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by morristokenji

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 ピケティは、19世紀のマルクス『資本論』を念頭で強く意識しながら、20世紀の「格差拡大の問題」としては、S・クズネッツの「終末論からおとぎ話」批判を積極的に展開しています。その点で、クズネッツの20世紀の「おとぎ話」の批判として書かれたのが、他ならぬピケティ『資本論』ともいえるのです。では、その「おとぎ話」とは何か?
 
 クズネッツは、自ら集めたデータをもとに、「1913年から1945年にかけて、米国の所得格差は急激に下がっていたのだった。」つまり、それまで上位十分位層が年間国民所得の45~50%を得ていたのが、30~35%に急激に下落した。格差が急速に縮小した。この統計的事実に基づき、それが「自然または自動的なプロセスによるものではほとんどなかった」にもかかわらず、「1953年の著作で、クズネッツは、自分の時系列データを詳細に分析して、読者に拙速な一般化をするなと警告している。でも1954年12月にアメリカ経済学会のデトロイト大会で、会長だったクズネッツは1953年よりはるかに楽観的な解釈を提示している。この講演は1953年に『経済成長と所得格差』という題名で刊行され、これが<クズネッツ曲線>理論を生み出した」とピケティは指摘します。
 さらに、この理論によれば、格差は「最初は増えるが、工業化と経済発展の進展につれて今度は減るのだ。クズネッツによると、工業化の初期段階に伴って自然に格差が増大する第一段階(米国ではおおむね19世紀)に続いて、急激に格差が減る時期がやってくる。これは米国では20世紀前半に始まったとされる。」当初は、かなり慎重だったが、そのうちクズネッツは、「実にさりげなく、ほとんど無邪気に、経済的発展の内的な論理もまた各種の経済政策や外部ショックとまったく関係なしに、同じ結果を生み出すかもしれないと述べる。」つまり、工業化の初期段階に、一部の人が恩恵を受けて格差が拡大しても、発展が進めば経済成長の果実に参加できる比率が上昇して、格差は自動的に減るとして、「1913年から1948年にかけて見られた格差低減は、もっと一般性ある現象の一例ということになる。」こうしてクズネッツ曲線の楽観論の「おとぎ話」が生まれ、それが一般化して一人歩きすることになったのです。
 
 しかし、「魔法のようなクズネッツ曲線理論は相当部分が間違った理由のために構築されたものであり、その実証的な根拠はきわめて弱いものだった。1914年から1945年にかけてほとんどの富裕国で見られた、急激な所得格差の低下は、何よりも二度の世界大戦と、それに伴う激しい経済政治的なショック(特に大きな財産を持っていた人々に対するもの)のおかげだった。クズネッツが描いたようなセクター間モビリティといった、穏やかなプロセスとはほとんど関係なかった。」それだけではなく、その後新たに経済的格差と分配・再分配の問題が重要性をもって、再登場したからです。「1970年以来、所得格差は富裕国で大幅に増大した。特に、これは米国に顕著だった。米国では、2000年代における所得の集中は、1910年代の水準に戻ってしまった。―それどころか、少し上回るほどになっている。だから、この間になぜ、どのようにして格差が減ったのかを明確に理解するのは重要なのだ。」にもかかわらずクズネッツ曲線の「おとぎ話」によって、この重要な格差の再拡大による所得の分配・再分配の問題が、完全に看過されてしまっている。その意味でピケティの『21世紀の資本論』の狙いは、19世紀マルクスの『資本論』を引き継ぎながら、クズネッツの「おとぎ話」を批判することにより、所得再分配の歴史的意義を積極的に展開する点にあるといえます。
 
