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by morristokenji

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 1)ロシア革命と大正デモクラシー
 日本における初期社会主義の「冬の時代」は、第1次世界大戦とロシア革命、そして大正デモクラシーと呼ばれる雪融けの時代を迎えるまで続きました。第1次大戦については、それを一般的に、「帝国主義戦争」と特徴づけていますが、ある意味で日露戦争は、その前哨戦だったとも言えます。最も後進的だった資本主義国の日本とロシアが交戦し、日本「帝国」が大国ロシア「帝国」に勝利した。ロシアは日本に負け、さらに第一次大戦でも敗北した。連戦連敗の痛手を受けたまま、ロシア革命を迎えることになったのです。逆に日本は、アメリカとともに第一次大戦では、ヨーロッパを中心とした世界戦争の埒外にいて、漁夫の利を得ることができました。日露は、ここで完全に明暗が分かれましたが、日本は大戦後の好景気により、「大正デモクラシー」と呼ばれる戦後民主主義の相対的な安定期を迎えることになったのです。
 冬の時代が終わり、相対的安定期に支えられ、大正デモクラシーは日本の社会主義の思想と運動にも、大きな「雪解け」をもたらしました。すでに導入されたモリスの社会主義を含め、欧米の社会主義の著作が一挙に移入、紹介されました。いわゆる左翼的な「思想本」も次々に翻訳・紹介され、社会主義思想の流行が大正デモクラシーの一つの特徴となったと思います。それに拍車をかけたのが、世界で最初の「社会主義の誕生」と位置づけられたロシア革命1917年(大  )だったのです。もちろんロシアは、上記2度の敗戦による旧政権の脆弱化、それにレーニンの「プロレタリア独裁」による一挙崩壊型の上からのクーデターにも似た政権奪取の革命でしたから、社会主義政権も当初きわめて不安定でした。いつ反革命で政権崩壊を招くかも知れない、そんな「社会主義の誕生」でした。ここで「ロシア革命」について、少し整理しておきましょう。
 ロシア革命というとき、1917年の10月革命より遡って、1905年の「ロシア第一革命」から説明されることもあります。その点で、日露戦争1904-5年との連続性も考えるべきでしょう。すでにロシアは、日露戦争の敗戦の時点から、革命的混乱に陥っていたのです。例えば、苦戦が続く1905年には、ロシアの首都サンクトペテルブルグで生活に困窮した労働者の請願デモに軍隊が発砲、多くの死傷者を出した「血の日曜日」事件が発生しました。続いて全国各都市でソヴィエト(労兵協議会)が結成され、水兵の反乱が続出します。こうした反乱を沈静化するために、国会の開設や憲法制定など、いわゆる「ストルイピン改革」が行われました。しかし、改革はストルイピンの暗殺や第1次大戦の勃発で中断、反戦・平和への運動が高まりました。
 では、ロシアにおける社会主義の思想や運動は、どうだったのか?ここで詳しくは触れられませんが、およそ次の通りです。
 1861年に農奴解放が行われましたが、日本とともにロシアでは資本主義の発展が遅れ、封建的な社会体制が色濃く残存していました。ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)の支配が続き、そうした中で、クロポトキンなどの無政府主義の過激思想や直接運動も起りました。また、ロシアの農村共同体(ミール共同体)を基礎とするナロードニキの運動を継承し、農民の支持を集めた「社会革命党」(エスエル)が党勢を拡大していました。こうしたロシア資本主義の後進性を踏まえて、マルクスも「ザスーリチへの手紙」に書いたように村落共同体を重視し、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観のイデオロギー的仮説を、事実上修正することになったように思われます。
 また、1898年には「ロシア社会民主労働党」も結成されました。しかし、第2回大会は国外のブリュッセルで開かれ、新聞『イスクラ』の編集をめぐり、早くもレーニンを中心とするボリシェビキ(多数派)とメンシェビキ(少数派)に分裂するなど、分派抗争が激しく繰り返されました。とくにメンシェビキは、上記ザスーリチなどナロードニキの流れを継承し、「社会革命党」とともに積極的に活動を展開、第1次大戦におけるロシアの敗北の中で、党勢を拡大していたのです。戦争末期の1917年2月には、首都ペトログラードを先頭に、食糧不足への不満を背景とする「パンをよこせ」のスローガンによるデモとストが一挙に拡大、それに「戦争反対」や「専制政治打倒」へと政治的要求も加わりました。
