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by morristokenji

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(1)今なぜ「水系モデル」を提起するのか? 2011年3.11東日本大震災は、地震、津波だけでなく福島第一原子力発電所の爆発事故が重なり、未曽有の多重災害の惨禍をもたらしました。とくに原発事故は、米スリーマイル島、旧ソ連・チェルノブイリの事故に続くもので、広範な放射能の汚染処理や多くの発電施設の廃炉作業など、予想の全く困難な復旧作業が横たわっています。その意味で、震災からの復旧・復興は、いまなお想定の範囲をはるかに超えた「未知の世界」に遠のいてしまっている、ともいえます。被災地は、これからどうなるのか?被災住民は、これからどうしたらいいのか?果てしない絶望的不安に慄く被災現場から眼を離すことは許されません。
 こうした人類史が体験したこともない3・11大震災の多重災害から、多くの教訓を学びとらねばなりません。なかでも、世界で唯一の原爆被爆国であり、原爆症が不治の災害であることを十分知りながら、かつ地震、津波、そして噴火の火山列島に住みながら、なぜ「安全神話」を信じ込み、原発依存の「オール電化」の夢を見ることになったのか、その辺から検討することにしましょう。
 戦後70を迎えての反省ですが、日本は狭小な「資源小国」で一億の過剰人口が生きていかなければならなかった。日本人が生きるためには、まずはアメリカへの石油依存から脱却しなければならない。「大東亜共栄圏」を築き上げ、満蒙開拓の北進論を南進論に大きく転換し、東南アジアの「石油資源」を目指して、「大東亜戦争」に勝利する。神国日本の不敗を信じて、無謀にも大国アメリカと戦いました。しかし、広島・長崎に原爆を投下され、被爆国として敗戦の憂き目をみた。資源小国・日本のアジア植民地支配の夢は、石油資源の支配であり、石油エネルギーを目指しての「聖戦」が招いたものが、惨めな敗戦だったのです。
 戦後70年の反省とともに、3・11大震災が提起している最大の問題もまた、原発事故であり、資源エネルギー問題であることを、いま日本人は冷静に直視しなければなりません。戦前から戦後へ、歴史は変わりました。その昔、農家の次三男問題など、人口過剰のマルサス主義(食糧生産は算術級数的に、人口は幾何級数的に増加する、と言う過剰人口論)は、戦後の高度成長を通して、「少子高齢化問題」に変わっています。過剰人口の捌け口として満蒙開拓団を教育し、組織した戦前ではない。むしろ逆に、今日は建設現場にも女性を迎え入れる「建設小町」を利用し、中国やベトナムの研修生を労働力として利用せざるをえない、そんな少子高齢化による過小労働力、「労働力不足」の時代に変わっています。
 しかし、資源エネルギー問題は違います。いぜんとしてリリパット(小人島)的な日本列島は、資源エネルギーが不足し、海外から輸入しなければならない「資源小国」の厳しい呪縛に取り憑かれている。最近の円安は、対外輸出にマイナスだけでなく、資源エネルギーの輸入コスト増大で貿易収支を圧迫する。そのために原発の再稼働も避けられない、という理屈です。資源小国・日本のトラウマともいえるでしょう。しかし、本当に資源小国なのか?アラブの石油に依存し、さらに原子力の原料ウランに依存し、アメリカに従属しなければならない資源小国なのか?
