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by morristokenji

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、 Ⅰ。-生涯
 近代社会主義の経済理論の現存する最高の代表者カール・マルクスは、1818年5月2日トリアで生まれた。彼の父親は、バプチスト系のユダヤ人で、町では高い公的地位にあった。彼はボン大学で法律を学び、1840年ごろ優秀な成績で試験に合格し、そのあと故郷の町に戻った後、3年間ほど個人的にはジェントルマンとして過ごしたらしい。1843年にジェニイ・フォン・ウエストファーレンと結婚したが、彼女はのちに内務大臣のメンバーになった有名なウエストファーレン氏の妹である。哲学と政治経済学は、その時代の大きな社会問題に関連していて、大学卒業後の彼の主要な研究となったし、ブルジョア的な政治家や経済人には幽霊だった「過激な社会主義」にも接近した。これにより彼は、政府の仕事(それは彼の才能や経歴からすれば間違いなく高い地位に就くことが考えられていたが)につくのを断念した。そして、彼が近づきつつあると考えた革命のために身を投ずる決断をした。そこで結婚後すぐ、彼はパリに赴き、故アーノルド・ルーゲと共に『独仏年誌』の編集者になった。彼はまた社会主義者の『前進』紙も編集した。しかし、12か月も経たないうちに、パリを離れ、住居をブリュッセルに定めざるを得なくなった。彼はそこで文筆活動をして4年程、1848年3月にベルギーを追われるまで、とどまった。そしてパリを短期間訪れた後、ケルンに一時的に落ち着く場を見つけた。そこでは革命的動乱が最高に高まっていた。そこで彼は再び『ライン新聞』の編集に従事したが、彼の批評の厳しさ、革命政党の失敗などが原因となり次の年(1849)には弾圧されてしまった。彼はパリに戻り、短期間そこで滞在し、そのあとロンドンにやってきた。ここで彼はずっと住むことになった。カール・マルクスは1848年から大陸の革命運動のほとんどすべてについて、指導的な時代精神をなしてきた。けれども、彼の名前は『国際労働者協会』の組織と指導部の一人として、英国の新聞の読者には馴染み深いだろう。彼の偉大な『資本論』を別にして、多くの匿名の著作の他にも、マルクスは膨大な著作、パンフレット、政治的社会的問題についての論稿の著者である。最も重要なものを示すと、ブルノー・バウアーとその一派への批判『聖家族』、これはF・エンゲルスとの共著で1845年にフランクフルトで出版された。『哲学の貧困:プルードンによる貧困の哲学への回答』パリ1847、『共産党宣言』ロンドン1847。ナポレオンⅢ世を直接対決した匿名での政治的歴史的スケッチで、ブルメール18日と題された。(『資本論』の基礎をなすが)最も重要一八五七年にバーデンで出版の業績『経済学批判』がある。カール・マルクスは彼の母国語と同じくらい自由にフランス語や英語で書いていることを指摘したい。