 1917年10月革命に先行して、まず2月革命が起ります。ペトログラードを始めとする各地のデモやストの鎮圧に軍隊が出動しましたが、鎮圧に向かった兵士達が、次々に労働者や市民の側に寝返ったのです。そして、ここではメンシェビキの呼びかけに応じて、首都では「ペトログラード・ソビィエト」が結成され、他方では議会側も臨時委員会を作り新政府を樹立、皇帝ニコライ2世は退位させられ、ロマノフ王朝はここで崩壊しました。そして、ペトログラード・ソビィエトと臨時政府の「二重権力」が生まれたのです。ソビィエト側は、臨時政府をブルジョア政府と看做して、それを支持することになりました。しかし、政権は二重権力の不安定なもので、戦争の継続をめぐって、臨時政府側は戦争の継続を、ソビィエト側は反戦と平和を要求し、そのため「四月危機」を招来しました。
 この時点で、3月にスターリンなどが流刑地から、4月にはレーニンが亡命地から帰国しました。それまで弾圧により弱体化してしまったボルシェビキでしたが、ここで復権を果たします。レーニンの「四月テーゼ」が発表され、臨時政府に対する不支持、戦争継続の反対、全権力のソビィエトへの集中、などが提起されました。これがボルシェビキの方針にはなったものの、ケレンスキーを中心とする臨時政府の側は、同盟諸国の要求に応えて戦線を拡大しようとしました。しかし、すでに兵士の戦闘意欲が喪失していて、ソビィエトの側に立ち武装デモが拡大します。しかし、この武装デモの失敗による「7月事件」の弾圧などがありましたが、むしろこの弾圧を通して、ボルシェビキは「武装蜂起による権力の奪取」の方針へ大きく転換することになったのです。
 この方針にたいして、8-9月ペトログラードやモスクワのソビィエトが支持を拡大、レーニンはボルシェビキの方針として、武装蜂起による権力の奪取をさらに明確にします。10月には、ソビィエトに軍事革命委員会を設置、それを軍の各部隊が次々に支持を表明しました。他方、臨時政府の側は、最後の反撃としてボルシェビキ党の機関紙の印刷所を制圧します。しかし、それが引き金になって、軍事委員会側が武力行動に総決起することになりました。この総決起によって、「ペトログラード労兵ソビィエト」が権力の完全掌握に成功し、26日未明には「冬宮」の占領を迎えることになったのです。これがロシア10月革命に他なりません。
 以上がロシア革命の流れの大筋ですが、日露戦争からの帝国主義の対立抗争の中で、ロシア帝国の国家権力が脆弱化していたこと。多様な社会主義の思想や運動が起こり、分派抗争も激しく闘わされ、レーニンのボルシェビキは長く少数派の勢力だったこと。革命による権力の奪取も、敗戦の中で「労兵ソビィエト」による軍事クーデターともいえる性格のもので、それがプロレタリア独裁の内実だったこと。いずれにせよロシア革命のプロレタリア独裁は、極めて特殊で限定的な条件のもとで成功した革命に過ぎないこと、従って一般化することは出来ないことを、ここで十分に確認しておきたいと思います。
 こうしたロシア10月革命の特殊性は、革命後の混乱にも繋がりました。革命の成功の時点では、ボルシェビキの武装蜂起に参加した社会革命党の左派との連立政権でしたが、12月の憲法制定議会を巡り混乱しました。また世界大戦の処理についても、講和について同盟諸国の協力が得られず、ボルシェビキ内部の対立がエスカレート、講和条約の内容も厳しいものになりました。さらに、シベリアに留め置かれた捕虜の問題で、アメリカや日本からのシベリア出兵をゆるしました。それに呼応して残存していたロシアの旧軍隊の一部将校の反革命の軍事行動も起り、ソビィエト政府も新たに「赤軍」を創設して、反革命に対処せざるを得なくなる。そのためボルシェビキのプロレタリア独裁は、一党軍事独裁の性格が益々強化されることにもなりました。1918年には、ニコライ2世一家の銃殺など、内戦の終息は1920年までかかり、さらに日本のシベリアからの撤兵は22年でした。このように多大な犠牲を伴った点でも、ロシア革命は極めて特殊な性格をもっていた、と言わざるを得ないでしょう。