 戦前の話に立ち入ることは避けますが、当時の日本は、80%以上もアメリカの石油に依存していた。しかし、まだ軍需用の石油が中心だったと思います。第一次大戦で、日本も重化学工業化に転換したといっても、クルマ社会はまだだし、暖房も石油ストーブの普及はまだだった。民需は少なく、官需は軍需中心だった。それは、第一次大戦後、航空機が普及し始め、とくに19世紀までの陸海軍中心の戦争から、空軍の戦闘に転換したからです。日本も明治以来、軍需主導の重化学工業化であり、それだけに軍需中心に石油への依存が急速に高まった。それによる対米石油依存ですが、その弱みをアメリカは対日経済封鎖で突いてきた。ここから石油エネルギー問題が提起され、日本の「資源小国」がクローズアップすることになったのです。
 1945年の敗戦は、「資源小国」についても、厳しい反省を迫ったことは言うまでもありません。対米石油依存を反省し、国内の資源エネルギーの活用に転換せざるを得なかった。それに現実問題として、戦災によって食料まで不足し、石油エネルギーを輸入する外貨もなかった。日本経済の再建は、軍需依存の体質を根本的に転換し、まずは日本列島の国内に賦存する自然再生エネルギー資源の開発・利用から始めざるを得なかった。食糧増産のための治山治水から、工業生産についても、傾斜生産方式として石炭産業、水力による電力事業など、もっぱら国内の地域資源の開発利用を中心に地域の産業振興をはかり、日本経済の再建に乗り出したのです。平和国家・日本の「平和経済」のスタートです。この地域資源の開発による産業振興について、戦後経済にとり決定的な意味をもったのが、「国土開発」でした。以下、戦後日本の国土開発の軌跡を辿りながら資源エネルギー問題の推移を見ることにします。
2)戦後日本の国土開発とエネルギー革命:太平洋ベルト地帯構想の拠点開発「臨海モデル」
 日本の地域開発は、戦後1950年(昭25)に決定された「国土総合開発法」(略称、国土法)によって進められました。具体的には、この法律に基づく全国総合開発計画(全総計画)によって進められたのですが、しかし出発に当たっては、全国レベルの計画は決定されませんでした。1962年(昭37)まで、20年近くも全総計画のないまま、地域開発が進められたのです。まず北海道開発に始まり、特定地域の開発計画、続いて例えば「東北開発促進法」などに基づく地方レベルの開発計画が次々に策定され、それらが先行することになった。そこにまた、当時の資源エネルギー問題の所在と政策的特徴が現れていたと思います。特定地域として選ばれたのは、東北では「阿仁田沢」「北上」「最上」「只見」ですが、いうまでもなく東北を代表する河川の「水系」であり、自然エネルギーを中心とした資源開発だった。また多目的ダムの建設など「災害防除」や、都市部への連結などが考慮された地域開発でした。
 このように地域に特有な自然エネルギー資源の開発と利用だからこそ、それはまた地方レベルの開発計画が先行することにもなったのです。北海道開発に続いて、1957年(昭32)には東北開発の計画が、いわゆる「東北開発三法」により具体化しました。東北開発促進法、東北開発株式会社法、北海道東北開発公庫法の三法です。東北に賦存する豊かな資源エネルギーを開発利用し、そのための開発投資主体として特殊会社の東北開発株式会社を活用し、資源開発の地域金融機関として北海道東北開発公庫が拡充、設置されたのです。東北には、農村の食料資源をはじめ、上記の代表的河川の水力エネルギー資源、国有林など豊かな森林資源、石灰岩などセメント建設材料資源、さらに常磐炭鉱など各種の鉱物資源にも恵まれた、まさに「自然エネルギーの宝庫」である。それを総合的に開発利用して、地方分権型の地域開発、そして地域民主主義の理念を実現するのが東北開発の「初心」だった筈です。
 日本経済は、朝鮮動乱の特需で再建の切っ掛けをつかみ、さらに神武景気から岩戸景気へと戦後成長のステップを踏み固めました。その上で、1962年(昭37)10月に懸案だった全総計画が閣議決定され、国土法による国家レベルの上からの総合開発計画が始動することになります。池田内閣の下、戦後の経済計画を代表する国民所得倍増計画とセットになり、高度成長経済への移行とそれに伴う地域間格差の是正を目指しました。基幹産業としては重化学工業、そして所得倍増計画の「太平洋ベルト地帯構想」を推進する拠点開発方式が採用され、京浜、中京、阪神の工業地帯を結ぶ三大都市圏、その延長上に工業整備特別地域、さらに新産業都市を整備する方式です。戦後の高度成長経済は、ほぼこの枠組みで進められ、GDP成長率が年率10%にも達する奇跡的成長を実現しました。
