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by morristokenji

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 そこで当時の労農党の活動と宮沢賢治との関係ですが、労農党といっても、すでに説明しましたが単一の政党組織ではなく、労農派系の政党と呼ぶべきでしょう。堺利彦や山川均など、単一の無産政党結成への努力が続けられたものの、それがまだ十分実を結ばなかった。そうした中での岩手、花巻での活動ですが、 すでに述べましたが中央では、1925年(大14)に農民労働党の結成、しかし即日禁止。翌1926年(昭元)3月に労働農民党が結成されましたが、10月には分裂してしまう。岩手県では、その年9月に「無産党組織岩手県準備会」が結成されます。続いて、労働農民党が再組織化されたのを機に、「労農党岩手県支部結成大会」が盛岡市の藤沢座(党員加入者70余名)で開催されます。そこには、中央から戦後の日本社会党の委員長になった浅沼稲次郎が招かれ演説したそうです。翌日、花巻町でも花巻座で稗貫支部結成大会が開かれ(党員加入者30余名)、さらに翌1927年(昭2)3月には金融恐慌が始まる中、日本労農党の大山郁夫委員長が講師に招かれ、その上で5月に岩手県の連合組織が結成されたそうです。したがって、中央とのつながりでは日本労農党ですが、その当時、信州や九州、さらに中部などで結成されていた地方党、つまり「岩手労農党」として活動していたように思われます。
 だとすると、賢治が関係していた労農党とは、マルクス・レーニン主義の教条的なボルシェビキの共産党ではない、ロシア革命にも批判的な堺や山川の労農派の思想的影響の下での活動です。また、共同戦線党としての体質から、地方党としての独自的性格も強い政党活動だったと思います。その点では、青江舜二郎『宮沢賢治:修羅に生きる』(1974年講談社現代新書)が、堺や山川の労農派の流れを紹介し、その上で「これらの人の組織づくりは、東大系福本イズムの系脈をひく当時の共産党のように、錯雑した修辞法で相手を一方的に無理やりに仲間に引きこむ(その点では日蓮宗の折伏によく似ている)というものでなく、その根底には人道主義的正義感があって、メンバーは殆んど気持ちがあたたかくしんみな感じが濃い。/そのころこの労農派のほかに日本労農党というのがあり、これは共産党と同じ根だが合法活動の仮面としてその名が用いられた。これはしばしば労農派と混同されるが、東北の農民運動は労農派系で、だからこそそれは比較的すなおに、いわば体質的に地方の農民に受け入れられたし、賢治もその傘の下で、おのれをとことん燃焼させる決心をしたのではなかったか。」と述べているのは、適切な評価だと思います。その点でまた、賢治はモリスの文芸思想、そして堺、山川の労農派社会主義の流れを継承しようとしていた、と言えると思います。
 さらに、『岩手近代百年史』所収の名須川溢男の所説では、労農党稗貫支部では、当時地元で唯一最大の労働組合は岩手軽便鉄道労働組合で、その委員長だった立花利英と賢治の二人が親密な関係にあり、盛岡の労農派の研究会「啄木会」などにも参加し、一緒に活動していた。そうした活動との結びつきで、1928年(昭3)に行われた第1回の普通選挙に立候補した稗貫支部の代表、泉国三郎の選挙運動に積極的に関わっている。例えば「バケツいっぱいのしょうふのりにハケをつっこみ、片手に新聞紙いっぱいに<泉国三郎と書いたのをもって、町中貼ってあるいたばかりか、謄写版も貸してくれ、おまけに二十円の金まで使ってくださいとおいていった>(煤孫利吉談)こともしるしている」(青江『宮沢賢治』)と紹介されています。また、この当時の政見発表演説会のポスターも残っていて、そこには労農大衆党公認候補・泉国三郎となっています。(拙著『賢治とモリスの環境芸術』参照)いずれにしても、賢治が岩手の労農党の活動に積極的に関与していたことは間違いありません。こうした活動について、山川も『自伝』に中で、労農派の無産政党の活動については、その組織力の弱さを自認しながらも、「労農派も地方には相当いい、要所要所にいい人を持っておったですね」と述べていました。賢治などの「岩手労農党」の活動が、その代表例だったかも知れません。
