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by morristokenji

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 2008年のリーマンショックは、本格的な世界金融恐慌でした。1929年の世界恐慌を最後に、現代の資本主義は世界恐慌の矛盾を完全に克服した、という脱恐慌神話の時代が続きました。にもかかわらずリーマンショックが、世界恐慌の悪夢を甦らせたのです。アメリカを始め、世界各国が恐慌の再発を恐れ、事前に防止する意図を持って,金融の「異次元緩和」を続けざるをえないのも、リーマンショックの再発を恐れるからです。異次元緩和によって、いまやヨーロッパも日本も各国が協調し、通貨のばら撒き、「ブタ積み」が広がっている。しかし、いくら金融や財政のマネタリーな面から巨額な資金を注ぎ込んで「異次元緩和」を続けても、実物面の実体経済での「資本の過剰」が解決しなければ、投資も消費も動かない。また、アベノミクスが総動員体制で「一億総活躍時代」を叫んでも、それだけでは空しく響くだけでしょう。問題は、すでに硬直化し、慢性化してしまった「資本の過剰」の解決にある、単なる金融恐慌の回避ではないのです。

 宇野『恐慌論』では、特有な経済学方法論の三段階論において、①原理論(『恐慌論』が含まれる)では「恐慌の必然性」が、②資本主義の世界史的発展段階の段階論では「戦争の必然性」が、その上で③資本主義の終わりは各国の主体的・組織的な体制変革の運動で「革命の必然性」が、それぞれ説かれることになっています。はなはだ含蓄に富み、かつ意味深長な方法論ですが、「原理論」の恐慌論で恐慌の必然性が明らかになっても、革命の必然性は説けない。初期マルクス・エンゲルスの「恐慌・革命テーゼ」は、とっくに破産していた。問題のポイントは、現代の資本主義にとって、貨幣・金融恐慌を通して「資本の過剰」が解決され、再び成長力を自己回復できなくなった点にある。デフレ不況が慢性化し、金融の「異次元緩和」で実体経済を大きく上回る巨額の資金が放出され、「ブタ積み」になって資産の格差が拡大している点にあるのです。

 19世紀のマルクス『資本論』にたいし、21世紀の『資本論』として、T.ピケティの『資本』論が世界のベストセラーとなり話題を集めています。ピケティは、資本主義の富の格差拡大を実証的に分析し、10%ほどの富豪層への富の集中と90%ほどの貧困大衆との格差を明らかにしました。こうした格差拡大は、現代的貧困の問題としては、極めて重要だと思います。ただ、同じ『資本』論でも、マルクスの資本概念は、すでに説明のとおり商品や貨幣、生産要素など、姿態変換を繰り返す価値増殖の運動体だった。そこから「資本の過剰」や「人口過剰」「資金の過剰」も説かれていた。ところがピケティの資本は、価値増殖の運動体ではないのです。同じ「資本」でも似て非なるもので、ピケティのそれは「資産」であり、不動産などの実物資産や金融資産であって、今や慢性化した「資本の過剰」が、金融の「異次元緩和」などによって巨大な「資産」として一部富裕層に偏在し、超低金利、ゼロ金利で資産価値がますます上昇して、格差の拡大をもたらしている。ですから、現代の格差拡大は、マルクス『資本論』、宇野『恐慌論』の「資本の過剰」の結果であり、慢性的過剰の結果としての資産格差が解明されなければならないでしょう。