 しかし、ここで注意すべき点は、この枠組みが朝鮮動乱から、さらにベトナム戦争など、戦後の冷戦体制に組み込まれていたことです。とくに、60年(昭35)日米安保の改定によって、「経済安保」の枠組みがつくられました。さらに戦後のエネルギー革命による石炭から中東の石油への転換とも結びつくことになったのです。当時、エネルギー革命を象徴した三井三池の反合理化闘争、そして60年安保反対の闘争が、当時の政治・社会の重大事件だった。日米安保が、日米経済協力のもとに構築され、戦後のアメリカの中東支配が進み、世界のメジャー石油資本による経済支配に日本経済も組み込まれることになったのです。その結果として、東北を中心とした豊富な自然再生エネルギー資源にもとづく平和経済の夢も、ここで潰え去ってしまった。東北開発三法もまた、冷戦体制のエネルギー革命による高度成長の陰に隠れ、その存在も消失することになったのです。
 本来、アメリカの石油開発は、20世紀アメリカ金融資本による重化学工業化をリードし、第2次大戦の勝利と共に、さらに中東支配に発展しました。冷戦体制の下での石油需要の拡大に、原油採掘技術の飛躍的発展が、安価な石油の大量供給を可能にする。このアラブで開発された安価な石油資源が、日本列島の太平洋ベルト地帯に拠点開発された臨海型コンビナートに大量輸入される。「重厚長大」と呼ばれた基礎資源素材型の臨海型重化学コンビナートで低次加工され、1$=360円の超円安の為替レートで対米輸出される、こうして石炭から石油への化石燃料エネルギー革命が、輸出主導型の成長パターンとして、日本経済の超高度成長を主導することになったのです。
 (3)石油ショックと「原発国家」への転換:チェルノブイリ原発事故と「ソ連モデル」の崩壊
 この中東からの大量輸入石油資源による高度成長も、1970年代に大きな転機を迎えます。1973年(昭48)及び79年(昭54)の2度に及ぶ石油ショックです。ポスト・ベトナムによる新植民地主義の敗北に刺激され、中東アラブ諸国VSイスラエルの中東戦争を切っ掛けに、アラブ産油国は大幅な石油の供給削減、それによる原油価格の急騰にもとづく狂乱インフレが起こりました。すでに1971年(昭46)、アメリカのドル危機による1$=308円への円の大幅な切り上げ=ニクソン・ショックがあり、それで割安になったアラブの輸入原油を「湯水のごとく」使って、「石油漬け」だった日本経済は、石油ショックでマイナス成長の不況に遭遇しました。中東からの石油を中心に臨海型企業立地による輸入資源大量消費型、そして超円安の為替レートで輸出依存・民間投資主導型といわれた日本経済の高度成長パターンを、ここで見直す良い機会だったかもしれません。東北開発の初心に戻って、豊かな国内資源にもとづく経済成長の道を選択することもできた。しかし、1$=360円から308円への円切り上げにつづく固定相場制から変動相場制への移行が、その選択を許しませんでした。
 変動相場制により、円高基調の輸出依存型の成長は、一時的にブレーキがかかりマイナス成長も経験した。しかし、その円高は輸入にとっては大幅な円高差益を生む。石油ショックによる原油の値上がりも、円高=ドル安によって相殺し、輸出のマイナスを輸入のプラスで相殺する新しいメカニズムが機能することになった。したがって、石油ショックにより超高度成長が安定成長に調整される効果があったものの、むしろ先進国の中では石油ショックからの回復、不況克服の「成功物語」、「JAPAN AS NO.1」となった。こうして、戦後の冷戦体制の日米「経済安保」体制で再生をみた「資源小国」の呪縛は続いたのです。それどころではない。変動相場制による市場原理に強化は、ドル安の進行と共にプラザ合意など、日本経済の円高基調をますます強めました。円高は、オイルショックの相殺作用だけではなく、むしろ木材や農水産物など輸入資源の急増を招き、第一次産業の切捨てを決定的にしたのです。
