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by morristokenji

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 1)プラン問題と唯物史観への対応
 すでに述べたとおり、宇野理論の三段階論(原理論、段階論、現状分析論)は、事実上すでに戦前、東北大学時代の宇野弘蔵の研究により形成されていました。『経済政策論 上』、および講義プリント「経済原論」によつて確認できると思います。しかし、経済学の方法論として、さらに広く社会科学の方法としての宇野三段階論が確立をみたという意味では、やはり戦後の『経済原論』上・下、および『経済政策論』の刊行をはじめ、『「資本論」と社会主義』など、数多くの業績の発表によるものでしょう。そして、『資本論』研究の究極的目的が、社会主義を根拠付ける点にあるとすれば、宇野三段階論と社会主義の関連について、その解明の意義を明らかにしなければならないはずです。
 宇野理論が『資本論』を経済学の「原理論」として解明するについては、『資本論』と唯物史観との関連についての独自の理解が前提になっています。もともと唯物史観は、初期マルクスおよびエンゲルスによる資本主義社会の歴史的解明に当たっての「導きの糸」だった。しかし、それ以上のものではなく、「単なるイデオロギー的仮説」、「作業仮説」に過ぎない。そこでは資本主義経済を、先行する歴史的段階に対する近代社会の一段階とするもので、その上で資本主義経済を理論的に解明し、歴史的に実証されるべきものとしたのです。そうした理論的・実証的分析によって、「単なるイデオロギー的仮説」を超克できる。そして、社会主義が科学により理論付けられ、「科学的社会主義」として位置づけられる。『資本論』は、唯物史観の枠組みに組み込まれるべきではなく、逆に『資本論』により検証され理論化されるべきもの、とされたのです。その論点を、戦後はっきり解明して見せたのが、1950年(昭25)4月発表の<「経済学の方法」について>(『社会科学研究』2巻1号所収)でした。宇野が戦後、東大社会科学研究所に迎えられて発表された、すこぶる意欲的な論文です。
 ここで「経済学の方法」というのは、マルクス『資本論』に先行して刊行された『経済学批判』の草稿として書かれた「経済学批判要綱」の中にあった「経済学批判序説」の内容です。この「経済学批判序説」を、宇野はマルクスが「発表もしなかったし、また完全に手を入れた原稿にもしなかったもの」とし、さらに「マルクス自身がこれを<省略>したものであることを忘れてはならない」と述べています。そして、この方法は「『資本論』の理論的展開を律すべきものとすべきか否かということになると、私は必ずしもそうは考えない」とキッパリ言い切っている。「『資本論』の方法は、『資本論』そのものによって学ぶべきである」として、「経済学批判序説」を含め「経済学批判要綱」、さらに『経済学批判』もマルクスが事実上は放棄したものであり、したがって『資本論』をそれに還元するのは「主客顛倒」であるし、「断じて誤っている」と宣告しているのです。公刊された『経済学批判』の序文には、それまでのマルクスやエンゲルスの研究過程を振り返り、それに関連して有名な唯物史観の公式も載っています。しかし、それをもって『資本論』の理論的展開を「律すべきもの」ではない、逆に宇野は唯物史観が科学としての『資本論』によって「律せられるもの」と主張していることになるでしょう。
 宇野は、戦前から『経済学批判』から『資本論』へのいわゆるプラン変更問題、そして唯物史観のドグマについて、慎重に明言を避けてきた。ドイツからの帰途、すでに紹介した福本和夫の主張などを聴いていたのでしょが、また唯物史観についても、講座派VS労農派の主張が念頭にあったはずですが、とくに発言は無かった。しかし戦後、三段階論を明確に提起するについては、はっきりプラン変更、というよりプラン放棄説をとり、そして唯物史観についても、それを『資本論』に前提してはならない、むしろ『資本論』により科学的に検証し、イデオロギー的仮説を解脱して、社会主義の根拠を科学的に明らかにする方法的見地を、ここで宣言したのです。いささか難解な論文の詳細な紹介は省略しますが、まず一国経済の具体的現実である「混沌たる表象」から出発する「下向法」で、抽象的な概念規定に到達する17世紀の重商主義学説の方法を取り上げます。それが18-19世紀のスミス、リカードなど古典経済学では、いわゆる「上向法」に発展する。認識論としては、いわゆる帰納法から演繹法への発展でしょう。
 ここで宇野は、古典派の「上向法」が正しいとしても、単に直線的に上向して現実を「具体的」に把握できる訳ではない。現実そのものは「単なる直感や常識的表象」にすぎず、具体的な認識にはならない。『資本論』の「商品」から出発して明らかにされる「諸階級」にしても、それが「多くの諸規定の総括」だとしても、あくまでも理論的範疇だし、「思惟の・認識の産物」「概念の産物」にすぎない。だから労働力商品により「賃労働」が明らかにされても、それだけでは三大階級の労働者の理論的把握であり、具体的に19世紀のイギリスの労働者や中産階級の階級的地位を明らかにしたことにはならない。ましてや、現代の日本の非正規労働者の階級的立場の解明にはならないのであり、理論的解明と歴史的、現実的、具体的な分析とは区別されなければならない。