 このような特殊性を持ったロシア革命でしたが、その特殊性のゆえに、かえって日本への影響は大きかったのです。日本から見て、日露戦争の延長上にロシア帝国の崩壊があり、その崩壊の結果として10月革命による「社会主義の誕生」を見ることになったからです。日本の初期社会主義の運動が、多かれ少なかれ日露戦争に対する反戦・平和の要求を掲げていただけに、ロシア革命を肯定的に受け入れることにもなる。とくにレーニンのボルシェビキがマルクス主義、それもマルクス・エンゲルスの流れを「プロレタリア独裁」として教条化された形で、マルクス・レーニン主義として受容されることになります。西欧と違って、ボルシェビキの党、そして「ボルシェビズム」が、そのまま「社会主義」であり「共産主義」である、という異常な思想風土が培われることにもなったように思われます。
 さらに、地政学的に見ればロシア帝国は、ユーラシア大陸に拡がる大国です。ウラル山脈から向こうはヨーロッパですが、こちらはアジアです。アジアの一角に「社会主義」が誕生して、しかも内戦が拡大し、日本もまたアメリカとともに「シベリア出兵」に乗り出しました。その意味では、日本もロシア革命に干渉し、直接関与したのです。この時点では、シベリアの地に新たに「極東共和国」が登場する可能性もあった。さらにこの間には、中国では辛亥革命(1911年)が勃発し、アジア大陸は激動の時代を迎えていました。その意味で日露戦争、辛亥革命、ロシア革命とアジアの革命の連鎖が拡大し、そうした時代的背景から大正期の民主主義の台頭、「大正デモクラシー」の時代を迎えることになった点を、とくにここで強調したいと思います。
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by morristokenji | 2012-11-25 16:35
 欧米でも同じだと思いますが、日本の社会主義の運動も、その成立期から激しい分派闘争の歴史となりました。多様な思想潮流が、一挙に導入されたこともあり、日露戦争を挟んで対立が激化しましたが、対立の主軸は、一方の直接行動主義の幸徳秋水など、他方は議会主義の片山潜を中心とした対立でした。ただ、両派の対立からすれば、見たところ中間的な存在でしたが、とくに堺利彦の周辺においては、「日刊平民新聞」を中心に山川均、さらに安部磯雄や賀川豊彦などを含めて、いわゆる分派闘争の対立を極力回避しながら、大逆事件以後の「冬の時代」を迎えたように見えます。
 その冬の時代、幸徳は1910年6月に大逆事件で逮捕、翌年死刑判決の後、直ちに死刑が執行されてしまいました。ここで無政府主義の直接行動派は壊滅状態に陥ります。しかし、生き残った大杉栄や荒畑寒村らは、早くも1912年『近代思想』を創刊、思想面での継承が図られました。他方、国家社会主義の流れに立つ議会主義派の片山潜ですが、1911年「東京市電ストライキ」の指導を行った件で逮捕され、投獄されました。翌年は年号が明治から大正へ変り、天皇即位の大赦で片山は出獄します。しかし彼は、1914年には日本を捨ててアメリカに亡命、さらに1917年のロシア革命の成功を見て、マルクス・レーニン主義に傾倒することになる。アメリカ共産党、メキシコ共産党の結党にも協力し、北米での共産主義活動に尽力しました。その上で1921年、ソ連に渡りコミンテルン常任執行委員会の幹部となり、国外から日本共産党の結党の指導を行います。しかし、片山も1933年モスクワで死去、盛大な葬儀の後、クレムリンの壁に埋葬されました。
 このような経過を振り返れば、冬の時代はまた、日本の社会主義運動の分派闘争をも完全に凍結してしまった、と言えるでしょう。そして運動の凍結は、大正デモクラシーの春の訪れまで続きますが、その間に国際的な運動の流れと共に、日本の社会主義の思想的位置づけが、どのように変化しつつあったか?凍結された無政府主義VS国家社会主義の対立図式に対し、いわば中間的地位にあり、セクト対立の調整と共に、近代化の流れの中で、自由民権運動やキリスト教の関係者とも連携しようとした、「日本型共同戦線」党とも言える堺利彦、山川均などの立ち位置は、どのようになっていたのか?その辺を探ってみたいと思います。
 堺は1914年、大逆事件で無政府主義の幸徳秋水が犠牲になり、国家社会主義の片山潜はアメリカに亡命して日本を去ってしまった、そんな日を迎えて「大杉栄君と僕」という文章を書きました。それに「社会主義鳥瞰図」を付けています。まことに興味深い鳥瞰図ですから、ここで紹介しておきたいと思います。
 
