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by morristokenji

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 2015年、1945年から70年、しかし「その戦後」とは何か?を問い直していたら、1月7日の仏パリの週刊誌発行所襲撃に始まる連続テロ事件が起こりました。イスラム聖戦の全面展開ではないのか?テロは容認できないし、また言論の自由を守らねばならない。しかし、それだけで済むのか?アルカイダの犯行か、それから別れたイスラム国の仕業か?イスラム聖戦が、中東の規模を超え、パリ・ヨーロッパへ、そして世界的規模に拡大し、新たな世界戦争に発展の可能性があるのか?いずれにせよ、最早「戦後」の枠組みを越えて考えなければならないでしょう。
 
 
 戦後70年の「戦後」は、言うまでもなく第2次大戦後のことだし、日本の「敗戦」のことです。日・独・伊三国同盟の枢軸国として参戦し、すでに伊(4月)も独(5月)も敗戦を迎えたのに、最後の8月15日まで単独で抗戦し続け、そのために広島・長崎に原爆を投下され、ソ連の参戦を招き、戦争の被害を倍増させての敗戦でした。この敗戦の責任は大きく、厳しく問われる必要がある。戦後70年もまた、改めて日本の敗戦の責任が、一方では日本国内から厳しく問われなければならない。この点では、独・伊に比べて、日本の国内からの敗戦責任の追及が甘く、弱く、短かかった。一億総懺悔で免責して忘却した点が、海外から指摘されるのは当然でしょう。他方、日本の侵略行為によって生じた被害も大きかった。大東亜共栄圏の美名の下に行われた東南・東北アジア各国、各地をはじめ、戦勝国の米・英・中・ソ・加・豪の連合6カ国などからの責任追及も厳しい。戦後70年は、いうまでもなく内外に対する戦争責任を、改めて明らかにすることにより、ピリオドを打つことが必要です。それを怠り、先延ばしにすればするほど、また責任転嫁をすればするほど、ますます「戦後」を越えられなくなると思います。

 それにしても70年は長い。長期にわたって戦後が問われ続けるについては、それなりの理由があることも事実です。それを無視して、戦前・戦中にまで回帰しようとばかりに、「戦後レジームからの脱却」を図ることはできません。その点についての配慮の欠落が、アメリカにも嫌われる安部政権のいわゆる「歴史修正主義」史観にほかならない。というのも、日本はポッダム宣言の受託により無条件降伏した。日本の占領は上記の米・英・中・ソ・加・豪6カ国であり、日本の領土も本州・四国・九州・北海道に限定されていた。その4島を駐留米軍が占領統治する。これが敗戦日本国の無条件降伏による厳しい現実でした。この現実を無視して、尖閣など周辺諸島の領有も主張できないでしょう。一方的な領有権の主張は、まずアメリカの占領政策を批判することになるし、それを否定することにもなり、連合国側も容認できないからです。領有権問題は、日本の無条件降伏と連合国の占領統治に対する冷静、かつ客観的な事実認識がまず前提されます。

 さらに問題が複雑になるのは、戦後日本の国際復帰の仕方です。もし、戦後が正常に処理されれば、戦勝国に対して適当な賠償金を払い、講和条約を全面的に結び、戦後処理を済ませて、復帰すれば良かった。しかし、そうした正常な処理ができない歴史の異常な事態が起こった。それは1950年に勃発し、53年まで続いた朝鮮戦争であり、それに先立ちヨーロッパでもベルリン封鎖に始まる東西冷戦体制です。この戦後体制の冷戦体制への移行により、サンフランシスコ講和条約は日米、それに英国・カナダ・豪州などが続きましたが、中・ソ両国は参加しない片面講和、単独講和だった。さらに沖縄と周辺諸島は、いわゆる沖縄返還として、ようやく72年になって実現した。それも日米間の問題で日米安保の枠組みで処理され、冷戦体制に組み込まれてしまった。日本の領土問題が複雑で、その処理が困難なのは、戦後体制が冷戦体制と重畳されてしまい、両者が複雑に絡んでしまったからです。それだけに感情的に、それぞれが愛国心に訴えれば、問題の解決どころか、「では、もう一度戦争するか!」という危険な話になってしまうでしょう。