 ただ、賢治の活動が労農党の党員(メンバー)ではなく、「シンパ」だった点について、次のような説明があります。「賢治が結局労農派のシンパ以上に進むことができなかったのは、ちょうど有島武郎、芥川龍之介、太宰治などと同じく、その育ちからくる気の弱さがあった。---賢治は自分が入党してその運動に専念することは、たちまち一族に累が及ぶということを恐れたといわれているが、それもあったと思う。さらにいえば日本左翼の致命的な体質である、陰険な分裂抗争を身近に知るに及んで、とてもやり切れなくなったのではなかったか。/賢治が労農派のシンパであることを、極力秘密にしておこうとしたことを、当時の教え子たちが私に話してくれたとき、私ははっと思いあたることがあった。---当時の思想弾圧や検閲に対して一つの逃げ道をつくっておこうとというものではなかったか。---にもかかわらず、賢治の身辺にはしだいに特高がうろつくようになり、とうとうある方面からの密告があって、賢治はたちまち羅須地人協会は解散だとその看板をおろし、肥料設計相談所のそれだけを残すということになるのだ。」(青江『宮沢賢治』)
 賢治の労農党への協力の仕方からみて、また父親の証言などもあり、党員ではなく「シンパ」の活動だったと思われます。しかし、ボルシェビズムの共産党ではなく、共同戦線党の労農党の場合、党員と「シンパ」にどれほどの違いがあったのか?「シンパ」も党の活動の「同調者」であり、選挙には立候補はしないものの、かなり積極的に活動をしています。その点、共産党員のように、地下活動でボルシェビズムの教条で固く武装し、「鋼鉄のように」鍛え上げられた非人間的な党員像ではない。あくまで合法政党で、共同体的な社会主義、しかもソ連型の暴力革命を否定した労農党の場合、党員は職業革命家ではなかった。普通の人間がオープンに活動することを前提にしていたはずですから、党員も「シンパ」も、党活動への協力について、その協力の仕方の違いとみればいいのではないか?とくに賢治は、羅須地人協会のような、開かれた農民教育、農業改良、農村振興などの一般的な活動団体の組織者ですから、「シンパ」として協力を求められたのは、ごく当たり前だと思います。
 にも拘らず当局の弾圧の手が、羅須地人協会にも近づいたことは事実でしょう。満州事変から戦時体制に入る軍国主義の思想弾圧が労農派にも及んだこと、それだけではない。当時の共産党が、主要打撃の対象を「社会民主主義」の労農派の活動にも向け、羅須地人協会がその巻き添えを食った疑いもあるように思います。累の周囲に及ぶことを賢治が警戒し、羅須地人協会での集会、表立った集まりを中止したことは事実でしょうが、それで羅須地人協会の活動が完全に終わった訳では決してない。賢治もまた、それで彼の活動が挫折し、絶望の果てに、その後「東北砕石工場」の技師のサラリーマンに転向した訳ではない、と思います。下根子桜での表立った集会や講義で集まるのは止めましたが、花巻温泉の花壇設計、肥料相談所や稲作指導などの農村活動は続けていたし、多くの生徒達も、羅須地人協会が解散した、とは思っていなかった、再開を期待していたと思います。
 伊藤与蔵さんの「賢治聞書」では、宮沢賢治が農学校を辞め下根子桜に移った「1926年(大15)4月から1928年(昭3)8月病気になるまで」の2年半としていますから、羅須地人協会の集会は賢治の病気で中断したことになります。そして、病気が一時回復するころには、伊藤与蔵さん始め、生徒が満州事変のため入隊、従軍してしまう。賢治の弟の清六さんまで弘前の連隊に入隊して、賢治が代りに店番をしなければならなくなる。賢治にとっては、戦争で肝心の生徒が居なくなってしまった。賢治は、満州に出兵した与蔵さんに「御武運之長久」の年賀状を出し、それを与蔵さんは大切に持って無事帰国した。「私は先生が元気になられただろうとばかり考えていましたので、国へ帰ったなら又先生からいろいろ指導をいただけると思って楽しみにしていましたが、帰った時はもうお亡くなりになったあとでした。」(『賢治とモリスの環境芸術』)ここには強い師弟の絆を感ずるが、これを読む限り賢治も生徒も「一時閉店」の羅須地人協会の再開を信じていた、と解すべきだと思います。
