森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji

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 内閣総理大臣には専決の権限が二つ、一つが衆院の解散権、もう一つが内閣改造の人事権だそうですが、第2次安倍改造内閣がスタートしました。新内閣の顔触れには、いろいろ評価が分かれていますが、女性の活躍を進めるため過去最多に並ぶ5人の女性大臣を起用しました。それが効果を発揮したようで、低下していた内閣支持率が急上昇しました。「困った時の女性頼み」が当面成功しています。しかし、女性大臣のポストを増やせば、何でもかんでもうまくいくわけではない、安易な利用主義の「女性戦略」には疑問です。
 女性の差別をなくし、男女共同参画型社会の創造には、むろん賛成です。しかし、とくに最近の「人手不足」経済の解決のために、外国人労働力の利用やロボットの活用などと並んで、少子化対策とともに女性労働力の利用が急に騒がれだした。会社でも、役所でも、管理職に女性を登用するのを手始めに、女性労働力の利用で人手不足を少しでも解消しようとしています。とくに人手不足の深刻な建設現場では、鉄筋工、型枠工、塗装工の技能者まで含め「性差」を無視して、女性を5年間に倍増させる行動計画を立てる。そうした風潮の旗振りに女性大臣のポストを増やし、大臣の数も増やす、そんな感じが強いように感じます。アベノミクスの成長戦略の一つなのでしょう。
 
 もともと英スコットランドに始まる産業革命の機械制大工業の工場制度の普及は、それまでの成年男子中心の熟練労働力を排除、児童労働や女性の単純労働力の導入による企業経営への制度改革でした。女性や子供の労働力を低賃金で安く、かつ長時間働かせ、そして過酷な労働条件で使ったため、「工場法」の制定に追い込まれた。日本でも、戦前の「女工哀史」に代表される、女性労働力の厳しい搾取の歴史があった。戦後、労働者保護立法が整備されたとはいえ、女性労働力の利用は続きました。
 高度成長が始まる中で、まず農家の次三男を中心に、地方の農村部から若年労働力が東京・名古屋・大阪の三大都市圏の臨海工場地帯へ集団就職しました。「金の卵、ダイヤモンド」と持て囃されての若年労働力の利用でした。若者男女を奪われた農村は、高齢化とともに農業の後継者が不足し、爺・婆・嫁のいわゆる「三ちゃん」農業に追い込まれました。
 若年労働力が不足してくると、臨海部の輸入エネルギー資源型から、内陸部の電気や電子、自動車など高度加工組立型の企業誘致が進みました。誘致工場には、「父ちゃん」が長期出稼ぎに出てしまった後、「独り寝」の嫁の「母ちゃん」が通勤出稼ぎで「共稼ぎ」が始まった。これは夫婦仲良く農業で「共働き」ではない、長期の夫婦別居の「共稼ぎ」の共同参画が始まりました。若者がいなくなり衰退した農業から、さらに誘致企業に「母ちゃん」も奪われる。もともと家産型の家業経営の農家経済は「爺・婆経営」に追い込まれました。若年の後継者を失い、高齢者経営の農業生産性は低下せざるをえない。それだけではありません。
 安価で頑張りの利く若い農村女性の労働力に支えられ、誘致企業の輸出競争力が各段に増強しました。輸出にドライブがかかり、輸出主導の高度成長経済が実現したのです。輸出によってドルを稼いで円高へ、1ドル=360円の固定相場制から変動為替相場制に変わり、為替相場は大きく円高・ドル安にシフトします。その結果、円高で割安になった原油と共に、海外から安い輸入農産物が急増する。安い輸入農産物に市場を奪われて、「爺・婆経営」の農村経済は破綻して切捨てられてしまう。若年労働力と女性労働力を輸出産業に奪われ、輸出主導型の経済成長により、急激な円高=ドル安の実現、そして安価な輸入農産物の大量流入こそが、日本の農山漁村の衰退の構造的な原因であることを見逃してはなりません。