 そのピケティですが、彼は20世紀の30年代頃から、戦後の冷戦体制が続いた90年代の初頭まで、資産格差が縮小し、所得の平等化が実現した時代としています。戦争と革命の世紀が、資本主義の歴史の中で格差縮小と中産階級化の進んだ時期であり、ポスト冷戦と共に格差は再拡大、再び資産の不均等発展が始まった、と分析しています。彼の問題提起は極めて重要だし、無視できない現実です。日本でもそうでしたが、資本主義が確立するまで、いわゆる本源的蓄積が進められ時代、国家の租税収入の中心は地租だった。土地・不動産中心の資産家がブルジョワ(有産者)であり、プロレタリア(無産者)との階級対立が進んだ。その格差は大きかったし、税収が所得税に転換したのも、資本主義が確立した後であり、租税収入を見ればピケティの言うとおり、格差は資産格差として拡大していたのです。では、なぜ20世紀に資産格差が縮小したのか?
 資本主義の世界史的発展は、第二次産業革命の重化学工業化を経て、20世紀の帝国主義の時代を迎えます。宇野『恐慌論』は、段階論として原理論の「資本の過剰」の歴史的変質を解明しています。重化学工業への産業構造の転換は、言うまでもなく化石燃料の大量消費を基礎として、インフラ投資など巨大装置の整備を基礎に、大型の固定設備が投資されます。産業組織としても、金融資本による市場独占が進みますが、こうした金融資本の組織化は、「資本の過剰」に対しても次の2つの方向で対処するでしょう。一つは、新たな
合理化投資による労働生産性の向上を抑制する。できるだけ現存する設備を温存し、その更新を遅らせる視、そのために組織的独占を利用する。この点では、「資本の過剰」もまた温存され、そうした傾向が強化され今日の慢性的「資本の過剰」を招いたといえます。
 しかし、そうした「資本の過剰」の慢性化による停滞・低成長の方向だけでなく、もう一つの方向も可能です。金融資本の組織化は、技術革新による合理化と生産性の向上を進める面を強化できるからです。すなわち、金融資本の蓄積は、株式資本の投資により、自己資本だけでなく、他人の外部資本を増資により集中して投資できる。集中による資本の集積であり、それにより不断に技術革新による生産性の向上と相対的過剰人口の創出を図り、資本蓄積を進めることができます。その限りでは。「資本の過剰」を金融資本の組織力で解決し、自ら成長力をパワーアップすることができる。つまり、金融資本は慢性的な「資本の過剰」で停滞・低成長に陥る面と、技術革新と生産性向上を利用し「資本の過剰」を自己解決して成長力を確保できる面を持っているのです。二つの側面が、どのように具体的に現れるか、それは歴史的、具体的な条件により異なってくるのです。

 20世紀の帝国主義について言えば、第二次産業革命で金融資本の発展が進み、先進各国の国際的対立が激化しました。とくに後進ドイツ金融資本の攻撃的発展が強まり、先進の英仏との対立、それが植民地の再分割をめぐる対立激化となった。もともと資本は、商品も貨幣も同様ですが、市場は国境を無視しグローバルに発展拡大する。とくに金融異本の発展は、上記のように株式資本による集中・集積が可能であり、国内的な技術革新の制約や労働力の不足などがあれば、対外投資に進みます。対外投資は、カントリーリスクを回避する点では、植民地的支配と共に進むのでしょうが、そもそも植民地的支配も多様ですし、地域統合のような枠組みでも対外投資は進むはずです。とくに国内の「資本の過剰」が長期化し、慢性化すれば、過剰な資本の捌け口、投資先として海外が求められることになる。こうした金融資本の発展が、対外的な緊張、対立から、戦争を誘発することにならざるをえないでしょう。
 ただ、ここまでの説明では、戦争の可能性ではあっても、その必然性の説明にはならない。戦争になるかならないか?それは政治過程で決まるし、国家の機能でしょう。宇野・三段階論では、原理論では恐慌論を中心に、近代社会の経済的運動法則が自立的に展開されるものとして、いわゆる純粋資本主義が抽象されます。したがって、法則自体としては、国家の政治的関与を一切抜きにして、経済過程が自律的に運動するものとされました。自然と人間の物質代謝が市場経済により自律的に運動する、そこに資本主義経済の運動法則の歴史的意義を『資本論』と共に発見したのです。その点で、資本主義社会の近代国民国家を、「階級支配の道具」とする唯物史観のドグマからも自由になった。近代国民国家は、いわゆる法治国家であり、経済法則に単なる枠組みを提供するだけなのです。
 しかし、資本主義の世界史的発展は、初期のいわゆる本源的蓄積の段階では、国家権力を「助産婦」として、土地自然と共に労働力を商品として創出した。また、土地からの租税収入が、国家の財政的基礎を形成し、資本主義経済が権力的に誕生しました。そうした近代国民国家も、資本主義経済の確立と共に、経済的自由主義の時代を迎え、国家権力は「夜警国家」の小さな政府として機能することになった。そして、こうした歴史的発展が、資本主義経済の自律的運動法則の歴史的・現実的な抽象を可能にし、純粋な資本主義の抽象による原理論、そして「恐慌の必然性」を解明可能にしたのです。しかし、資本主義の世界史的発展は、20世紀を迎えて、第2次産業革命による重化学工業化、そして植民地主義による帝国主義の時代を迎えたのです。経済的自由主義の「夜警国家」は、植民地支配のための「官僚国家」、そして大きな政府に転換することになり、そこから戦争の「必然性」が生まれます。

