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by morristokenji

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④貨幣の資本への転化

『資本論』第2章の「貨幣または商品流通」では、「貨幣論」と言っても、貨幣の機能が中心的に論じられ、信用論や金融論との関連は立ち入ってはいません。しかも、貨幣の価値尺度の機能は、その購買手段としては、流通手段の機能と結びついている。流通手段は、とくに通貨の流通量の調節のために、貯蓄手段である「貨幣蓄蔵」が必要であり、さらに支払手段を説くことになっている。最後が「世界貨幣」ですが、ここで「世界市場」が登場し、世界市場の価格差を利用して、「貨幣の資本への転化」を説く解説も可能か、と思います。
 流通市場には、確かに国内市場と世界市場の区別があり、商品の価格差としては、複数の国内市場にまたがる世界市場の価格差が大きい。その価格差を利用して商社などが巨利を獲得している。資本の商業的活動は、世界市場の価格差に根差している現実が判り易いと思います。しかし、『資本論』の純粋資本主義の世界では、流通市場も一般的に説かれるのであり、世界市場も国内市場も区別されない「市場一般」が抽象されて理論化されなければならない。事実、世界市場だけでなく、国内市場でも価格差は不断に生じているし、資本はそれを利用して利殖を続けているのです。資本は、世界市場、国内市場を問わず、不断に形成される「無規律性の盲目的に作用する平均法則」として実現される市場経済の価格差を利用し商業的活動が展開されるのです。生産過程を基礎とする産業資本も、資本としては内部に生産過程を包摂しながら、G-W--P--W'-G'として形態的にはG-W-G'の形式で自己増殖しています。

 『資本論』第2篇「貨幣の資本への転化」でマルクスは、資本の一般的形式をG-W-G'としています。商品から出発し、関係概念としての商品価値を価値形態とする。貨幣形態から貨幣の諸機能を展開したマルクスは、商品・貨幣の流通形態として資本も流通形態としてG-W-G'を、「資本の一般的形式」としたのです。具体的には、商品・貨幣の流通市場に絶えず生ずる価格差を利用し、GをG'に価値増殖する運動体としての資本です。ここでマルクスは、労働手段など物的な資材(Stock)を「資本」としてきたスミスなど古典派経済学の資本概念を根本的に批判して、関係概念としての資本の新たな定式化に成功したのです。資本も商品、貨幣とともに、関係概念として資本家と労働者などの階級概念を解明することになります。マルクスにとって資本概念こそ、資本主義経済の根底をなすものだし、だから『経済学批判』ではなく、本のタイトルを新たに『資本論』と銘打って、自説を世に問うことにしたのでしょう。
 しかしマルクスは、ここでも冒頭の商品論をスミスと同じ労働生産物として、労働価値説を説いてきた。貨幣の価値尺度でも、労働実体による内在的尺度を前提とする貨幣機能だった。そのため流通市場における価格差、いわゆる物価変動が、「無規律性の盲目的に作用する平均法則」として、価格の基準を形成する価値尺度の意義を十分に明確にできなかった。また流通市場における貨幣の諸機能を前提としながら、流通形態としての資本の運動が、商品の価格差を利用しながら、貨幣の諸機能とともに、具体的には「価値尺度」としての購買手段が「一物一価の法則」を実現する。こうした価値法則を実現するメカニズムの解明も不明確なまま、資本の労働者の剰余労働の搾取による階級支配が強調されるだけに終わってしまっている。以下、その点を検討しましょう。