 さらに、「諸階級」と比べて商品・貨幣・資本は、より抽象的で単純な範疇です。しかし、これらも「思惟の・認識の産物」「概念の産物」であり、「『資本論』の理論的展開をそのまま歴史的過程の展開となすものとすれば誤りである。現に資本主義以前に商品経済の発達した国々がそのまま資本主義的生産に発展したとはいえない。寧ろ反対である」と宇野は主張し、さらに古代や中世の商業国民の貨幣取引から「貨幣の資本への転化」を説こうとしていた「経済学批判綱要」の見地に対しても、「古代において文化の発達せるギリシャおよびローマにおいてすらも、近代ブルジョア社会に前提されているような貨幣の完全なる発達は、ただその崩壊の時代にのみ現れた」という、マルクスの指摘を引用しています。その上で「商品、貨幣、部分的に資本も、その<簡単なる範疇>としての規定が、そのまま歴史的に具体的なものとせられる傾向も同様の欠陥といえる。」こう宇野は主張して、歴史と論理の安易な統一を求める唯物史観の見地を明確に否定するのです。
 次に、商品・貨幣・資本と同様に、歴史的には資本主義経済に先行して超歴史的に存在する「労働一般」についても、両者を同一視できない点を強調します。マルクスは生産的労働に関し、重金主義が金生産、重商主義が商業から工業、重農主義が農業、そして古典派経済学、とくにスミスが労働一般として理解した点を評価していました。しかし、こうした「労働一般」の把握も、資本主義社会の確立により、労働力商品の労働市場での自由な移動により実現されたものであり、「資本主義的商品経済を通じて具体化されたもの」である。とくにスミスのように、労働力の商品化を明らかにできないまま、労働力商品の売買を労働の売買として、労働を「本源的購買貨幣」としてしまったのでは、生産過程を流通過程に還元し解消すること、牽いては資本主義の歴史性を見失い、それを永久化し絶対視ことになりかねない。宇野は、この点を鋭く指摘しながら「古典経済学が労働力の売買を労働の売買としてしか規定しなかったのも当然なのである。古典経済学が『資本論』のよって始めて明らかにされた価値形態論を欠く所以もそこにある。」とすれば、労働一般を商品・貨幣・資本と共に「一般的な抽象的規定」として「多かれ少なかれ総ての社会諸形態に通ずる」としてしまった『経済学批判』の「経済学の方法」もまた、当然のことながら疑問にならざるをえない。
 宇野は、この論文では上記のとおり、冒頭商品論での労働価値説の論証の失敗、価値形態論の欠如、商品・貨幣・資本の論理的・歴史的展開など、論点の提起だけに留めています。マルクスの批判に立ち入ってはいません。しかし、これら『資本論』にまで持ち越された問題点は、結局のところ『批判』の「経済学の方法」における古典派経済学批判の不徹底、不十分、そして「上向法」の「後方への旅」を受け入れたこと、さらにまた「世界市場と恐慌」に終わるプランの篇別構成まで、『経済学批判』の段階の残滓とみているのでしょう。それはまた、結局のところ初期マルクス・エンゲルスからの唯物史観のイデオロギー的仮説の設定に由来している。だからこそ宇野は、『経済学批判』(そして「経済学批判要綱」)の「経済学の方法」をここで内在的に批判の上、マルクス自身が経済学説批判をもう一度やり直した『剰余価値学説史』を踏まえた、後期マルクスの『資本論』、そこでの「純粋資本主義の抽象」を提起するのです。すなわち、「経済学が、その理論的研究の対象をなす経済的過程は、いうまでもなく唯物史観におけるいわゆる下部構造をなすもの」で、それは「生産力と生産関係との対立関係の内に吸収されて物質的過程としてあらわれる。」しかし、それが認識されるのは「現実的なる、具体的なる、例えば十九世紀のイギリス経済とか、イギリスを中心とする世界経済というものではなく、我々の頭脳における抽象的なるいわゆる純粋の資本主義社会に他ならない。それは決して観念論的に把握されるものではないが、しかし決して具体的なる現実的過程そのものではない。現実的過程からの抽象である」と。
 つまり、単なる作業仮説だった唯物史観が、理論として論証されるのは『資本論』の純粋資本主義の抽象としてしかありえない。純粋資本主義の抽象によってのみ、唯物史観もイデオロギー的仮説から、理論として論証をみることになる。なぜなら、純粋な資本主義こそ、「それ自体に運動するものとしての物質的過程、いい換えれば社会的物質代謝の過程の抽象的世界像」であって、「ここに実現されるものとして把握される法則は、個々の主観的なる、個人的なる、或いは個別的なる行動にとって、その行動の基準として利用し得るというようなではなく、全く客観的なる法則である。」だから「その形態自身を変革し、廃除する以外には、いい換えれば法則自身の止揚以外には、これを支配することの出来ないものである。」つまり、資本主義の変革は、その形態の全面的廃除、止揚であり、だから個人的主観的行動ではなく、「社会的なる、世界史的なる」主体性の形成が不可欠であって、そこに社会主義に向けての体制変j革の組織と運動の構築がある。この組織と運動が、単なるイデオロギー的仮説に過ぎなかった唯物史観の科学による基礎付け、つまり「科学的社会主義」の理論と実践の位置づけになるわけです。