 Ⅱ。-経済学原理
カール・マルクスの理論の全てが、彼の最高傑作『資本論』に結晶されているのが解る。近代社会主義の経済法則の要約は、それゆえこの作品に限定すればいいだろう。『資本論』の初版は、1867年に、再版は加筆されて1872年い出版された。それはまだ不完全で、第一巻だけしか出ていない点に注意すべきだ。『資本論』には、その革命性や広範囲な接近の重要性の点で、天文学のコペルニクスの法則、力学における万有引力の法則に匹敵する経済法則の解明が含まれている。高利貸や利子をとって貸すことは古代から現代も同様に、しばしば悪口を叩かれ非難されてきたが、それは単に流通を通過しただけで、貨幣が元の所有者にプラスの増加をもたらすことについては、「全く正しくはない」という本能的感情によるからである。恐らく古代ではアリストテレスが、この見解の顕著な代表者である。しかし、それを非難するもので、誰もそうすることへの納得できる理由を提起してはいないし、多くの場合、「利子」や「高利」のより難解な形態では弾劾しながら、日常生活の中では習慣化された形で躊躇もせずにその原理を受け入れているのである。それほどに絶対的に孤立してしまった大発見はないのだ。ショウペンハゥエルが別の主題に関連して述べているが、その出現まで時が熟する前に、その最終的で決定的な解明の前に、どんな偉大な真理を把握することでも、常に失敗の試みが存在してきた。しかし、彼はそれに加えて、公平に「その原因から真理を把握した者のみが、またそれをその結果まで考えた者のみが、その全体の内容を発展させ、その領域の全内容を視野に納め、この後でその価値と重要性を十分認識して、明快かつ関連させて説明する、そのものこそがその創造者である。このことはカール・マルクスについて明らかな事実であり、彼の偉大な業績を目にしたものであれば、少しも疑う者はいないだろう。老経済学者は、工業生産の実際の素材や生産が暴露されるのを見て、さらに彼のオポチュニストの説明が無常にも死刑に処せられているのを見て、時々は論争で文章上の儀礼の厳格な境界を越えたにしても、『土曜評論』の中で筆者が「無味乾燥な経済的問題に特別な魅力を添えている」みたように、少なくとも成功しているのだ。『資本論』、というより第一巻は「資本の生産過程」と題され、そこに830ページが含まれて、今や公刊されているが、7編25章に分かれている。第1篇は3つの章で「商品と貨幣」、第2編は1章で「貨幣の資本への転化」、第3篇は5章で「絶対的剰余価値の生産」、第4篇は4章で「相対的剰余価値の生産」第5編は3章で「絶対的および相対的剰余価値の生産」、第6篇は4章で「「賃金」、第7編は5章で「蓄積過程」。そのほか序文と付録である。
 
 「資本家的生産の支配的な社会の富は、巨大な商品の集積で現れ、その基礎的形態が個々の商品である。」第一章はこうした分層で始まる。マルクス博士は、実際的または使用価値と交換価値の説明に続いて、商品は単に労働の有形的形態に過ぎず、経済的意味における価値は様々な形で体化されている労働のシュシュの量に過ぎないというテーゼに敷衍する。この理論は「新しい原理」ではない。労働が勝ちの基礎だということは、有名なリカードなど先輩の多くの経済学者に受け入れられてきたものであるが、誰もそれを首尾一貫して説明し切っていない。分析の過程で、例えば禁欲とか土地の所有権とか、他の要素を仮定している。マルクス博士によれば、一定の時点で、あたえられた商品の価値は、与えられた平均的労働の量、時間によって決定される。ここから価値は商品の質的同一性で、量的にのみ異なるから、ある商品の価値は他の商品の物体によって表現される。

「商品リンネルの価値は、それゆえ商品上着の体、つまりある商品の(経済的)価値は他の商品の使用価値で表現される。使用価値として、リンネルは感覚的に上着とは別物であるとしても、(経済的)価値としては上衣と同じ質である。このような形で、それは自然的形態とは区別される価値形態を受け取るのである。丁度キリスト教徒の羊的性格が、神の子羊と同一物として現れるように、リンネルの価値は上着との同一物として現れる。」