 「貨幣の資本への転化」では、マルクスは第一節で「資本の一般的形式」を説き、単純な商品流通W-G-Wと対比しながら、資本の価値増殖のためには商品Wの価格差を利用し、G-Wで安く購入し、W-G'で高く販売しなければならない。自己増殖する価値の運動体としての資本の説明です。ところがマルクスは、労働価値説の前提をここでも持ち出し、第二節「一般的形式の矛盾」では、労働価値説にもとづく等価交換からは「こういうことは分かった、すなわち、剰余価値は流通からは発生しえない、したがって、その形成には、何か流通そのものの中で見えないあることが、その背後に行われているに相違ないということである」として、こう述べる。「資本は流通からは発生しえない。そして同時に流通から発生しえないというわけでもない。資本は同時に、流通の中で発生せざるをえないが、その中で発生すべきものでもない」として、有名な「Hic Rhodus,hic salta!(ここがロドスだ、さあ飛べ)」として、第三節「労働力の買いと売り」に飛躍してしまうのです。
 しかし、こうした説明では、そもそも何のために「資本の一般的形式」G-W-G'を説いたのか。初めから労働力商品の売買を説明し、産業資本形式を説いてもよいのではないか?資本の一般的形式G-W-G'を持ち出しても、それを等価交換の法則で否定するために持ち出しただけではないか?そのため資本の一般的形式は、「先大洪水時代の姿である商業資本や高利貸資本」の存在に結び付けたり、先に述べた「世界貨幣」から世界市場の価格差を説明することになって、理論的な「貨幣の資本への転化」の説明にはならないのではないか?いずれにしても『資本論』の説明では、理論的説明にはならず、そのために歴史的な単純商品社会の想定や世界資本主義論の歴史観などを産むことになってしまったように思われます。そして、その原因は『資本論』冒頭からの労働価値説による等価交換の法則のドグマにあるように思われるのです。

 流通市場には、時間的にも空間的にも、不断の価格差が存在する。その価格差を流通形態としての資本は、上記のようにWを安く購入G-Wし、それを高く販売W-G'して、GをGに'価値増殖する。この場合、とくに注意しなければならないのは、安く購入するG-Wは、それが活発に行われれば行われるほど、価格を上昇させ需要を減退させる。逆に、高く販売するW-G'は、供給の増大により価格を引き下げる傾向をもつ。つまり、価格差があればあるほど、資本の運動は活発になるが、結果的に価格は上昇して需要が低下し、逆に供給は増大して価格が引き下げられる。つまり、価格差を消滅させるのが、自ら需要し供給する資本の運動に他ならない。まさに「一般的形式の矛盾」ではないか?流通形態としての資本の一般形式G-W-G'は、価値増殖の運動として需要と供給を統合しながら、安い価格を引き上げ、高い価格を引き下げる。結果的に需要と供給を統合しながら、価格差を解消し「一物一価の法則」を実現するのです。
 貨幣論では、もっぱら貨幣の機能によりG-Wの需要、購買力の裏付けのある有効需要のサイドから、価格差を解消する機能を説明してきた。それに対し、資本の一般的形式では、商業的機能G-W-G'に加えて、さらに金融的機能G➛G-W-G"➛G'により補足し、その上で需要サイドだけでなく、供給W-G'の供給サイドからも価格差を解消する。すでに資本主義経済の商品形態は、労働生産物や資本の生産物だけではない。商品経済的富の根源である労働力や土地・自然エネルギーも価値形態を与えられて商品である。資本は供給サイドから、第三節「労働力の売買」を通じて、生産過程Pを通してW-G'を進める。資本の産業資本形式G-W---P---W'-G'の登場ですが、ここで初めて価値関係が生産過程の労働=価値実体と結びつくことになる。価値法則が「一物一価の法則」として、労働価値説の論証が可能になるのです。

 ここでは、『資本論』の「労働力の売買」の説明で、ほぼ十分です。産業資本はG-Wで労働力商品Aを購入し、労働者を雇用する。資本の購入した労働力商品の使用価値は労働であり、生産過程の労働は、人間労働として経済原則からも必要労働だけでなく、剰余労働を行う能力を持ち、したがって剰余価値を生産する。人間は「道具をつくる動物」として、必要労働+剰余労働を行う。しかも資本主義経済の労働力は、単純な労働力として「何でも生産」し供給できる。資本は有効需要のサイドだけでなく、産業資本として供給サイドから全面的に供給を調節して、需要と供給の統合を図り価格基準を「一物一価の法則」として実現する。しかも、それは必要労働+剰余労働として、労働の関係に基づき価格基準が形成される以上、たんなる購買手段としての外在的尺度にとどまらず、貨幣の価値尺度機能もまた、内在的に尺度されることになるのです。
 ただ、ここで問題になるのは、『資本論』のように冒頭から労働生産物を商品として、労働価値説を論証してきた。さらにマルクスの労働価値説の論証を批判して、「資本の生産物」に商品を限定したとしても、ここで「ロドス島」に飛躍して労働力商品Aを外部から導入しなければならない。歴史的には労働力は、人間の能力であり、土地・自然エネルギーとともに、いわゆる「資本の本源的蓄積」により、中世封建主義の制度的崩壊により初めて商品化した。しかし、ここで「歴史的・論理的」に世界市場の発展とエンクロージャー・ムーブメント(土地囲い込み運動)など、歴史的過程を持ち出すわけにはいかない。そのためにマルクスは、上述のように「資本の一般的形式」G-W-Gの矛盾をいきなり設定し、しかも「ロドス島」に命がけの飛躍を試みて、労働力商品を導入したのです。しかし、後に改めて取り上げますが、『資本論』では第7篇「資本の蓄積過程」第24章「いわゆる本源的蓄積」を説き、「貨幣の資本への転化」論を補足する。さらに「資本蓄積の歴史的傾向」として、単純商品生産史観ともいうべき「所有法則の転変」の歴史観を述べているのです。