 「日本の社会主義運動に三派の別が生じていた。今でもボンヤリその形が残っている。
 一、穏和派(あるいは修正派)
 一、マルクス派(あるいは正純派)
 一、直接行動派(あるいは無政府的社会主義)
  これを人について言えば、安部磯雄君は右翼に属し、幸徳秋水君は左翼に属し、僕自身は 中間派に属していた。そのうち、幸徳君は殺されたが、安部君と僕はほぼ昔のままの立場で 続いている。そして今日、幸徳君の立場を継承している者は、すなわち大杉栄君である。‐ ‐‐すべて主義態度の範囲は、そう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に 当たっては、種々の便宜上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論 の上から見る時には、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。こ の関係をやや明瞭に示すため、左に一つの表を作ってみる。」
      <図は略>
  
  さらに「社会主義鳥瞰図」の後に続けて、こう述べています。
 「面白いことは、社会主義の左端なるシンジカリストと、その右端のまた一歩右なる労働組 合主義の一半とが、その非政治派、非議会派たる点において一致しいることである。進歩派 と保守派とその両端において、かえって相近づくは注意すべき現象である。また左の表の全 体を見渡すと、左端も右端も同じく個人主義で、ここにも思想の輪が一周してさらに相近づ かんとする形が現われている。実例をもってこの点を考えてみるに、極端なる自由貿易論者
 や自由競争論者は、政府の干渉をできうべきだけ排斥し、個人の活動をできうべきだけ拡大 する点において、すこぶる無政府的傾向を有している‐‐‐」

 すこぶる堺らしい整理です。党派的イデオロギーの決め付けをしない、そして相互の連携の可能性を探る点では、後の労農派の「日本型共同戦線」党的発想が十分ここで伺われると思います。鳥瞰図ではありますが、その目線は上から垂直的ではなく、水平的なネットワークを念頭においています。また、「あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続している」と述べるように、分派的・セクト的対立を抑制する態度が伺われます。さらにまた、左派右派の対立についても、左の左は右、右の右は左、という円環の論法でイデオロギー的対立を回避する配慮が強い。こうした配慮が堺に代表される労農派の「日本型共同戦線」党の発想と態度だったのです。
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by morristokenji | 2012-11-06 21:00
 
 具体的には、アメリカの労働運動を研究して帰国した高野房太郎、片山潜などが中心になり、1897年(明30)にアメリカの労働運動組織AFLを模倣して「労働運動期成会」を結成しました。しかし、すぐ政府により禁止され、そこで片山などが方向転換して、キリスト教的な社会主義を説く安部磯雄らとともに、98年に「社会主義研究会」を組織します。ここで、日本の社会主義が呱々の声を上げた、とされています。さらに、1900年には「社会主義協会」を組織し、もっぱらヨーロッパやアメリカの社会主義思想を紹介研究し、それを啓蒙宣伝する活動を開始しました。
 こうした社会主義の思想の紹介・宣伝とともに、片山や安部などは、01年に「社会民主党」の結成に乗り出します。その結社宣言では、社会主義、民主主義、平和主義を謳い、暴力を排し平和的に階級制度の廃止、土地・資本の国有化、普通選挙や教育の平等の実現など、特定の思想的立場に立つものではなかった。また、賛同者も幸徳秋水、木下尚江、西川光ニ郎など、その多くが自由民権家やキリスト教の関係者でした。にも拘らず、結党届に対して明治政府は即日結社禁止の措置を取り、我が国の社会主義政党の誕生は流産してしまいました。ただ、そのために結果的ですが、上記「社会主義協会」を中心に、社会主義思想の紹介、啓蒙が盛んに行われることになりました。しかも思想の流入は、後進的なるがゆえに、欧米の社会主義が一挙に、幅広く、かつ同時に進められ、いわゆる空想的社会主義者からマルクスやエンゲルス、さらにレーニンの著作も紹介されました。