 宇野は最後に、この『資本論』の純粋資本主義の抽象による原理論、それに基づいた段階論と現状分析についても簡単に述べます。原理論は、純粋資本主義の抽象に過ぎない。抽象であるからこそ、現実への接近には、特有な方法的手続きが必要になる。つまり、抽象が歴史的・現実的抽象であるから、その抽象に対応して資本主義の歴史的発展段階、それを「世界資本主義の発展段階」と呼んでいますが、これも「単なる抽象的範疇から具体的範疇への理論的展開を以てこれを把握するのではない。それは世界資本主義の一般的なる発展の過程の理論による分析を以て規定されたる歴史的発展段階である。それと同時に単なる物質代謝の過程は種々なる特殊の事情と政策とによって多かれ少かれ特殊な規定を与えられ」、「その発展段階を比較的に純粋に代表するものとして典型的なるものとして」把握されることになる。そして「個々の国々における具体的なる資本主義の分析は、かくていわば第三段の理論的分析をなすものといえる。」それが「諸規定の総括」ともいえるのであるが、しかしそれを基礎に社会主義の組織的運動が行われるけれども、「かかる戦略、戦術が、また同じような資本主義の分析をその基礎に有するとしても、具体的にはその分析は必ずしも上述の資本主義の科学的分析と同じ手続きでなされるものとはいえない。」さらに、理論と実践との緊張関係があることを忘れてはならないであろう。

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by morristokenji | 2014-01-27 11:16
 第2次大戦後の冷戦構造は、すでに見たとおり日本では、1951年のサンフランシスコ講和・日米安保条約により定着します。そして、それへの対応を巡り、左右社会党への分裂につながりました。左右両派は、それぞれ左社綱領、そして右社綱領を策定して対立しました。すでに紹介した森戸・稲村論争による左右の対立を受け継ぎ、左者綱領は稲村が戦前の学者グループの一人だった向坂逸郎(九大教授)らと協議して原案策定、右社綱領は森戸案を受けて、河上民雄などが草案を策定したといわれています。この左、右の社会党の綱領は、森戸・稲村論争と比較しますと、一方の左社綱領はマルクス・レーニン主義の教条的理論と議会主義の平和革命論、他方の右社綱領は、マルクス主義への批判に向かい、西欧社会民主主義から改良主義の傾向が強まりました。この時点から、戦前の堺利彦・山川均のマルクス―モリスの「正統的マルクス主義」の系譜が消滅した感が強まりました。むしろ左右社会党の対立は、米ソ二つの世界の対立という冷戦構造を、日本的な特殊性を反映した形での対立だった、と見るべきでしょう。
 このように戦前の労農派社会主義の伝統が、戦後この時点で消滅したについては、無論いろいろな事情が考えられます。マルクスーモリスの社会主義の継承を、その人間的な魅力と相まって、最も強く担い続けてきた堺利彦が、戦前1933年に亡くなったことは書きました。また堺の同志、山川均は理論家として優れていたし、ロシア革命やボルシェヴィズムへは鋭い批判を持ち続けましたが、敗戦直後はともかく、1950年代後半には高齢でもあり、1958年には他界されてしまう。その意味では、戦後労農派の理論的継承が十分でなかった事情があります。しかし、それ以上に強調されなければならないのは、第二次世界大戦に果たしたソ連の大きな役割であり、その役割がアメリカに対峙して占領体制から冷戦構造の形成に及ぼした、圧倒的な影響です。そして、冷戦構造という異常な体制によって、半世紀近くの長期にわたり、ソ連が東の世界を国家社会主義として統治してきた現実の重みでしょう。こうした異常な現実の重みが、ロシア革命、ソ連型国家社会主義、プロレタリ独裁、マルクス・レーニン主義のドグマが、教条的な支配を強力なものにした。その影響は、広く西側世界にも、そして日本の社会主義の運動にも及んだと考えられます。
 ただ、日本社会党は51年に左右に分裂しましたが、とくに労農派の流れを汲む左派の鈴木茂三郎による「青年よ銃をとるな、若者を再び戦場へ送るな」の有名な訴えなど、非武装中立論を唱え、さらに労働組合の中央組織「総評」の支援もあり、左派の党勢や議席が伸張しました。そうした背景から、左右両派の統一への機運が高まり、「統一綱領」の作成に乗り出しました。この統一綱領では、「労働者階級を中核とした階級的大衆政党」を強く打ち出し、左社綱領のプロレタリア独裁を完全に否定、さらに国民の自由な意思にもとづく政権交代の容認、社会主義の目標も基本的人権など広く「人間解放」を目指すものになりました。こうした綱領のもとに、1955年10月に党大会が開かれ、委員長が鈴木茂三郎、書記長には右派の浅沼稲次郎が就任し、再統一が実現しました。この再統一により、党勢がさらに拡大、衆院の議席も156まで伸長しました。この年は、保守合同で「自由民主党」が結成され、保革を自社で分け合う「55年体制」が成立しました。この時点が、戦後社会党の最盛期だったかも知れません。
 しかし、1959年の参院選で党勢の伸び悩みが生じたのを機に、60年安保改定を目前に控えながら、最右派の西尾末広などが階級政党論、親中ソ路線、容共路線などへの批判を提起しました。ここで再び左右の対立が再燃し、さらに労働戦線も総評に対抗して、全日本労働組合会議が結成され、折からの三井三池争議の分裂も重なり、日本社会党は再分裂に追い込まれ、遂に1960年には「民主社会党」が結成されてしまいました。ただ、民社党が分裂したものの、この時点では60年安保の改定、三井三池の争議など、大衆運動の盛り上がりに助けられ、社会党は野党第1党の地位を保持し続けます。さらに浅沼稲次郎委員長の刺殺事件もあり、むしろ党勢が拡大し、自社の保革対立の「55年体制」は、冷戦構造の安保体制の内部に定着をみることになります。米ソの対立が、保革の対立につながり、それがまた自社の「55年体制」の図式になったのです。