 こう考えると、「男女平等」「男女共同参画」の謳い文句で進んだ、若年労働力と女性労働力の急速な社会進出、社会参加こそ、農山漁村を切り捨て、中山間地を限界集落に追い込んだ原因である、まことに皮肉な話です。こうした日本経済の成長戦略を変えることなく、ただただ女性労働力の利用を拡大し、社会参加を促すことは、アベノミクスのもう一つの成長戦略「地方創生」どころか、日本の農産漁村の衰退による地方の切り捨てにつながる。そればかりか、都市における女性の社会進出もまた、同じような論理が働いています。
 農山漁村が第一次産業の切り捨てで崩壊する中で、急速に都市化が進みました。都市化の拡大も、まず東京・大阪・名古屋の3大都市圏と地方圏の地域格差、さらに東京・首都圏への一極集中の格差拡大です。格差社会は、とくに日本の場合は、所得や資産の「貧富の格差」と結びつき、地域格差として拡大した。こうした地域格差拡大による都市化の中で、女性の社会進出もまた進みました。アルバイトやパート労働の拡大だけでなく、正規雇用に対する非正規雇用の増大も、女性労働力を中心に進んでいます。それは、男性労働力よりも女性労働力の場合、過半数が非正規雇用であることによっても明白です。女性労働力では、すでに正規と非正規が逆転、非正規雇用が正規雇用になっている。とすれば、女性の社会参加としての雇用拡大は、何よりも非正規雇用問題の解決が先決問題であり、その解決の中で社会参加も拡大しなければ嘘でしょう。
 80年代を迎え、日本経済も工業化時代の成長が終わり、いわゆる経済のソフト化・サービス化が進みました。ICT革命も加わり、金融や流通、教育、福祉の領域に雇用が拡大し、そこに女性労働力が進出したのです。農業に続いて、家産型経営の小売業が、大規模スーパー量販店の全国ネットに淘汰される。郊外型のショッピングセンターにより、中心商店街がシャッター通りに変わる。進出するスーパー量販店に働く労働力も、大半が家庭の主婦などパートのママさん労働力です。
 同時に大学進学率が上昇し、学生アルバイトが急増する。アルバイトの機会の存否如何が、各大学の学生募集を左右する。学生もアルバイトの合間に授業に出席し、ゼミに参加する。アルバイト学生を抜きに飲食など都市型産業も成立できなくなる。アルバイトの延長で、就活も行われる。大学は、今や都市型産業のアルバイト労働力のプールであり、雇用の調節弁になってしまった。その学生のために、多くの母親もパートに出る。母親がパート、息子・娘の学生アルバイト、その母子の組み合わせで、大学など都市型産業も成り立っているのが現状です。
 こうしたソフト化・サービス化による都市化の中で、女性労働力の拡大が進んできた。地方に取り残されていた高齢者も、盆暮れに里帰り、墓参りに来る子供や孫を待つ時代が終わりました。高齢者の方が、家を捨て、墓も捨てて、都市化の波に呑み込まれる。しかも、都市の居住では、同居家族の形態は難しい。核家族化を前提して、都市に引き取られた高齢者は、爺婆の老夫婦世帯、さらに単独世帯の独居老人として生きる。この都市居住の高齢者が、都市化で拡大する女性労働力のサポーターになる。働きに出る息子・娘のために、爺婆が「子育て」ならぬ「孫育て」の男女共同参画となる。先ずは若き日の「子育て」、次が「舅・姑の介護」、その後にやってくるのが「孫育て」、今や都市の老人ホームは別居している「孫育て」の託児所であり保育所になって、非正規雇用の女性労働力の拡大を支えています。
 アベノミクスの成長戦略に、またもや女性労働力の活用が登場し、女性閣僚の大臣の顔が華やかに並びました。それと同時に、地方再生の担当大臣も新設され 人口減少や地域再生の司令塔として、「まち・ひと・しごと創生本部」がスタートした。しかし、戦後の女性労働力の利用拡大こそ、地域格差を拡大し、地方の切り捨てと都市問題の深刻化をもたらしたのではないか。すでに英国では、「スコットランド独立」の投票が行われ、スペインやオランダ、イタリー、カナダでも、近代国民国家の枠組みを超えて、地域の民族独立の動きが始まっている。来年の地方選挙向けの小手先の「地方再生」戦略でお茶を濁している時代ではない。近代国民国家のあり方が、根底から問われる「地方の時代」の到来ではないのか?そんな気がします。
