しかし、その宗教の「大きな目的は、もっとも貧しく、もっとも多数を占める階級の道徳的、かつ物質的状況の可能なかぎり迅速な改善だった」のである。
 エンゲルスは、彼について、こう言っている。「サン・シモンは<ジュネーヴからの手紙>の中で、総ての人間は働かねばならない、という命題をたて、また恐怖時代が無産大衆の支配であったことを十分知っていた。彼がフランス革命をもって、階級闘争として把握し、それも単に貴族とブルジョアジーとのそれでなく、貴族、ブルジョアジーと無産者の間の階級闘争として把握したことは、しかも1802年にそうしたことは、大いに天才的な発見と言わねばならぬ。1816年には彼は政治学が生産の学であり、政治学は経済学の中に総て吸収されるであろうと予言した。経済的状態が政治的制度の基礎であると言う認識は、まだやっと萌芽の形で現れているに過ぎないが、人間に対する政治的支配が、物に対する管理と生産過程の指導に移行すると言うこと、すなわち近来はじめて宣伝されるようになった<国家>の廃止が、明瞭に提示されている。」
 インターナショナリズムもまた、サン・シモンにより宣言された。我々は、エンゲルスを引用する。「彼はまた1814年に、連合軍のパリ進入の直後、さらに1615年、百日戦争の中、フランスとイングランドの同盟、次いでこれら両国とドイツとの同盟が、ヨーロッパの繁栄と平和に対しての唯一の保障であることを宣言した。これもまた、時流を抜く卓見だった。というのも1815年のフランス人に向かって、ウォータールーの勝利者と同盟せよと解くことは、実際大いなる勇気と歴史的先見の明がなくてはできぬことであったから。」
 その時代、サン・シモンの計画の一つで、もっとも馬鹿げたものとされたが、スエズとパナマの地峡の切断であり、M・デ レセップはサン・シモン主義者だったが、これこそ何の価値もない。
 サン・シモンは1825年、彼の口から党の将来への希望を述べながら、極貧のうちに死んだ。
 シャルル・フーリエは、1772年リヨンで生まれた。彼の父は、布地の商人だった。彼は、大革命で財産を失い、その後はブローカーの仕事に入った。彼の社交界(Society)との関わりの中で、早くも個人主義と競争の弊害や不正に衝撃を受けた。彼の最初の本「四運動の理論」では、人間性は本能と情念の自由な働きで完成される、との提言を述べ、貧乏や悪徳は社会による抑圧から生まれると主張している。彼の近代社会への批判は、科学的社会主義の先鞭をなすものとして最も価値のあるものである。同時代のものと異なり、彼は社会の歴史的発展を洞察していた。「彼は進歩を4段階に分けていて、奴隷主義、野蛮主義、独裁主義、文明化であり、この最後がブルジョア文明を意味していた。」彼は言っている、「文明化の貧困は、過剰そのものからも生まれる」、これは今日十分注意されるべきであり、1816年ロバート・オーエンの「我々の最善の顧客、戦争は死んだ」と比較されよう。
 フーリエは、社会の再建の基礎として、「産業共同化」を提唱した。ここで彼のユートピア主義がドグマ化して、生活の細部まで計画化して作られるような罠に、彼を引き入れてしまった。その計画は、基礎にある原則は良いものだが、実行できるものではなかった。計画は、共同化の基礎単位として、ファランステール(共同生活住宅)を配列する。そこでは、あらゆる生活、あらゆる産業、農業や他の物も含め、あらゆる細部まで微細に亘り実行されるのであり、各ファランステールは1600人の人間で構成される。彼のもっとも価値のある考えは、能力に応じて労働が割り当てられる可能性と必然性だった。そこでは不断に喜ばれることが保障されるし、ドロ団子を捏ねたり、乱雑にする子供が、共同体の汚い仕事をすべきだという、彼の言明こそが、この考え方の少なくともイラストと見なされ、法律の形式とされた。彼のシステムは、純粋に平等なものではなく、(相対的な)富裕と貧困の差が容認され、また労働、資本、能力の間の富の幻想的な配分が主張された。結婚の廃止も、彼が特に強調した点だった