 20世紀、帝国主義の時代は、すでに述べたように金融資本の発展により進みますが、金融資本は一方で内部に「資本の過剰」を抱え込みながら、他方では株式資本による「集中にもとづく集積」を利用して、外延的な拡大発展を進めます。外延的拡大は、対外的に植民地支配を必然化しますが、内部的に抱え込んだ「資本の過剰」の処理のためにも、対外的な植民地主義が積極的に利用されます。植民地の土地と共に原材料資源エネルギー、安価な労働力などの利用は、「資本の過剰」処理に極めて有効だし、さらに国内の「人口の過剰」を対外的な移民政策としても利用できる。株式資本による「資金の過剰」の処理、それに「資本の過剰」、「人口の過剰」の処理が、全般的に金融資本による植民地主義を必然化するのです。こうした植民地主義への発展は、対外的緊張や国際対立を不可避としますが、それだけに国内的には国民全体の組織的統合が不可欠です。植民地支配のために国民の総動員体制が構築され、雇用の拡大による完全雇用の実現が政策目標にならざるをえない。「完全雇用」による社会的福祉の実現、20世紀の社会福祉は19世紀の社会福祉の拡充から「福祉国家主義」として、植民地主義などの国家主義とセットで登場したことを見逃すべきではないでしょう。
 このように帝国主義の国家は、単に植民地支配にとどまらず、そのためにも完全雇用を目標とする福祉国家主義による国民全体の組織化を計らなければならない。選挙権の拡大など大衆民主主義もまた、国民の組織的統合の政治的手段だった。さらに、財政制度についても、上述の初期の地租を中心とした資産課税から、法人や個人の所得税中心に転換します。租税民主主義の拡大であり、そうした中で所得税については、ピケティも強調していますが、強度な累進制が導入されます。福祉国家主義は、こうした租税民主主義の拡大とともに、資産格差を解消することにより「中産階級化」をもたらすことになります。ピケティの強調する20世紀30年代からの格差是正と縮小の時代は、こうした福祉国家主義による所得の再分配の結果だったのです。それにより国民の組織的統合を進め、世界戦争へ突入したといえます。
 もちろん二度の世界大戦は、言うまでもなく国民の組織的統合による「総力戦」であり、大きな犠牲を伴うことになった。とくに敗戦国の犠牲は大きいし、戦勝国でも少なからぬ犠牲が生じました。そうした犠牲は、金融資本の「資本の過剰」を国家が総力戦により解決しようとしたからですが、こうした戦争による「資本の過剰」の解決は、総力戦という「聖戦」の美名のもとに、兵士と共に国民をモノにして「物動計画」により権力的に完全統制するファシズム経済により遂行されました。労働力商品化の矛盾は、こうして軍事統制経済のもとで、人間を完全にモノにして解決せざるを得ない。金融資本は、自らの「資本の過剰」を戦争により解決せざるをえない、それを期待している点に宇野・段階論の「戦争の必然性」を見ることができるのではないか?

 なお、第2次大戦後の「戦後体制」ですが、日本の敗戦で終戦を迎え、その後、約半世紀の長期にわたり東西冷戦の時代が続きました。この間も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争など、部分的局地戦争が続けられた。東は「プロレタリア独裁」のイデオロギーのもとにソ連型社会主義として組織化され、統合された。西はアメリカを頂点にして、「自由と民主主義」の価値観で組織的に統合されました。そして、この異常とも言える冷戦構造のもとで、米ソの核開発競争が進められた。一方は「熱戦」のための原爆、他方では「平和利用」の名のもとでの原発の利用です。こうした冷戦型の経済体制のもとで、いわばなし崩しの形で金融資本の「資本の過剰」が処理されてきたのではないか。そうした処理が続いた限り、ピケティの強調していた資産格差の縮小傾向が続いたといえるでしょう。しかし、1986年レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故は、マルクス・レーニン主義のドグマと共に、91年ソ連型社会主義を一挙に崩壊に導いた。それはまた戦後体制の冷戦時代の終焉でした。ポスト冷戦の21世紀を迎え、資産格差の再拡大が進み、金融資本は「資本の過剰」を抱え込みながら、その処理に戦争を期待せざるをえない、最後に宇野『恐慌論』の現状分析に触れておきましょう。
 