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by morristokenji | 2014-09-07 15:25

労農派・あとがき

 1938年(昭13)2月1日の夜のことを、よく覚えている。子供の寝ている枕元で、両親が何時にもなく真剣な表情で、深刻に話し合って考え込んでいたからです。テーブルに広げられていたのが当日の新聞の夕刊で、「人民戦線事件」により、早朝「東大の大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、法政大の美濃部亮吉、阿部勇、そして東北大の宇野弘蔵の教授グループ」が一斉に検挙された報道でした。すでに前年の12月15日には、山川均や向坂逸郎、大森義太郎などが逮捕され、この第1次検挙に続く第2次が行われ、夕刊の一面トップで大々的に報道されていたのです。
 当時、両親は超零細の家内工業的な出版業を経営、大内兵衛、向坂逸郎、美濃部亮吉などの左翼系教授グループの著書を何冊か出版していました。また共産党系では風早八十二の『労働の理論と政策』など、1冊でも発禁処分を食らえば、中小零細の出版業など、たちまち倒産、一家は路頭に迷いかねない。両親の心配は発禁処分でしたが、その時は何とか切り抜けたものの、そのご戦時統制による企業合同で大手出版社に吸収、合併されてしまいました。
 そのとき6歳ですから、幼児体験とは言えませんが、労農派教授グループの名前だけは、その夜の情景と共に少年の頭に強く焼き付いてしまったようです。父親は戦争に反対で、「アメリカと戦争して負けるに決まっている」と漏らしていました。これが世間のいう「非国民か」と思いながら、大詔奉戴日には靖国参拝、勤労奉仕で掃除まで励んで「武運長久」を祈っていた銃後の少国民でしたが、父親の言うとおり神国日本は敗戦。ポッダム宣言受託で無条件降伏、亡国の民として「国家喪失」を経験したのです。
 戦後、労農派との出会いは、朝鮮戦争で冷戦体制が構築される中、大学一年の教養の「経済学」の講義でした。たまたま大内 力先生が、駒場の大教室で、宇野弘蔵の経済原論の内容を、熱心に明快に講じました。東大での講義は初めてであり、矢内原忠雄の東大改革の実践でもあったと思います。実に熱のこもった、アカデミックな名講義に魅了された学生も多かった。経済学部への進学を決め、大内先生の農業問題のゼミに参加しました。例年行われていた農村調査にも参加、今度の3・11大震災で原発被災の犠牲になった福島の相馬地方にも出かけた思い出があります。懐かしい思い出です。
 大学院進学では、宇野弘蔵ゼミを強く勧めたのも大内先生です。戦後、宇野三段階論の完成の過程に宇野ゼミに参加できたことを誇りに思っています。宇野理論の戦前から戦後への発展、ゼミの講義だけでなく、座談の名手と言われる宇野先生から、本郷界隈の喫茶店で、仙台の思い出を楽しく、繰り返し聞くことができた。そして宇野先生の勧めもあり、1963年から東北大に勤めることになったが、ここで労農派との地縁と人脈がさらに強まることになったのです。
 学生時代は、駒場歴研(歴史学研究会)に参加し、『されどわれらが日々』の世代でもあり、日本社会党との関係は特に無かった。仙台に移り、斉藤晴造はじめ東北大学の関係者、東北学院大の高橋正雄、それに美濃部都政と共に革新市長の仙台・島野武市長のブレーンの面々、戦前の宇野ゼミ関係者では、小岩忠一郎・仙台市助役などとの交流が始まった。社会党の委員長を務めた佐々木更三、彼は「人民戦線事件」で労農派教授グループの宇野弘蔵と共に塩釜警察署に留置された仲でもあった。宇野・佐々木の両人から、東京と仙台で戦前労農派の活動を、いろいろ聞く機会にも恵まれました。
