森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

<   2012年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

 ロシア革命に先行して、すでに述べましたが1915年(大4)には、後に『資本論』を翻訳した高畠素之なども協力して、堺利彦の『売文社』が「へちまの花」を改題、「新社会」を創刊しました。また同じ頃、アナーキズムの立場で大杉栄・荒畑寒村らが第2次『近代思想』を創刊します。第1次の『近代思想』は、純粋に思想文芸誌として、大逆事件の後1912年に刊行されました。その中断を、第2次が継承・発展させる形をとりました。また、1916年には「大阪朝日」に河上肇『貧乏物語』が連載されるなど、「冬の時代」の終わりを告げる動きも始まります。それだけに、1917年の10月ロシア革命は、日本の社会主義運動に新たな覚醒を促し、社会主義者はロシア革命の支持に動き始めます。「その当時の社会主義的な思想を持っていた者で、影響を受けなかった人はいない」(『山川均自伝』)と言われるほどでした。例えば、吉野作造「民本主義論」は大正デモクラシーを代表する論稿でしたが、それを山川均がマルクス主義の立場で批判し、「民本主義の煩悶」を書きます。さらに堺も、「新社会」にエンゲルスの「空想から科学へ」を訳出するなど、マルクス主義の立場を鮮明にする著作活動が活発になりました。
 当初は、日本政府のシベリア出兵もあり、それに反対する社会主義者は、ほとんど一致してロシア革命支持に回りました。「世界最初の社会主義」誕生は、それまでのセクト的対立を超えた朗報だったに違いありません。山川も「皆涙を流して喜びました」と書いています。しかし、日本への社会主義の導入以来、すでい紹介しましたが国家社会主義と無政府主義の根深い対立がありました。ロシア革命の実相が伝わるにつれ、次第に思想的な分派抗争が再燃することになったのです。1920年代を迎えると、労働運動の主導権をめぐり、ロシア革命の評価や労働運動の組織論などをめぐっての意見が対立、アナボル論争が始まります。アナルコ・サンディカリズムとボルシェビズム両派の対立です。とくに労働運動の組織論をめぐり、政党の指導を排除して自由な連合を目指すアナ派、対するボル派はロシア革命のプロレタリア独裁による中央集権的組織を主張しました。ロシア革命の成功、マルクス・レーニン主義に基づくボルシェビズムが、次第にアナ派を圧倒していきます。とくにアナ派の指導者だった大杉栄が、関東大震災(1923年)の混乱のなかで憲兵大尉・甘粕正彦に虐殺された、とされる「甘粕事件」によって、アナ派は急速に衰退しました。
 ロシア革命の成功により、同じ敗戦国ドイツでも革命情勢の高まりを見せましたが、レーニンなどの「世界同時革命」のイデオロギー的期待には繋がりませんでした。そのためもあったと思いますが、てコミンテルンの指導による国際共産主義の運動は、各国の実情を無視してソ連中心のマルクス・レーニン主義の教条的な国際的支配を強めざるを得なかった。具体的にはボルシェビズムによる世界各国の共産党の組織化の方針が打ち出され、その方針で日本でも1922年(大11)非合法で共産党(委員長は堺利彦)が創立されました。日本で最初のプロレタリア前衛党の登場に他なりません。
 この日本共産党の創立については、初め非合法で創立されたものの、創立に参加協力した山川均が、直後に「無産階級運動の方向転換」と云う有名な論文を当時の『前衛』誌に発表しました。これは、直接にはアナルコ・サンディカリズムを批判して、社会主義の思想と運動を広く一般大衆に浸透させる意図で書かれました。しかし、コミンテルンなど内外に問題を提起する形になり、関東大震災の混乱もあって、早くも24年(大13)に日本共産党は解党してしまいました。さらに山川、堺が反対したにも拘らず、背後にコミンテルンの指導があったのでしょうが、26年(大15)に共産党は再建されることになりました。こうした日本で最初の共産党の創立、解党、そして再建に見られる紆余曲折は、ロシア革命およびマルクス・レーニン主義をめぐっての極めて重要な対立、論争による混乱だったと言えます。この混乱から、共産党に対立する形で、日本に特有な労農派社会主義が登場することになったのですが、その位置づけを明確にする意味で、『山川均自伝』を手掛かりに整理しておきましょう。
