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by morristokenji

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 1991年12月25日、ゴルバチョフ大統領の辞任によって、ソ連は呆気なく崩壊し、ロシア連邦など連邦構成共和国が主権国家として独立しました。1917年11月7日のロシア革命により成立したソ連は、72年の歴史を閉じたことになります。とくに第2次世界大戦以降、グローバルな世界を東西に二分し、東の極となって支配してきたソ連は、ここで歴史から消え去りました。世界史上初めての社会主義の誕生とされたソ連の崩壊は、とりもなおさず人類史の上で社会主義が消滅し、その喪失を意味することになるのか?ソ連崩壊によって、重大な問題が提起されたと思います。
 近代史においては、先進国と呼ばれる西欧と比較して、後進の日本などアジアでは、社会主義のタームは他ならぬソ連であり、ソ連型社会主義でした。社会主義の祖国はソ連、コミンテルンの指導による社会主義だった。その指導に逆らい、反対することは、反ソ=反社会主義であり、社会主義の敵であった。ソ連社会主義の神話の時代が続いてきたのです。しかし、その神話は、日本など後進地域には通用してきましたが、決して西欧の常識ではなかったと思います。西欧の常識は、日本の非常識だったのです。
 西欧の常識では、社会主義は伝統的な思想であり、ソ連型社会主義はボルシェビズム(ロシア社民党のレーニンの分派の名称)、ないしマルクス・レーニン主義として区別されてきました。ターミノロジーにこだわる必要はないのですが、もともと社会主義=Socialismという言葉は、19世紀の初頭から使われ始めたとされています。1825年以後、まもなくイギリスとフランスで使われ、生活と労働の組織における関係を、個人的なものから社会的なものに転換させること、そして社会の経済的、道徳的な基礎を変革することを意味していました。社会主義者=Socialist も、ロバート・オーウェンとその弟子を表わすもので、フランスではサン=シモンの門下生を指して用いられていたそうです。
 このように社会主義は、もともと個人主義へのアンチテーゼとして使われ、『新百科全書』などにより一般化されていました。サン=シモン、フーリエ、オーエン学派などが、産業革命による当時の自由競争を基調とした商業主義の体制を批判し、共同体など集団管理による新たな生活様式を主張する思想でした。ところが、こうした社会主義の諸学派は、そのご初期マルクス及びエンゲルスによって、「空想的社会主義」として分類され、自分達の唯物史観に基づいた「科学的社会主義」と区別され、排撃されることになりました。とくにマルクスではなくエンゲルスの書いた『空想から科学へ』は、「マルクス主義の三つの源泉」として、(1)イギリス古典派経済学、(2)ドイツ・ヘーゲル哲学、それに(3)フランス社会主義として、オーエンを含めて「空想的社会主義」としました。
 このエンゲルスの区分は、単純明快な説明だったこともあり、沢山の読者を獲得しました。また、英仏に対し後進ドイツでマルクス主義が社会民主党など、大きな政治的影響力を持ちはじめたことも加わり、社会主義の思想と運動がドイツ、さらにロシアへ拡大する中で、エンゲルス流の「空想的社会主義」と「科学的社会主義」に大きく二分され、ドグマ化されました。とくに上記の1917年のロシア革命の成功により、マルクス主義はマルクス・エンゲルス、そしてレーニン主義として教条化され、社会主義の正統は「科学的社会主義」であり、マルクス・レーニン主義であって、西欧の社会主義は「空想的社会主義」として敬遠され、排除されることになってしまったのです。
 しかし、社会主義の思想と運動の発祥の地である西欧各国では、コミンテルン支配の共産党はできましたが、上記のようにボルシェヴィズムとかマルクス・レーニン主義と呼ばれ、伝統的な社会主義とは区別されてきたのです。すでに生前のマルクス家とも親交のあったウィリアム・モリスやB・Bバックス、マルクスの娘エりノア・マルクスなどは、イギリスで最初のマルクス主義系の思想団体「民主連盟」(すぐ「社会民主連盟」に改称)に参加し、さらに「社会主義者同盟」として活動しました。ここでは伝統的な西欧社会主義の思想を、マルクス『資本論』の科学により基礎づける営為が続けられ、モリス・バックスの共著『社会主義:その成果と発展』も刊行されました。しかしエンゲルスは、モリス達に対しても「センチメンタルな空想的社会主義者」として敬遠し、排除してしまいました。マルクス主義はマルクスの死後、マルクス・エンゲルス・レーニン主義の流れと、もう一つマルクス・モリスなど西欧社会主義の発展の二つに分岐したと言えます。
 ただ、西欧社会主義の発展は、20世紀を迎え議会主義の流れが強まりました。上記のソ連型ボルシェヴィズムに対抗して、いわゆる西欧型社会民主主義として、英国の労働党はじめ、北欧など多くの国で政権に参画しました。福祉国家主義ともいえる潮流ですが、これもまた冷戦体制が続く中で、いわゆる「大きな政府」による財政危機に見舞われ、ソ連型社会主義の崩壊に続いて、すでに西欧型福祉国家主義も歴史的な限界を露呈しています。その意味では、西欧の社会主義の思想と運動が、大きな歴史的転換の時期を迎えていると言えるでしょう。