 様々な付随した形態で価値が練り上げられた分析が30ページ以上に及び、最後的に商品の複合体から抜け出て貨幣形態に結果するが、それによりどんな商品の価値も価値の量的な程度は無論さまざまに含まれているが、この複合体から他のどんな商品にではなく、それ自身は使用価値を持たない第三者の一商品である貨幣形態に到達する。この第三者は貨幣に鋳造される貴金属である。こうしてポンド・スターリングは一定の労働量のサイン、象徴であり、それは上衣であろうと、10エレのリンネルであろうと、5ポンドの茶であろうと、10ポンドのコーヒーであろうと、1クォーターの小麦であろうと、4分の1トンの鉄であろうと、それぞれに体化された商品には関係ない。それゆえ貨幣の独占的な機能は、商品の交換、あるいは消費物との交換の手段として動くことであり、物々交換あるいは実際的でなく不便な直接的な交換を放棄する発展をもたらす社会において機能する。それゆえ単純な物々交換のC-C(商品と商品)形式から、われわれはC-M-C(商品ー貨幣ー商品)形式を持つ。洋服屋は5ポンドの彼の上衣と茶を交換する代りに、その交換として貨幣を受け取る。そして彼が消費者であれば、貨幣で茶を購入する。しかし、交換価値以外何も持たない一商品が「価値の標準」として現場に登場することは、それを不可思議な、そして一見説明できない結果をもたらす。「交換価値として、あるいは商品の交換価値として商品を手に入れる能力と共に、金への貪欲が目覚める。商品の流通の拡大に伴って、金の力が、いつでもすばやく絶対的な富の社会的形態を伸張する。」コロンブスは(彼のジャマイカからの手紙の中で)「金は驚くべきもので、それを持つものは、彼が欲する全ての支配者である。金を通じて、人は魂を楽園の状態にさえしてしまう。」「流通はそこに流れ込む巨大な社会的レトルトであり、再び貨幣に結晶させて出てくるものである。この全ての結果こそ、最初のC-M-C形式がM-C-M形式、つまり貨幣が貨幣に交換される帰結となる。人は、再び買うためにうるのに加えて、再び売るために買うのである。しかし、この形式の変化により注目するものがある。貨幣は使用価値を持たずに、交換価値だけを持つ。そして無論、質的には同一であり、ある時点で量的変化がなければ、取引によりうるものは何もありえない。そして、実際このように流通する貨幣は、量において獲得しているのであり、言い換えれば問題の貨幣の資本への転化を構成する過程である。この点をカール・マルクスに聞こう。

 「貨幣としての貨幣と資本としての貨幣は、先ず第一には、ただその違った流通形態によって区別されるだけである。商品流通の直接的形態はC-M-Cである。すなわち、商品の貨幣への転化および貨幣の商品への再転化であり、買うために売ることである。しかしながら、この形態と共に、われわれには、第二の特殊なちがった形態がある。すなわちM-C-Mという形態であり、貨幣の商品への転化および商品の貨幣への再転化であって、売るために買うことである。この後の方の流通を描いて運動する貨幣は、資本に転化され、資本となる。そしてすでにその性質から言えば資本である。---もし流通過程M-C-Mという回る道を通って、同一の貨幣価値を同一の貨幣価値と、したがって、例えば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするのであれば、この過程が、無意味であり、無内容なものになるだろうということは、もちろん明瞭なことである。これよりは、彼の100ポンド・スターリングを流通の危険にさらすかわりに、じっと持っている貨幣退蔵者の方法が、ずっと単純であり、確実であろう。他方において、商人が100ポンド・スターリングで買った綿花を、再び110ポンド・スターリングで売るかどうか、あるいは、これを100ポンド・スターリングで、倍によっては50ポンドスターリングですら、売り払わなければならぬかどうか、いずれにしても全ての事情のもとにおいて、彼の貨幣は、特別の、そして独自の運動を描いたのである。」

 この運動は資本としての貨幣の流通であり、資本としてはその目標として貨幣の増加の回収である。この増殖は、マルクスにより「剰余価値」と名づけられた。しかし、いまや新たな問題が持ち上がり、どんな経済的手品の過程により、その結果が確保されるのか?どこから増殖、あるいは利潤がもたらされるのか?明らかに個人的にせよ、集合的にせよ、資本家達の上品な軍隊からはもたらされない。「Aが40ポンドの価値でBにワインを売り、交換に50ポンドの穀物を得るとする。Aは彼の40ポンドを50ポンドに転化したのであり、より僅かな貨幣でより多くの貨幣を作り出して、彼の商品を資本に転化した。もしAが。交換という隠蔽された形態ではなくして、Bから10ポンド・スターリングを直接盗んだとしても、同じ変更が生じたであろう。」そしてなお、「流通する価値の総和は、明白にその分配における変更によっては、増加されえない。丁度あるユダヤ人が、一国における貴金属の量を、アン女王の時代の1ファージング貨を1ギニーに売ることによって、増加させることができなかったのと同じである。一国の資本家階級の総体は、自分自身を騙し取るというわけにはいかないのである」。どんな資本家も、他のどんな資本家よりも有利ではありえない。そこで剰余価値の源泉は、資本それ自身の外部に求めざるを得ない。しかし今日の産業世界の中で、何が補足的条件なのか?何が資本を補完するのか?それは労働である。そして剰余価値の源泉としての設問へのマルクスの解答は、それが労働者から引き出されるというものである。けれども、この実現
に対しては、労働に対する能力、いいかえれば労働者が市場における商品として先ず現れねばならない。