 この『自伝』は、無論個人の手記ですから、歴史的記述としては限界があります。しかし、比較的客観的に書かれていますし、堺についても随所に触れていますので、労農派の成立事情を知るには適当な文献です。ただ、『自伝』全体としては、出生の頃から書かれていますが、ここでは第三部とされる<「小さき旗上げ」から(大正六年―第二次大戦直後)>の部分に限定しておきます。先ず1917年(大6)はロシア革命ですが、第三部も「ロシア革命のころ」から始まります。上記のとおり、山川を含め日本のすべての社会主義者が、それぞれの立場の違いを超えて、人類史上始めての社会主義革命を大歓迎した様子が紹介されます。ただ、「レーニンというのは薬の名前か何かとまちがわれたというような話があるけれども、大多数の人はレーニンの名を知らなかった」、そんな状態で「一時はロシア革命支持一色と言っていいくらい。しかし、それから落着いてきてだんだん意見が分かれてきました。」このロシア革命に対する意見の分岐、対立について、山川は明治の社会主義の思想の移入の時点に遡り、次のように興味深い整理をこころみています。
 「私の見た日本の社会運動には、近頃の言葉でいえば<理論闘争>の激烈に行われた時期が、三度あったと思う。その一つは、大正の末年から昭和の初めにわたる最近の時期だった。もう一つは、大正十年前後の、アナキズム対ボリシェヴィズムの論争だった。そして明治四十年前後は、その最初の時期だった。」
 すでに紹介しましたが、1890年代の終わり頃から労働組合運動が始まり、それと連動して主にアメリカ帰りのクリスチャン、また自由民権思想の流れから、日本の社会主義思想が始まったと言われます。しかし、最初は欧米の社会主義思想が一緒になっていて、大きな対立や分化は無かった。国家社会主義のベラミーの思想が安部磯雄、共同体主義のモリスは堺への影響が大きいとは言え、安部がマルクス『資本論』の翻訳を始めたり、堺もモリス、ベラミーをそれぞれ抄訳して紹介する、幸徳秋水も堺と平民新聞を始め、『社会主義神髄』にモリス・バックスの『社会主義』を紹介するなど、揺籃期の温もりを感じさせる時代でした。1906年(明39)に幸徳がアメリカから帰国、無政府主義者として直接行動派となり、安部や片山潜などの議会政策派と対立した。ここから日本の社会主義の思想と運動の論争、対立、分派が始まりますが、山川も「前年に外遊から帰った幸徳は、この時すでに議会政策の放棄を宣言し、これに対して片山氏らは、その頃の言葉では<国家社会主義>ないし<改良派社会主義>の新運動への明確な一歩を踏み出していた」と述べています。
 この時点での堺の立場ですが、山川は対立が鮮明化したと述べ「この茶話会で、堺君が自分の立場を述べた言葉の一節を、私は今日も忘れることができない―<私はあくまで正統マルクス派の立場を守る>。それから堺君は自分は両派のいずれにも偏しない中央の立場を取るという意味のことを述べた。-‐‐-私はこの夜の堺君の言葉の重要性を、後年になって味わうことができた。その後二十五年間の堺君の生涯は<私はあくまで正統マルクス派の立場を守る>というこの夜の約束の、課し化琴なき履行であったと思う。」この堺のいう「正統マルクス派の立場」は、すでに検討したようにマルクスーモリスの堺による受容であり、その立場から一方の国家社会主義、他方の無政府主義に対して、自らの立ち位置を確かめた、と言えると思います。
 そして、こうした堺・山川の立場が、第二の「理論闘争」の時点でも貫かれます。ここではロシア革命がすでに成功し、ボリシェヴィズムのマルクス・レーニン主義による教条的支配が始まっての論争です。ここでも対立は、いわば国家社会主義のソ連型ボリシェヴィズムと、無政府主義のアナルコ・サンジカリズムとの間で行われ、すでに述べた「アナ、ボル論争」に他なりません。「この時代から初めてマルクシズムが普及して、しかもかなり広い層の中に浸透してゆくと言うことになったし、また古い社会主義者のマルクシズムに対する理解も深まってきた。そして大正十年ごろになって、初めて無政府主義およびサンジカリズムの傾向とマルクシズムの分離が完了したわけです。この時分がいわゆるアナ,ボルの論争が行われた時代で、それが大正十年に大体終わりを告げたわけです。そして一応無政府主義およびサンジカリズム傾向の影響は凋落し、日本の大衆運動からはほとんどなくなったわけです。」