 冷戦下の55年体制の下で、日本社会党の立場は野党第一党の地位を維持しますが、民社党が分裂したこともあり、ますます左派色が強まります。例えば、党組織の改革運動に関連し、江田三郎などの構造改革運動が起りますが、この論争も国家独占資本主義論に関連して、レーニンの帝国主義段階に対し、新たな発展段階を設定することの是非が争われました。マルクス・エンゲルスの唯物史観の公式を前提にして、新たな生産力の段階を想定し、その生産関係として国有化など所有の社会化を強調する構造改革です。東独の理論家ツイシャンクが提唱、日本でも共産党内部で論争され、それが日本社会党の構造改革論に飛び火した論争と言えます。この論争も、初期マルクス・エンゲルスの唯物史観の枠組みの中で、生産力理論とも言える生産力の一層の高度化、それに対応した高度な生産関係としての国家資本主義を国家社会主義に構造改革する構想に過ぎません。
 また、この構造改革論争が、社会党内部の派閥対立に発展、左派の佐々木更三などが社会主義協会の協力の下に、綱領的文書「日本における社会主義への道」が決定されることになる。この「道」は、事実上プロレタリア独裁をはじめ、ソ連型国家社会主義をモデルとした路線であり、社会民主主義政党の国際組織の「社会主義インターナショナル」加盟政党としては、まさに異色の社会主義政党になりました。そして、東側のソ連・中国、さらに東独などとの交流を続け、上述の通り六全協の後、ソ連・中国と決別した日本共産党の自主独立路線とは対照的な対外交流を続けることになったのです。しかし、こうしたソ連寄りの左傾化路線をとればとるほど、もともと民主化と平和憲法など議会主義、そして非武装中立論に基づく平和革命の路線との矛盾が拡大することにならざるを得ない。武装蜂起は避けるけれども、ブルジョワ国家の階級支配はブルジョア独裁であり、その権力を奪取するための革命方式は、議会と共にゼネストなどプロレタリアの実力行使である。しかし、すでに述べた「敵の出方」論は残る訳で、できる限り議会闘争とプロレタリアの実力行使の権力奪取に努力するのが平和革命、とでも説明せざるを得なかったように思われます。
 1960年代から70年代へ、定着した冷戦構造の中で、日本経済は高度成長を続け、近代化と都市化が進みます。しかし、日本社会党の党勢や議席は停滞、さらに低落に転じます。自民党の一強が進み、55年体制の中で社会党は「万年野党」と呼ばれました。とくに1969年の総選挙では、候補者を絞ったにもかかわらず、議席が140から90へと激減します。都市部での後退が目立ちましたが、国際的には中国の文化大革命の混乱、チェコ事件など東欧諸国での反ソ行動など、東側の動揺が始まる。また、60年安保闘争から70年安保へ、反スターリン主義など「新左翼」と呼ばれる過激派の運動、都市部での日本共産党の拡大と共に、公明党などの「多党化現象」、こうした内外の状況変化に対し、日本社会党が対応できないまま左傾化を続けたことが、低落の主な原因といえます。
 この時点での社会党の党内構成ですが、こんな整理があるので紹介します。「”由緒正しい右派”(結党から一貫して右派)は旧日労系を主体とする少数の河上派だけとなり、これが党の体質変化にも影響する。従って、社会党の派閥系譜は、右派の河上派と、あとは五月会―鈴木―佐々木派の左派主流、それに戦後の革新官僚派の和田派―勝間田派、松本治一郎と労農党から帰ってきた黒田寿男系による平和同志会ー安打同(安保体制打破同志会)となり、これらは、いずれもかっての左派社会党の構成部分であった。」(曽我祐次『エコノミスト』1989年10月23日)こうした左派の内部に、上記の構造改革論争や「日本における社会主義への道」の綱領的文書などが影響し、理論的・組織的な混乱が拡大したのです。とくに社会主義協会は「道」の提起だけでなく、組織的にも独自のテーゼや規約を持ち、「党内党」として活動した点が問題となりました。ソ連型社会主義を目指す社会主義協会が、レーニンのボルシェヴィキによる組織戦術の危険性を各派が懸念したとも言えます。こうして1977年の時点で、党内民主主義の確立、「道」の見直し再検討のために臨時党大会が開催されます。翌78年の第42回大会で飛鳥田一雄委員長の下で「社会主義理論センター」が設置され、学者グループを中心とする「綱領」「道」などの路線問題を巡っての全面的な論点整理が始まりました。
 この論点整理の作業は、国際情勢の大きな変化や党内外の混乱も重なったため、10年近い歳月を費やし、1985年12月の第50回党大会の続開大会で、ようやく「日本社会党の新宣言」として採択されました。この「新宣言』は、ソ連型国家社会主義の路線からの大きな転換であり、端的にいえば西欧型の社会民主主義への路線転換でした。その特徴は、(1)国際情勢は、米ソ両体制間の対立ではなく、その座標軸は多極化、多元化している。(2)国内情勢も、高度成長下の労使の階級対立から、ポスト工業化など産業構造の変化、労働者の階層分化、要求の多様化が進んでいる。(3)政権構想は、資本主義から社会主義への単なる過渡的政権ではなく、「抵抗の党から政権の党へ」脱皮する。(4)固定的モデルを構想し、その「出口」から「入口」を決めるのではなく、社会主義を創造的に模索して「入り口」から「出口」を求める。以上4点をめぐり、論争が全国的に行われました。こうした論争を通して、社会党内部の派閥も再編されましたが、党の体質や運動が大きく転換した訳ではない。
 「新宣言」が採択された1986年の衆参ダブル選挙でも、社会党の退潮は止まらず、それを受けて党首が交代、日本で始めての女性党首、土井たか子委員長が登場しました。ここで女性候補の擁立など、選挙戦術を大幅に転換、階級政党からの脱皮をアピールし、消費税導入やリクルート事件、農業政策への不満など、自民党の政策への国民の不満を吸収し、1989年の参院選では、自民が過半数割れに追い込まれる。ここで、ようやく西欧社会民主党なみに「政権交代」に手が届くかに見えました。しかし、1990年の総選挙では、事実上140議席を確保したにもかかわらず、十分な候補者の擁立ができないまま、自民の安定多数をゆるして政権交代に失敗しました。「新宣言」への路線転換、新たな党の顔としての土井たか子委員長、にもかかわらず古い党の体質や運動の結果による失敗だった。こうした結果が、さらに社会党の凋落と事実上の解散への道をたどることになりますが、この時点で国際情勢の激変、つまりソ連の崩壊と冷戦構造の終焉が待ち受けていたのです。