 もう一点、賢治の宗教、法華経との関連です。臨終に際して「南無妙法蓮華経」を唱え、父親に「法華経」千部印刷して知己に配ることを遺言したことは有名です。賢治は、法華経の信仰を捨てず、そのため「一方からは賢治は宗教のわくを出ることがなかったと賛美的に強調され、一方では<結局賢治は何もしなかった。民主主義の考えかたには、すっかり目をふさいでいた>とこきおろされているのである」(上掲、青江)と述べられています。左右の硬直的なイデオロギーから引き回される賢治の評価ですが、さらに1921年(大10)25歳の時、右翼団体の国柱会の門を叩いたことに結びつけ、もし賢治が長生きしたら超国家主義者として戦争に協力しただろう、といった失礼な極論さえ飛び出します。しかし、マルクス・レーニン主義の教条的なボルシェビズムと、その裏返しともいえる右翼の教条主義の間に、小突き回される賢治像を救済する必要があります。同じマルクス主義でも、マルクスーモリスの共同体的社会主義、そしてそれを明治から大正、昭和の賢治の時代へと継承した堺・山川の労農派社会主義、つまり「木下尚江、綱島梁川、内村鑑三、賀川豊彦などの当時すでに有名だったキリスト者とともに、堺枯川、荒畑寒村」に賢治も繋がっていた点が重要です。
 賢治について言えば、堺が抄訳で紹介していたモリスの『ユートピア便り』の最後は、英コッツウォルズの農村の教会で、ロンドンからボランティアとして参加した工芸職人と地域の農民達の収穫祭の喜びのシーンです。こうしたモリスの農民芸術論を受け止めて賢治は「農民芸術概論綱要」を書き、モリスの労働論を使いながら伊藤与蔵さんなど、羅須地人協会に集う農民達に講義した、それが正しく協会の活動だったのです。さらに、賢治自身は読む機会がなかったと思いますが、モリスとバックスの共著『社会主義』では、共同体社会主義の思想の根源に遡り、そこから共同体の人間関係や労働のあり方の裏づけに自然崇拝や宗教・倫理の意義を提起しています。賢治が労農派社会主義を追求すれば、それはボルシェビズムの硬直した唯物論(ただものろん)ではない。法華経の世界にも共通する思想に帰依していたのではないでしょうか?賢治が青年時代に国柱会に短期間参加した点は、堺利彦や幸徳秋水だって、若き日に右翼の組織にいて活動したことがあります。教条的な左右のイデオロギーで賢治精神を評価する時代は終わったと思います。
 賢治は羅須地人協会の活動の夢を追い続け、法華経への信仰も捨てることなく、1933年9月21日、37歳の短い生涯を閉じます。自ら身を清め、南無妙法蓮華経を唱えながら、そして「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の独白を手帳に残しましたが、それはまた羅須地人協会の労農派の思想に裏付けられていた。同じ1933年、満州事変に対し全国労農大衆党の対支出兵反対闘争の先頭に立った労農派の堺利彦も病没します。『蟹工船』の小林多喜二の拷問による死、大正デモクラシーの旗手だった吉野作造の死と続く。故佐藤比佐子の遺著『パンとペン』では、「一九三三年は暗黒時代の幕開けを予感させる年となった」と締めくくっています。
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by morristokenji | 2013-02-22 12:24
 宮沢賢治が、花巻農学校を辞めて、妹のトシが療養していた宮沢家の下根子「桜」の別荘で「羅須地人協会」を始めました。大正15年(昭和元年、1926)のことです。すでに見たとおり、労農派の運動が全国の単一政党の組織の形成に、ようやく近づいた時点のことです。ただ、羅須地人協会の組織そのものは、花巻の地域の若い農民たちのいわばフリースクール「自由学校」のようなものでした。しかし、宮沢賢治自身は、花巻を中心に当時の労農派の運動に一定の関係を持っていた。羅須地人協会の生徒達も、賢治先生が労農派の活動に協力していたことを十分承知していながら、彼に師事していたように思われます。
 ただ、その時代は共産党の大量検挙3・15事件を始め、労農派の関係の組織や運動も取り締まりの対象だったし、厳しい弾圧を受けていました。弾圧を避ける必要もあったし、また関わりを持ちたくない地元の人達としては、賢治の羅須地人協会と労農派の関係は、出来るだけ触れずに伏せたままで過ごしてきた。また資料も残されず、今なお不明な部分が多い時期とされています。ただ、この空白の部分も次第に明らかにされていますので、そのかぎりで労農派の地方での活動として、羅須地人協会を取り上げましょう。