 なお、ここでとくに注意しておきたいのですが、幸徳秋水の『社会主義神髄』(03年)では、参考にした文献として、モリス・バックスの共著『社会主義』も挙げられました。しかも、「社会主義の効果」としてモリスの主張を引用紹介、「ウイリアム・モリスは曰く『人が財貨の為めに心を労するなきに至るも、技芸、萬有、恋愛等は、人生に与ふるに趣味と活動とを以てす可し』と。」つまり、社会主義における芸術や恋愛の高度な自由について、具体的に紹介しています。
 この時期は、日露開戦の前夜です。それだけに社会主義への明治政府の弾圧も特に厳しかったのでしょう。開戦を巡り言論界も二分され、とくに「万朝報」が対露主戦論に転換したため、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三などが、抗議のため一斉に退社しました。そして、反戦平和を主張するために、新たに「平民新聞」を創刊します。そして04年2月に日露戦争が勃発、幸徳秋水は「平民新聞」に「与露国社会党書」を掲載したり、『共産党宣言』が訳載されますが、新聞は発禁処分を受けました。また、片山潜がアムステルダムの第2インター大会の席上、ロシアのプレハーノフと戦争反対で握手するなど、大きな話題を呼びました。05年9月ポーツマスで日露講和条約が結ばれましたが、その後「平民社」も解散に追い込まれました。
 しかし、日露戦後を迎え、第一次西園寺内閣が成立します。06年には、まず西川光次郎等が「日本平民党」、さらに堺利彦等も「日本社会党」を結成、すぐに両者は合同して日本で初めての社会主義政党「日本社会党」が、ここでようやく誕生をみました。続いて堺は、「社会主義研究」を創刊、『共産党宣言』を掲載するなど、社会主義思想の宣伝啓蒙も活性化しました。このように日露戦争を挟んでの激動の時代に、日本における社会主義の思想と運動が本格化しましたが、上記の通り後進的なるがゆえに、欧米の社会主義の様々な思想や運動の流れが、同時に、一挙に、そして幅広く導入されました。そのために、思想的立場の違いや、運動の進め方をめぐり、早くも党派的な対立や抗争が表面化してきます。主要な対立点を紹介しておきましょう。
 まず幸徳秋水の動きです。彼は自由民権の左派を代表する中江兆民の弟子であり、はじめは民権主義者として活躍していました。また、上記のようにモリスの『社会主義』を紹介するなど、堺利彦などと一緒に幅広く活動していました。ところが、アメリカに渡り労働運動や社会主義思想に触れ、さらに帰朝後、日露戦争に対しての反戦の先頭に立ちました。とくにアメリカで無政府主義の影響を強く受け、直接行動を主張するようになります。06-07年には、日本でも大阪砲兵工廠のストライキ、足尾銅山の暴動など、大きな社会的事件が続きました。そうした社会的背景が、幸徳達の無政府主義的な直接行動に強く影響したと言えます。しかし、過激な無政府主義の主張は、欧米でもそうですが、社会主義の思想を議会を通して実現しようとする社会改良主義、議会主義の運動とは対立することになります。
 07年の初めには「日刊平民新聞」が創刊され、社会主義の思想や運動が、次第に大衆レベルにも浸透し始めました。しかし、「日本社会党」の第2回大会では、幸徳達の直接行動主義と、片山潜、田添鉄二など社会改良的な議会主義とが激しく対立しました。その結果、せっかく誕生した日本社会党も、結党一年にして結社禁止に追い込まれてしまいました。また「日刊平民新聞」も廃刊に追い込まれます。その後、政府の弾圧が激しくなるとともに、幸徳達の思想も過激化し、少数精鋭分子として孤立化しました。そうした状況のもと、明治天皇の暗殺を企てたとされる「大逆事件」が起こり、1910年には幸徳以下数百名が逮捕、さらに首謀者とされる24人が死刑の判決を受けることになりました。
