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by morristokenji

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 1) 日本共産党の合法化と「平和革命」路線
 
 日本の敗戦とともに、戦後民主主義の時代が到来しましたが、戦前の社会主義運動はどうなったか?
 まず連合軍の占領下でも、日本共産党の活動は華々しく復活しました。終戦の8月15日、出獄してきた幹部を中心に、地下の非合法政党から徳田球一を書記長として合法化され、再建されます。こうした中で、ソ連を含む連合国の占領軍を「解放軍」と呼ぶなど、合法活動が活発化しました。1946年(昭21)の総選挙では5議席を獲得、初めて帝国議会に議席を得ました。また、新憲法の制定についても、独自に「日本人民共和国憲法草案」発表、ただ日本国憲法の制定に際しては、「天皇制の存続による民主化の不徹底」などの理由で反対しています。
 このように連合軍により解放された共産党は、急激に勢力の拡大に成功しますが、そうした党勢の拡大もあり、占領軍を「解放軍」として評価、その下で民主化を進めつつ、社会主義革命に進むことを考えることにもなります。こうした革命戦略は、戦前のコミンテルンの27年テーゼ、32年テーゼにおける、ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至る、いわゆる二段階革命の革命路線によるものでしょう。しかし、占領軍をブルジョア革命のための「解放軍」として評価し、そこで第一段のブルジョア民主主義革命を遂行して、第二段の社会主義を展望するのは、当時の占領軍に対する幻想であり、いわゆる二・一ゼネネストの失敗によって、幻想は暴露されました。
 1947年(昭22)の2月1日、二・一ゼネストと呼ばれる官公労を中心とした大規模なゼネストは、戦後労働運動の高揚のなかで、「吉田内閣打倒」を掲げて計画されました。しかし、ストの前日に占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサーから中止命令が出され、ゼネストは中止に追い込まれます。労働運動の大きな盛り上がりにもかかわらず、ここで労働組合は敗北しました。ただ、こうした敗北の中でも、統一地方選挙では共産党が多くの首長や議員を誕生させましたし、片山・芦田内閣の迷走も手伝って、1949年(昭24)の総選挙では、共産党は戦後最高となった35議席を獲得、東京など都市部だけでなく、農民運動が盛んだった鳥取や山梨の農村でも、当選者が出ました。共産党の党勢は、なお拡大していました。
 しかし、連合軍による日本の占領も、事実上、米軍の占領体制に変わり、さらに東西対立による冷戦構造が次第に構築されていきます。そうした戦後体制が構築される中で、1950年(昭25)にソ連のスターリン書記長が指導するコミンフォルムは、その機関紙で「日本の情勢について」を掲載します。日本共産党の「占領下での革命」と言われる野坂参三などの「平和革命論」が、厳しく批判されました。徳田球一などが「所感」を発表して反論しましたが、コミンフォルムと同じように中国共産党も、人民日報で平和革命論を批判、そのため日本共産党の党内は、いわゆる国際派と所感派に分かれて対立が激化します。さらにまた、その年5月にはマッカーサーが、共産陣営の日本侵略とそれに協力する日本共産党の非合法化に関する声明を発表、それにより共産党幹部の地下への潜入や亡命が続きました。こうした混乱の中、6月25日に朝鮮戦争の勃発を迎えたのです。
 党内の分裂と地下活動の中で、主流派となった所感派は、第4回全国協議会(四全協)で中国共産党の抗日戦線の戦術を模倣した反米武装闘争の方針を決定、有名になった「山村工作隊」や「中核自衛隊」の農村でのゲリラ戦術が進められました。この間、党の統一回復への動きがあったものの、朝鮮戦争の激化とも連動し、武装闘争の戦術はエスカレートし、52年血のメーデー事件、さらに各地で「火炎ビン闘争」の事件が発生、多数の逮捕者が出ました。しかし、こうした武装闘争は国民の支持が得られず、多数の犠牲者や離党者を生み、「破防法」を成立させてしまいました。党内の分裂や混乱が続き、総選挙でも全員が落選、武装闘争路線は完全に行き詰りました。