 「新宣言」の策定は、上述のとおり日本社会党の長期低落に歯止めをかけ、党内の左傾化による混乱と対立を回避するための路線の再検討でした。しかし、70年代から80年代へ、長期にわたる策定作業の間に、とくに国際情勢が大きく変化してきました。西側では、アメリカのドル危機が繰り返され、ベトナム戦争での敗北、EUの台頭など、また東側では、すでに指摘したハンガリー、チェコ、ポーランドと続く反ソ暴動、さらに中ソ論争から両国の軍事衝突、またアフガン侵攻など、ソ連型国家社会主義による組織統合が崩れ始めた。とくに中国では、毛沢東路線の文化大革命が失敗して、ト小平による改革開放への路線転換が始まります。こうした国際情勢の変化が、「新宣言」の策定に様々な影響を与えました。
 日本社会党の党内対立は、すでに説明したように左右の対立が中心ですが、さらに右派まで含めて、中国派とソ連派の対立もありました。左右プラス中ソの対立の二重構造です。「新宣言」策定に関しては、「道」の見直しを中心に作業が進められましたが、社会主義協会のソ連派に対して、佐々木派を中心に中国派の対立も絡んでいました。文化大革命は毛沢東路線でしたが、その前提にはソ連型社会主義のイデオロギー的支配があった。中ソ論争も、スターリンの覇権主義支配に対する毛沢東の反発であり、マルクス・レーニン主義への批判ではない。したがって、文化大革命の失敗も、ソ連型社会主義の教条化による破綻でもあったのです。だから、ト小平の改革開放への路線転換も、ソ連型社会主義のドグマからの離脱であり、脱却を意味していたのです。
 改革開放路線の方向は、一方では西欧型社会民主主義の受容であり、市場経済の大胆な導入です。財政・金融の管理を維持しながら、また土地の公有化や戸籍制度を残した出稼ぎ型「農民工」により、大胆な市場経済の導入を図る。改革開放は、単純に資本主義化を目指したわけではなく、西欧社会民主主義をモデルとした改革でした。同時に他方、マルクス・レーニン主義との関連では、レーニンのNEP(新経済政策)を採用し、経済的には市場経済の導入を認めるが、政治的には共産党の一党独裁の枠を守る改革路線です。「社会主義市場経済」と呼ばれるゆえんです。こうした中国の改革開放路線への転換が、社会党の「新宣言」策定の作業に一定の影響があったことは無視できません。「新宣言」が、西欧社会民主主義をモデルとしたことは事実ですが、それはまた同時に、中国の改革開放路線とも関連していた点に注意が必要です。
 さらに、中国の大胆な路線転換に続き、ソ連もアフガン進攻の失敗、ゴルバチョフのペレストロイカへの転換、そして86年の「レーニン共産主義記念チェルノブイリ原発」事故から5年後、「共産主義とは労兵ソヴェト権力プラス全国の電化である」(レーニン第8回全ロシア・ソヴェト大会1920年12月での演説)をテーゼとしたソ連型国家社会主義は、呆気なく崩壊を迎えたのです。同時に、東西二つの世界への分断という冷戦構造もまた、ここで終止符を打ち、さらに米一極構造から多極化へ向かっていると思います。社会党の「新宣言」は、一定の役割を担ったものの、こうした世界史の大転換には十分対応できなかっただけでなく、その政治的主体である日本社会党そのものが、早々と1996年に改名という形式ですが、事実上分裂し解散してしまったのです。
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by morristokenji | 2014-01-17 16:43
1)冷戦構造の形成と日米安保体制の成立

 1951年8月、アメリカは旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、続いて9月には、片面講和ながら一国占領下だった日本とサンフランシスコ講和条約を締結します。その上で、日米安保条約を結びました。同時にアメリカは、イギリス連邦のオーストラリア、ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、さらに1953年には、休戦協定に過ぎませんでしたが朝鮮戦争が終結したのを機に、8月に米韓相互防衛条約を結び、翌54年には中華民国と米華相互防衛条約と、文字通り立て続けに安保条約を締結しました。ついで9月には、アジア版NATOと呼ばれましたが、東南アジア条約機構(SEATO)を設立して、アジアにおいても、アメリカ中心の安保体制の構築を急ぎました。
 こうしたアジアにおけるアメリカを頂点とした安保体制は、ヨーロッパを初めとする、中東などを含めたグローバルな規模の冷戦構造によるものです。1945年以降、米ソの対立による東西「二つの世界」に地球が大きく分断され、この東西対立が91年のソ連崩壊まで続き、世界史上類のない異常な時代が訪れたのです。米ソの対立は、むろん第2次大戦以前からありましたが、しかし大戦中は、両国が連合国として一致協力し、日独伊の枢軸国と戦いましたから、戦後のスタートの時点では、米ソ両国が戦勝国として協力し、ヨーロッパやアジアの占領地域の戦後処理に当たりました。その米ソが、なぜ早々と対立に転ずることになったのか?