 その上で、第三の時期を迎えることになり、それが「大正の末年から昭和の始めにわたる最近の時期」、つまり日本共産党の創立、解党、再建の時期であり、それに対しての労農派社会主義の出発の時期です。それについて、山川は「マルクシズムとそれからそのほかの社会主義思想が共同戦線を張っていたかっこうだったのが、この無政府主義との分化が完了してしまうと、その間の分化が始まって、---これは大正十年以後になります。」この第三の時期については、マルクス・レーニン主義と堺・山川達の「正統派的なマルクシズム」「本来のマルクシズム」の新たな論争と対立であり、そこから労農派社会主義の誕生となりますので、次に述べることにしましょう。
[PR]
by morristokenji | 2012-12-25 21:01
 ロシア革命を背景に、日本における社会主義の思想や運動が、次第にドグマ化されながらマルクス・レーニン主義として普及しましたが、その中でモリスの社会主義はどうなったのか?すでに紹介しましたが、堺利彦が日本で始めてモリスの『ユートピア便り』の抄訳を1903年(明36)に『理想郷』のタイトルで「平民新聞」に連載し、さらに翌年「平民文庫五銭本」の一冊として出版しました。初版2千部ですから、かなり高評だったようですが、さらに同志とも言える山川均が、モリス・バックスの共著『社会主義:その発展と成果』のなかの「資本論解説」の部分を、『マルクスの資本論』として「大阪平民新聞」(1907年)に連載しました。マルクス主義は、その後のマルクス(・エンゲルス)・レーニン主義ではなく、この時点では「マルクス・モリス(バックス)主義」の流れとして、堺・山川の手で受容され継承されました。しかも、とくに堺は、モリスが一方で米・ベラミーの「国家社会主義」、他方で「社会主義者同盟」のアナーキストと対立して、いわば中道の「正統マルクス主義」の立場を守ろうとした、それと同じように、一方の片山潜、安部磯雄の議会主義的な国家社会主義、他方での幸徳秋水の無政府主義と論争してきました。その堺は、さらに大正デモクラシーの社会主義ブームの中で、どう対応したのでしょうか?
 堺は、自ら発足させた「売文社」や優れた語学力によって、山川とも協力しながらですが、マルクスやエンゲルス、さらにレーニンの著作も紹介したり、翻訳しています。堺の思想的な幅の広さが、彼の翻訳活動にも十分伺われます。しかし、彼の思想的立ち位置は、少しもぶれずに変っていません。彼は、大正デモクラシーの民主化の到来の中で、1920年(大9)モリスの『理想郷』を再版しました。再版は「平民文庫」のパンフではなく、ベラミーの『百年後の新社会』を含めて刊行されました。本の表紙は『理想郷』NEWS FROM NOWHEREですが,言わば付録のような形でベラミーの抄訳も載せてあります。もともと堺は、モリスの『理想郷』、ベラミーの『百年後の新世界』を両方とも抄訳で公刊したので、一緒に再版したのですが、「はしがき」に以下のような興味深い、かつ無視できない重要な説明があります。
 先ず、はじめにモリス、ベラミーを簡単に紹介し、その上で「ベラミーの理想は前記の通り国有主義で、その余りに集中的な、画一的な、強制的な考え方に反対する者が少なくなかった。そこで社会主義者中でも、寧ろアナキスチックの傾向を帯びていた。モリスは少しくそれに当てつける位の心持で、極めて自由な生活状態を描出したものらしく思われる。故にこの二書の内容を比べて見ると、同じく社会主義の理想と云われながら、実は大変に違った二つの光景を現出している。そして今日になって見ると、ベラミーは最早や殆んど顧みられず、モリスはいつまでも多くの人に愛読されている。けれども我々としては、モリスを読んだ後に参考として、対照として、ベラミーを読む事も亦た決して無益ではない。」明らかに堺は、モリス『理想郷』の共同体社会主義の理想が主眼であり、その立場を明らかにする意味で、対立的なベラミーの国有主義=国家社会主義を参考に供したのです。
