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by morristokenji

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 宇野は、東北大学で経済政策論の講義を担当しながら、社会主義の前提になるマルクス『資本論』の研究を続けて、すでに紹介したように1930年代前半の時期には、恐慌論を中軸とする独自の理論体系を構築していました。同時に、経済政策論との関連で、ベルリン留学以来の課題でもあった、『資本論』とレーニン『帝国主義論』の理論的関連を考え続けていた。にもかかわらず、この時点では『帝国主義論』を正面から取り上げた論文はなく、イギリス資本主義に対する後進ドイツの資本主義の発展をめぐっての関税問題を中心に、『資本論』研究の論文発表と時期を同じくして、以下のような論稿がつぎつぎに発表されます。①「フリードリヒ・リストの『経済学』―『経済学の国民的体系』―」(東北帝大『経済学』1934年)②「ブレンターノとディールー穀物関税に関する彼らの論争について―」(同上1934年)③「ドイツ社会政策学会の関税論―1901年の大会における報告並びに討議」(同上1935年)④「社会党の関税論―1898年ドイツ社会民主党大会に於ける論議を中心として―」(同上1936年)。これらの研究は、最後に『経済政策論・上』(1936年)に取りまとめられましたので、以下簡単に紹介します。
 まず①ですが、ドイツ歴史学派を代表するF・リストの経済学と、リストが批判したイギリス古典派経済学スミスやリカードの対立点を中心に、自由貿易VS保護貿易の政策論争を取り上げます。この論争を通して、古典派の「価値の理論」とリストの「生産力の理論」を対比し、経済理論と経済政策の関連を論じています。さらに、古典派経済学を発展させた『資本論』の経済法則に対して、経済政策は資本主義の歴史的発展変化を反映するものとする方法的見地が提起されます。②と③は、1970年代に始まるドイツの関税政策をめぐっての論争で、自由貿易を主張したブレンターノと穀物関税を主張するディールの立場を取り上げ、ここでも関税政策の変化もまた、資本主義の帝国主義段階への発展・転化に関する政策対応とする見解が述べられます。両者の対立は、遡るとドイツ社会政策学会の関税政策をめぐっての論争に関係する。その論争は、歴史学派のシュモラーが総括したのですが、結局は重商主義から自由主義への資本主義の歴史的段階変化を明らかにできなかった。そのため帝国主義段階での「新重商主義」の歴史的位置づけにも失敗する。その批判的検討から、資本主義の歴史的変化に対応する「政策の主体」の変化を通して、経済政策の歴史的変化を位置付ける「段階論」の方法が提起されます。
 ④と⑤は、マルクス主義の側の経済政策への対応を、マルクスの書いた『自由貿易問題』(1848年)を取り上げて論じます。自由貿易か保護貿易か、という問題は単純に政策自身の是非ではなく、あくまでも実践的な運動主体の関わりで取捨選択されなければならない。さらに、19世紀末の段階では、ドイツ社会民主党の内部でも関税問題が激しく論争されました。この論争は、資本主義の歴史的変化をめぐる『資本論』の適用にも関わる論争でしたが、ここでも正統派と修正派の「修正主義論争」での対立と同様、資本主義の歴史的変化に対する「段階論」的見地が不明確なまま、曖昧な決着しか図られなかった。それはまた、第二インターナショナルの理論的基礎の弱さにも繋がっている、と宇野は見ています。そして、宇野のこうした視点は、『資本論』とレーニン『帝国主義論』との理論的関連を考え抜いた結果であり、一方で『資本論』を資本主義の歴史的発展から抽象して論理化し、法則性の解明に純化する。他方、『帝国主義論』において、レーニンがヒルファディングの『金融資本論』などによりながら、新しい資本主義の歴史的発展段階として帝国主義を位置づけた、そうした経済政策論の方法的見地だったのです。だだ『経済政策論・上』の出版は、その時点では上巻だけに終わりました。続いて下巻の出版も準備されていたものの、「教授グループ」事件などで実現されなかった。そうした事情からの不十分さは残されていたのです。