 第2次大戦の中で、独ソ戦ではソ連が大きな犠牲を払いながら、ドイツに勝利しました。この勝利が連合国の大戦勝利につながり、ソ連の影響力は戦後大きく高まりました。とくにヨーロッパ各国では、共産党の勢力が急激に拡大、保守勢力の脅威となります。アジアでも、日米戦争では米軍の戦闘力が日本軍を圧倒し、広島・長崎への原爆投下が、日本の降服に繋がりました。しかし、日本降服の決め手となったのはソ連の参戦であり、ソ連の対日参戦によって、中国共産党の解放軍が、中国国民党との内戦に勝利して、1949年には共産主義の中華人民共和国が誕生したのです。そして、50年2月には、早くも中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれ、中ソは同盟関係に入ります。こうした戦後のソ連の脅威が、米ソ冷戦構造の大きな原因でしょう。
 もちろん第2次大戦の勝利者としては、アメリカの犠牲も大きいものの、1950年代のアメリカは世界のGNP の約4割、金と外貨の保有が約5割に上り、戦争の勝利者として圧倒的な富の集中を実現しました。対照的に大英帝国の地位は大幅に低下し、アメリカの富とドルの力に依存しなければ、戦後の復興も経済の再建も不可能になったのです。大戦終結に先立つ1945年2月のヤルタ会談では、米ソ英の三国首脳の間でも、まだ米・ルーズベルトとソ連スターリンの対立は目立たず、戦後処理の方向が提起されました。しかし、反共主義の強いトルーマン大統領に代わり、「反共・封じ込め政策」から「トルーマン・ドクトリン」1(947年3月)、さらに米マーシャル国務長官のヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)が打ち出され、全体主義と自由主義のイデオロギー的対立が決定的になる。この時点で、1949年4月英仏が主体になって、「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを押さえ込む」反共封じ込めの西側陣営の多国間軍事同盟NATO(北太西洋条約機構)が成立します。
 他方、独ソ戦で勝利しソ連は東欧諸国に駐留し、そのもとで共産主義的な政権が樹立されます。当初は、「反ファシズム」のスローガンで社会民主主義勢力との連立政権でしたが、しだいに西側との対立から共産化が強まり、1947年10月戦前のコミンテルンを継承するコミンフォルムが結成、ソ連共産党一党支配が強まります。ただ、枢軸国の中心だったドイツとオーストリアについては、はじめ米英仏ソの4カ国に分割して、占領統治していました。しかし、占領方式や賠償問題で米英仏3国とソ連の対立が深まり、1949年には西側占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域はドイツ民主共和国(東ドイツ)に分割されることになりました。首都ベルリンも、初め4分割されていましたが、東西への分割で西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に孤島のように取り残されます。冷戦の対立の中で、1948年ソ連によるベルリン封鎖が行われ、西側は空輸を余儀なくされる事件も発生します。ただ、封鎖そのものは、約1年後に解かれました。
 同じような事件が朝鮮半島で起りました。戦前、日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談で北緯38度線を境に、北をソ連、南をアメリカが占領、朝鮮半島は不幸な「分断国家」になりました。このため1950年6月、ソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国と武力衝突、朝鮮戦争が勃発します。それに中華人民共和国の「義勇軍」も参加、戦闘が1953年まで続いたことは上記の通りです。さらにアジアでは、フランス領インドシナ半島でベトナムの共産勢力が独立を目指し、第1次インドシナ戦争が起りました。これにもアメリカが介入、ジュネーブ協定により北緯17度で南ベトナムを建国しました。これが後のベトナム戦争の引き金となったのです。
 以上、第2次大戦の終結以降、米ソ超大国を頂点とする東西2つの世界への分断について、その概略を紹介しました。東西2つの世界の対立は、米ソが軍事力で直接戦う「熱い戦争」ではない、という意味では「熱戦」に対して「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれています。その冷戦が、戦後50年近くも続いたという点で、世界史の上でも異常な時代だったと言えるでしょう。冷戦といっても、米ソが正面から衝突する戦争は回避されましたが、朝鮮戦争やベトナム戦争、中東戦争のような局地的、代理戦争が継続的に行われましたから、決して平和だった訳ではない。多くの戦争の犠牲や破壊が続きました。しかし、米ソの超大国が全面的な核戦争を回避してきた点では、やはり冷戦時代であり、冷戦による東西世界の共存の時代だったのです。しかも、この冷戦体制は、異常な形で二つの世界が共存したのですが、その異常な点は以下のように纏められるでしょう。
 (1)「鉄のカーテン」「ベルリンの壁」「38度線」、これらの表現から言えるのは、東西二つの世界の分断が、物理的な東西、または南北の遮断で成立したことです。「鉄のカーテン」は、東西両陣営の緊張を例えたもので、文字通りの物理的な遮蔽ではありません。しかし、1946年チャーチルが米の大学で講演した際、「バルト海からアドリア海まで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが下ろされた」と述べたそうですが、この例えそのものが、東西分断の特徴を表現しています。だから、東西対立の象徴となった「ベルリンの壁」は、実際に壁で物理的に東西を遮断して、相互に対立を続けることになった。東北アジアの朝鮮半島とヨーロッパとの違いがありますが、朝鮮半島の38度線でも、休戦のまま現在でも南北が分断されている、物理的な軍事力の抑圧で60年の長期にわたり、二つの体制に分断され続けているのです。