 それにしても700ページに及ぶ大著ですが、単に所得の格差と分配・再分配の問題だけでなく、大きく富の分配と、富と所得との関係を歴史的、かつグローバルに取り上げている点に、本書の学術的な意味があると思います。「私の研究は相当部分が、クズネッツによる1913~1948年の米国における所得格差推移をめぐる革新的で先駆的な研究を、時間的にも空間的にも拡大したもの」になっているからです。時間的には近代史だけではなく、遠く原始古代の時代にまで遡る歴史分析だし、空間的には欧米先進国だけでなく、広くグローバルに日本やオーストラリアまで含む統計的処理に及んでいます。そして、「富と所得の格差についてあらゆる経済的決定論に対し、眉にツバをつけるべきだというものとなる。富の分配史は昔からきわめて政治的で、経済メカニズムだけに還元できるものではない。特に、1910年から1950年にかけてほとんどの先進国で生じた格差の低減は、何よりも戦争の結果でであり、戦争のショックに対応するため政府が採用した政策の結果なのだ。同様に、1980年以降の格差再興もまた、過去数十年における政治的シフトによる部分が大きい」と述べています。それだけに分析が多岐にわたり、多角的に膨大な資料を相手にすることになったのでしょう。
 そして、「本書の核心となるものだが、富の分配の力学を見ると収斂と拡大を交互に進めるような強力なメカニズムがわかるということだ。さらに、不安定性を拡大するような不均衡化への力が永続的に有力であり続けるのを止める、自然の自発的なプロセスなどないこともわかる。」その上で、「格差を収斂する力」―知識の普及と訓練や技能への投資拡大―と、「格差を拡大する力」について述べます。しかし、格差再拡大の復活・再興の現実からすれば、「格差を拡大する力」にこそ注目すべきであり、そこで「格差拡大の根本的な力――r>g」を定式化し、それが「私の結論全体の論理を総括しているのだ」と主張しています。この定式は、マスコミでも紹介され、本書の表紙にも大きくコピーされていますが、rは資産収益率であり、gは経済成長率です。gの経済成長率が行き詰まり、rの収益率が上昇し、資産格差が急拡大して社会的緊張が高まっている。
その上でマルクス『資本論』にも言及し、「私の結論は、マルクスの無限蓄積の原理と永続的格差拡大の含意ほどは悲惨ではない」と述べています。

 すでに(上)で述べましたが、マルクス『資本論』とピケティ『資本論』との決定的な違いは、タイトルが同じLe Capitalでも、マルクスの「資本」概念とピケティの「資産」概念との違いです。ただ、初期のマルクスはエンゲルスとともに「ブルジョアジーとプロレタリアート」、つまり「有産者と無産者」ですから、資産家と無産者の対立から、所有論的に私有財産を否定して、「社会的所有」を主張し資産の格差解消を主張していました。もともと「ブルジョアジーとプロレタリアート」はフランス語で、「資本」を「資産」に還元していたフランスの伝統がピケティに影響しているかも知れません。しかし、マルクスはイギリス古典経済学、特にスミスやリカードの「経済学原理」を受け継ぎ、近代社会の資本主義経済を『賃労働と資本』として、資産所有ではなく階級対立として把握するようになり、さらに『経済学批判』から純粋な資本主義経済の運動法則を抽象して『資本論』を書いたのです。マルクスの経済学研究は、まさに「資産」から「資本」への転換です。ピケティの『資本論』がマルクスの『資本論』を継承するなら、「資産」から「資本」への転換の理論的意義に配慮すべきだったと思います。
 すでに述べましたが、マルクスは「資本」を、その一般形式GーWーG'(貨幣ー商品ー増殖された貨幣)の価値増殖の運動体と定義しました。その資本が、流通形態とされる労働力の商品化=賃労働と結びつき、資本ー賃労働の階級関係を形成、資本は価値増殖の運動体として「蓄積せよ蓄積せよ」、ピケティのいう「マルクスの無限蓄積の原理」として、階級的な格差と対立を論じたのです。さらにマルクスは、資本蓄積論を基礎に、マルサスの人口法則に対して、相対的過剰人口を基礎に、資本蓄積の動態論を展開します。周期的恐慌を含む、景気循環の「恐慌論」です。賃金にせよ雇用にせよ、景気循環により循環的に変動する、それにより階級間格差も循環的に変動する。だからマルクスの蓄積論は、ピケティの言うような「永続的格差拡大の合意」ではない。彼のマルクスの誤読であり、誤解です。純粋資本主義の『資本論』は、周期的恐慌をバネにして資本蓄積による経済成長を推進する。だから、労働力の雇用の吸収と反発、賃金の上昇と低下、格差も「収斂」と「拡大」のダイナミズムをもっている。残念ながら、このダイナミズムをピケティは完全に見逃しています。
 