 再版が1920年ですから、ロシア革命の直後であり、レーニンのプロレタリア独裁によるソ連・国家社会主義に対して、堺は改めてモリス『理想郷』を公刊し、自らの思想的立ち位置を確かめておこうとしたのではないか?「はしがき」で堺は、さらに次のように書いています。「この抄訳は二つとも、私が余ほど以前に小冊子として発行したもので、近来は全く絶版になっていたのだが、この頃の陽気に促されて、少しづつ訂正を加え、さらに合冊として、発行する事にした。『理想郷』では、『危険』な箇所を大ぶん多く削除した。」ここでは堺らしい表現で「この頃の陽気に促されて」と書いていますが、大正デモクラシーとロシア革命による社会主義ブームに対しての彼の姿勢が伺われます。また、モリスの社会主義でも、危険な箇所を削除し、さらに目次ですら「無政府無国会」の「無政府」、「国家の消滅」の文字が、伏字で印刷されている始末でした。
 ただ、その後は訳書のタイトルが変りましたが、モリスの『ユートピア便り』は、『無何有郷だより』1925年(大14)布施延雄訳、続いて『無何有郷通信記』1929年(昭4)村上勇三訳(「世界大思想全集」第50巻)の2種類の全訳が出版されました。また、モリスの社会主義の論稿も、大正デモクラシーの社会主義のブームの中で、次々に翻訳されています。社会主義に関連した講演集は,すでにモリスの生前に論文集として纏められていましたが、それらは日本でも1920年代に、いずれも翻訳されました。列挙しますと、①『モリス芸術論』1922年(大11)佐藤清訳、②『芸術の恐怖』1923年(大12)大槻憲二訳(1925年に『芸術のための希望と恐怖』に改題、改訳)③『吾等如何に生くべきか』1925年(大14)と続きました。また1929年には『社会思想全集』第32巻にも、モリスの代表的論文が収められ、一寸したモリス・ブームが起っていたのです。
 1934年(昭9)は、モリスの生誕百年でした。当時のモリス・ブームを背景に『モリス記念論集』が発刊されましたが、その中で「モリス文献」が整理され、明治以来の日本におけるモリスの紹介・導入が、次のように纏められています。モリスの伝記、デザイン、詩集などと共に、彼の芸術思想、社会思想が集中的に翻訳・紹介された事情について、「社会思想方面の紹介が断然優勢で、文学方面、工芸美術の方面は甚だ寂寥たるものである」と。その後の日本でのモリスの影響と比較すると、全く対照的なモリス・ブームだったといえます。大正デモクラシーと社会主義のブームの到来の中で、モリスの共同体社会主義の理論や思想が、かなり大きな影響を与えていたことが解ります。
 しかし、大正デモクラシーの中での社会主義のブームは、すでに述べたとおりロシア革命の成功によるものでした。したがって社会主義は、マルクス・レーニン主義として正当化され、教条化されることになって行きます。しかも、ソ連共産党の一党独裁と共に、国際共産主義運動による支配が、コミンテルンによって行われることになりました。コミンテルンの指導の下で、社会主義はマルクス・レーニン主義が絶対化され、神格化されることになる。そうした教条的支配が、日本の社会主義運動にも、新たなセクト主義を助長することになります。さらに、1923年(大12)の関東大震災の渦中で、幸徳秋水の後継者だったアナルコ・サンジカリズムの大杉栄が虐殺され、再び政府の弾圧も強化されます。モリスの正統的社会主義の立場を継承した堺や山川もまた、そうした社会主義の新たな情況の変化に対応せざるを得なくなりますが、つぎに社会主義の組織と運動の動向に眼を向けてみましょう。
[PR]
by morristokenji | 2012-12-22 20:53
 すでに紹介しましたが、幸徳秋水をはじめ平民社の同人などが中心になり、日露戦争前後には、欧米の社会主義思想の文献が、次々に翻訳されたり紹介されました。大逆事件後の「冬の時代」にも、発禁処分が沢山ありましたが、文献の翻訳・紹介だけは続けられていたのです。ただ、マルクスやエンゲルスの著作は紹介されたものの、独語からの翻訳の事情などもあり、とくにマルクスの『資本論』は、安部磯雄の翻訳が大幅に遅れ、ようやく1909年末から10年(明42~43)に「社会新聞」に連載されました。しかし、これもまだ新聞連載と云うだけで、書籍として出版された訳ではありません。結局、『資本論』の翻訳は、1919年(大8)の松浦 要訳を待つことになります。