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by morristokenji | 2017-08-29 20:53
 『資本論』では、商品論に続いて第3章で「貨幣または商品流通」を論じています。その最初が「価値尺度」ですが、たんに一般的な価値表現、つまり価格形態の表現材料の貨幣ならば、すでに価値形態論の最後で明らかにされている。とすれば、貨幣論としては、貨幣商品による商品の購買機能として、価値尺度を論ずることになる筈です。しかし、ここでも労働価値説が前提されているために、マルクスは一方で、商品の労働生産物として価値実体が、貨幣による価値によって内在的に尺度される。すなわち、「価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である。」「貨幣は、人間労働の社会的化身として、価値の尺度である」と述べています。
 しかし、他方で一般的等価物としての貨幣は、まず商品の価値を価格として表現し、「確定した金属重量としては、価格の尺度標準である。」ここではまだ価格形態であり、貨幣は観念的形態にとどまっている。また尺度標準は、「不変の価値尺度」ではなく、変化する尺度で変化する価値を尺度せざるを得ない。その上での尺度機能になりますが、貨幣が一般的等価として商品を購買し、価格を実現することによって、外在的に尺度することになる。そこでマルクスは、「価格と価値の大きさとの量的不一致の可能性、すなわち価値の大きさに対する価格偏差の可能性は、かくて価格形態そのものの中にある。このことは少しもこの形態の欠陥ではなく、逆にこれを一生産様式によく当てはまる形態にするのである。この生産様式では、法則は、もっぱら無法則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるのである」と述べています。

 マルクスが、ここで価値形態を前提にして、資本主義経済の法則性の特徴を、「法則は、もっぱら無法則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうる」と定式化した点は、極めて重要です。マルクスの価値法則は、たんなる等価交換の法則ではないし、たんなる平均法則でもない。「無法則性の盲目的に作用する平均法則」であり、無政府的ではあるけれども「無法則」ではない。「盲目的に作用する平均法則」、それが価値形態論から展開された「価値法則」の特徴であり、さらにマルクスは価値と価格の量的乖離の必然性にとどまらず、ここでは「質的乖離の必然性」にも説き及んでいる。「何ら価値をもたない未耕地の価格のような想像的な価格形態も、現実的な価値関係、またそれから派生した結びつきをを隠ししていることがある。」「隠していることがある」のではないのです。そもそも商品形態は、古典派経済学やマルクスのように、たんなる「労働生産物」だけではなく、富の根源となる労働力や土地・自然をも商品形態、したがって価値形態を与えているし、労働力も土地・自然も貨幣が購買し価値尺度するのです。
 こうした価値尺度機能からすれば、貨幣が商品を購買し「盲目的に作用する平均法則」がどのように具体化するのか?マルクスは、貨幣の外在的な尺度機能については、「価値の観念的な尺度の中に、硬い貨幣が待ち伏せている」として第2節「流通手段」の機能に移行しています。確かに貨幣の購買手段の機能も、貨幣が各種の商品を購買し商品流通を形成する中で具体化する。しかし、価値形態を前提に、価値の観念的な尺度が現実に具体化するさい、商品の需要と供給と価格の変化が生じ、そこに上記の「盲目的に作用する平均法則」が示される。その解明こそが、貨幣の外在的な価値尺度になるはずです。その点では、マルクスの説明は中途半端に終わっているし、補足的説明が不可欠でしょう。