 賢治は、花巻農学校を自ら退職しましたが、その前年にある種の教育改革があり、わずか3ヵ月ですが花巻農学校に全寮制の「岩手国民高等学校」が併設されました。デンマークに拡大した農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の日本版とも言われ、キリスト教などいくつかの流れがあり、大正から昭和にかけて全国に多数設立されました。農学校を卒業した優秀な人材をさらに教育して、疲弊した農村改革を実践することを目的にしたと言われます。そこに、新たな教科として「農民芸術論」が設けられ、その担当になった賢治が、講義ノートとして準備したのが、有名な「農民芸術概論綱要」と言われています。詩人らしく賢治の講義ノートは、詩のスタイルで書かれ、さらにノートですから、講義に利用するためのメモ風の注も付いていました。しかも、このノート作り、賢治は精神の高揚を覚えながら書いたに相違ない。彼の文芸思想、さらに社会思想、広く文明思潮が凝縮された、極めて格調の高い文章で綴られています。賢治の作品の代表的なもので、多くのファンがいるように思います。
 「農民芸術概論綱要」については、拙著『賢治とモリスの環境芸術』(時潮社2007年刊)で説明しましたので再論しませんが、ただウィリアム・モリスとの関連についてだけは、もう一度ここで触れておきましょう。賢治は、モリスについて多くは触れていませんが、「芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ」の箇所に、わざわざWilliam Morris "Art is man's expression of his joy in labor"と英文でメモ風の注を付けています。英文で引用してあるのは、このモリスへの注だけですし、モリスの名前はもう一箇所出てきます。労働の目的、働き方・ワークスタイルを転換させる、そのキーワードにモリスの言葉を引用しているのです。詩のスタイルで書いた「農民芸術概論綱要」、やはり同じ詩人だったモリスの文章表現を、農民芸術のキーワードに賢治は利用しているのです。恐らく農民芸術論の講義では、賢治はモリスの芸術論、労働観について、もっと詳しく踏み込んで熱心に講義したに違いありません。
 それだけではなかった。賢治は花巻農学校の辞職とともに、「岩手国民高等学校」も辞めます。当時の東北農民の窮状、東北農村の疲弊を救済するためには、上から作られた官制公立の学校教育の限界を超える必要があった。人一倍真面目に生きようとした賢治が選んだのは、公立学校を自ら辞めて、それこそ自分が納得できる本物の「農民高等学校」を創設して、そこで農民として生徒とともに生きようとした、それが羅須地人協会だったように思われます。賢治の花巻農学校の辞職、そして羅須地人協会の設立については、その後の彼の活動や早かった死とともに、色々論じられています。しかし、花巻農学校の真面目な教師の一人として、とくに「岩手国民高等学校」、そこでの農民芸術論の講義、労働をめぐってのモリスの文芸思想の受容、さらにモリスの教育論や彼の実践した「ハマスミス社会主義協会」の職人学校など、誠実な賢治の精神を強く突き動かす要因だったように思われてなりません。
 さて、ここから羅須地人協会と地域の労農派の活動との関連について検討しましょう。羅須地人協会の活動は、広く地域の活動として行われたようですが、賢治が専門の土壌学や植物生理学、肥料学などと共に、講義としてはエスぺラントや農民芸術論などもあり、とくに農民芸術としてはモリスの芸術論、労働論が講義されていました。さらに、一番若い生徒だった伊藤与蔵さんの『賢治聞書』によれば、マルクスやエンゲルス、レーニンなどの社会主義、そしてロシア革命についても話題にして講義が行われたそうです。(拙著『賢治とモリスの環境芸術』を参照のこと)ですから羅須地人協会は、花巻農学校、国民高等学校の枠を超えて、広く思想教育も大胆に行われる地域の農民学校だったと言えそうです。しかも、ロシア革命に対しては、はっきりと批判的立場に立っていた。伊藤さんの『聞書』でも「私は今こうしてみんなと同じように働き、みんなの味方です。けれども万一、革命が起ったならば、私はブルジョアに味方するようになります」と語り、「私は革命という手段は好きではない」と言っていた。研究会などで、賢治はレーニン『国家と革命』のプロレタリア独裁に反対の意思表示をしていたそうです。こうした態度は、芥川龍之介などにも共通するロシア革命に対する批判的立場だと思われます。こうした立場を、生徒達にも率直に語りながら、当時の「労農大衆党」の候補者、泉国三郎の演説に生徒を誘っているのです。
 