 「なぜ、この自由な労働者が、彼に流通部面で相対するにいたるかという問題は、貨幣所有者の関心事ではない。彼は、商品市場の特別の部門として、労働市場を見ているだけである。そして目下のところ、それはわれわれの関心事でもない。われわれは、貨幣所有者が実際的になしているように、理論的に、この事実をしっかりとつかまえておく。だが、一つのことは明らかである。自然は、一方において貨幣所有者と商品所有者とを生産するわけでなく、また他方において、自分の労働力の単純なる所有者を生産するわけでもない。この関係は決して自然史的のものでなく、またすべての歴史時代に共通である社会的関係でもない。それは明らかに、先行の歴史的発展の結果であり、多くの経済的変革、すなわち永い系列をなす社会的生産の古い諸形式消滅の産物であうとも、いうべきものである。」

 商品の生産や商品の流通は、社会が交換価値、すなわち貨幣に支配されるようになるしばらく以前から起っていた。

 われわれは今や、資本が労働から剰余価値を搾り出す仕方を見ることにしよう。

 「労働のための能力の価値は、すべての他の商品の価値と同様に、この特殊な商品の生産、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定される。それが価値である限り、労働力自身は、ただその中に対象化された社会的な平均労働の一定量を代表するにすぎない。労働力は
、ただ生ける個人の能力として存在するのみである。したがって、その生産は、彼の生存を前提する。個人の生存を与えられたものとすれば、労働力の生産は、彼自身の再生産または維持で
ある。彼の維持のために、生ける個人は、一定量の生活手段を必要とする。---労働力の価値は、一定額の生活手段の価値に解消する。したがって、この価値はまた、この生活手段の価値と共に、すなわち、その生産に必要な労働時間の大きさと共に変化する。」

 この事実の基礎の上に、資本家による労働者、もしくは働くものの搾取が構築される。賃金の傾向は、絶えず労働日の長さに比較して、生存手段の水準に抑えられることになる。

 「労働者を24時間生かしておくために、半労働日が必要であることは、決して、彼がまる一日労働することを妨げない。したがって労働力の価値と、労働過程におけるその価値増殖とは、二つの異なる大きさである。第一は、その交換価値を決定し、第二はその使用価値である。資本家が労働力を買った時、彼はこの価値差額に注目していたのである。撚糸またはブーツを作るという労働力の有用な属性は、価値を形成するためには、労働が有用な形態において支出されなけれればならない理由によってのみ、不可欠な条件(conditio sine qua non)だったにすぎない.そして、事を決定したのは、価値の源泉であり、しかもそれ自身が持つよりも、より多くの価値の源泉であるという、この商品のの特殊な使用価値であった。これが、資本家がこの商品に期待する特殊なサービスである。そして彼は、その際、商品交換の永久の法則にしたがって行動する。---われわれの資本家には、彼を喜ばせるこの事情が、前からわかっていたのである。それゆえ、労働者は、6時間に止まらず、12時間の労働過程に必要な生産手段を、作業場で見出すのである。」

 労働日の一定部分は、働く者が24時間の生存手段の更新を表わしている。

 「労働者が必要労働の限界を越えて労働する過程の第二の期間は、彼の労働を、すなわち労働力にとっては労働のコストであり支出には違いないが、彼のためには、何の価値も実現しない。それは、資本家に無から有を創造した全魅力をもって微笑みかける剰余価値を形成する。私はこの労働日の部分を剰余労働時間と名づけ、そしてこの時間内に支出された労働を、剰余労働と名づける。価値一般の認識にとって、価値を単なる労働時間の流率(flux)として、単位対象化された労働として理解することが、決定的であるように、剰余価値の認識にとっては、それを単なる剰余労働時間の流率として、単に対象化された剰余労働として、理解することが決定的である。この剰余労働が、直接的な生産者から、労働者から搾り上げられる形態こそ、種々の経済的社会形態を、例えば奴隷制の社会を、賃金労働の社会から区別するのである。」