 1951年(昭26)9月にサンフランシスコ講和条約の締結、翌年4月に発効し、53年(昭28)には朝鮮戦争も休戦をみました。こうした情勢の変化の中で、共産党は第6回全国協議会を開き、中国革命方式の武装闘争路線を放棄、ただし「敵の出方論」により武装闘争の暴力革命を提起することで党内をまとめ、再統一に漕ぎつけました。その後,1958年(昭33)宮本顕治が書記長となり、この間の分裂と混乱を「50年問題」として総括し、路線の事実上の転換を図りました。しかし、こうした過程で党中央への不信感も高まり、その後の新左翼運動に繋がっていきました。

2)日本社会党の結成と左右の党内対立

 日本共産党に対し、戦前の労農派の系統も、敗戦後いち早く安部磯雄、高野岩三郎、賀川豊彦の呼びかけで、9月には日本社会党の結成に向けて準備に入ります。1945年(昭20)11月に結集に成功し、戦後の日本社会党が誕生しました。この時点では、社会大衆党などを母体として、非共産党系の合法的社会主義勢力が大同団結する形での出発でした。ただ、実質的な推進者は西尾末広、平野力三、それに河野密の3人だったそうで、さらに当初は名望家を党首に担ぐ思惑もあり、書記長に片山哲が就任、間もなく委員長に昇格しました。46年の総選挙では、自由党140、進歩党94に次ぐ92議席を社会党が確保、第3党となりました。また、新憲法制定の機運の中で、1946年2月「社会党 憲法改正要綱」を発表しましたが、ここでは戦前の労農派を代表した高野岩三郎、森戸辰男などが起草委員になり、天皇制を象徴として残す代わりに、国家権力は議院内閣制として、国民の生存権や労働の義務化など、社会主義的な内容が盛り込まれました。
 新憲法が制定され、その下で1947年第23回総選挙が行われ、上述の2・1ゼネストなどの労働運動の高揚を背景として、日本社会党は143人の議席を獲得、比較第1党となります。その結果、民主党、国民協同党の三党連立による片山内閣が成立しました。ここまでは何とか順調な滑り出しでしたが、国家公務員法、民法改正などは成立させたものの、炭鉱国家管理法の制定などで混乱、さらに平野力三農相の公職追放、それをめぐる脱党騒ぎや、党内左派による片山内閣への批判など、翌1948年2月には早くも片山内閣が瓦解、総辞職しました。続く民主党の芦田均首班内閣にも、社会党から西尾末広の副総理はじめ、8名の閣僚が参加しました。しかし、左派の一部の入閣により左派も分裂し、さらに12月には黒田寿男らの労働者農民党が分裂しました。芦田内閣も、占領軍の政令201号による国家公務員の団体交渉権、争議権の剥奪、さらに昭和電工疑獄が重なり、10月に総辞職してしまいます。この時点で、左右両派の対立が表面化して政権も混迷、日本社会党はその後「左右二本の社会党」と揶揄される状態が始まったのです。
 49年1月の総選挙では、片山、西尾が落選、議席も48に激減します。その敗北を受け、4月に再建大会が開かれますが、ここで党の性格付けと路線をめぐる論争が本格化し、左右両派の間で激しく闘わされました。右派が森戸辰男、左派は稲村順三に代表され、両者とも戦前の労農派の流れを汲む論客ですが、この森戸・稲村論争が、以後の左右対立の原型となったと言われています。そこで、対立の論点を整理して、戦前の労農派との関連を確認しておきましょう。ただ、労農派の流れと言っても、もともと単一の無産政党の結成をめぐる離合集散が激しかった、さらに戦時下における複雑な去就など、とくに人脈は戦争協力への公職追放もあり、一層複雑化して左右の対立に反映された事情が無視できません。その意味では、戦後の日本社会党の結成は、良く言えば大同団結、悪く言えば「寄せ集め所帯」、それが早々と政権を担った。占領下の混乱の象徴かも知れません。
 森戸・稲村論争については、両者それぞれ関連した論稿もありますが、論点が具体的に提起され、党大会の運動方針を巡っての論争の性格上、勝間田清一の司会で行われた対談を取り上げましょう。戦前、ともに労農派の論客だった点でも、両氏の対談は興味深いものといえます。対談は、1949年(昭24)5月24日に当事者の総括のために行われた座談会です。(初出は『社会思潮』1949年7月号)司会の勝間田による問題提起は、まず敗戦と占領下の混乱の中で、共産党を除く戦前の諸潮流の大同団結が優先、党の目標、性格や路線については、十分な論議のないままの出発だった。民主主義の憲法、社会主義的な政策、それに国際的な平和主義、この3点だけの大まかな合意だった。しかも、短期間で片山内閣による政権党になったが、連立政権の足並みの乱れなども加わり、改めて党の性格や路線を深めなければならない。また、目指す社会主義への移行についても、当初は一時的に実現の幻想が一部に生じただけで、占領下で共産党との関係からも、移行の条件は見当たらない点も強調されました。
 