 さらにまた、歴史は動き、世界は変化する。19世紀末から20世紀にかけて世界に拡大した、いわゆる帝国主義の植民地支配が終わりました。植民地主義の終焉にほかなりません。英国の中国への直轄植民地「香港返還」が、その象徴的出来事でしたが、それについて最近、こんな情報が明らかにされました。香港返還は、1982年の英国とアルゼンチンの間のフォークランド戦争が終了し、戦勝国のイギリスのサッチャー政権が、「もしフォークランドでなく、香港だったら第3次世界大戦になる」と考え、英国の直轄植民地の香港を中国に返還する話が始まりました。老練な英国外交の歴史的決断だったと思います。当時、ロンドンに在住していた経験では、フォークランド戦争が始まった時点では、多くのイギリス国民は戦争に積極的ではなかった。遠隔地の南米にある植民地フォークランドを維持する経済的負担が大きく、福祉大国のイギリス病を抱え、国民の多くがフォークランドを切り捨てたかった。しかし、島民は英国民にとどまりたい。その希望を無視できず、英兵の犠牲が出ると、植民地防衛の愛国心が急速に高揚しました。サッチャーは勝利し、「鉄の宰相」として国民的人気を獲得したのです。

 しかし、サッチャーは勝利に酔ってはいなかった。終戦と同時に、彼女は日本訪問を突然に言い出した。当時の日本の総理は鈴木善幸さん、英国民はほとんど誰も知らない無名の総理です。その日本の総理に、サッチャーが何のために会うのか?訪日を短期間で済ませたサッチャーが目指したのは、じつは北京であり、当時の鄧小平氏との会談であり、「香港返還」の下相談だったのです。当時、まだ「香港返還」には英国民の不満もあり、植民地主義の放棄にも反対が強かった。しかし、労働党ではなく、保守党の「新自由主義」リーダーサッチャーは、「小さな政府」への強い信念に基づいて、北京訪問を決断したのです。それにしても、なぜ日本に立ち寄り、鈴木総理に会ったか?昨年の暮れ、大晦日12月31日付け河北新報は、「ロンドン共同」の配信として、「82年日英首脳会談で鈴木首相:尖閣<現状維持に日中合意>」と報じました。尖閣問題の現状維持が「香港返還」に直結し、植民地主義の終焉に役立ったのです。そうした歴史的意味を理解しないまま、愛国心だけで尖閣諸島の領有権を論じられない歴史の現実を、われわれは冷静に直視すべきでしょう。

 「香港返還」に見られるように、冷戦体制下でもポスト植民地主義へ歴史は動いている。その冷戦体制も、91年のソ連崩壊で、一応のピリオドが打たれました。第2次大戦の「熱戦」の終結が1945年、戦後の「冷戦」の終結は1991年、ほぼ半世紀に及んだ「冷戦」という人類史上の長く異常な時代も一応終わりました。しかし、この第二の終戦についても、第一の終戦と同様、いやそれ以上に十分な反省や総括がないまま、今日に及んでいる。「冷戦」の名のもとに原子力の核開発競争は、一方の戦争利用の原子爆弾、他方の平和利用の原子力発電、二つの原子力利用が、和戦両面で進められたのです。その結果が、チェルノブイリ原発事故であり、福島第一原発事故なのです。その反省総括がないまま、日本でも原発は再稼働され、政府援助と抱き合わせの原発輸出が協力に推進されている。唯一の被爆国の日本人の反省が一番大切なのに、それが政治に浮上しなまま原発事故が風化されているのです。