 (2)西の資本主義・自由主義、東の共産主義・全体主義、この表現が意味しているのは、二つの世界がそれぞれイデオロギー的に組織統合されている点です。西側は、個人主義に基づく市場の自由競争、そして政治参加は議会を中心の民主主義、それに対し東側は、ソ連共産党を頂点とするプロレタリア独裁、中央集権型の計画経済、いずれも上からのイデオロギーによる体制の組織的統合に組み込まれている。西側の外交関係は、いわゆる価値観外交で、あくまでも「自由と民主主義」を前提とする「人権外交」で国際関係で結ばれることになっている。対する東側の国際組織は、ロシア革命以降のコミンテルンによるソ連型共産主義のプロレタリア独裁を教義とするもので、それを戦後コミンフォルムが継承し、社会主義への多様性は否定、ソ連型マルクス・レーニン主義によるプロレタリア国際主義の連帯でした。そして、西側はNATOへの加盟により組織化され、東はワルシャワ条約機構への加盟で組織されました。
 (3)核開発・核軍拡競争に象徴されますが、冷戦といっても戦争体制であり軍事経済です。熱戦であれば、殺し合いですから3-4年で戦争は終了、戦後の平和が到来する。しかし、冷戦は熱戦のようには終戦が来ない。冷戦の時代が半世紀近くも続き、アジアではまだ続いているのは、冷戦だからです。しかも、冷戦で超長期にわたり「産軍複合体制」という名で軍事経済が継続されますから、その経済負担が極めて大きい。深刻な財政危機に見舞われます。
 もともと高度工業化による重化学工業は、軍需産業との親和性が強く深い。重化学工業を基礎に金融資本の蓄積は、冷戦構造により完全に産軍複合体制に融合してしまう。しかも、第2時大戦末期に原子爆弾が開発、広島・長崎に投下された。戦後は原子力を中心に核開発・核軍拡の東西間競争が展開され、それが冷戦構造の下で「平和利用」の名による原子力発電として実用化された。東西・米ソの核軍拡競争と原子力発電の安全神話による拡大競争は、冷戦構造の産物です。
 さらに二度の世界大戦は、国民総動員による総力戦ですから、産軍複合体制の下で労働力の雇用を動員拡大する。したがって、雇用拡大を基礎とする西側の福祉国家の完全雇用も、「福祉国家主義」として、冷戦構造に体制内化し、定着をみることになります。西側は福祉国家主義として完全雇用を実現しようとするし、東側はプロレタリア独裁の名の下に完全雇用を実現しようとしますが、冷戦構造の下では、東西共に産軍複合体制の核軍拡競争の成長・拡大再生産だった。こうした冷戦構造の長期化は、いずれ破綻をみることになりますが、現実には東のソ連の崩壊が先に来たのです。
 
 2)安保体制と日本共産党の対米従属路線

 日本共産党は戦争直後、占領軍を解放軍として一面的に評価し、平和革命路線を提起しました。しかし、コミンフォルムの機関紙で批判を浴び、一転して反米武装闘争による「軍事方針」へ180度転換するなど、大きな混乱を重ねました。しかし、1951年にはサンフランシスコ講和条約、そして日米安保条約が締結、続いて53年には朝鮮戦争も休戦を迎えました。この時点で、日本も占領体制から戦後の冷戦構造に組み込まれた、と言えます。こうした中で1955年7月、日本共産党は第6回全国協議会、いわゆる「6全協」を開催、従来の中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議しました。ただ、ここで完全に議会主義に転換した訳ではなく、「内外の反動勢力が非平和的な手段に訴えない限り、政治的暴力は行使しない」という条件付きの「敵の出方論」でした。また、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握り、「再統一」を進めました。さらに58年の第7回、続く61年の第8回の党大会において、1950年代の混乱について全体的に総括、ソ連や中国からの干渉を排する「自主独立路線」に踏み切りました。その後は、スターリン批判もあり、いわゆる「トロッキー主義者」との対立が始まり、とくに1960年安保闘争では、強硬な運動路線を主張する学生運動の「反日共闘争」との激しい対立をもたらしました。この対立は、70年代の「大学紛争」まで続きます。
 しかし、「6全協」以降の合法路線への復帰以後は、次第に党勢が拡大し、とくに60年の第29回総選挙からは全選挙区に公認候補を擁立し、得票率を伸ばします。その限りでは日本共産党は、米ソ超大国による戦後の冷戦構造が定着する中で、上記の「自主独立路線」を確立させつつ、中・ソ対立などによる国際対立からの影響を乗り切り、議会主義の合法路線で党勢の維持拡大に成功した。しかし、日本共産党が社会主義への革命を目指す政治勢力としては、党勢の維持拡大とはいっても、議会の中でほんの一角を占めるだけに止まっています。とても体制を根底から揺るがし、その変革を実現するには、距離がありすぎる。その反面、ハンガリーに始まり、チェコ、ポーランドへの東欧諸国の反ソ暴動の拡大、さらにソ連の崩壊など、社会主義の運動だけでなく、思想と運動そのものが、根本的に問われる時代を迎える。その辺の問題点を探る意味で、日本共産党の綱領を中心に、革命路線をめぐる論点をチェックしましょう。
 日本共産党が戦前から戦後へ、多くの混乱と紆余曲折、さらに激しい浮沈を重ねましが、その歴史的出発点を1922年7月に置いています。すでに紹介しましたが、ここで結党したものの、一旦解党しています。堺利彦、山川均など、ロシア革命やボルシェビズムに反対の労農派が抵抗したからです。にもかかわらず、当時のコミンテルンの指導の下で、ボルシェビキ革命のソ連共産党をモデルにして再建されたのです。すでにコミンテルンも、戦後のコミンフォルムも解散し、さらにマルクス・レーニン主義のプロレタリア独裁によるソ連そのものが崩壊してしまった。しかし日本共産党は、その原点だけは捨て切れないようです。現行の綱領でも、次のように述べています。