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by morristokenji | 2016-02-27 20:19
 年明けの日本経済は、予想通りというか、予想を遥かに上回る大荒れでした。とくに日銀のマイナス金利導入は、アメリカ連銀の利上げとセットのドル高=円安の誘導とは真逆のドル安=円高、また株高どころか大幅な株安、特に金融株の暴落を招きました。金融破綻による金融恐慌の再来、そして日本資本主義の「終わりの始まり」の声が、またぞろ左のほうから聞こえてきます。

 今回の金融不安も、貨幣・金融恐慌に発展する可能性はあります。2008年のリーマンショックの再来を思わせる株式市場の暴落は、貨幣・金融恐慌の再来であり、約10年を周期とする恐慌を連想させます。しかし、19世紀の周期的恐慌は、初期マルクス・エンゲルスのイデオロギー的期待に反して、革命による資本主義の崩壊をもたらすどころか、むしろ貨幣・金融恐慌をバネにして、イギリスを中心に資本主義の成長力は強化・加速され、革命には結びつかなかった。初期マルクス・エンゲルスのいわゆる「恐慌・革命テーゼ」のドグマは放棄され、マルクス『資本論』を読んだウィリアム・モリスなども、バックスとの共著『社会主義』では、周期的恐慌を新たな成長のバネ、ステップとして論じていました。今回の金融不安が、世界的な貨幣・金融恐慌に発展しても、リーマンショックがそうであったように、日本資本主義の「終わりの始まり」には直結しないでしょう。

 しかし問題は、貨幣・金融恐慌が革命に結びつかないことより、むしろ日本資本主義の新たな成長のバネとして働かなくなっている点にあります。日本でも、いち早く上記「恐慌・革命テーゼ」を、独自の『資本論』研究を通して解脱していた、そして最近は佐藤 優氏などの手で復権している宇野弘蔵『恐慌論』を手がかりに、その点を説明してみましょう。

 宇野『恐慌論』は、経済学の方法論としては、原理論、段階論、現状分析の三段階論のうち、『資本論』を体系化した原理論の集約です。そこでは恐慌現象を貨幣・金融恐慌としていますが、それは資本主義の崩壊、革命には直結しない。体制変革としての革命は、段階論で解明される「戦争の必然性」、さらに現状分析の組織的な運動論を踏まえた現状分析を通して「革命の必然性」にアプローチする方法です。むしろ『恐慌論』では、恐慌に続く不況=デフレ現象の中で、つぎの成長=好況が準備されると見ています。そして恐慌は貨幣・金融恐慌として、利子率の上昇=利上げにより、低下していた企業の利潤率と衝突する現象です。その恐慌で弱小な企業は倒産し、さらに不況により資本の過剰が整理されます。この「資本過剰」の整理が重要で、企業は一方で不況で低下した過剰な資金の借り入れ、つまり「資金過剰」の利用と並んで、他方では生産性の上昇による合理化投資=省力化投資で利潤率の回復を図る。この過程で資本過剰が整理され、新たな成長が進みます。

 日本資本主義も、1990年代初頭のバブル経済崩壊のあと、デフレ=不況を脱却するために歴代政権が、手を変え品を変えて、繰り返し「成長戦略」を準備しました。中には構造改革にまで踏み込んだ成長戦略もありましたが、どれも成功しないまま、「失われた10年」さらに20年に及ぶ長期慢性不況の停滞・低成長に苦悩してきました。今度の安倍政権の「アベノミクス」もまた、どうやら成長戦略の失敗に終わりそうです。宇野『恐慌論』を下敷きにして、この成長戦略の失敗をみると、もはや資本過剰の解決ができないまま、貨幣・金融のマネタリーの次元だけで、異次元緩和を続けている、そして遂にマイナス金利という異常な次元にまで突き進んでしまった、そんな風に思われます。「資本過剰」が正しく捉えられていない、その辺に問題があるのではないか?