 それゆえ資本家の目的は、彼のカモとなった労働を、彼の生存手段のために、できるだけ長時間にすること、資本化自身に対して生ずる、彼の生存コストを超えて、すべて残すことにある。機械の導入や今世紀の産業の広範な発展も資本家的様式の悪魔を広め、かつ強めるのに貢献しただけだ。それは働く者を奴隷から機械の一部に転化したのである。

「J・S・ミルは、その『経済学原理』の中で言っている、」とマルクスは述べ、「すべて従来なされた機械の発明が、何らかの人間の日々の労苦を、軽減したかどうかは疑問である。」と。しかし、かようなことは、決して、資本主義的に使用される機械装置の目的ではないのである。労働生産力のすべての他の発展と同じく、機械装置は、商品を低廉にするためのものであり、また労働者が、が、自分自身のために必要とする労働日の部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える他の労働日の部分を、延長するためのものなのである。機械装置は、剰余価値の生産のための手段である。」

 『資本論』の大部分は、19世紀の社会生活の持つとも恐ろしい吸血鬼、工場制度を暴露するのに捧げられている。誰も、いわゆる産業的発展の寺院で、年々犠牲になる悲惨な犠牲者の惨状について、マルクス博士により明確な概略が描かれた状況以上に悲痛には描けない。その絵は、どんな細かい描写も、社会主義者の想像ではなく、過去半世紀の議会報告、ブルーブックから直接描かれていることを想起されたい.。人間の最高の哲学は、その発明が搾取の手段として、それを使ってきた人類の僅かな部分しか軽減されない苦痛が証明されないエンジニァや機械技師を大いに誉めそやした記憶に反対する呪いを押し殺すことは殆んどできないのだ。

 マルクスは言う。「資本家は、すべての商品をできるだけ安く売ることを求める。そして、価値以下で売り価値以上で買う、単なる詐取から常に利潤を得ている、と説明する。それゆえ、実際に労働の価値なるものが存在するとしても、そしてこの価値を支払うにせよ、彼の貨幣が資本に転化しない限り、資本が存在しない、ということを決して見ることはできない。<13>機械は労働を安くすること、例えば労働者の生存維持手段を構成し、同じ時期により多くの商品が生産されるように、商品生産に必要な時間を短縮することで、彼の助けになる。これにより労働者は何も得られないが、より安くなり、それゆえ12時間労働日と、彼を維持するのに必要なすべてが6時間と仮定して、剰余価値として資本家に6時間分の実現された生産物が生ずるのは明らかである。