 もう一つ社会主義のタームに関連して、社会主義と共産主義の関係が問題になるでしょう。とくに日本では社会主義Socialismに対し、長らく共産主義Communismという呼称を、イデオロギー的に区別して用いてきました。この言葉は、社会主義が上述のように、個人主義にたいして生産や労働の組織や運営を共同体など社会的に行う意味だったのに対し、もともと共同体の共有財産を意味する仏語communeからきたもので、そのかぎりでは社会主義と共産主義には明確な区別が無かった、と言われています。共産主義は共同体communityの所有・領有の側面から社会主義を主張する。社会主義は、労働や生産の組織運営の機能面から、個人主義、自由主義、商業主義に対抗して、共同体の社会的な側面を尊重するイデオロギーだった。その点では上記モリスやバックスの『社会主義』、モリスのファンタジー・ロマンで有名な『ユートピアだより』でも、特別にイデオロギー的な区分はしていない、その内容により適宜使い分けをしているだけなのです。
 ところがマルクスとエンゲルスが共同で『共産党宣言』を書き、ドイツからの亡命者組織「正義者同盟」が「共産主義者同盟」になった。さらにエンゲルスが『空想から科学へ』など、社会主義者を「空想的社会主義」者として、自らを「科学的社会主義」者として正統化した。またマルクスの死後、エンゲルスは『宣言』の英語版1888年の序文では、社会主義という言葉が空想的社会主義者では、労働運動の外に立っていた。それに反して「労働者階級の中で、単なる政治革命の無力を確信し、社会の根本的変革の必要を宣言した人々は、いずれも自らを共産主義者と称していた」と述べましたした。つまり、社会主義は小ブルジョア的改良主義として、イデオロギー的党派的に排除するために、社会主義と共産主義を区別して、自らについて労働運動に結びついた革命性を強調したのです。ここでもモリス達は、エンゲルスによって空想的社会主義者として敬遠され排除されたのです。
 さらに悪いことには、エンゲルスを通してマルクスの理論や思想が、マルクス・エンゲルス・レーニン主義として教条化されました。特にレーニンは、ロシア革命の成功により、1918年にはロシア社会民主労働党の分派組織ボルシェヴィキを、正式に「ソ連共産党」に改称しました。さらに翌年、共産主義インターナショナル(コミンテルン・第三インター)が結成されるに及んで、共産主義はマルクス・レーニン主義として定式化されました。また、マルクスの「ゴータ綱領批判」なども利用されて、共産主義社会を低次の第一段階と高次の第二段階に区分する。社会主義は低次の段階であり、小ブル的社会改良主義なども利用して、革命の初期の段階に過ぎない。しかし社会主義は、より高度な生産力の発展に基づいて、「能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」共産主義の段階に到達する。ロシア革命によって、プロレタリア独裁の社会主義が実現したけれども、それを高度な生産力に基づいて共産主義に高度化する。低位の社会主義から高度な共産主義へ、社会主義と共産主義の区別は、歴史的発展の段階的区分として、国家社会主義のソ連に利用されたのです。
 さらに付言しますと、ロシア革命以後、社会主義の祖国であるソ連を防衛するために、西欧の社会主義、社会民主主義に対しては、主要な打撃の対象にしました。第2次世界大戦前夜のコミンテルンの世界戦略では、いわゆる「社民主要打撃論」「社会帝国主義論」など、共産党から激しい攻撃が続けられ、その対立が東西冷戦の時代にも持ち越されました。こうして社会主義と共産主義のイデオロギー的対立が、東西対立の中でエスカレートしてしまいました。
 しかし、唯物史観の生産力理論に基づいたプロレタリア独裁の国家社会主義ソ連は、有名なレーニン「共産主義とは労兵ソヴィエト権力プラス全国の電化」(第8回全ロシアソヴィエト大会の演説)のテーゼを目指して進みました。近代科学技術文明による工業生産力の発展は、東西対立の冷戦体制のもと、激烈な米ソ核開発競争の中で、体制の病根が蔓延しました。そして、1986年4月「V・I・レーニン共産主義記念チェルノヴイり原子力発電所」の爆発事故が起こり、その再稼働にも失敗したまま、5年後の91年12月、自滅の道を転げ落ちたのです。ソ連は崩壊し、マルクス・レーニン主義のドグマは破綻しましたが、ウクライナに打ち捨てられたチェルノブイリ原発は、今日なお廃炉の見通しも立たぬまま、多くの被爆者に苦痛と苦難の人生を残したままなのです。
 いま社会主義を見直し、復権を果たすとすれば、国家社会主義ソ連の崩壊、そして米・スリーマイル島、チェルノブイリ、さらに2011・3・11東日本大震災による福島第一原発事故による近代科学技術文明の歴史的限界を十分踏まえなければならないでしょう。R・オーエンやC・フーリエなどの代表される西欧社会主義の歴史的伝統は、上述の通りK・マルクスからW・モリス=B・B・バックスの共同体社会主義(コミュニタリアニズム)の思想として、近代科学技術文明による市場原理に基づいた商業主義、金権主義を厳しく批判し、近代社会の資本主義を超克しようと努力してきました。我が国においても、とくに明治・大正期の社会主義の黎明期には、土着の民権思想に結び付きながら、独自の思想的営為が続けられていたのです。こうした独自の社会主義の流れを、いま謙虚に見直す意義は大きいと思います。
 
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by morristokenji | 2013-10-17 12:52