 1812年のフーリエの母が死に、彼に若干の財産が残された。そこで彼は、『国内の共同と農業について』を書くために、田舎に引っ込んだ。その後、またパリに出てきて、アメリカ企業の書記となり、1830年には『新しい産業世界』を書いた。さらに嘆かわしいことに、1831年にはオーエンやサン・シモンに対し、二人との好奇心での類似点にも拘らず、イカサマ師として攻撃した。彼は1873年に死んだが、彼はやっと派閥を作ったが,『社会的運命』の著者、ヴィクトル・コンシデランが一番有名なメンバーだった。フーリエ主義者は1832年に新聞を発刊したが、二年で止めてしまった。しかし、1836年に復活して1950年に政府に完全に弾圧された。1832年にフランスの下院議員により、ファランステールを実験的に実現する計画が始められた。しかし、それは資金不足で失敗した。それゆえ、3人の偉大なユートピア主義者では、1人オーエンだけが、良いも悪いも、経験的に試される計画と看做される幸運に恵まれたのだ。事実、1848年の革命家カベは、アメリカに於いて「イカリーア」の名前でコミュニティを建設し、それはユートピア社会主義の原型をなす他のどんなコミュニティよりも、純粋なコミュニティに近づくものだった。これらのコミュニティの中に、運動の面では若いと注意されるものが残っている。それらから学べる何かが、アソシエーション(協同)の体験ではあるけれども、非常に不幸にもしばしばそれに適用されるが、彼らの生活状態に「コミュニズム」の名称の資格はない。「コミュニズム」は、政治的権力を持った労働者により、現在の社会体制が破壊されない限り、決して実現できない。それが起れば、「コミュニズム」はまさに、全世界において文明を同化させ、転換させるだろう。
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by morristokenji | 2010-09-09 20:48
     第16章 1871年のパリ・コンミューン、それに続く大陸の運動

 パリ・コンミューンの大事件に関連し、今エイヴェリング夫人の手で英語に翻訳されたリサガリーの著作に見られる事実についての知識を、まず認めておくべきだろう。
 前に述べたとおり、インターナショナルは1864年にビースリー、マルクス、オドガーの指導の下で設立された。1869年に、バーゼルの大会で、マルクスはそれを「社会主義」のコンパスの内部に引き入れた。そして、イングランドでは、まだ労働団体は不定形な状態を残していたが、大陸では一挙に、決定的な社会主義的、かつ革命的になり、その影響が非常に大きかった。
 社会主義の発展と労働の連帯の感情の広がりは、フランスとの戦争に対して、ドイツの社会主義者によるお上品な抵抗に非常によく現れていた。それは、表面的な愛国的感情にも拘わらず、初めから反対者を鎮めることが期待されてしまった。戦争の結果は、少なくとも社会主義政党を急速に増大させる行動にチャンスを与えるように見えたのであり、政治的権力を手中に治めるのに有利に取り仕切られるかも知れなかった。また、もし直接的な機会があれば、国際主義者の影響下に、フランスの社会主義者が行動を起こすかも知れなかった。しかし、いずれの機会も失敗に終わった。帝国の人間は挑戦したが、「共和制フランス」ガ侵略者に恐らく妥協しようとした時、セルダンでのフランス軍の最後的失敗が帝国を崩壊に導いた。しかし、抵抗はガンベッタにより組織され、彼は株式取引所の長であり、彼らの利益は商売上と政治上の両方からだった。彼らは、人々に面々がもはや法外な要求を決定しないように、戦闘を終わらせるべく仕向けたのである。この抵抗は、一般民衆に見せかけの愛国心や対外的な強硬姿勢を演じつつ、株仲間の成功に支えられたが、常に軍事面では絶望的であり、国を絶望の淵に追いやるものだった。それはまた、必然的にパリのドイツによる包囲を含んでいた。その結果、都市プロレタリアの手に、多くの力をもたらすものだったし、少なくとも彼らは外敵への抵抗に努力した。また、リーダーとして舞台の上の抵抗も振舞わざるをえない政治的冒険主義者の野望に必然的だったが、人々の熱狂を抜きに上品な対応も出来なかった。10月、包囲は最高潮に達したが、ブランキーを首領とした盛り上がりが、ブルジョア支配を圧倒するのに成功するかに見えた。包囲の後、プロレタリアが武装、とくに砲弾を手にしたことは、ブルジョアのもとで武装解除され解体されたのに対して、社会主義者が望んでいたチャンスを手にすることになった。ティエールによるパリ解除の失敗で、その成功を期待していたのか、それともパリの戦力の低下を期待して彼の拘束を計画したのかはともかく、この失敗で暴動が起った。その大部分がインターナショナルのメンバーで構成されていた中央委員会だが、特殊な権力を手中に収め、それがコミューンの存続の間中、維持されていたのだ。彼らの位置は、プロレタリアの経済的自由に向けての方向付けを超えて、少なくとも表面的には、先進的な地方自治主義がもたらすと期待され、また急進派とも一致する純粋な連邦制への熱望に向かっていたのだ。
