森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

<   2013年 01月 ( 2 )   > この月の画像一覧

 
1)共産党と労農派の対立点
平民新聞、売文社、さらに「労農派」への社会主義運動の流れを整理してみましたが、日本に特有な土着型労農派社会主義は、堺・山川の二人により担われてきたといえます。山川もまた『自伝』の中で、何度も「正統的マルクシズム」を繰り返していますが、堺とともに自らの思想的立ち位置を確認するために、社会主義の思想の流れをチェックしています。それは堺が「大杉君と私」で試みた社会主義の鳥瞰図とほぼ同じ中身ですが、「堺さんは第二インターナショナルの中にも三つの流れがある。一方には無政府主義があり、その反対の極には改良派ないし修正派がある。日本では幸徳君が前者であって片山君が後者である。自分はそのまん中どころの正統的マルクシズムだと言ったのをよく覚えています。」さらに堺の念頭には、ベラミーの「国家社会主義」とモリスの共同体社会主義の国際的論争もあるわけで、「国家社会主義」の枠組みとして、無政府主義との対立関係では、右に参加介入・同権型の「社会民主主義」、左に政権奪取のプロレタリア独裁型のボルシェヴィズムがある。片山は大きくは「国家社会主義」の枠組みの中で、日本での右の議会主義からソ連では左のプロレタリア独裁の政権へと転身したわけです。堺は、第三のモリスのマルクシズムを「正統的マルクシズム」と銘打って、すでに紹介しましたが「私はあくまで正統マルクス派の立場を守る」と山川に誓ったのでしょう。
 さて、山川『自伝』では、すでに紹介した三つの「理論闘争」の時期、(1)1907年(明40)年の前後、(2)1921年(大10)前後―アナ・ボル論争、(3)1926年(大15)からの日本資本主義論争ですが、これらの論争と重なりますが、さらに「社会主義思想分化のあと」の項目を立て、5つの転換点があったと整理しています。
 (1)明治の社会民主党の1901年(明34)前後から社会主義運動が始まり①キリスト教社会主義(片山、安部)②自由民権思想(幸徳)があり、それに1905年ごろから、マルクシズム(堺)が加わり分化が始まった。
 (2)1907年(明40)頃の論争では、改良主義(修正派)と革命派(無政府主義+正統的マルクシズム)の分化
 (3)1917年(大6)ロシア革命、ここでボルシェビズム(マルクス・レーニン主義)の流入をみる
 (4)1921年(大10)アナ・ボル論争により、上記(2)の革命派が分岐
 (5)1926年(大15、昭元)日本共産党(ボルシェヴィズム)と正統的マルクシズム(労農派)の分裂 
 そこで(5)の分化を受けて、山川『自伝』では、「共産党と労農派の対立点」の項で、以下のように分化と対立点を紹介します。共産党との対立点に限定されますが、労農派社会主義の骨格を理解するのに便利ですから、ここで要約して紹介します。
(1)ボルシェヴィズムの評価
 共産党:「マルクス=レーニン主義(ボルシェヴィズム)こそはマルクスシズムの唯一の正統的な発展であり、」「唯一の真実のマルクスシズム」、ロシア革命が社会主義革命の唯一普遍的な方式、ロシア革命の革命実践が普遍的な基準
 労農派:後進ロシアだけに特殊な条件の理論と実践、「マルクスの基本理論をロシア革命の特殊な条件に対応、発展させた理論」、各国の革命運動は各国の条件によるもので、ボルシェヴィズムとは異なる理論と実践
(2)コミンテルンの評価
 共産党:「コミンテルン自体が一枚岩でできている単一の党、すなわち世界的党」、各国共産党は「一支部」であり、各国のプロレタリア運動も「モスクワという一つの指導部の指揮」により進められる。
 労農派:各国の土壌に根ざした「社会運動の自主的な行動」、かつ自主的な責任で達成すべきであり、国際主義も「自主性をもった各国の運動の緊密な国際協力よって成り立つべきもの」
(3)戦略論