 なお、戦前の時点で日本資本主義の現状分析としては、『資本主義の成立と農村分解の過程』(1935年『中央公論』)だけで、イギリスにみられる先進的な発展に対する、日本資本主義の後進的な発展の特殊性が考察されています。とくに講座派と労農派が激しく対立した「日本資本主義論争」が、上述の通り日本農村の封建的性格を巡るもので、その点で宇野の論文も多分に論争を意識したものでした。しかし、論争の渦中に立ち入ることなく、ここでも一方で先進資本主義のイギリスの発展、他方の後進国ドイツの農村分解の後進的な特殊性、さらに帝国主義段階を迎える中での日本資本主義の特殊な農村問題にアプローチします。このアプローチは、一方で封建性を強調して日本の資本主義的発展を否定してしまった講座派、他方で資本主義の一元的発展の強調に終わって特殊性の位置づけが不明確になった労農派、その両派の論争と対立を方法的に止揚するものでした。この方法的見地から日本資本主義分析が進められ、さらに東北農村をはじめとした農村・農業問題が解明されれば、日本資本主義論争も大きな展開を迎えることになったと思われますが、これまた戦争への道により研究の挫折を余儀なくされました。宇野は「教授グループ」事件で東北大を去り、門下生と共に日本貿易振興会の日本貿易研究所の東京事務所で『糖業における広域経済』(栗田書店1944年)、さらに大阪事務所で『輸出ブラシ工業の研究』など実証的調査研究に従事し、さらに戦争末期には三菱経済研究所の嘱託として雑誌の編集に従事しました。
 なお、東北大学の法文学部の講座担当は「経済政策論」でしたが、宇野は1936年(昭11)に一年間だけ「経済原論」の講義を担当しました。和田佐一郎教授の都合によるもので、その際の講義のプリントが刊行保存されていましたが、その内容は上記の『資本論』研究に基づき、独自の解釈による編別構成になっている。戦後、『経済原論』として出版された編別構成と同一であり、流通論、生産論、分配論の三部に構成されています。さらに、価値形態論の展開、労働力商品の特殊性、資本の流通過程の位置、資本蓄積論における資本主義的人口法則と恐慌の必然性の関連、資本の絶対的過剰生産、さらに信用論と利子論の展開など、宇野『経済原論』の主要な論点がほぼ盛り込まれている。この「経済原論」講義のプリントもまた、上記『経済政策論・下』と同様、出版の予定だったものの戦時下の混乱で果たされず、戦後に繰り伸ばされてしまった。しかし、いずれも内容的にほぼ完成をみていたことからすれば、のちに戦後、「宇野・三段階論」と称される原理論、段階論、現状分析の方法がほぼ固まっていた、と判断することができると思います。
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by morristokenji | 2013-04-24 13:05
 
  1)大学アカデミズムと東北大学のマルクス経済学研究
 講座派もそうですが、とくに労農派の学者グループは、大学アカデミズムの人脈と結びついていました。その大学アカデミズムですが、先ず東大では、法学部からの経済学部の独立の直後、すでに書きましたが森戸事件が起こりました。さらに新人会などの事件が続いて、マルクス経済学はほぼ一掃されてしまいました。また、社会科学研究会などの事件で、京大でも河上肇が去り、九州大では向坂逸郎、石浜知行が辞職して、大学アカデミズムの世界では、マルクス主義は壊滅の状態に陥りました。ただ、辺境の地の東北大だけが、宇野弘蔵、服部栄太郎など、マルクス経済学の研究の「最後の砦」のように残っていました。そんな関係でマルクス主義、とくに『資本論』の勉強を希望する学生が全国から集まり、さらに中国からの留学生も、東北大に集中したそうです。宇野弘蔵は当時を回想しながら、次のように述べています。
 「昭和十年前後にどういうわけか、東北大学のぼくらの学科には、それまでは少なかった中国の留学生が急にふえてきていた。たいていは省からの選抜の留学生らしかったが、その中の二、三人を除いては、皆『資本論』を英語か日本語で勉強していて、ぼくの家にもよく三、四人で連れだってやって来ていた。非常に真面目な勉強家だった。」その後1937年(昭12)の盧溝橋事件を機に「事変の始まったあとで、八月か、九月だったと思う、もう最後の船になったというので、ぼくは大学の正門の前で別れるとき、この機会に引き上げて帰るようにすすめたのを覚えている。おそらく帰ったのだろうと思うが、それから消息を全然聞かない。この三十年どうしていたことかと思うが、こんどはこれまでのように簡単に片付かないでしょう、といっていた。爾来、この言葉は忘れられない。」(『資本論五十年』上)留学生たちは次々に帰国し、中国革命に参加したのです。