 労農派の人脈や地縁の強さという点では、東北大の吉田震太郎さんに頼まれ、山形県の置賜の農村で、マルクス『資本論』の読書会に協力していました。宇野先生は戦前から、『資本論』なら「何処でも誰とで読む」のが信条で好意的だった。向坂さんにも、鷺宮の御宅で奥様ともども歓迎して頂きました。戦前の教授グループの出版の縁もあり、「社会主義協会」の流れをくむ置賜の研究会への協力には、非常に好意的で感謝された。宇野vs向坂の理論の対立はあっても、政治的に利用しない戦前の労農派の絆は実に強い。
 佐々木更三さんとの地縁もあったのでしょう、日本社会党の路線問題で「日本における社会主義への道」の見直し、いわゆる「新宣言」のための「社会主義理論センター」に協力しました。ソ連・東欧の社会主義の行き詰まり、中ソ論争と中国の文化大革命の失敗から改革開放路線への転換、広く冷戦構造の戦後体制の破綻の局面で「20世紀社会主義」と向き合うことになったことに後悔はありません。しかし、あまりにも遅かった「道」の見直し、さらに「新宣言」がモデルとした西欧社会民主主義の歴史的行き詰まり、それに戦後、労農派の結集軸になるはずだった「平和経済計画会議」が、その役割を果たしえないまま終わっている点が非常に気になります。
 ソ連崩壊の時ですが「じつは、私は90年モスクワの全ソ労評に行き関係者の話を聞いた。そこで、こういう言葉が出てきた。今のペレストロイカ、ソ連、東欧の激変をどうみているのかという問いに対しては、人間にとって幸せな社会というものを、イデオロギーだけで人々に押し付けてはだめである。それが七十年間のソ連体制の失敗の教訓だった、と語っていた。」(拙著『世界と日本 新しい読み方』講談社1991年刊)このボルシェビズムの完全敗退に対して、対抗軸だった西欧社会民主主義の政党から、勝利の歓声を聞くことはなかった。ヒアリングにたいしては、むしろ台頭するサッチャーなど新自由主義への強い危機感だったことを思い出します。
 これは人脈や地縁ではない、まさに奇縁です。1982年、在外研究で10ヶ月ロンドンに滞在したとき、マルクス死後100年の前年だったからでしょう、BBCが「K・Marx in London」を放送しました。キャスターはオックスフォードのAsa Briggs教授、当時から日本社会党の研究で知己だった日産日本問題研究所のA・Stockwin教授に同道を願い、Briggs教授を訪問した。その時、「貴方はマルクスを研究してきた、是非モリスを研究しなさい。自分はモリスからマルクスだったが、順序はマルクス―モリスだ」ここでライフワークのテーマが決まったのです。
 東北大を退官後、『資本論』と社会主義を中軸にして、マルクス―モリスを研究し、さらにマルクス・モリス社会主義の日本への導入を追跡、その際モリスと宮沢賢治の接点を知った。日本におけるモリスと賢治、この2人の天才的巨人の「点と点」を結んでいく、幸徳秋水の『社会主義神髄』、堺利彦『理想郷』、山川均「マルクスの『資本論』」点線が実線に、細い線が次第に太く、そして宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」、労農派シンパとしての花巻・羅須地人協会の活動であり、アート&クラフツ運動の実践につながった。
マルクス―モリスの社会主義は、日本の明治、大正、昭和へと「正統マルクス主義」としての労農派社会主義として継承されていたのです。
 この10年、仙台・作並に開いた「賢治とモリスの館」で、堺 枯川の書「蕨生うるや 茸いずや わが故郷の痩せ松原に」を目にしながら、モリスから賢治への労農派社会主義の山脈と水脈の豊かな伝統を痛感している。同時に、ポスト冷戦の現実を前に、モリスが『ユートピアだより』で訴えた、21世紀さらに22世紀を目指す「社会主義」のヴィジョンの復権を期待せざるをえないのです。
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by morristokenji | 2014-09-01 14:06