 共産党:日本の権力は絶対主義国家、それゆえブルジョア民主主義革命をプロレタリア革命に強行転化する方式、ロシア革命での二月革命・十月革命の二段階革命
 労農派:金融独占資本による帝国主義ブルジョアジーの政治勢力の支配、天皇制などは封建遺制、プロレタリアが政権を握る社会主義革命の一段階革命、革命による政治的自由や民主主義の実現
(4)政党論
 共産党:「結合する前にまず分離せよ」、外部注入による「ボルシェヴィキ型の職業革命家の党」「合法的な政党の原則的な否定」と利用
 労農派:「ブルジョアジーと対立するすべての社会層による大衆的政党」、合法的政党による政治的ヘゲモニーの確立、「共同戦線的な性質をもった単一の無産政党の実現」
(5)労働組合論
 共産党:労働条件の改善から国家権力の奪取によるプロレタリア独裁の組織と運動に転化、組合主義や経済主義から政治主義への止揚
 労農派:労働条件の改善とプロレタリア解放の統一を目指す

 この山川の整理は、極めて明快です。ボルシェヴィズムのマルクス・レーニン主義、ロシア革命のプロレタリア独裁、ソ連型社会主義の教条、これらのドグマを全面的に否定したものです。そして、そこに「正統的マルクス主義」としての労農派が位置づけられているのです。こうした労農派社会主義が戦前日本に提起されながら、戦争への道により阻まれてしまった。しかも、戦後日本においても、冷戦構造の中で継承され、生かされること無く、ソ連型「日本における社会主義への道」を歩もうとしたのです。
[PR]
by morristokenji | 2013-01-15 16:32
 大正デモクラシーとロシア革命を背景に、労働運動が本格化し、日本の社会主義運動も新たな段階を迎えました。それまでの一部のインテリ層を中心とした単なる思想運動から、社会主義の思想が一般化し、政治活動と共に大衆運動に発展する転換期を迎えたのです。山川は、その具体的な動きとして1921年(大10)の「日本社会主義同盟」の結成を取り上げています。「社会主義同盟で初めて日本では古い社会主義者と戦後の社会思潮の影響でもって新しく生まれた社会主義的な要素、組織労働者とが手をつないだわけです。その意味でこれは非常に大きな意義があった。」とくに総同盟の参加では、色々難題があったけれども、「結局麻生(久)君が総同盟から発起人会に加わることになった。」しかし、この大同団結の組織化も、「いよいよ大正十年になって発会式をやったのですが、同時に解散命令がきて大乱闘になり、多数の犠牲者が出ました。」
 折角の社会主義同盟の発足が挫折する、運動の組織化も共同戦線的大同団結から少数分散の孤立化へ、また合法的な大衆組織から非合法な秘密結社の地下活動へ追い詰められる。「これがやがて共産党への道につながるのです。ですから当時は厳密に共産主義の理論の上に立っていようがいまいが、実践運動のための団体をつくれば秘密結社とならざるを得ない。それが共産党の樹立をうながすことにもなったのです。」それに加えて、国際共産主義運動として、コミンテルンからの指令があって、日本でも共産党の創立がひそかに進められます。その辺の事情については、山川の話は『自伝』の性格から自分の周辺の情報が中心になっていますが、かなり客観的に経緯を述べているように思われます。簡単に紹介します。
 社会主義同盟の結成の動きに重なり、「コミンテルンの代表が,極東に派遣されてきているというウワサはあったが、われわれにはどうもはっきりしなかった。大正九年の末ごろか、大杉が上海に行ってから上海に代表者がきていることはわかったが」それ以上は不明だし、「正式な申し入れを受けたことは一度もなかったです。」結局、冒険主義者の大杉が単独で上海に出掛けた。また近藤栄蔵も出掛け,そのあと大正十年になると、「コミンテルンの主催でシベリアのイルクーツクで極東民族大会を開く、日本からもぜひ代表者を参加させてくれという話」が来て希望者などを募った。しかし、大会は延期され、結局イルクーツクからモスクワの開催に変更、「これで初めて日本の運動関係の人がモスクワと接触したわけです。その人たちが十一年の春に帰ってきた。ところが帰ってきた人たちが、片山(潜)氏から日本に共産党をつくれという、正式な指令というべきものかどうか知りませんが、そういう話も受けて帰ってきたのです。」