 当時、東北大学だけが、全国の帝大の中で「女子入学」を許可し、他校で退学処分などを受けた学生にも門戸を開放、『資本論』の研究・教育も自由に行われていた。そのため東北大には、文豪、魯迅の留学の縁もあり、中国からの留学生が多数押し寄せることになったそうです。しかし、それだけに当局の弾圧の手も伸びたのでしょう、宇野自身は「教授グループ」には参加していない、と供述したものの、1938年(昭13)2月の「いわゆる労農派教授グループ事件」に連座して仙台で検挙、起訴されました。しかし、1940年(昭15)に2審で無罪判決が出ましたが、東北大を辞職し、その後は民間研究所で戦時下を過ごすことになりました。いずれにしても、この「教授グループ」事件を最後に、いわゆる労農派の活動は、①無産政党の活動、②社会運動の組織活動、続いて③研究グループの活動、これらすべてが息の根を止められてしまいました。
 それ以前に、すでに共産党の地下活動は全滅していましたから、東北大にまで及んだ「教授グループ事件」によって、文字通りアカデミズムの「最後の砦」の落城とともに、戦前のマルクス主義の研究と運動のすべてが終わったことになります。そして戦時下の長く、重い、苦しい「暗い谷間」の時代に入ったわけです。1945年(昭20)に敗戦とともに第二次大戦が終わり、戦後民主主義の幕開けによりマルクス主義の研究と運動も再開されます。宇野も研究を再開しますが、戦後を迎えて「宇野理論」ないし「宇野三段階論」と呼ばれる、マルクス主義ないしマルクス経済学の独自の体系が注目を浴びましたが、じつは「宇野理論」「三段階論」は、すでに戦前、東北・仙台の地で、目立つことなく、しかし着実に構築されていました。その特徴を、マルクス―モリス、そして堺・山川の「土着自立型労農派社会主義」の流れに関連させて、ここで位置づけてみることにしましょう。
 まず労農派の「学者グループ」の場合、人脈が強いと書きましたが、それは宇野弘蔵の場合にも当てはまります。宇野は1897年(明30)に岡山県倉敷町に生まれました。すでに述べましたが、倉敷は今でも大原美術館で有名だし、大原孫三郎が倉敷紡績を1889年(明22)に創業しました。日本でも産業革命による近代化が急速に進み、開明的な大原財閥は、地元倉敷には美術館を建設し、また大原社会問題研究所を大坂に創りました。労農派は、大原社研と関係が深いことは述べましたが、さらに堺利彦とともに労農派を指導した山川均も、同じ倉敷出身です。山川は宇野の16歳先輩で、同志社を中退し、東京に出て社会主義の活動に入りました。そして、1900年(明33)天皇制を批判した事件で不敬罪に問われ、逮捕されます。宇野の生家の近所でもあり、付き合いもあった山川家は、この事件で糸物商の店を廃業して、ずっと閉戸謹慎せざるを得なくなったそうです。こうした先例が、東北の花巻の地で宮沢賢治の実家に影響しなかつたとは思われません。
 地元の中学では、宇野は後に山川均の編集していた『前衛』を手伝うことになる西雅雄と親しくし、クロポトキン『相互扶助論』、堺利彦の『新世界』の論文、山川が書いた無名氏『中外』の論稿など、社会主義に関心を寄せ始めます。岡山の六高から、1918年(大7)に東大法科大学経済学科へ入学、同級の向坂逸郎とマルクス経済学を勉強し、さらに後から上京してきた西雅雄と一緒に大杉栄、堺利彦、そして同郷の山川均を訪問しました。この時、同行した西が山川の活動を手伝うことになりますが、宇野は在学中でもあり、もっぱらマルクス主義の研究に傾倒していきます。そして、卒業後は直ちに大原社研の嘱託になりますが、ここで所長の高野岩三郎の娘、高野マリアと結婚しました。高野の協力もあり、マリアを連れてドイツを中心にヨーロッパ留学、しかし『資本論』研究に没頭したくなり、大原社研には辞表を出しました。そして帰国後、直ちに仙台の東北大学法文学部の助教授に採用されることになります。丁度この時、東北大に法文学部が創設され、夏目漱石門下の小宮豊隆、英文学の土居光知などが加わり、宇野にとっては、後の研究領域が大きく拡がる契機にもなったようです。また、この法文学部の広いパースぺくティヴにより宇野の三段階論も形成されたのです。

2)宇野・三段階論と『資本論』研究
 法文学部における宇野の講座担当は、経済政策論でした。義父の高野岩三郎のアドバイスを受け、ゾンバルトの『近代資本主義』などを使いながら、歴史的に商業政策、工業政策などを織り交ぜながら、さらに『資本論』の中の歴史的叙述をも利用した講義内容だったようです。しかし、宇野は単に経済政策の講義に留まらず、その方法的前提になる『資本論』の法則的ロジックとレーニン『帝国主義論』の歴史的発展段階論との関連に研究の重点を置きました。『資本論』の資本主義社会の経済法則と、帝国主義と呼ばれる二〇世紀資本主義の新たな歴史的発展段階、それらを前提にして経済政策を中心に各国の資本主義の具体的発展を解明する、これが宇野の経済政策論の方法的視点だったといえます。そして、そこから宇野・三段階論の方法も提起されたのです。