 3)森戸・稲村論争とその対立点
 
 両者の見解は、連立政権に対する評価と反省で分かれました。稲村は、連立に批判的で反対、論拠は(1)ブルジョワ社会での階級闘争から、ブルジョワ政党との連立はありえない。(2)同時に共産党に対する批判も不十分であり、(3)まず革命方式を中心に党の主体性を強化する。こうした提起に対し、森戸は連立政権の閣僚だったこともあり、功罪両面を指摘する。その上で(1)単なる反対党でイデオロギーを主張するだけではなく、政策を具体的に提起しなければならない。(2)マルキシズムとの関係では、階級闘争や階級国家論について、現実的に考え直す必要があり、(3)関連して革命方式についても、平和革命を理論的に深化させる必要がある。さらに(4)むしろ日常的な運動や大衆闘争を重視しなければならない。
 稲村は、社会主義の目標として、「社会民主主義」についても、マルクスのゴーター綱領批判を参考にして、社会主義を民主主義に解消してはならず、「この際我々は、社会主義の政党であるということを何よりも明確にして、いわゆる社会主義プラス民主主義の政党、社会主義者プラス民主主義者の共同政党だというような、こういう意味は持たせないほうが良い」と主張する。それに対し森戸は、ドイツを中心に社会改良主義、社会民主主義、社会主義の思想史的変遷を説明した上で、社会改良主義に対立して「実はマルキシズムの党派が社会民主主義とずっと言ってきたので、ロシアのボルシェヴィキがわかれて社会民主主義の多数党となるまでは、大体マルキシズムの政党が社会民主主義の政党と言われておったわけです。」森戸は、ここで社会民主主義をボルシェヴィズム=マルクス・レーニン主義に対抗するものとして位置づけ、堺・山川の正統派マルキシズムである労農派の立場を説明しています。こうした森戸の説明については、勝間田も「社会民主主義政党としての社会党の革命プログラムというものを作っていくということは、当然といわねばならぬことになりましょうね。」と両人に同意を求めています。
 そこで革命の内容、方式を巡っての議論に進みますが、森戸は「社会主義の中心点は経済組織の変革、資本主義的な経済組織が社会主義的な経済組織に変わることであって」、その上で「政治的な面から言っても、政治の一つの場面に、権力の獲得というか、それが集中されないで、中央の政治もあり、地方の政治もあり、また政治の面と並んで経済の面、文化の面等の新しく社会主義を作ろうという力が浸透して行く。」「民主的な変革というものが一時的なものではなく、ある程度漸進的であり、段階的であり、したがってまたそれは建設的、平和的なものであるということになるのではないか、と僕は思っておるのです」として、稲村に同意を求めています。ここでの森戸の主張もまた、明らかにマルクス―モリス、そして堺・山川の労農派社会主義の立場から、ロシア革命を教条化したボルシェビズム=マルクス・レーニン主義を批判し、プロレタリア独裁、集権的な政治革命方式と対立する社会変革の内容、その方式が提起していることが解ります。
 こうした森戸の提起に対し、稲村も正面から対立することは避けつつ、「ぼくはもう少し違うのですが、民主主義というものと、平和とか暴力とかいうものに関する考え、ことに平和とか民主主義とかいう考え方については、もっとも広くぼくは解釈したい」と述べ、階級対立の進む社会では支配階級が、「必然の形で社会主義へ向かって資本主義の基礎が動いていくのを、これをどうしても食いとめよう、チェックしようとするために集中的政治権力を常に用いておる。したがって、いかに経済的に最高に発達しても、これをチェックしている政治力というものを除去しない限り、日本は結局において大きな矛盾を蔵しつつも資本主義の段階を出ることができない。ぼくはそう考える。それで質的転換をするためには、チェックするものを取除いて、そうしてそれを推進する新しい政治権力というものが生まれなければならない。---革命という以上は一つの質的変化を表徴するものでなければならぬ。」