 この大逆事件を契機に、ようやく産声を上げた日本の社会主義の運動は、いわゆる「冬の時代」を迎えます。なお、幸徳達に対する片山潜の動きですが、彼は03年末再び渡米し、上記の第二インター大会へもアメリカから出席、その後も滞米生活が続き、農場経営などに従事していました。しかし経営に失敗、07年に帰国して「日刊平民新聞」などに普通選挙による選挙権の獲得拡大など、議会主義の主張を展開し、幸徳達と激しく対立しました。また片山は、西川光ニ郎と「社会主義中央機関」として週刊の「社会新聞」を創刊します。ただ、この時点では、まだ堺や幸徳の「日刊平民新聞」、また森近運平などの「大阪平民新聞」等にも片山が寄稿し、幸徳派VS片山派の対立も、なお共通の場を持っていたようです。しかし、次第に両派の対立が激化し、中間的立場にいた堺達が調整に苦心するようになります。当時の「日刊平民新聞」「大阪平民新聞」「社会新聞」などには、幸徳達の無政府主義、片山達の議会主義、さらに堺を中心とする言わば中間派の主張が鮮明になって行く様子が反映されます。次の堺の述懐には、そうした対立が赤裸々に描かれています。
 「余は最も公平に種種の思想を比較して、国家社会主義、社会主義、無政府主義、個人主義と、この四者の間に自然の連続があると思う。‐‐‐そこで予は思う、この社会主義と無政府主義の調和によって革命がなしとげられ、革命後の新社会においては、さらに進んで社会主義と個人主義との融合を見るであろうと。‐‐‐かのベラミーの『百年後の新社会』とモリスの『理想郷』とを比較すれば、いわゆる社会主義の理想といわゆる無政府主義の理想とが明らかに見えると思う。
 日本においては最初、片山、安部等の諸先輩によって唱導せられたる社会主義は、主としてドイツ式のものであった。‐‐‐しかしながらイギリスと同盟しているところ、米国と接近しているところ、英語の広くおこなわるるところ、などより考うれば、イギリス式あるいはアメリカ式にならぬとも言われぬ。それにまた一つ、シナと云う大怪物が隣国に横たわっているので、これがもしロシア式にゆくとなれば、日本もまた多いにその影響を受けぬとも限らぬ。」
 堺が、国家社会主義、無政府主義、そして個人主義の対立抗争の間に立って、なおかつ欧米だけでなく、中・露の国際的動向をも見据えながら、いかに激しく流入を続ける社会主義の潮流に立ち向かうか?いかに自らの社会主義の思想的立ち位置を定めたらいいか?彼の苦労が伝わってくるような気がします。さらに、堺がここで、一方でベラミーの国家社会主義、他方で共同体社会主義のモリスの『理想郷』を念頭に置き、熟慮している点が書き込まれているのが興味深いと思います。
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by morristokenji | 2012-11-04 12:05
 
1)日本では、いつごろから社会主義の思想や運動が始まったのか?
 
社会主義の思想の内容、例えば貧富の格差とか、性的差別とか、金権支配など、それらに反対する主張は、例えば自由民権の思想や運動に認められるし、また文学でも表現されて来ました。樋口一葉の「大つごもり」や「たけくらべ」など、貧困の生活の中での女性の差別された生き様が鋭く描かれていたし、尾崎紅葉の「金色夜叉」、幸田露伴の「五重塔」など、いずれも社会の矛盾が鋭く表現されていました。
 しかし、そうした文学的描写は、近代社会の矛盾や問題を鋭く描写してはいますが、近代社会の経済や政治、そして文明全体を問題にし、それを変革する思想や運動とは言えないでしょう。その意味では、社会主義的な思想や表現ではあっても、まだ社会主義そのものの思想、さらに組織的運動ではなかった。
 社会主義の思想や運動が本格的に登場を見るのは、やはり日本でも、明治の近代化が進み、近代社会としての資本主義が本格的に発展する時代を迎えた時点からだと思います。その捉え方、変革の方法に色々違いはあるものの、多かれ少なかれ近代社会としての資本主義そのものをトータルに変革する思想としての社会主義です。それは、明治の中期以降、とくに日清、日露の戦争に勝利した頃からと言えると思います。日本が近代化を達成し「坂の上の雲」を見た、その時に社会の底辺からのトータルな変革の思想が主張され、そして運動も生まれたわけです。それが、日本における社会主義の誕生だったのです。

 すでに説明しましたが、近代化を先進的に達成したヨーロッパでも、社会主義socialismeという言葉が、今日のような意味で用いられたのは19世紀初頭になってから、1832-34年にフランスの社会主義者ルルー(Pierre Leroux :1797-1871)による、とされています。産業革命がイギリスからフランスへ拡大し、近代社会の資本主義が近代工業化文明とした登場した、それへの対抗的な思想であり、その社会運動が社会主義だった。そして、社会主義はイギリスではオーエン主義者、フランスでもルルーなどフーリエ主義者が主唱した思想でした。