 「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、1917年にロシアで起った十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指揮した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義を目指す一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。<社会主義>の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」
 プロレタリア独裁、労兵ソヴィエトの権力奪取、ボルシェヴィズムなどによるロシア革命は、レーニンの名と共に守護する、そしてソ連体制の負の部分は、すべてスターリンなどの歴代指導部の責任として葬り去る。こうした批判の手法は、反スターリン主義の名の下に、レーニンやトロッキーを擁護するいわゆる新左翼の手法と同じではないか?ソ連の崩壊は、ロシア革命の失敗であり、ソ連型社会主義の破綻ではないか?ボルシェヴィズム、そしてマルクス・レーニン主義のドグマの破産であって、レーニンの理論的研究の部分的評価はともかく、その革命論、運動論、組織論を批判的、否定的に総括すべきではないのか?マルクス・レーニン主義に変えて、「科学的社会主義」の表現を使うのは歓迎だが、ただ表現だけを変えれば、ロシア革命やボルシェヴィズム=マルクスレーニン主義が救済されたり免罪される訳ではないと思う。
 ロシア革命やボルシェヴィズムの評価に関連しますが、戦前日本の権力支配構造の認識も、コミンテルンによる27年、32年のテーゼを基本的に踏襲しています。したがって、ロシア革命を模した二段階革命を継承している。詳述は避けますが、戦前から戦後への転換を、ブルジョア革命、民主主義革命として評価できませんから、また肯定したら占領軍を解放軍として美化することになってしまうから、戦後も二段階革命の枠組みだけは保守せざるを得ない。そこで、平和憲法など民主主義の拡大、寄生地主制の崩壊など、戦後改革の現実だけは踏まえ、戦後の権力構造としては、日米安保体制の米軍の支配を一面的に評価し、アメリカ帝国主義への「従属」を強調します。この従属からの解放を内容として「独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人を結集した統一戦線と日本共産党が国民多数の支持と国会の過半数を得て政府を作る」、民主連合政府による民主主義革命を第一段階の革命とします。
 その上で、「社会主義を支持する国民多数の合意と国会の過半数をもとに、社会主義をめざす権力をつくる」として、第二段階の社会主義革命とされています。そして、その権力のもとにつくられる具体的な制度内容ですが、抽象的に「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す」ことで、生産手段の社会化の内容は不明確です。さらに共産主義としては、搾取や抑圧がなく「国家の死滅」が実現される夢が語られますが、ここでも制度設計や社会の仕組みは具体的な記述がありません。ともかく第一段階で「資本主義の枠内で可能な民主的改革」が実行され、その上で第二段の社会主義・共産主義への革命へ進むことだけの提起にすぎません。ロシア革命の二段階革命の枠組みを守り、それを教条的に守護しようとするため民主連合政府を想定し、その上で社会主義革命を主張することになっていることが判ります。
 しかし、安保体制による対米従属からの解放を求める民主連合政府にしても、そもそも従属の内容が占領下なのか、植民地支配なのか、あまりはっきりしない。すでに戦後の冷戦構造について述べたように、安保体制は米ソ超大国による二つの世界の対立のためのイデオロギー=価値観による特殊な組織統合です。その統合の方式も、西ヨーロッパのような共同体的な統合と、アジアの二国間の条約・協定の垂直的方式の統合で違ってくる。それに、そもそも二つの世界の対立が前提ですから、一方のソ連が崩壊、冷戦構造が転換すれが、今日の日米関係をはじめ権力関係が変化せざるを得ない。すでに多極化の動きが強まっている。そうした変化に対応した対外政策を含む政策が提起されなければ、民主連合政府への結集もまた、狭い、少数のイデオロギー集団の結集に終わりかねないでしょう。
 さらに繰り返し強調しているようにソ連の崩壊は、レーニンと共に初期のマルクス・エンゲルスからのイデオロギー的仮説に過ぎなかった唯物史観の枠組みに還元するマルクス・レーニン主義のドグマの再検討を迫っています。それは、社会主義のあり方が問われているのであり、その再検討を避けて、例えば上述のように「マルクスレーニン主義」を「科学的社会主義」に言い換えたり、また綱領の一部改訂に際して「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」の後半の「プロレタリア独裁」だけを「プロレタリアート執権」に言い換えてみても、それだけでは言葉の上の言い逃れに過ぎないでしょう。国家のあり方、資本主義経済と国家の関係など、多くの論点が検討されるべきでしょう。そうした検討の中で、崩壊したソ連型社会主義を超えた、新しい社会主義のヴィジョンの提起が可能になりと思います。
 
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by morristokenji | 2014-01-08 20:20