 貨幣が商品の価値を購買により尺度するにあたり、まず前提されるのは、価値形態の貨幣形態ですが、貨幣形態は相対的価値形態の商品が、等価形態である一般的等価物を観念的に表示する。具体的に商品取引の場を想定すれば、商品が自己の価値表示として、例えば「一金○○円」という正札を下げる状態に他ならない。色々な商品が正札をぶら下げながら、貨幣所有者である顧客の購買を期待して待機する市場の状態です。
 その上で、商品の側から積極的に、押し売りは出来ない。商品は、価値表現については積極的だが、販売は受け身で、貨幣に買ってもらう、言い換えれば貨幣が積極的に購買手段として購買する。その際、取引に当たり、購買者と販売者は「値切り小切り」の商談をするが、最終的に価格は貨幣の購買手段の機能で決定されます。この際、商品の販売者は実現されつつある価格を見ながら、価格が上昇するなら供給を増加させる。いわゆる供給曲線の右肩上がりの傾向を示すでしょう。また商品の種類により違いが出てきますが、需要する側は反対に、価格が上昇するなら、購買を差し控えるから、右肩下がりの曲線になる。したがって、通常の状態であれば、右肩上がりの供給曲線と右肩下がりの需要曲線の交点で価格が均衡する傾向がみられることになる。
 このように価格は、需要と供給の相互の関係で決まりますが、しかし価格の決定は貨幣の側にあり、貨幣の購買手段が価格を決め、価格が均衡し価格の基準が形成されます。価格基準の形成は、一般に「一物一価の法則」と呼ばれていますが、マルクスの「価値尺度」は購買手段が商品の購買を繰り返し、価格変動になかで価格基準が形成され、「一物一価の法則」が実現されること指すと見ていいでしょう。マルクスが、上述のように「盲目的に作用する平均法則」もまた、貨幣の価値尺度機能が商品の購買を繰り返しながら、価格基準が形成される、そうした無政府的な傾向の中で、それを通して法則が実現される特徴を説明したと言えます。

 資本家的商品経済の「価値法則」は、マルクスが『資本論』冒頭の労働価値説による等労働量の交換の法則ではない。したがってまた、単純商品生産社会の商品生産者の「自己の労働に基づく商品生産」の所有法則でもない。価値尺度による「無政府的」で「盲目的に作用する平均法則」としての「一物一価の法則」として実現されます。しかし、言うまでもなく貨幣の購買機能は、貨幣が商品市場でマルクスも事実上、流通手段の機能として説明していますが、流通手段の機能、さらに「貨幣としての貨幣」の蓄蔵貨幣=貯蓄手段の機能、さらに支払い手段の機能による仕組みの中で購買手段の機能も具体化する。さらに、商品の供給を調節する点では、「貨幣の資本への転化」による産業資本の運動が、価値尺度の機能の機構的裏付けにならざるを得ないのです。
 「価値法則」は、形態的には価格変動の基準が形成され、「一物一価の法則」として実現される。しかし、価値法則の実体そのものは、「貨幣の資本への転化」を通して、産業資本の運動形式、とくに「労働生産物」ではない、しかし資本家的商品経済的富の根源にある労働力商品の価値規定により、「商品の再生産に必要な労働量」によって決定されることになる。そこで、貨幣論の諸機能については、『資本論』の多くの研究に譲り、ここでは問題の焦点になる「貨幣の資本への転化」について、とくに『資本論』の純粋資本主義の抽象による論理によって解明することにしましょう。 

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by morristokenji | 2017-08-13 15:43
②価値形態論と交換過程論
 マルクスは、価値形態論を説明した後、「商品の物神的性格とその秘密」の中で、こんな注記をしています。「古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本的欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。その理由は、価値の大きさの分析が、その注意を吸いつくしているということにあるだけではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、その生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過する。」
 少し長い引用ですが、スミスが本源的購買貨幣とした労働で、自然から労働生産物を購買して、生産過程を流通過程とした素朴な流通主義の誤り、それが価値形態、貨幣形態、さらに資本形態、そして労働力の商品化をも看過した根本的誤謬と見ている。とすれば、マルクスの方も、商品形態をたんなる労働生産物に還元しないで、労働力や土地・自然を含む商品形態、そして形態規定から価値形態を展開しなければならなかったのではないか?その点が不明確なために、マルクスの価値形態論もまた、理論的に多くの不十分な点を残しています。とくに労働生産物が商品交換で等置されれば、等量の労働により等価交換が行われる。そのため価値形態論で提起される相対的価値形態と等価形態の役割の違い、つまり相対的価値形態の商品の側の「一方的価値表現」といった形態的特徴が不明確になってしまう。古典派経済学と同様、商品交換は商品のたんなる相互交換であり、したがってまた貨幣も、商品交換の便宜的媒介物に過ぎなくなってしまうのです。
 