 この稲村の主張は、マルクス・エンゲルスのイデオロギー的仮説に過ぎなかった唯物史観、つまり単純な階級闘争史観が前提され、資本主義はブルジョアジーとプロレタリアートの非和解的な階級対立が不可避である。ブルジョアジーは階級支配のために国家権力を利用し、ブルジョア国家は階級支配の道具として、ブルジョア独裁の権力支配を進めている。したがって、体制変革にはプロレタリアによるブルジョアからの権力奪取が必要であり、ロシア革命方式のプロレタリア独裁が不可避だった。その点で、ボルシェヴィキの暴力革命論が前提されざるを得なくなるが、稲村氏も一方で議会主義や平和主義を前提する以上、次のように弁明せざるを得なくなる。「これは暴力といい、平和といっても、実を言うと、いかに平和的にやったとしても、やはりある程度力の行使というものはやむを得ぬ場合いもあり得るんだね。なぜかというと、こっちが行使しないでも、敵が行使する場合がある」、いわゆる「敵の出方論」ですが、「ただ力は議会を通じて合法的にやるのだ。これが僕は、やはり我々の言う民主主義的、平和的という解釈になると思う。そういうふうな建前から、僕らはどうかと言うと、一応やはり政治権力は確保するというある時期なり、段階がある。」稲村のここでの主張は、かなり譲歩した表現ながら、ブルジョア独裁に変るプロレタリア独裁、権力奪取による革命、中央集権的な体制、そして上からの体制変革としての革命、こんな図式が透視されてきます。
 続いて「労働者の主導権を認めるか」の論点提起に関して、運動のヘゲモニーについて対談が行われます。勝間田は党大会の方針を紹介し、社会革命は「政治的革命に集約されるものであって、わが党はかかる政治的革命の達成を目標とする。けれども、この目標の到達には、これに結合する経済、社会、生活、文化、などの各面にわたり、建設的な過程を伴わなければならない。だから、社会革命は、客観的並びに主体的条件の整うに応じて合理的に進展させねばならないという名文句でおわったわけなんです。」その上で、主体的条件に関して、「労働者の主導権」について両者の見解を求めます。森戸も、社会主義への体制変革について、労働者の解放の点から革命の主体が労働者であるものの、プロレタリア独裁との関連で、「主導権という言葉はおかしい」と主張、「何か客観的権利をもって号令する」意味を避けるため「主導性」とするよう求めます。稲村氏もまた、プロ独による一党独裁に距離を措く姿勢を示して、森戸の「主導性」に同意します。この辺のやり取りは、右派の国民政党論と左派の階級政党論を「大衆的階級政党論」で統合する布石かも知れません。
 しかし、それでも稲村は「労働者階級のヘゲモニー」を強調し、客観的必然性として「プロレタリアの政党であるということを明確にしたプログラムを持ち、それを承認させる」ことを重視して階級政党論を主張します。それに対し森戸は、上記の連立政権に対する評価にも通じますが、ボルシェビズムの共産党一党独裁のドグマに対し、ここでも労農派の共同戦線党の立場を提起する。「階級闘争をいかに評価するか、という問題だろうと思うのです。マルクス主義のいわゆる正統派の公式理論だと、人間の歴史は階級闘争の歴史であるということで、階級利益というものがすべての利益に対して優先的な支配をするということであり、それから現代においてブルジョアジ―とプロレタリアートとの決戦の時代である、だからこの二つの階級利益が決定的な優位を持つものである、こういう前提を持っておると思います」として、マルクス・レーニン主義の唯物史観、単なるイデオロギー仮設に過ぎない単純な階級闘争史観への批判的再検討を提起します。とくに森戸は、ここで民族戦争、民族問題を提起しますが、稲村の反論は「民族問題は階級的立場に統一しなければならない」という唯物史観の仮設への基底還元論で「手をつないで共同戦線に立っても、それは階級闘争の一変形」と切り捨ててしまう。
 以上、民族問題まで射程に入れつつ、階級政党か、国民政党か、の対立の論点が提起され、両者の歴史的とも言える対談は終わります。対談の性格上、論点の展開は不十分ですが、右派の森戸の主張が、ロシア革命のボルシェヴィズム(マルクス主義のいわゆる正統派の公式理論)に対抗し、労農派社会主義の立場を踏まえたものであった。それに対し、第二次世界大戦を通してソ連が戦勝国の地位を獲得し、ボルシェヴィズムがマルクス・レーニン主義の正統派の地位を固めた影響もあったと思われます、左派の稲村の反論の方向は、むしろ「正統派」の立場からのものであり、労農派社会主義の継承・発展は感じられないものに終わっている。その点でいえば、戦後の日本社会党の左右の対立について、一般的に左派の立場が「労農派マルクス主義」と系統づけられているのは正確ではない。むしろ右派を代表する森戸の立場こそ、堺・山川に代表された労農派社会主義の継承とみるべきでしょう。左派は、基本的にボルシェヴィズムの教条に近い立場に逆転してしまい、それだけに議会主義による平和革命論との間の矛盾に苦悩を続けることになったと言えます。
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by morristokenji | 2013-12-08 19:02