 国際的な組織を作る話としては、極めて曖昧な形で、しかも「堺さんを除外して共産党をつくれという指令を片山潜から受けてきたというのです。」この時点で山川の受け止め方は、かなり疑心暗鬼だったようですが、革命ロシアの話が持ち帰られると、たちまち「共産党熱」が一気に燃え上がり、共産党結党の決議が上がり「そのままずるずるべったりに共産党ができてしまいました。---あまりに無計画に、急ごしらえの粗製濫造的にできあがったと思う。それで、さっき話した新しくできた札付き社会主義者の固まりが、そのまま共産党と名を変えたという結果になった。」
 社会主義同盟の結成が挫折し、小党分立の秘密結社の方向が強まったとはいえ、コミンテルンの指示や片山潜の人事介入などが、共産党を初めから「札付き社会主義者小セクト集団」にしたわけです。さらに山川は、「日本共産党の成立と解消」の見出しで、1922年(大11)第一回大会、続く翌年の第二回大会で堺が委員長に推され、天皇制など綱領問題、党内グループの動き、モスクワとの関係、さらに最初の弾圧など、党建設の経過をじつにスリリングに書いています。そして、さらに事実上、弾圧で壊滅状態に陥ってしまった党の解党決議(1924年)をめぐる「共産党神話」に関して、次のように批判します。「故意に事実をねつ造したもので、人を傷つけるためにはどんな卑怯なことでもやる、歴史も簡単につくり変える常習犯だから、一種の病気でしかありませんね」と突き放して、解党に至るまでの経緯を説明しています。このような結党から解党の経過からすれば、共産党再建もコミンテルンからの「外圧輸入型」にならざるを得ない。
 山川『自伝』では、「共産党再建の相談を受ける」の見出しで、さらにその後の経緯を説明します。関東大震災の後、コミンテルンの「上海テーゼ」を堺・荒畑が持って山川に相談に来た。党再建の方針ですが、過去の解党を批判し「今度は党の存在は公然と宣明し、ただ党の所在を秘密にする方針」、このテーゼはすでに決定されているので協力して欲しい、という依頼でした。山川は、「私はしばらく考えた末、僕は協力できないと答えました。」山川は自らの「方向転換論」の立場からも党再建には賛成できない、「すると荒畑君は堺さんに、あなたはどうですと聞くと、堺さんは、僕も山川君と同意見だと答えました。」堺と山川の二人が、ここでもマルクス―モリスを引き継ぐ「正統派的マルクシズム」の立場を相互に確認しあう緊張の瞬間だったのです。ところが、この点でも山川が方向転換論で「党から除名されたとはっきりそう書いている本が幾つもあります」と共産党神話へ強く抗議しています。
 たしかに山川の方向転換論は、この共産党神話に留まらず、多くの反響、影響を与えた論文でした。しかし、この論文は山川自らが強調していますが、直接はアナルコ・サンディカリズムの観念的革命主義に対する批判であり、創立された共産党や、共産党の解散とは直接関係ない、それ以前の話です。そもそも論文の執筆が、党の創立以前だったし、『前衛』に掲載されたのも、1922年(大11)7・8月合併号だったからです。ただ山川は、「後から考えると当然、党内に異論があるべきはずだった。というのは、あの中には、三年後に私が共産党と別れた理由が含まれているからです。ところが私自身も、その時は、党を作ったと言うことと、あの考え方との矛盾を、それほどはっきりと意識していなかったし、党も、党と言うよりも他の党員たちも、その点は考えないで、別段矛盾をかんじないでついてきたのではないでしょうか。」つまり、方向転換論の「正統派的マルクシズム」とロシア革命のマルクス・レーニン主義の矛盾に十分気付くことなく、堺も山川も安易に日本共産党の創立に手を貸し、解党に走り、さらに再建に反対せざるを得なかった点の責任は残るでしょう。