 ただ日本では、ヨーロッパの後進国ドイツ、そしてアメリカよりも遅れて、ロシアなどとともに産業革命を迎え、近代化の達成は19世紀の終わりの時期でした。そのため社会主義の思想も、初期の社会主義思想だけでなく、マルクスやエンゲルス、またモリスの思想など、ほぼ同時に、そして一挙に導入したのです。始めは、主としてアメリカから帰朝した人達、特にキリスト教の信仰と結びついていたように伺われます。

 2)日本における社会主義の導入とW・モリス

 具体的には、アメリカの労働運動を研究して帰国した高野房太郎、片山潜などが中心になり、1897年(明30)にアメリカの労働運動組織AFLを模倣して「労働運動期成会」を結成しました。しかし、すぐ政府により禁止され、そこで片山などが方向転換して、キリスト教的な社会主義を説く安部磯雄らとともに、98年に「社会主義研究会」を組織します。ここで、日本の社会主義が呱々の声を上げた、とされています。さらに、1900年には「社会主義協会」を組織し、もっぱらヨーロッパやアメリカの社会主義思想を紹介研究し、それを啓蒙宣伝する活動を開始しました。
 こうした社会主義の思想の紹介・宣伝とともに、片山や安部などは、01年に「社会民主党」の結成に乗り出します。その結社宣言では、社会主義、民主主義、平和主義を謳い、暴力を排し平和的に階級制度の廃止、土地・資本の国有化、普通選挙や教育の平等の実現など、特定の思想的立場に立つものではなかった。また、賛同者も幸徳秋水、木下尚江、西川光ニ郎など、その多くが自由民権家やキリスト教の関係者でした。にも拘らず、結党届に対して明治政府は即日結社禁止の措置を取り、我が国の社会主義政党の誕生は流産してしまいました。ただ、そのために結果的ですが、上記「社会主義協会」を中心に、社会主義思想の紹介、啓蒙が盛んに行われることになりました。しかも思想の流入は、後進的なるがゆえに、欧米の社会主義が一挙に、幅広く、かつ同時に進められ、いわゆる空想的社会主義者からマルクスやエンゲルス、さらにレーニンの著作も紹介されました。
 なお、ここでとくに注意しておきたいのですが、幸徳秋水の『社会主義神髄』(03年)では、参考にした文献として、モリス・バックスの共著『社会主義』も挙げられました。しかも、「社会主義の効果」としてモリスの主張を引用紹介、「ウイリアム・モリスは曰く『人が財貨の為めに心を労するなきに至るも、技芸、萬有、恋愛等は、人生に与ふるに趣味と活動とを以てす可し』と。」つまり、社会主義における芸術や恋愛の高度な自由について、具体的に紹介しています。
 この時期は、日露開戦の前夜です。それだけに社会主義への明治政府の弾圧も特に厳しかったのでしょう。開戦を巡り言論界も二分され、とくに「万朝報」が対露主戦論に転換したため、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三などが、抗議のため一斉に退社しました。そして、反戦平和を主張するために、新たに「平民新聞」を創刊します。そして04年2月に日露戦争が勃発、幸徳秋水は「平民新聞」に「与露国社会党書」を掲載したり、『共産党宣言』が訳載されますが、新聞は発禁処分を受けました。また、片山潜がアムステルダムの第2インター大会の席上、ロシアのプレハーノフと戦争反対で握手するなど、大きな話題を呼びました。05年9月ポーツマスで日露講和条約が結ばれましたが、その後「平民社」も解散に追い込まれました。
 しかし、日露戦後を迎え、第一次西園寺内閣が成立します。06年には、まず西川光次郎等が「日本平民党」、さらに堺利彦等も「日本社会党」を結成、すぐに両者は合同して日本で初めての社会主義政党「日本社会党」が、ここでようやく誕生をみました。続いて堺は、「社会主義研究」を創刊、『共産党宣言』を掲載するなど、社会主義思想の宣伝啓蒙も活性化しました。このように日露戦争を挟んでの激動の時代に、日本における社会主義の思想と運動が本格化しましたが、上記の通り後進的なるがゆえに、欧米の社会主義の様々な思想や運動の流れが、同時に、一挙に、そして幅広く導入されました。そのために、思想的立場の違いや、運動の進め方をめぐり、早くも党派的な対立や抗争が表面化してきます。主要な対立点を紹介しておきましょう。