 さらに冷戦体制を支えてきた日米安保体制についても、ほとんど再検討がなされぬままの状態です。ポスト冷戦のもと、日本の新たな安全保障体制の再検討も構築もなく、冷戦体制のままの価値観で対ソに代わる対中包囲網の構築に走ろうとする。むろん日本だけではない。ソ連と東の世界の体制崩壊を、西側の米一極体制の勝利と思い込み、米「ネオコン」は世界制覇の夢を目指してイラク戦争を仕掛け、無様な失敗を露呈した。交代したオバマ民主党政権も、「Change! Yes, we can.」の掛け声だけで、冷戦体制に代わる新たな国際的秩序を構築できないまま終わろうとしています。こうして、いま戦後70年の幕開けは、イスラム聖戦の全面展開を予想させる連続テロ事件で始まりました。熱戦から冷戦、二つの戦後を、第三の戦争に向かわせてはならない。いまこそ、平和の価値を、もう一度強く認識すべき時がきています。
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by morristokenji | 2015-01-12 12:29
  2011年3月11日の東日本大震災は、福島第一原発事故を初め、戦後日本の高度経済成長、とくに戦後東北開発の歴史に対して、あらためて厳しい審判を下した。安価な中東原油への安易な依存、オイル・ショック乗り切りのための原発安全神話が破綻しただけではなかった。震災と津波災害による大量の瓦礫の山の大部分は、打ち上げられた家電製品、自動車など、高度成長の象徴だった「三種の神器」、あるいは「3C」などの残骸だった。高度成長を主導した大量生産・大量販売・大量消費の惨めな残骸が、巨大津波に呑まれ、押し流された大量廃棄物となって打ち捨てられていた。

 被災地・仙台への安否問い合わせの電話は、広島からだった。原爆投下で多くの家族を失い、その後も被ばく後遺症で長く苦しみ続けた亡き親友の奥さんからであった。「原発事故の放射能は大丈夫でしょうかね?」一瞬返答に詰まりながら、福島第一原発と共に、震災と津波に曝された東北電力・女川原発からの距離、約100キロをとりあえず確認しながら返答した。強く注意を促された電話の声と共に、原爆・原発の放射能汚染の恐怖を忘れる訳にはいかない。第2次大戦の「熱戦」のための原爆と、平和利用のためと称した長期の冷戦のための原発とを、われわれは切り離せないことを思い知らされた。原発事故による放射能汚染は福島だけではない。隣接の宮城でも、たとえば仙台・広瀬川に住む山女や岩魚は禁漁になったことを指摘しておきたい。

 福島第一原発事故の歴史的意味は、原発の安全神話の崩壊により、近代科学技術文明の歴史的限界を曝け出し、「文明の転換」を厳しく問い糾しているだけではない。巨大津波と大震災とともに、東北の地域に取り返しのつかない深い傷を残すどころか、再び帰ることのできない故郷の「死の町」を、ほぼ永久的に歴史に残してしまっているのではないか?そうした残酷きわまりない現実を無視するかのように、原発再稼動が一方的に進められ、「無視と忘却と風化」の流れにまかせながら、ひたすら「戦後レジュームからの脱却」を目ざす政治が、政治的無関心と政治不信の高まりの中で、「武器輸出3原則」「非核3原則」を骨抜きにする既成事実の積み重ねとともに、独走している現実を見逃すことはできないと思う。こうした3・11東日本大震災の二重苦、三重苦によって、もはや取り返しのつかないほどの地域崩壊を抱え込んだ東北の現実から、われわれの震災復興のデザインを試みなければならない。

 とすれば、まず原発の建設により象徴されてきた成長至上主義による国土開発、わけても東北開発を、その出発点、その原点にまで遡り、そのあり方を根底から見直すことが迫られている。当初「原発銀座」と呼ばれた東京電力の福島第一原発など、福島県浜どおり地域の開発にに限らず、原子力施設を受け入れざるを得なかった地域の多くが、とりわけ石油ショック以降、高度成長の限界が見え始めた時点で、代替的な開発モデルを見つけ出すことができないまま、原発誘致を受け入れることになってしまった経緯をもっている。例示すれば、「むつ小川原」の虚大開発による石油コンビナート計画が頓挫した開発用地に、そのエネルギー開発に予定された原子力施設が次々に計画され、建設されてしまったのだ。1970年代の話である。それから実に40年以上にわたり、地域開発の成長戦略が転換さえれなければならなかったにもかかわらず、具体的な代替戦略を準備できないままに、今回の3・11の大震災の惨劇を招いたことを痛苦に想起せざるを得ないだろう。福島第一、第二、女川だけではない。下北半島に集中立地する原発、核燃料サイクル施設など、青森・原子力半島はどうなるのか?3・11東日本震災の復興は、戦後国土開発、戦後東北開発の総決算であり、その意味で「戦後レジューム」の総転換でなければならない。

 
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by morristokenji | 2015-01-03 16:23