 運動が進むにつれて、ティエールへの抵抗やパリから分権的に独立する試みガ成功すると、社会主義者の影響がプロレタリアに及ぶに違いないことは、ますます明確になった。それゆえ急進派は、社会主義者と同盟を結ぶ方向に進むことになった。そのため、社会主義者の要素が前面に出るようになり、明らかに社会主義的性格の法令が通過した。それには契約の破棄や地代の廃止も含まれていたし、コッミューンの合言葉になった分権化も、当初の革命家の行動より進歩していた。また、コンミュ-ン建設のチャンスは、外国人に対する闘争により与えられたが、彼らのの熱望の国際性は、コンミューンの委員会やその軍隊の退院への外国人の東女yにより示されることになった。そして、バンドーム円柱の破壊自身は、小さい出来事に見えるが、一般的には、特にフランスでは、ナポレオン的装飾の基本部分の落下のシンボルであり、古い対外強硬派の伝統とは妥協の余地がない事の決定的な出来事となった。
 以下の点も注意されるべきだろう。フランスの他の町で起った蜂起も、ブルジョアの力によって打ち負かされたわけではない。当初は、人民の前にそれ自身無力に見えたが、むしろ「社会主義」のより十分な発展への期待、その原理のより強力な要望が原因で、挫折したのであった。
 革命全体が、最後的にパリの労働者の血によって引き出された。確かに直接の結果は、最も決定的な新たな補充員が総ての世代で滅亡して、「社会主義」が時とともに破綻したことだった。にも拘らず、我々が今見る通り、強く過剰なまでのブルジョアの復讐が、コンミューンの輻そうした出来事での一連の悲劇や英雄主義により、また総ての将来の革命家達のためにその記録が列挙されたように、
「社会主義」成長を強める方向を示した。
 コンミューンの没落は、自ずからインターナショナルの没落をも意味していた。その行動の直接的な失敗は明らかだった。また、人々はその分滅の原則には盲目だった。一方、その時、大きな商業的繁栄の時代が、ヨーロッパの国々やって来た。戦勝によりドイツの獲得したフランスの何十億が回り始め、ドイツのブルジョアによる「近隣窮乏化」の楽しいゲームも動き出した。イングランドも、一挙に絶頂期を迎えたし、ドイツの中産階級は自らを「ペテン師の時代」呼んでいる。フランスでさえ、略奪された国であるにも拘らず、略奪者の略奪と同じ位なスピードで状況は回復した。端的に言えば、そこでは多数の良い労働者は、彼らを縛っている鎖に全く気づくことなく、また彼らの下の労働者に重圧が掛かっていることに無関心でいる、そして世界の残りの人々の繁栄や不幸に全く、もしくは殆ど無関心でいられる、それがブルジョア搾取者に積極的に正当化される時代の1っだったのだ。
 インター内部で起っていた紛争は、1872年のハーグ大会で表面化した。それは翌年、その次まで名前だけは存在したものの、残ったものについては、言及する価値も無くなった。
 ウイーンで1871年、コンミューンに同調する行動が拡がったが、権力により弾圧された。政党の主要メンバーの何人かが、その中にはヨハン・モスト、アンドレアス・シュウが含まれているが、いずれも社会主義の示威行動で投獄された。
 コンミューン崩壊の後、暫くは運動の活動面の興味が,ドイツとロシアに向いてしまった。1878年ノビリングとへーデルが、皇帝ウィリアムを撃った。それが、ビスマルクによる社会主義政党の急速な発展への攻撃の切っ掛けとなった。1878年10月、弾圧法が制定され、それが1890年まで維持された。