 宇野は、1930年(昭5)から集中的に『資本論』論争の問題点を取り上げ、論文を発表します。まず①同年の「貨幣の必然性―ヒルファディングの貨幣理論再考察―」(『社会科学』)、ここではマルクスが『資本論』で始めて本格的に展開した価値形態論をめぐる論点を取り上げ、ヒルファディングの『金融資本論』の貨幣論を批判します。価値形態論の理論的意義を始めて明確にしますが、それにより価値形態を理解せず、単純商品生産社会に労働価値説を解消する誤謬を明らかにします。単純商品生産社会を想定して、「私的所有と私的生産の矛盾」を設定し、「所有法則の否定の否定」を展開する唯物史観の見地への批判でもあり、これはモリスの『資本論』解説でも提起された重要な見地だったことを注意しておきます。また、価値形態を重視することにより、労働生産物ではない労働力(及び土地)の商品形態の意義も明確になります。労働価値説は、単なる商品交換の法則ではない、労働力商品が労働・生産過程を通して必要労働を買い戻す点にあることが、ここで提起されることになります。
 翌31年(昭6)には、②『資本論体系・中』(改造社『経済学全集』)において、「資本の流通過程」を解説します。しかし、それは『資本論』第二巻の単なる解説ではない。独自の『資本論』理解に基づく解説で、資本の生産過程と資本の蓄積・再生産過程を媒介する理論構成の位置づけを試みました。上記の価値形態論により商品、貨幣、さらに資本を流通形態とする。その流通形態の資本が、労働力商品を雇用・購入して、資本の生産過程を包摂する。その上で剰余価値を実現しながら、資本の流通過程に媒介されつつ、資本の再生産過程を展開する編別構成です。『資本論』第一巻が、第二巻によって補足されるとすれば、このような編別構成にならざるをえない。資本を流通形態とした見地から生まれた新たな編別ですが、じつはモリス・バックス『社会主義』の『資本論』解説の中でも、剰余価値の実現として貨幣の流通を持ち出して説明しながらも、新たな編別構成には成功しなかった論点です。しかし宇野は、ここでも新たな編別構成を提起したのですが、これをモリス・バックスが知ったら、どう評価するか?ユニークな問題提起でした。
 さらに32年「再生産論の基本的考察―マルクスの『経済表』―」(『中央公論』)を経て、恐慌論の研究に進みます。『資本論』第二巻第三篇は、再生産表式論として有名です。この再生産表式を利用して、生産と消費の不均衡・矛盾から恐慌を説き、恐慌から資本主義の崩壊、いわゆる「革命・革命テーゼ」が提起され、コミンテルンの綱領問題でも激しく論争されました。宇野は、再生産表式をマルクスの『経済表』として理解すべきで、恐慌や崩壊とは逆に、資本主義経済がもつ「絶えざる不均衡の均衡法則」の内容であることを提起しました。モリス・バックスもまた、上記『資本論』解説に関連して、19世紀イギリス資本主義を中心に、恐慌が周期的恐慌として、景気循環の一環になり、資本主義の崩壊ではなく成長のステップになることを強調していました。こうした恐慌の理解が、宇野の恐慌論に事実上引き継がれていることが注目されます。ただ、モリス・バックス『社会主義』は、1920年(大9)に東北大の図書館に所蔵され、宇野も目を通した可能性は大きいのですが、その事実は確認できません。
 その上で宇野は、1935年、37年に二つの論稿「資本制社会における恐慌の必然性」(『改造』)および「貨幣資本と現実資本」(東北帝大『経済学』)を発表しました。まず「恐慌の必然性」ですが、すでに宇野は再生産表式による不均衡に基づいた「商品過剰」から恐慌を説く方法を批判しましたから、『資本論』第三巻第三篇の「利潤率の傾向的低下の法則」、とくに「資本の絶対的過剰」として恐慌を捉える「資本過剰」の見地を提起します。まだ、その後の宇野の恐慌論からすると資本の蓄積過程からの基礎づけが不十分ですが、資本蓄積が進み追加投資がゼロ、あるいはマイナスにまで進む資本の絶対的過剰が「強力的に解決される方法」として恐慌が位置づけられたのです。しかし恐慌は、そもそも金融恐慌であり、信用恐慌である。「現実資本」の資本の絶対的過剰による利潤率低下に対し、信用を利用して投機的に進められる資本蓄積は、「貨幣資本」における急激な利子率の上昇を招き、低下する利潤率、上昇する利子率、この「貨幣資本と現実資本」の資本蓄積の矛盾と対立を、『資本論』第三巻第五編を整理しながら解明しています。『資本論』のこの部分は、マルクスも未整理な草稿ですが、宇野はそれらを整理しながら、独自なマルクス恐慌論を構築しつつ、『資本論』全体の体系的整理を行ったのです。
 
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by morristokenji | 2013-04-05 12:22