 バブル崩壊の後、政府の『経済白書』をはじめ多くの刊行物でも、超大型・長期のデフレ現象について、「三つの過剰」が提起されていました。バブルが崩壊し過剰な貸付が滞留してしまった「資金の過剰」、成長がバブル化して設備が過剰投資された「資本の過剰」、それにバブル崩壊で失業が大量化した「人口の過剰」の三つです。このうち「資金の過剰」は、デフレの長期化のなかで整理されたものの、08年のリーマンショックの世界金融恐慌により、新たな資金過剰の「異次元緩和」政策が進められ、ついに「マイナス金利」まで突き進んだ。こうした貨幣・金融のマネタリーな次元での過剰な資金供給も、世界金融恐慌の再発回避には役立った。しかし、一方でバブル経済の再発にもつながり、実体経済における「資本の過剰」の解決には繋がらない。さらに、新たな人口問題である「少子高齢化」による人材不足が深刻化しています。貨幣・金融面の「異次元緩和」が、なぜ実体経済面での「資本の過剰」や新たな人口問題である人材不足を引き起こしているのか?

 この設問に答えるために、宇野『恐慌論』を参考にしましょう。「資本の過剰」ですが、バブル崩壊により過剰に投資されていた設備の過剰が一挙に表面化した。白書などの「資本の過剰」は、設備としての過剰であり、それは間もなく整理され淘汰された。古典派経済学以来、資本は生産設備として、ストックとして理解されてきた、マルクスの『資本論』は、その資本概念を大きく変えました。資本は、製品や原材料の商品の形をとったり、貨幣の形をとる、もちろん生産設備の形もとる。だから設備を資本とすることが完全な誤りではないが一面的です。マルクス『資本論』の資本は、商品、貨幣、生産設備など、姿態変換する価値増殖の運動体です。この新たな資本概念を基軸として、近代社会の経済的運動法則としたのが『資本論』であり、宇野『恐慌論』です。それによれば、「資本の過剰」は単なる生産設備の過剰ではない。生産設備であれば、不況とはいえ生産で稼動していれば、時間経過と共に過剰は解消する。白書なども設備としての資本過剰の解消を主張していました。

 しかし、過剰設備が解消されたとしても、価値増殖の運動体としての「資本の過剰」は解決されない。『資本論』では第三巻の利潤論の箇所で、「資本の絶対的過剰生産」について論じていますが、そこでは投資しても価値が増殖できない、とくに追加投資が利潤ゼロまたはマイナスの状態を「資本の絶対的過剰生産」と呼んでいます。宇野『恐慌論』も、マルクスの資本過剰論の立場から、投資された資本の価値増殖が行き詰った状態が「資本の過剰」であり、その根本原因を労働力への可変資本の投資の限界に求めているのです。有名な「労働力商品の特殊性」ですが、資本主義経済では市場経済が拡大するけれども、とくに人間の労働力が商品化され、賃労働化する点に基本的特徴がある。モノではないヒトの労働力まで商品化されるが、肝心要の労働力を資本は直接には生産も再生産もできない。宇野『恐慌論』では、不況期に「資金の過剰」を利用し、生産性の上昇による合理化型=省力化投資により、相対的過剰人口を創出し、それを資本が労働力として雇用して、自ら「資本の過剰」を解決しなければならない。単なる過剰設備の解消ではない。資本と労働力の関係、資本・賃労働の関係を解決しなければならないと主張します。

 19世紀の資本主義は、約10年の規則的な景気循環で「資本の過剰」を解決し、貨幣・金融恐慌を梃子に不況期の合理化投資で労働力を確保して、自ら成長するバイタリティを持っていた。しかし、20世紀の重化学工業化で大量の化石燃料の利用を余儀なくされると共に、生産性向上による合理化投資を通じての労働力の創出、つまり「人材の確保」が困難になってきた。海外に石油など化石燃料を求め、安価な労働力の利用のために、資本の海外進出と植民地支配の時代を迎えたのです。植民地支配とそれに伴う世界戦争により、資本主義は権力的に「資本の過剰」を解決せざるをえなくなってしまった。ここに宇野理論の段階論の「戦争の必然性」が提起されます。「戦争の必然性」は、「資本の過剰」が19世紀の周期的景気循環、そこでの周期的恐慌で解決できなくなった結果です。その点では、現在も「資本の過剰」を金融恐慌では解決できず、戦争で解決したい財界などの要求は強まっていると思います。その点については、後でまた説明しましょう。