 「資本家は労働力を、その日価値で買った。一労働日中の労働力の使用価値は、彼のものになる。かくして彼は、労働者を一日中自分のために労働させる権利を得た。しかし一労働日とは何か?とにかく、自然の一生活日よりは短い。どれだけ短いか?資本家はこの極限ultima Thuleについての、労働日の必然的限界についての、彼特有の見解を持っている。資本家としては、彼は単に人格化された資本に過ぎない。彼の魂は資本の魂である。然るに、資本はただ一つの生活衝動を、自己を増殖し、剰余価値を創りだす衝動を、その不変部分、生産手段をもって、かなう限り多量の剰余労働を、吸収しようとする衝動をもっている。資本は、ただ生きた労働の吸収によってのみ、吸血鬼のように活気づき、阿多それを多く吸収すればするほど、ますます活気づく、死んだ労働である。労働者が労働する時間は、資本家が自分の買った労働力を消費する時間である。労働者が彼の意のままになる時間を、自分自身のために消費するならば、彼は資本家のものを盗むことになるのである。
 かくて、資本家は商品交換の法則を拠りどころとする。彼は、すべての他の買い手と同様に、彼の商品の使用価値から、能う限り大きい効用を引き出そうとする。しかし、突如として、生産過程の疾風怒涛の時代には、抑えられていた労働者の声が上がる。:-僕が君に売った商品は、その使用価値が価値を、しかも、それ自身が値するよりも大きい価値を創りだすということによって、他のありふれた商品とはちがう。これが、君がそれを買った理由だった。君の方で、資本の価値増殖として現れるものは、僕の方では、労働力の過剰支出である。君と僕とは市場でただ一つの法則、商品交換の法則しか知らない。そして、商品の消費は、それを譲渡する売り手のやることではなく、それを獲得する買い手のやることである。だから、僕の日々の労働力の使用は、君のやることである。しかし、僕の労働力の日々の販売価格によって、僕はそれを日々再生産し、したがって、また新たに売ることができねばならない。年令などによる自然的摩損を別にして、明日も、今日と同じ標準状態後から、健康、および気分をもって、僕は労働することができねばならない。君は絶えず僕に「倹約」と「節欲」との福音を説教する。よろしい!僕は分別のある倹約を亭主のように、僕の唯一の財産である労働力を、倹約し、その馬鹿馬鹿しい浪費を、すべて止めることにしよう。毎日僕の労働力の中から、その標準的な持続と健全な発達とに差し支えないだけを、流動させ、運動に、労働に転化することにしよう。労働日の法外の延長によって、僕が三日で回復するよりも、なお大きな分量の僕の労働力を、君は一日のうちに流動させることができる。かくて、君が労働において得るだけを、僕は労働実体で失う。僕の労働力の利用とその略奪とは、全くちがったことである.。平均的労働者が、合理的な標準労働で生きられる平均期間が30年であるとすれば、君が日々僕に支払う僕の労働力の価値は、その総価値の365X30分の1すなわち10950分の一である。しかし、もし君がそれを10年で消費するならば、君は毎日僕に、その総価値の3650分の一のかわりに、10950分の一、したがって、その日価値の三分の一を支払うにすぎず、かくして、毎日僕から、僕の商品の三分の二を盗むのである。君は三日分の労働力を消費するのに、一日分を僕に支払う。それは、われわれの契約と商品交換の法則とに反している。そこで、僕は標準的な長さの労働日を要求する、しかも、君の心情に訴えることなしに要求する。金銭のことでは、人情も無くなるからだ。君は模範市民で、恐らく動物虐待防止協会の会員で、なおその上、君子人の噂も高いかもしれない。しかし、僕に対して君が代表するものには、鼓動する心臓が無い。そこで打つとみられるのは、僕自身の心臓の鼓動である。僕は標準労働日を要求する、すべての他の売り手と同じく、僕の商品の価値を要求するからである。」

 それゆえ今日の経済体制は、不断の闘争であり、そうでなければならない。資本家は買い手として労働日をできる限り長くする権利を維持し、労働者は売り手として標準的な長さに制限する権利を維持する。資本家の全体が、労働者の全体に対して整列しているのだ。逆もまた同様である。

 カール・マルクスはまさに軽蔑の念を持って、利潤や利子が禁欲の代償である、というプロのエコノミスト、資本の弁護者達の脆弱な詭弁を扱っている。われわれは皆、有名なケーキを持っていながら、それを食べることができないこと知っている。 同じように、商品のシンボルである貨幣所有者が、それを保持し、かつそれが示す消費財と交換することはできない。ケーキを持つているかぎりでは、持つことによって増加はしない。ケーキを食べた過去の喜びに対し、将来の消費の喜びあらわすだけだし、貨幣を持つだけでは、過去のかわりに将来の消費の喜びを表すだけである。なぜ、それが示す何らかの商品の所有者よりも追加的増分により禁欲の代償を期待するか、それは今日の経済秩序を弁護するだけなのだ。彼らは恐らく持っているだけではなく、投資したからだと答えるだろう。しかし、先行した説明をフォローしたものはすぐわかるように、これは著しく事態を変えるものではない。「投資」によし意味するのは、われわれがまさに考察したような状態で、労働を貨幣で購買する流通の過程の話を意味するだけだからである。ここから「禁欲」は、労働を盗むことにより、その代償を得ている。