 ただ、周期的恐慌による先進国での景気循環の経済成長は、1820年代から世紀末まで持続しましたが、20世紀は世界大戦やロシア革命の「戦争と革命」の世紀に変わりました。周期的恐慌で、資本の過剰蓄積=資本過剰を一時的に価値破壊して、その上で新たな経済成長を自動的に繰り返すバイタリティを、資本主義は喪失してしまった。そこで格差「収斂」の手段を、世界戦争と暴力革命による価値破壊に求めざるを得なくなった。上述のクズネッツの「おとぎ話」も、こうした資本主義の発展の歴史的局面から生まれたのです。そうした「おとぎ話」の欺瞞性を暴き、格差是正の歴史的限界を明らかにした点では、ピケティの功績は大きいと思います。20世紀の格差是正の「おとぎ話」は、一方でマルクス・レーニン主義のプロレタリア独裁による「国家社会主義」、他方の西側のアメリカを頂点とした「自由と民主主義」、その価値観に結びついた「福祉国家」という名の福祉国家主義により、第2次大戦後の「戦後民主主義」から局地戦争、部分戦争を内包した戦後の「冷戦体制」まで引き継がれたのです。東の「国家社会主義」と西の「福祉国家主義」の冷戦、その「おとぎ話」の時代が終わり、90年代のソ連崩壊で再び新自由主義による格差の再興、再拡大が21世紀に向けて始まった。ピケティが『21世紀の資本論』を書いた意図も、そこにあることは言うまでもないでしょう。

 確かにピケティの主張するように、20世紀末のポスト冷戦から21世紀を迎えて、新自由主義や米・ネオコンの世界戦略による所得格差の再拡大、特に彼の定式であるr>gを裏付ける統計データの指摘は重要です。そこにまた、多くの読者を引き付ける魅力のマグネットがあると思います。ただ、gの低下によって示される慢性的デフレが続き、さらにrが異常に急速な拡大をみせ、所得の「格差拡大の力」が急上昇している新たな歴史的現実については、マルクス『資本論』の資本過剰、資本の絶対的過剰の見地を忘れ去るわけにはいかないと思います。まずgの低下について言えば、20世紀の戦争や革命、冷戦の政治的で物理的な価値破壊により、資本主義は「おとぎ話」を実現した。その「おとぎ話」が終わり、先進国は慢性化した資本過剰を抱え込み、とくに高成長を実現した日本資本主義などは、「大東亜共栄圏」の地域空間を越え、中東、アフリカなどへの資本輸出のトップセールスです。そして、仏などの有志国連合に参加し、「イスラム国」との戦闘も辞さない戦争モードに入ってしまった。
 また、rの急上昇について言えば、もともと資本の絶対的過剰生産は、資本と資金の過剰がセットになっている。特に日本の90年代からの長期慢性デフレによる資金過剰は、ゼロ金利の資金のバラまきから、アベノミクスによる「異次元緩和」の名によるマイナス金利を迎えてしまった。こうした金融緩和が、すでにGDPの2倍に達する財政の債務超過とも結びつき、日本財政は第2次大戦末期の借金財政とほとんど同じ戦時モードです。しかも、それが2008年の米リーマンショックの世界金融恐慌を乗り切るための金融緩和のドルのバラ撒きとも連動している。いまや超金融緩和による史上稀な資金過剰で資本主義経済は、完全に身動が取れぬまま硬直化しているのです。そして、こうした資金過剰が、株式市場の異常なブームや、不動産市場の異常取引など、大きな資産格差を生み出しているのです。こうした「おとぎ話」に続く怪奇現象ともいえる現実が、今後いつまで続けられるのか?金融大恐慌、世界大戦争、米ソ冷戦体制、こうした政治的・経済的な大量の価値破壊の後に何が来るのか?所得格差への不満を越えた、人々の大きな政治不信、将来生活への不安が広がっているのではないか?
 
 そう考えると、r>gの定式を大胆、かつ明快に提示し、資産格差の再興・再拡大の現実を解明して見せたピケティの功績は大きいにしても、その政策提言のインパクトはいかにもお粗末だし、弱い。資産課税を強化し、世界的課税強化のネットはアイディアとしては興味深いにせよ、その実現性には大いに疑問がある。それに、今日の資本主義の体制的危機から見れば、資産格差が問題だとしても、所得分配・再分配のレベルに問題を矮小化することに大きな疑問を感じます。所得の再分配の提言は、19世紀J.S.ミル以来の改良主義だし、さらにソ連型「国家社会主義」の亜種・亜流とも言える西欧社会民主主義の政策体系と同じレベルではないか。すでに「おとぎ話」の終わった21世紀の今日、マルクス『資本論』による資本主義社会の根底的批判から、新たな社会主義を展望する大胆な代替戦略こそ必要ではないかと思います。
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by morristokenji | 2015-02-27 15:56