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by morristokenji | 2013-02-15 20:20
 日本においてコミンテルンの指導もあり、その支部として日本共産党が再建されました。それに対抗する形で、堺や山川の理論的指導のもとに、労農派の組織がスタートしました。雑誌『労農』に依拠したことで「労農派」と呼ばれますし、さらに後述する日本の革命路線をめぐる「講座派」対「労農派」の理論闘争に関連した呼称として理解されてきました。例えば、「昭和2年(1927)創刊の雑誌<労農>を中心に集まったマルクス主義経済学者・社会運動家・文学者のグループ。講座派との間で日本資本主義論争を展開」などと一般的に解説されています。堺や山川の「共同戦線党」に相応しく、単に政党組織だけでなく、文芸運動を含む社会運動、さらに経済学者が中心の理論闘争の研究者集団などの総称といえます。しかし、すでに山川が『自伝』で整理しているように、その再建への協力を拒否した日本共産党に対抗して、労農派も共同戦線党として無産政党の共同による統一を目指していた。その動きは具体的にどうなっていたのか?
 日本の政党政治は、明治の国会開設以来、自由民権運動を継承し地方出身者集団の自由党系、それと都市出身者中心の改進党系に大別されて来ました。それが大正末年から昭和8年(1933)5・15事件による犬養内閣の崩壊の頃まで、大正デモクラシーをバックに、「民政党と政友会」の二大政党制の時代が到来した、と言われています。それに対応して普選制による選挙権の拡大もあり、有産政党の上記二大政党に対して、第三の無産政党の運動が起ってきたのです。もっとも、明治期にも社会主義の思想と運動とともに、すでにみた「社会民主党」、「日本社会党」などの政党が登場しました。しかし、この時代の政党は、名前は政党でも社会主義の思想団体であり、いわゆる主義者の組織に過ぎなかった。労働運動も始まり、激しいストライキが闘われましたが、それもまた持続的なものではなく、したがって組織的運動にはなりませんでした。
 日本で組織的な労働運動、労働組合運動が本格的に始まったのは、大正デモクラシーの高揚とともに、大正8年(1919)に友愛会が「大日本労働総同盟友愛会」に改組、翌年に友愛会など15団体が「労働組合同盟会」を結成した時点からでしょう。労働運動もまた、ロシア革命からの影響を受けてのスタートだったといえます。それだけに労働運動は、初めから激しいアナ・ボル論争などの舞台になりましたし、セクト的な対立や政治的な引き回しに晒され、組織の防衛に腐心せざるをえなかった。その点で労働運動と政党との関係も、緊張したもの、複雑なものにならざるを得なかったと思います。
 そうした中で、大正10年(1921)に「日本労働総同盟」がスタートします。こうした労働運動の全国的な統一組織に呼応して、無産政党の方も統一組織を考えることになったと言えます。堺や山川が、社会主義の統一した政党組織として「共産党」の創立を考え、当初は積極的に協力したのも、そんな思惑があったように思われます。しかし、すでに見たとおり、コミンテルンの指導はソ連型の前衛党、地下組織であり、堺や山川の合法的で共同戦線的な党ではなかった。従って、共産党は解党に向かわざるを得なかったし、その再建にも断固反対したのです。こうした事情については、すでに山川の『自伝』に詳しく書かれていました。色々複雑な事情があったと思いますが、いずれにしても労農派は共産党に対抗して、単一の無産政党の結成に努力しました。しかし、当局の弾圧が厳しくなったことだけでなく、労農派が「大衆的で合法的な共同戦線党」を志向したことがまた、単一の政党結成を難しくしたことは否定できません。