 このような経緯からすれば、国家社会主義のロシア革命の現実、マルクス・レーニン主義の教条的支配から自立して、マルクス―モリスの「正統派的マルクシズム」の立場から、コミンテルンの「外圧輸入型」ではない、まさに「土着日本型」社会主義の道を切り拓かざるをえない。それが他ならぬ労農派社会主義の誕生だったのですが、山川の『自伝』では「労農派産まる」「共産党と労農派の対立点」の二つの項目で説明しています。労農派社会主義は、「正統派マルクシズム」の立場から、ロシア革命のマルクス・レーニン主義、そのコミンテルン支配に対抗して形成されることになりましたが、当初の共産党の態度は、山川の方向転換論を批判することもなく、むしろ「共同戦線党」の表現さえ使っていた。ところが、1925年(大14)に「労働農民党」ができると、党内や労組の左右の対立を利用し、いわゆる「加入戦術」で「労農党の書記局は完全に共産党系の人たちが握ってしまい、労農党がほとんど共産党の外郭団体みたいなものになってしまったのです。このころから無産政党に対する共産党の考え方がいつのまにか変ってきた。」
 「共産党のこういう変わり方は、福本説(福本イズム)が党を完全に支配するようになるのと並行して起きたのです。それで政党の方面ではいまいったように、労働者農民の政治戦線を統一した単一な政党ではなしに、共産党が完全に支配する左翼政党を作ると言うことですが、労働組合運動のほうも同じことで、共産党の完全に支配する赤色労働組合インタナショナル(プロフィンテルン)系の左翼組合をつくって、その他の組合運動とは鋭く対立するということになりました。それで日本労働組合評議会(略称、評議会)は共産党まがいの半政党的な性質のものになったのです。工場では争議を激発する、---争議は革命精神の高揚、革命の予行演習になるように指導しなければならないーーー政治戦線と労働組合戦線におけるそういう実状、それが労農派誕生の背景です」と山川は述べています。
 福本イズムですが、1925年(大14)雑誌「マルクス主義」に山川批判として「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか、我々はいまそれのいかなる諸過程を過程しつつあるか」(福本和夫)という長々しいタイトルで、共同戦線党の統一、大同団結の前に党組織論として「分離」を強調する、「一旦自らを強く結晶するために<結合する前に、きれいに分離しなければならない><単なる意見の相違>と見えたところのものを<組織の問題>にまで、従って単に<精神的に闘争する>に止まりしものを<政治的、戦術的闘争>にまで開展しなければならない。」と主張しました。この福本イズムは、当初の共産党の再建大会では方針として確認されたものの、その後1927年、極端な分裂主義としてコミンテルンから批判されました。
 このような政治的、運動的混乱が深まる中で、労農派社会主義のスタートが切られますが、福本イズムによる山川批判があり、その反批判の形で出発したことになります。ただ、共産党の党内闘争に巻き込まれることを極力回避する意味で、無産政党を樹立するための「政治研究会」、その雑誌『大衆』、その同人を引き継ぐ形で1926年(昭元)雑誌『労農』の創刊によって『労農派』のスタートになったのです。同人には、モリスの「アーツ&クラフツ」に似て、幅広く「労農芸術家連盟」のメンバーも加わりました。「ですから『労農』には共産党と対立した見解に立つマルクス主義者が集まったわけですが、さりとて精密な理論上の意見の調整をして集まったわけではなく、---かなり重要な点で意見の違った人もあると思っていましたが、当面の一番大きな問題は無産政党の問題、それから組合運動のあり方の問題で、こういう具体的な問題では意見が一致していたわけです。」共同戦線党らしい幅広い結合の形が採られていたのです。
[PR]
by morristokenji | 2013-01-13 12:56