 まず幸徳秋水の動きです。彼は自由民権の左派を代表する中江兆民の弟子であり、はじめは民権主義者として活躍していました。また、上記のようにモリスの『社会主義』を紹介するなど、堺利彦などと一緒に幅広く活動していました。ところが、アメリカに渡り労働運動や社会主義思想に触れ、さらに帰朝後、日露戦争に対しての反戦の先頭に立ちました。とくにアメリカで無政府主義の影響を強く受け、直接行動を主張するようになります。06-07年には、日本でも大阪砲兵工廠のストライキ、足尾銅山の暴動など、大きな社会的事件が続きました。そうした社会的背景が、幸徳達の無政府主義的な直接行動に強く影響したと言えます。しかし、過激な無政府主義の主張は、欧米でもそうですが、社会主義の思想を議会を通して実現しようとする社会改良主義、議会主義の運動とは対立することになります。
 07年の初めには「日刊平民新聞」が創刊され、社会主義の思想や運動が、次第に大衆レベルにも浸透し始めました。しかし、「日本社会党」の第2回大会では、幸徳達の直接行動主義と、片山潜、田添鉄二など社会改良的な議会主義とが激しく対立しました。その結果、せっかく誕生した日本社会党も、結党一年にして結社禁止に追い込まれてしまいました。また「日刊平民新聞」も廃刊に追い込まれます。その後、政府の弾圧が激しくなるとともに、幸徳達の思想も過激化し、少数精鋭分子として孤立化しました。そうした状況のもと、明治天皇の暗殺を企てたとされる「大逆事件」が起こり、1910年には幸徳以下数百名が逮捕、さらに首謀者とされる24人が死刑の判決を受けることになりました。
 この大逆事件を契機に、ようやく産声を上げた日本の社会主義の運動は、いわゆる「冬の時代」を迎えます。なお、幸徳達に対する片山潜の動きですが、彼は03年末再び渡米し、上記の第二インター大会へもアメリカから出席、その後も滞米生活が続き、農場経営などに従事していました。しかし経営に失敗、07年に帰国して「日刊平民新聞」などに普通選挙による選挙権の獲得拡大など、議会主義の主張を展開し、幸徳達と激しく対立しました。また片山は、西川光ニ郎と「社会主義中央機関」として週刊の「社会新聞」を創刊します。ただ、この時点では、まだ堺や幸徳の「日刊平民新聞」、また森近運平などの「大阪平民新聞」等にも片山が寄稿し、幸徳派VS片山派の対立も、なお共通の場を持っていたようです。しかし、次第に両派の対立が激化し、中間的立場にいた堺達が調整に苦心するようになります。当時の「日刊平民新聞」「大阪平民新聞」「社会新聞」などには、幸徳達の無政府主義、片山達の議会主義、さらに堺を中心とする言わば中間派の主張が鮮明になって行く様子が反映されます。次の堺の述懐には、そうした対立が赤裸々に描かれています。
 「余は最も公平に種種の思想を比較して、国家社会主義、社会主義、無政府主義、個人主義と、この四者の間に自然の連続があると思う。‐‐‐そこで予は思う、この社会主義と無政府主義の調和によって革命がなしとげられ、革命後の新社会においては、さらに進んで社会主義と個人主義との融合を見るであろうと。‐‐‐かのベラミーの『百年後の新社会』とモリスの『理想郷』とを比較すれば、いわゆる社会主義の理想といわゆる無政府主義の理想とが明らかに見えると思う。
 日本においては最初、片山、安部等の諸先輩によって唱導せられたる社会主義は、主としてドイツ式のものであった。‐‐‐しかしながらイギリスと同盟しているところ、米国と接近しているところ、英語の広くおこなわるるところ、などより考うれば、イギリス式あるいはアメリカ式にならぬとも言われぬ。それにまた一つ、シナと云う大怪物が隣国に横たわっているので、これがもしロシア式にゆくとなれば、日本もまた多いにその影響を受けぬとも限らぬ。」
 堺が、国家社会主義、無政府主義、そして個人主義の対立抗争の間に立って、なおかつ欧米だけでなく、中・露の国際的動向をも見据えながら、いかに激しく流入を続ける社会主義の潮流に立ち向かうか?いかに自らの社会主義の思想的立ち位置を定めたらいいか?彼の苦労が伝わってくるような気がします。さらに、堺がここで、一方でベラミーの国家社会主義、他方で共同体社会主義のモリスの『理想郷』を念頭に置き、熟慮している点が書き込まれているのが興味深いと思います
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by morristokenji | 2012-11-01 20:48