 ここでは簡単に整理して複雑な経緯の大筋を述べますが、まず大正14年(1925)に大阪で「無産政党準備会」が開かれ、続いて年末に「農民労働党」が結成されますが即日禁止。年号が大正から昭和に変った翌年3月、杉山元次郎らにより「労働農民党」が結成されます。しかし、10月には平野力三らが「日本農民党」を結成、一方で労働運動も上記「日本労働総同盟」の分裂が続き、同時に「労働農民党」から「社会民衆党」と「日本労農党」が分裂して、結局「労働農民党」は三つに分解してしまう。この時点では、地下で共産党の再建も進みました。ただ、昭和4年(1929)世界金融大恐慌が迫る中で、第1次山東出兵に反対し「対支非干渉運動全国同盟」の反戦平和運動が行われ、翌年の第一回普通選挙では、無産政党の各派が8名当選しました。当選者の中には、「日本労農党」からですが、戦後の日本社会党の委員長になった河上丈太郎も含まれています。そうした運動を背景に「日本農民党」「無産大衆党」、それに地方政党などを含む中間派7党が昭和5年(1930)に「全国大衆党」、その上で翌年の昭和6年(1931)7月に労農派の鈴木茂三郎らも加わり「全国労農大衆党」へ発展しました。この辺が、単一の無産政党への歩みの到達点だったように思われます。その後は、満州事変から日支事変へと15年戦争の戦時体制に変り、政党政治の存在そのものが全面的に否定されてしまいました。
 共産党ですが、コミンテルンの指導もあり,上記の通りたい昭和元年(1926)時点で地下で再建されました。翌27年、コミンテルンは「27年テーゼ」を決定し、「福本イズム」と山川の「方向転換論」の両方を批判しますが、マルクス・レーニン主義の教条化とロシア革命方式の絶対視は変りません。さらに昭和7年、「32年テーゼ」を発表、西欧諸国の社会民主主義とともに日本の労農派なども「社会ファシズム」として、それを主要な打撃の対象にしました。加入戦術による組織撹乱や分裂策動のため、労農派系の無産政党の内部でも対立、抗争、分裂に晒され、単一の無産政党への統一が大幅に遅れ、無用な混乱を重ねることになったのです。だからこそ山川の『自伝』では、国家権力の右からの弾圧だけでなく、むしろ共産党による「社民主要打撃論」が労農派による共同戦線党の結成と活動の「敵」であった、と強調しているのです。
 さらに「試練の労農派」と題して、次のように述べます。「労農派の運動の意義は反共運動ではない。労農派の見解や目標の前に共産党が立ちはだかったから共産党と戦ったが、同じように無産政党の右翼分子とも闘ったのです。---だから労農派が負けたといえば、共産党や無産政党右派の共同戦線―無意識的な―の力に負けたと言う方が当っているでしょう。しかしほんとに勝ったのは日本帝国主義」と述べ、さらに労農派の運動について、こう述べます。「私は労農派の力の不十分ということは、主として組織がなかった、組織として働かなかったことにあると思います。労農派も地方には相当いい、要所要所にいい人を持っておったですね。初めから労農派が党を作るという方針でやっておれば、相当にいけたと思うのです。ところが労農派は戦線の統一、無産政党の合同という主張の建前からして、独自の政党のような組織になることはできないし、またもう一つ別の政党を作るというような意図を全然持っていなかった。労農派の人たちは二度、党をつくりましたけれども、やむおえず、追いこまれて、それ以外はしょうがないから合同の足だまりをつくったわけです。」
 ここには、山川の共同戦線党がもつ宿命的なジレンマが述べられている。無政府主義のような組織的運動を頭から否定し、直接行動に出るのではない。組織的な運動を目指すが、政党政治に参加、介入する議会主義ではない。国家社会主義のように、国家権力を奪取して上から組織するのではない。政治運動を通して、共同戦線の連帯を図り、近代社会の国民国家の機能を無力化しながら、死滅させる。同時に、下から新たな共同体の組織を構築する共同体社会主義のジレンマだったように思います。それだけに労農派としては「七党合同」の「日本大衆党」にみられる九州、中部、信州や島根の名前の出てくる地方党、それに様々な地方分権型の組織や団体を重視していた。だから山川も、上記の通り「労農派も地方には相当いい、要所要所にいい人を持っておった」と、その組織論の特徴を強調しているのだと思われます。そうした特徴から、岩手・花巻の宮沢賢治「羅須地人協会」を取り巻く地方の労農派の組織と運動について見ることにします。
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by morristokenji | 2013-02-11 12:31