 若干の注意のために、ドイツ社会主義政党の注目すべき組織を、ここに呼んでみよう。ドイツに於ける社会主義の最初は、1862年フェルディナンド・ラッサールにより設立の「労働者党」に由来している。ラッサールは、時折世界を驚愕させ振るい上がらせる不屈なエネルギーと広い知識を持つユダヤ系の才能の一人だった。彼がスタートさせた党は、人民による土地の権利の復権を含む、国家社会主義に基づいていた。それゆえ彼の構想には、一般的に国家主義が強く浸透を見せていた。初めは彼の党も大きな熱狂で興奮を得たが、1864年の彼の死の頃は、僅か5千人の支持者を数えるだけだった。その4年後、組織はインターナショナルとマルクスの影響下に入った。1869年アイゼナッハ大会まで、ラッサール派とマルクスのそれとが対峙した。1875年ゴータ大会で2つの党派が融合し、現在の「社会民主党」が設立された。それ以来、党は着実に成長し、今や150万人以上の支持者を数えている。この急速な発展と実践組織により、ドイツの党がコンミューン以来の社会主義をリードしてきた、と言うべきだろう。
 ロシアでも、社会主義者の運動は、絶対主義の野蛮な形式の束縛の中では、国内では自然だったが、国家主義者や政治的煽動と表面上は融合していた。にも拘らず政党の最終目標は,間違いなく明白だったし、宣伝も革命的情熱と圧殺できない純粋な献身で行われた。1881年3月31日のツァー殺害は、それに続く悲劇の場面とともに、ロシアの活動が世界に与えた最もドラマチックな事件だった。この輝かしい一撃の遂行に向けられた勇気と献身、また反動的な弾圧の明確な典型に対抗する方向付けられた事実、それらが単なる同情心ながら進歩的な心の持ち主に多大な影響を及ぼし、また彼らを窒息させる圧制に対抗して、ロシアの闘争に彼らの考えを向けさせることになったのである。   
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by morristokenji | 2010-09-05 20:39
           第15章  大陸での反動と革命

 ナポレオンがヨーロッパに対し闘った大戦争が、彼の失敗と没落で終わった時、フランセはもう一度ブルボン王朝に帰った。そしてヨーロッパは、反動と絶対主義の腕の中に落ちた。神聖同盟、または反動的君主同盟派が実行した事業は、総ての人々の感情やブルジョアの人々の中に、それを示そうとしていた考えを粉砕することだった。
 しかしフランス革命は、絶対王政をあまりにも激しく揺さぶったので、表面上の部分的成功しか収められなかった。絶対王制の力は、様々な革命的団体、いわゆる秘密の団体により、浸食されていた。それらは、大きな同調者の団体を引き込み、結果的にそれらの存在以上に大きく、かつ直接的に危険視された。まだ大きな不満が、特に政治の面で、また無論貧しい階級に限られたが、存在していた。
 この不満は、1830年までに、また1848年には頂点に達したが、全ヨーロッパに絶対主義への革命として表面化した。この革命は、繰り返しになるが、反動への単なる反発ではあったが、フランス革命が打倒した貴族的特権を温存しかねないものだった。その攻撃から逃れようとする者を、温存する反動だったことを指摘したい。1830年には、革命が純粋にブルジョア達のものだったし、社会的なものでもなかったが、上記の通り政治的だった。1848年には、若干の地点で、プロレタリア的要素が強くなったが,ただ中間階級の蜂起が支配的であり、国家の統合や団結に主導される考えが強かった。これは、その後もずっと続いているし、その感情は存在し、場合によっては蔓延してさえいる。ポーランド、ハンガリー、イタリー、セルビア、アイルランド、フランスは、「愛国主義者」に示されるように、一度となく「愛国心」の不法行為に場を割り当ててきたし、最近では、しばしば「革命」の途上で人々の注目をそらして引き回している。
しかし、この48年の革命運動では、当初あまり影響がないと思われたが、これら従来の革命運動に新しい要素が登場した。それは、1847年に出版されたマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』の形態での、近代的な、もしくは科学的社会主義の最初の登場だった。この局面の発生と展開が、詳細には後述するだろうが、ここでは最近生まれた社会主義の着実で、継続性のある影響に注目するだけにしよう。それは、彼らが多くの支持者を得た点では、バブーフの宣伝の急速な拡大に匹敵する話である。そして、18世紀末からの世論に、この事実が大きく進展をもたらすのである。
 けれども、少なくとも広く見て、こうした反乱の一般的影響は、絶対王制を揺るがす以上のもの
ではなかったし、中間層の立憲主義に様々嘆願する程度だった。さらに言えば、後にイタリーやドイツの連合を生み、ハンガリーの国家的独立の主張を生む国家的統合への衝動を強める程度だった。