 ただ、この日本で最初の『資本論』の翻訳は、第一巻の、しかも第3篇「絶対的剰余価値の生産」までだったし、それを読んだ堺 利彦によれば、「私は先ず其の<先陣>の手柄を拝見すべく、其の訳本を取りよせたが、二、三頁原文と引き合わせたばかりで、其の全部物になっていないことが明白になった」と批評されるような代物でした。そこですぐ、生田長江が1-2篇を翻訳し直し、その上で20年になって高畠素之訳が、「マルクス全集」1~9巻として刊行されました。この高畠訳は多くの関係者が高く評価し,少なくとも戦前に於いては、日本における『資本論』の決定版になったと思います。
 ここでは『資本論』の翻訳に限って、その経緯を少し紹介しましたが、何度も『資本論』の翻訳が繰り返されるほど、本格的なマルクス主義、社会主義の導入が、大正デモクラシーの時代の到来とともに進みました。また『資本論』だけでなく、上記のように『資本論』が「マルクス全集」の中に含められて出版されたように、マルクス、エンゲルスの諸著作が次々に翻訳されました。昭和の初年には、改造社版の『マルクス・エンゲルス全集』が世界に先駆けて出版されたのです。社会主義がマルクス主義として、さらにマルクス(エンゲルス)・レーニン主義として導入されることになった。その理由は、言うまでもなくレーニンによるロシア革命の成功であり、世界史上初めての「社会主義の誕生」に刺激されての話です。社会主義は、マルクス・レーニン主義であり、それが大正デモクラシーの社会主義のブームの著しい特徴と言えるように思います。
 レーニンの著作もまた、すでにマルクス、エンゲルスの著作とともに紹介されていましたが、さらにロシア革命の成功と結びつき、マルクス・レーニン主義の基本文献として、その教理の中心に据えられることになります。たとえばレーニンの『帝国主義論』なども、「世界大思想全集」の一冊として、マルクス『経済学批判』『賃労働と資本』やエンゲルス『空想から科学へ』の著作と共に刊行されています。このように社会主義の思想が、ロシア革命の成功を背景に、マルクス・レーニン主義として一体化されながら、次第に教条化されて支配するようになります。これはマルクス主義の本格的な導入が、ロシア革命の成功と共に、大正デモクラシーの高揚のなかで、基本文献が翻訳紹介されたという、日本に特有な事情が大きかったように思います。そして、そのことがまた日本における社会主義の思想や運動に大きな影響を与えると同時に、西欧先進国の伝統的社会主義との違いをもたらしたように思われます。
[PR]
by morristokenji | 2012-12-20 20:41
 「大正デモクラシー」のタームそのものは、第2次大戦後になって信夫清三郎『大正デモクラシー史』により提唱された、と言われています。第2次大戦後の民主主義の高揚から類推して、普通選挙制度を求める普選運動の高まり、集会・結社・言論の自由の要求、男女平等や労働者の団結権やストライキ権の要求など、民主主義や自由主義的な運動や風潮の盛り上がりを評価したのでしょう。したがって、その時期や期間については諸説があり、定義の内容で色々変ってきます。早いのは1905年(明38)の桂太郎内閣への倒閣運動から、最後は1931年(昭6)満州事変に至るまで、かなり長い時期を指すことにもなります。要するに、定義内容による違いが大きいわけです。ただ、大逆事件やその後の「冬の時代」を考えると、とくに社会主義の思想や運動との関連では、第1次大戦後の「戦後民主主義」の到来、具体的にはパリ講和会議が開催された1019年(大8)頃から捉えるのが適当でしょう。
 すでに説明しましたが、大逆事件1910年(明43)により、無政府主義(アナーキズム)の直接行動派は壊滅状態となり、また国家社会主義の議会改良派も片山潜が別件で逮捕され、その後1914年に渡米してしまったこともあり、表面だった運動は姿を消しました。中間的な立場の堺利彦は、丁度「赤旗事件」で逮捕され獄中だったため、運よく大逆事件に巻き込まれずに済みました。しかし、「ペンを以ってパンを求めることを明言」して『売文社』を開業(1910年)して、「パンとペン」の文筆活動に専念しながら、大逆事件の犠牲者の遺族の歴訪など「救援活動」を続けました。さらに、日本を捨てた片山潜とは異なり、1914年には月刊『へちまの花』を刊行しましたし、また「大杉栄君と僕」など、自らの思想的立ち位置を確かめながら、翌15年には「小さな旗上げ」として『へちまの花』を『新社会』に改題しました。いわば地下の文芸活動から、思想的政治活動へ徐々に浮上する意図からに他なりません。