 さらに冷戦体制の下、米ソを中心とする東西の対立は、核全面戦争こそ回避されたものの、核兵器の開発と共に核の平和利用の名のもとに、原発の開発競争がエスカレートしました。「熱戦の原爆」と「冷戦の原発」は、東西の核開発競争のもとで表裏の一体化だった。米が核実験すれば、ソ連が原発の開発を進める、それをまた米が追う、こういった核開発競争が冷戦体制だった。そうした体制下、被爆国日本も原発の開発では、戦後10年も経たない1954年(昭29)日本学術会議が「原子力3原則」声明、翌年「原子力基本法」制定など、早々と研究開発がスタートした。63年(昭38)には、東海村に実験炉も開発されました。これが石油ショックで、一挙に「夢のエネルギー」として脚光を浴び、被爆国として核アレルギーはあったものの、平和利用として70年代に18基、80年代に16基、90年代15基と続きました。「原発国家」の登場であり、発電所建設に補助金が交付される「電源三法」により、国家的事業として強行されたのです。
 とくに今回の原発事故の東京電力「福島第一原子力発電所」の6基すべてが、70年代に先陣を切るように集中立地され東北の「原発銀座」と呼ばれました。戦後の東北開発の出発点で提起された自然エネルギーによる開発は、ここで原子力利用に一変した。この東北の原発も、実は石油ショックに先行して、水面下で準備されていました。前記の全総計画に続く新全国総合開発計画(1966年制定)では、太平洋ベルト地帯のさらに延長上に、「大規模工業基地」として九州の志布志湾、北東北・北海道のむつ小川原、苫小牧東部の遠隔地立地です。ここでも重化学工業化、輸出依存・輸入資源エネルギー大量消費が目指され、その輸入基地として、志布志湾はアラブの石油備蓄基地、むつ小川原・苫小牧東部は石油基地だけでなく、原子力利用のエネルギー戦略が立てられ、それが70年代石油ショックにより福島第一原発の「原発銀座」が一挙に推進されることになった。太平洋ベルトの東北三陸の津波常襲地帯を挟み、重化学工業化の臨海型拠点開発が、アラブの石油エネルギーに変わり、対米依存の原子力利用に転換したのです。
 しかし、石油エネルギーから原子力への転換が、順調に進んだわけではない。米ソの核開発競争が激化する中で、まず1979年(昭54)には米スリーマイル島の原発事故、続いて86年(昭61)には旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起こりました。原子力の平和利用として推進された原発「安全神話」が、米ソの2大事故により根底から動揺し、70~80年代に急増しつつあった原発ブームも冷却しました。それどころか、ロシア革命の後1920年(大13)全ロシア・ソヴェト大会で「共産主義とは、ソヴェト権力プラス全国の電化である」と演説したレーニン、その「レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所」が爆発し、欧州全域に放射能を拡散した。原発は一時再稼動したものの、91年にはソ連が崩壊して冷戦体制が終幕を迎えたのです。ソ連崩壊は、発送電一体の戦時体制をっ引き継いだまま、9電力による地域独占で「ソ連以上に社会主義」と批判されてきた、わが日本の電力事業にも、まさに「他山の石」だった。ところが、具体的には92年の「地球サミット」、とくに97年の京都議定書が温室効果ガスの削減目標を打ち出しました。地球温暖化が世界的にクローズアップされ、再生可能エネルギーによる「低炭素化経済Low-carbon Economy」が提起されたのです。
 この低炭素化に割り込む形で、原子力エネルギーの利用が息を吹き返した。「原発ルネサンス」に他なりません。化石エネルギーに対して、原子力は二酸化炭素による温室効果ガスの発生を伴わない。集権システムのコントロールによる安定供給、低コストの原子力利用の優位性が、誇大ともいえる「安全神話」のキャンペーンに乗って登場しました。しかし、原発の安全神話は、今回の東日本大震災の平成三陸大津波により、瞬時にして崩壊、拡散される放射能汚染は、インターネットでグローバルに情報開示されたのです。LCEへの産業構造の転換は、度重なる原発事故、地球温暖化に対として、すでにヨーロッパ各国では環境対策として本格化してきた。また、米民主党のリベラル派が08年の米大統領選の公約として「グリーン・ニューディール」
を準備しました。スマート・グリッド(次世代送電網)など情報通信(ICT)革命と結合、LCE+ICT革命として新たな産業構造の転換に向っているのではないか?