 マルクスは一方で「蒸留法」で労働価値説を論証し、古典派経済学の価値実体を継承しますが、同時に商品価値を価値関係として、価値形態を明らかにしました。すでに価値形態として貨幣形態を導き、貨幣の必然性を論証しています。にもかかわらず第2章として「交換過程」を説明し、第1章を補足するのです。そのため第1章と第2章の関係、第2章で何を補足しようとしているのか?色々議論が出ることになる。その論争には立ち入りませんが、マルクスが第2章「交換過程」を論じた理由をここでは探って見ることにしましょう。
 「商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。」とマルクスは述べ、まず「商品所有者」を登場させます。しかし、価値形態を論ずるときも、商品所有者はいたはずであり、商品所有者の商品関係、価値関係、それが価値形態だったはずです。それなのに、ここで交換過程を論ずる段になって、わざわざ商品所有者を登場させるのは、商品所有者の法的関係、「私有財産所有者」としての認知が必要としているのでしょう。その認知の上で、交換に当たり「商品はそれが使用価値として実現される前に、価値として実現されねばならない」、と同時に「他方において、商品は、それが価値として実現される前に、使用価値であることを立証しなければならない」と述べ、古典派経済学と同様に商品交換の矛盾を提起します。

 しかし、この交換の矛盾は、すでに価値形態論で明らかにされている筈です。しかしマルクスは、ここでさらに「直接的な生産物交換」=物々交換を持ち出し、その拡大の中で「交換の絶えざる反復は、それを一つの規則的な社会的過程とする。」その中で一般的等価となる「第三の商品」が便宜的媒介物として登場し、貨幣商品となる。こうした商品経済の歴史的説明に関連してですが、「商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる」とか、「金と銀はほんらい貨幣ではないが、貨幣はほんらい金と銀である」といった興味深い示唆に富んだ名言も出てきます。
 このように物々交換から商品の交換過程の歴史的な拡大と発展を通して、マルクスは貨幣商品の歴史的形成を説明し、価値形態論の論理を歴史により裏付けようとしているのでしょう。しかし、この歴史的・論理的説明も、出発点が「商品所有者」であり、商品所有の歴史的根拠を求めることになってしまう。労働価値説が前提になっている以上、貨幣物神の説明も次のようになります。「土地の内奥から取り出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な化身である。このようにして貨幣の魔術が生まれる。人間がその社会的生産過程で、たんに原子的な行動を採っているにすぎぬということ、したがって、彼らの規制と彼らの意識した個人的行為とから独立した彼ら自身の生産諸関係の物財的な姿は、まず、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現れる。したがって、貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、幻惑的な謎に過ぎない。」

 ここでは、貨幣商品もまた金や銀の労働生産物に還元され、貨幣物神も「労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現れる」として、価値形態論を通して解明された「貨幣物神」は、たんなる「商品物神」論に解消されてしまうのでう。古典派経済学は、スミスのように生産過程を流通過程化して、労働を「本源的購買貨幣」として流通主義に陥った。マルクスは、価値形態論を展開し、上記のように貨幣形態、資本形態、そして労働力の商品化を説明したはずです。しかし、マルクスの第2章「交換過程」論は、価値形態の論理を商品所有者による商品所有の根拠を問いながら、交換過程と貨幣の歴史的発生に踏み込んでいる。価値形態論の論理と歴史の統一を図ろうとしたのでしょうが、それは古典派の流通主義への逆転だったように思います。
 さらに言えば、マルクスがここで商品所有者による商品所有の根拠を問いながら、商品を労働生産物に還元している。ここでの商品所有者は、労働生産物の所有である以上、商品所有者は「単純商品生産者」であり、単純商品生産社会の「交換過程」です。しかし、周知のように歴史的に単純商品生産社会は存在しなかったし、その交換過程も存在しなかった。スミスは「初期未開の社会」から出発し、事実上、単純商品生産社会で労働価値説を展開した。マルクスもここで労働価値説を継承し、単純商品生産社会で「自己の労働にもとづく個人的所有」の「所有法則の転変」を論ずることになりますが、そうした「単純商品生産史観」については、後述します。