 フランスでは、反乱の外面的影響が、最も明確であり、最も長く続いた。しかし、ブルジョア共和制は、ルイ・フィリップの腐敗した立憲君主制に取って代わり、それ自身がプロレタリアートに十分対抗して、結果的に政治的冒険家ルイ・ナポレオンを迎えるだけの力を残していなかった。共和制に対する彼の陰謀は、長年にわたりフランスを恐怖に陥れたのであり、それによって1851年12月4日の大虐殺のための口実を彼に与えたのと同じ位の抵抗を受けることになった。けれども,数の上では,1871年のコンミューンの最後の時点で、ブルジョアの軍隊によってパリで引き起こされたその数とは比較にならないものだった。
 この成功に満ちた打撃は、先行した反動的な独裁になんらかの関係があったわけではない。それは民主的な感情に基礎づけられた様でもある。事実の問題として、ブルジョアの生活の非政治的側面、―社会的、商業的側面だが―の表現であり、革命への疲れや独り金を儲け、空しく楽しむ事に気を配る店の主人の考えなのだ。したがって、フランスは「法と秩序」の時代として位置づけられるが、最も恥ずべき破綻と不愉快な低俗さに特徴づけられた。最後は、イングランドではすでに建設されていた公共事業の汚職や、成功した株式相場師のルールに揺り動かされ、我々よりも少しは偽善が少ないかも知れぬが、より開けっぴろげな悪漢たちの支配に揺れていたのだ。
 この様々な派手な軍事的興行を進める体制を維持するためにも、そのいくつかは一種の民主的心情を持って行われた。また、フランスの労働者階級に、雇用を与えることを示すことも、多少は必要だった。これは、主としてパリの再建の形をとり、フランスが他の国より豊富な公共建造物や、中世の寺院の再建、通俗化である。その結果、中産階級の低俗化崇拝が、埋め合わせの出来ないほどの損失を、その実現の永続的な記念として残してしまった。しかし、こうした軍国主義化とプロレタリアへの「パンとページェント」の贈り物による指示にも拘らず、様々な種類の不満が噴出し、急激に拡大した。さらに、新しい社会主義の誕生が、成果をもたらし始めた。共産主義的宣伝がフランスの都市プロレタリアを掴み始めた。社会主義は、パリのヴィレッテ、ベルビルにも、次第に伝道された。これらは、後にに富裕なブルジョアのための上品な郊外地として設計され、建設されたが、それは失敗して、結果的には単なる働く者の地区になった。
 これら総て、地下でのように進められる一方、株式取引のシ-ザー主義(専制主義)もまた、政治手腕のゲームで最悪の状態になり始めた。最後に、ブルジョア革命の主要目的となっていた国家統合の結果が、独仏の間の古い憎悪を甦らせはじめた。ドイツの独裁代理人となったビスマルクは、ルイ・ナポレオンの派手な行程の弱み知っていたので、ドイツ軍には注意深く、精巧な武器で自信を持たせるようにした。彼は、フランスのシーザーに罠を仕掛け、それに落とし入れ、恐らく盲目的でなく、一種の賭博師の最後の希望、絶望とは紙一重に突っ込んだ。
 一大民族戦争が続いたが、それによる自然な、そして不可避な支出が、フランス軍隊の絶望的な崩壊をもたらし、自分勝手な人間や堕落した悪党により支配された。大部分が、Dugald Dalgettyを行進する際、その色に忠実に従う英誉の最低限すら失ってしまった。第2帝国は一掃されてしまった。新共和国も、セダンの陥落の後、ドイツの不滅の権力に絶望的な反抗を、なお続けていた。絶望、それは帝国の腐敗が、ブルジョア共和制に生き続けている以上、政治的賭博師・ガムベッタといった人間に典型化される。パリは包囲され、長期の抵抗が続き、それが一般市民に不安を与えたが、市民は驚くべき忍耐と勇気で包囲による悲惨さに耐えた。しかし、その防衛を組織し続ける人達を辱めることは少しもなかったが、しかしプロレタリアの後援で勝利を収めることはゆるされず、実際にはドイツに対して都市を手渡さざるを得なかったのだ。
 これら総て、「社会主義者」には、「コンミューン」の壮大なドラマへの単なる前奏曲と看做されるべきだが、その目標や影響は次の章のテーマになろう。
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by morristokenji | 2010-09-02 13:22