 4)自然再生可能エネルギーの低炭素化社会:「自然豊国」の「水系モデル」
 2011年3・11東日本大震災により、とくに福島第一原発事故によって、原発の「安全神話」が崩れ去りました。同時にまた、例外的な近代科学技術信仰の原理主義者を除けば、時期の問題があるにせよ「脱原発」の国民的合意は形成されたといえます。現実に、節電、蓄電、ソーラー創電など、脱原発への努力によって、利便至上の「オール電化」の生活スタイルからの転換が始まり、「原発ゼロ」の国民生活が定着しています。原発再稼動は、一方で利益の獲得を回復したにもかかわらず、もっぱら集権型地域独占企業の電力企業による既得権益の確保だけでしょう。そうした意味で、多大な犠牲を払いながら、「熱戦」「冷戦」の異常な時代に日本人を拘束し続けてきた「資源小国」の呪縛から、戦後70年ようやく解放される時代を迎えたともいえるのです。そして、戦後日本の再建にあたり、東北に賦存すう豊かなエネルギー資源を活用するための「東北開発」の初心にも立ち返りながら、自然再生エネルギーによる低炭素化社会の構築のデザインを準備しなければならない。その論点を摘記してみましょう。
 ①「成長戦略」からの転換:輸入資源大量消費、そして対米輸出依存民間投資主導型の高度成長は、冷戦体制のもと、中東の石油支配によるエネルギー革命、日米「経済安保」の枠組みのもとで進められてきた。しかし、すでにポスト冷戦、アメリカのリバランス政策など、高度成長の体制的枠組みが大きく変化した。さらに、少子化など日本経済の潜在成長力そのものが低下、すでに国際収支の構造も、対外直接投資・所得収支依存型に転換している。こうした構造的変化を直視せず、相変わらず「坂の上の雲」を追い求める「成長戦略」の発想を捨て、経済不安と格差是正のための経済運営が不可避になった。
 ②「臨海型モデル」から「水系モデル」への転換」:戦後体制の枠組みの変化と成長力の低下は、輸入資源大量消費・輸出依存の成長パターンを支えた太平洋ベルト地帯構想の拠点開発方式「臨海モデル」からの転換を迫っている。3・11大震災は、「臨海モデル」の福島第一原発」事故だけではなかった。原町火力、仙台火力、新仙台火力など、福島原発と並ぶ臨海型沿岸立地の火力発電をはじめ、「新産業都市」作りのために開発された施設が軒並み津波に浚われ機能を停止した。それに引き換え、同じ東北電力の三居沢水力発電所は、ほとんど停止せず震災の町に電気の灯を届け続けた。明治以来の日本最初の水力発電所の「水系モデル」の健在ぶりこそ、東北「資源豊国」の生きた記念碑だろう。
 ③自然再生可能エネの低炭素化(L-CE)+情報通信技術(ICT)の産業創出:環境省の調査によれば、「資源豊国」東北の自然再生エネルギーの賦存に変りはなく健在である。日の丸を国旗とするほどの太陽光・ソーラー発電に地域差はない。しかし東北は、風力16%、地熱25%、中小水力31%の対全国比で、高い地域「電源構成」を確保している。この資源エネルギーを地産地消型の生産・消費の再生産に結びつけるICT技術も進んでいる。すでにゼロ・エネルギー・ハウスなど、建築設備、温室栽培、水産加工の分野。インフラ整備は、発送電の分離など電力改革による、道路、交通、通信などのスマートグリッド、さらに医療・福祉、セキュリティのエコタウン創造など、まさに「地産地消」の循環型社会が実現するだろう。
 ④スマートコミュニテイのソーシャルデザイン:こうした自然再生エネルギーを基礎とする自然と人間との物質代謝は、地産地消の生産と消費の循環型社会の創造として、新たな都市と農村の統合を目指すことになる。とくに東北の米作りは、水田耕作による自然再生エネルギー・水力の地産地消によって、村落共同体の強い「絆」が維持され、地域の共生も維持されてきた。いま、L-CE+ICTによる産業構造の転換は、自然再生エネルギーによる「水系モデル」により、地域再生の「スマートコミュニティ」をソーシャルデザインすることにより、22世紀に向けての都市と農村の統合を可視化することになるだろう。
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by morristokenji | 2015-09-07 13:54