 堺利彦と『売文社』の活動については、故黒岩比佐子さんの遺作となってしまった名著『パンとペン』が、実に詳細に、かつ多面的に紹介しています。それをお読み頂けれ十分ですが、堺の社会主義の思想的立場に限って、ここでも少し紹介します。『パンとペン』のタイトルの通り、堺は社会主義者としてよりも、「文士・堺枯川」として出発しました。しかも、森鴎外に作品が認められるなど、文士として十分に才能を発揮し、とくに海外の文学作品を沢山「翻案」紹介したり、「言文一致」の実践運動で活躍し、さらに独自の小説の執筆に打ち込んでいました。恐らく文学者としての道を歩み続けたら、一流の成功を収めたかも知れません。こうした堺の文士としての幅の広い人脈や活動が、彼の社会主義の立場にも少なからぬ影響を与えていました。その点では、19世紀イギリスの詩人、工芸デザイナー、そして「アーツ&クラフツ運動」で活躍したW・モリスとの共通性が、とくに指摘できるように思います。
 堺自身も文士として、多くの新聞社や雑誌社と関係しましたが、文学の面で大きな影響を受けた兄の乙槌を頼って大阪に出て、はじめ『新浪華』という新聞に入社しました。ここは国粋主義の系統に属する新聞で、「社会主義者、マルクス主義者として知られる堺利彦は、二十代初めには国粋主義の陣営に加わっていたのです」と黒岩さんも書いています。また逆に、堺たちの「平民社」が財政危機に陥った時には、後の右翼の大物となった当時21歳の「北一輝」が、「北輝次郎」の名前でカンパをしていたそうです。そうした文士・堺枯川の思想の幅の広さが、すでに紹介した彼の「社会主義鳥瞰図」で「あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続している」、つまり右の右は左、左の左は右であって、堺の社会主義の思想にも幅の広さを持たせたのでしょう。この点もモリスと共通します。と言うのもモリスもまた、マルクス主義者を自任しながら、エンゲルスからは空想的社会主義者として敬遠され、また私財を投じた「社会主義者同盟」もアナーキストに乗っ取られるなど、政治的に苦労しました。こうした思想的幅の広さは、ロシア革命後のマルクス・レーニン主義のドグマ化されたセクト性とは大違いです。
 こうしたモリスとも共通する文人・堺の思想の翼の広がり、右のウイングから左の幸徳秋水のアナーキズムまで、そうした中で堺は自分の思想的立ち位置をモリスの共同体社会主義に求めていました。黒岩さんは「平民社」の雰囲気そのものが、堺の人柄もあって『理想郷』だった、と紹介しています。たしかにそんな感じが強いのですが、堺が日本で始めてモリスの名著『ユートピア便り』の抄訳を手がけたのは、「堺によれば、安部磯雄からベラミーとモリスのユートピア小説を教えられ、読んでみると非常に面白かったので翻訳して紹介したという。安部はアメリカ留学中にこれらを原著で読み、とくにベラミーの小説に感銘を受けて社会主義者になった。」(119頁)ただ、安部のベラミーと違って、堺はモリスの共同体社会主義の立場に立ち、「国家社会主義」とは一線を隠したわけです。また、その時点(1903-4年頃)では、まだ幸徳秋水も堺と一緒の立場だったので、幸徳もまたモリスについて興味を持ち、すでに古典となった『社会主義神髄』では、すでに紹介の通りモリス・バックスの共著『社会主義』から引用し、さらにマルクス『資本論』エンゲルス『空想から科学へ』と共に社会主義の基本文献としたのでしょう。
 さらに山川均も、堺に薦められたと想像されますが、安部による『資本論』の翻訳が遅れていたので、上記モリス・バックスの『社会主義』の中から、「『資本論』解説」の部分を特に抜き出して、1907年に「大阪平民新聞」に連載して紹介しました。日本初の『資本論』解説です。こうして日本への社会主義、マルクス主義の紹介・移入は、主にモリスの著作を通して、堺を中心に進められていた点に注目したいと思います。この社会主義思想が、「冬の時代」が開けた後、大正デモクラシーの自由化、民主化によって、一挙に開花することになりますが、それを具体的に見ることにしましょう。
[PR]
by morristokenji | 2012-12-03 20:46