 アベノミクスをはじめ、成長戦略がうまく行かないのは、「資本の過剰」の解決が進まないからです。すでに化石燃料の大量消費など、人間と自然の持続可能性を危うくするような状況では、生産性を上昇させる合理化投資が困難になった。合理化投資で相対的過剰人口を創出し、労働力を雇用拡大する能力拡大型投資が進められない。生産性上昇の行き詰まりと労働力の構造的不足、つまり資本の「潜在的成長力の低下」が、「資本の過剰」の解決を困難にしている。それに加重して、現代福祉国家による完全雇用政策は、労働市場における労働力の不足を慢性化させ、それが「資本の過剰」の慢性化をもたらす。「人手不足」「人材確保」をスローガンに、労働力不足に対する「総動員体制」こそ、アベノミクスの「一億総活躍社会」の政策戦略です。

 資本の「潜在成長力」は、労働生産性の向上か、労働力の量的拡大により上昇する。しかし、今や資本主義にとって、画期的な生産性向上は期待できない。新たな産業革命と呼ばれたICT革命でも、商業や金融など、経済のソフト化・サービス化を助長するけれども、物的生産のレベルでの技術革新による労働生産性の向上は進まない。さらにまた、現代福祉国家は、福祉政策の中枢に置かれてきた完全雇用を推進する。完全雇用の実現は、資本と賃労働の労働市場では、市場メカニズムそのものにより労働力の慢性的な供給不足=人手不足をもたらす。同時にまた、生活水準の向上は、産児制限を踏まえた少子化、さらに高齢化を助長し、生産年齢の労働力の不足を構造化する。このように資本主義の「成長戦略」は、構造的な「資本の過剰」を慢性化し、持続可能な社会の発展と根本的な矛盾に陥る。この矛盾は、もはや貨幣金融恐慌で周期的に解決できるものではなく、出口のない慢性的なデフレ、構造的不況に苛まれ続けることになります。労働力商品化の矛盾は、「資本の過剰」の慢性化による成長戦略の破綻となって具体化されています。

 このような慢性化した「資本の過剰」が解決できぬまま、もっぱら財政と金融のマネタリーなレベルから「日銀マネー」の資金供給を拡大しているのが、「アベノミクス」をはじめとする異次元の緩和政策です。本来、金融政策は金利を活用して、低金利により資金を供給するのが常道です。しかし「資本の過剰」が硬直化,慢性化している以上、容易に資金は投資にも消費にも回らない。金利をゼロにしてもダメ、ゼロ金利でもダメなら、質から量へ「量的緩和」として、今までやったことのないモーレツな金融緩和に踏み切った。黒田日銀総裁の「異次元緩和」のバズーカ砲の発射です。日銀の発行する通貨の「べースマネーの供給量を倍にする」として世間を驚かせました。しかし、すでに貿易収支も赤字になっていましたから、円安が始まった。輸出企業の儲けが膨らんだものの、デフレからの脱却のメルクマールの2%の物価上昇は起こらず、国内の投資も消費も盛り上がらずに「資本の過剰」は解決しない。それどころか黒田緩和により、日銀は市中の銀行から国債を年間80兆円も買い上げることにした。銀行は日銀に手持ちの国債を買い上げてもらい、それを日銀の当座予期に積んでおけば、年0.1%の利子が付く。日銀が、この間ベースマネー212兆円も発行したのですが、市中に出回っている日銀券の増加分は11兆円しか増えていないのです。残りの201兆円はどこに消えたのか?

 日銀に開設している市中銀行の当座預金は、もともと銀行間の決済に利用されるが、黒田緩和で国債を買い上げてもらい、その資金を当座預金に積み上げておく、この「ブタ積み」に201兆円が利用されたのです。「ブタ積み」の理由は、慢性化した「資本の過剰」のため、市中銀行からの融資先がない。大企業は内部留保が厚いし、中小企業の財務は悪い。それなら0.1%の超低金利でも、当座預金に「ブタ積み」しておいたほうがよい。しかし、こんなことが長く続けられるはずはない。そこで今回、異次元緩和をさらに強化し、延長して、「ブタ積み」の当座預金の一部にマイナス金利という、保管料を召し上げることになったのです。しかし、その副作用は大きい。すでに市中銀行は、自己防衛で預金金利の引き下げや貸し出しの抑制、長期金利の低下で国債価格が暴騰し、不動産バブルなどが懸念されます。要するに実体経済面での「資本の過剰」が解決できないまま、投資も消費も進まない。そこで積み上げられる資金の過剰が、金融や財政を通して空転を続ける日本資本主義の末期的症状がますますひどくなって来ているのです。
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by morristokenji | 2016-02-18 12:04