 『資本論」の最後の章だが、マルクスはいわゆる資本の原始的蓄積の謎を暴露している。彼は、差し当たりと仮定して、諸君の禁欲説は、いかにして最初の資本家が禁欲するのに何をもってしたかである。いかにして資本家階級が生まれたかである?推敲され、徹底された論稿のどんな文章も、ドキュメント的な証拠、その多くはマルクスが直接手に入れたものに支えられ、底では資本の発生に関連する限り、禁欲説が論破されている。有徳な節約ではなく、農奴からであり、禁欲ではなく、略奪が最初であることが示されている。中世以来の歴史は、土地から人々をしだいに分離したことを示している。教会の土地が私的所有に変わり、借地農がヨーマンに変った。不当な賃金で労働を強制する法律が通過した。植民地制度は、新たな国にも本国の悪魔のシステムをより拡大した規模永続化し始めたし、国家貸付も導入され、その上での保護制度は、つまり北部イングランドの大きなマニュファクチュアによって、今世紀の早い時期に実施された。救貧員からの不評な児童の強奪が到来した。献身的な禁欲ではなく、こうしたことに近代的資本家制度は歴史的に起因している。

 そして、これらの結果は何か?事態の不可避的な道筋は数語で語られる。悲惨が深まり、労働者の輪が人口の中で拡大し、(産業予備軍)救貧民の外郭がそれ自体で相対的に広がる。資本主義の死重が不可避となる。最後に、資本からの労働者の解放が達成されるだろう。社会は新しい基礎、土地や生産手段が自由な労働者で構成されるコミュニティによって所有されよう。ここばらばらの階級としてのプロレタリアは存在しなくなり、社会に必要な労働はその構成員に平等に配分される。

 経済的な点で、近代の科学的社会主義は、著作の中で、そのもっとも高名な代表者から、このような形で疲労されている。それは、正規の前半に流行した社会モデルの空想的計画(オーエン、フーリエ、またはカボウのような)に共通に分類されて大失敗に終わるだろうと。近代社会主義は、社会の形態として、商人済み雄パターンで規制のものとして発生したわけでなく、進化するものと認識されている。そこで、将来的社会の性格は、最大限でも荒削りな概略しか示しえないこと、そしてあれやこれや細部が求めらて予言を試みても、馬鹿馬鹿しいことを認める。社会主義が、イングランドで非常な好評を博した急進主義の形式、つまり進歩絵雄巡り曖昧に弁仕立て『法的な手段による改良の推進からなる形式や、一般的な表現で心の優しい傾向の形式とは、少しも共通ではないと看做されよう。社会主義者は、われわれが革命的時代を通過していると信じているし、もっともかこくなききがとうらいするとみているし、その不可避的な危機に備えることが、今日の進歩の真の友人の実際の仕事であると信じている。近代社会主義はそれ自身、経済的には共同的なコミュニズムにより、宗教的には反教条的な人道主義、政治的にはコスモポリタン的な共和主義に示される世界の新たな考えj方として、その擁護者の一つにより否定された。  

我々は、人々の優れた人材オーギュスト・コントの継承者、未来の社会における資本の道徳化について多くを聞いている。私はほとんど社会主義者に対して、強奪の道徳について、誰か語っているか述べる必要はない。資本主義の悪魔が、あたかも一時的に山賊を改心させるように可能だろう。一時的には、(Nikoが他日、ギリシャの承認の娘を切り裂いたといわれるように)罪人を生きたまま切り裂くことを改心させることは、教化された『組織された公論」によって、やってくるかもしれない。しかし、トルコの州での更正の信者は、恐らく山賊の道徳が最終的に成功しないとみなすだろう。そして、この一点でも社会主義者は「資本の道徳」の実証主義者である。

 私は、正規の最重要な本の一冊の要約を、いまだにこの本の英訳が取り掛かってもいないことへの驚きを述べること無しには終われない。この本は、例証も実証も英国の産業の歴史から引かれている。同時にそれは、簡単にドイツ語や仏語を読めないために封印された書物が残念である。スタイルとしては、私はカール・マルクスに魅力、迫力の点で、他にはドイツの著者(ショウペンハウエル)が比肩すると見ている。彼の本は、そのユーモアと、もっとも抽象的な原理の理解が容易な説明の点でも、鳥悪貨っている主題の重要性からも、注目を集めるのである。






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by morristokenji | 2014-12-07 16:15