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by morristokenji | 2017-08-11 13:57
 冒頭「商品論」について
『資本論』第1巻第1章の冒頭「商品」については、その2要因である使用価値と価値の中、とくに価値について、労働価値説の論証が問題になってきました。マルクスは近代社会の資本主義経済の富について、それは「巨大なる商品集積」として現れ、その富の細胞ともいうべき「成素形態」を商品としたのです。
 
 商品の使用価値は、「他人のための使用価値」ですが、その属性により人間の欲望を満たす、いわゆる商品の用途に過ぎない。用途として役だっかどうかを確かめれば足りるのです。
 しかし価値の方は、「交換価値」として現れますが、その交換力は使用価値のように確かめられない。価値は、商品の物それ自身、つまり物的対象ではないからです。
 
 経済学を体系化した「古典派経済学」のA・スミスは、商品はその所有者が自然から労働によって買ってきたと考え、労働を「本源的購買貨幣」とした。ここから価値を労働によって規定する「労働価値説」が主張されることになったのです。
 しかし、このスミスの説明は明らかに間違っている。所有者が労働によって自然から買うのではなく、生産するのです。スミスは生産を、流通にしてしまっている、素朴な流通主義の主張に過ぎない。モノの生産と流通とは明確に区別しなければならない。
 
 さらに素朴な流通主義からすれば、本源的購買貨幣の労働で生産=購入する商品は、すべて労働生産物になる。スミスの『国富論』の富は、労働生産物としての富であり、労働生産物ではない土地・自然や人間の労働力は商品として扱われない。土地・自然や労働力を対象から除外してしまう商品論であり、価値論です。ここから素朴な労働価値説が主張されたのです。

 マルクスの『資本論』(1867年)は、その副題が「経済学批判」であり、スミスなど古典派経済学批判として書かれました。約7年前の1859年に書いた『経済学批判』では、まだ曖昧だった「価値形態」とともに、労働力の商品化も明確になり、価値と生産価格の違いも理論的に明確になった。とくに労働力の商品化により、生産と流通との差異が明確にされ、スミスなどの素朴な流通主義を克服して、資本の価値増殖を剰余価値の生産として理論化したのです。

 ところが、マルクスは純粋資本主義を抽象して『資本論』を書き、資本主義経済の富である商品集積について、「ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である」と述べています。ここで彼は、商品経済的な富を古典派経済学と同じ「労働生産物」としてしまっている。このように商品を労働生産物に還元したうえで、いわゆる「蒸留法」で労働価値説を展開するのです。「いま、商品体の使用価値を無視するとすれば、それになお残る属性は、労働生産物ということのみである。」しかも使用価値を捨象する以上、「その中に現されている労働の有用な性質も消失する」から、「それは同じ人間労働、抽象的人間労働に通約される」それが「社会的実体の結晶としての価値」であるとして、労働価値説が定式化されるのです。
 
 しかし、この「蒸留法」と呼ばれるマルクスの論法は、明らかに形式論理としても、たんなるトートロギ―に過ぎない。古典派と同様に、あらかじめ労働生産物だけを取り出しておいて、共通なものは労働だというのは明らかに同義反復にすぎず、論証にはなっていない、というマルクス批判を呼び起こしたのです。労働生産物に限定し、労働価値説が主張されれば、労働生産物ではない労働力や土地・自然は、商品論の対象には含まれないことになる。

 労働力や土地・自然は、たんなる労働生産物ではないが、言うまでもなく富の根源であり「成素形態」です。土地・自然も労働力も、労働生産物とともに商品として、日々大量に取引されている。労働力は労働市場で取引され、土地・自然は「不動産市場」で頻繁に取引されるのが資本主義経済です。とくに労働力商品は、無産労働者にとっては、自分で使うことができない100%「他人のための使用価値」です。資本主義経済の商品経済的富は、労働生産物だけでなく、富の根底をなす労働力や土地・自然を含み、したがって労働価値説を超えた、新たな商品価値論が必要だった。そこにまた『資本論』の古典派経済学批判の意義もあったのです。
 
 マルクスの商品論、その価値論は、単ある労働生産物だけではない。労働力や土地・自然、そしてエネルギーまでも商品として取引される、そして生産をめぐる人間関係=生産関係が形成される、その関係概念として価値関係が提起されているのです。マルクスは、一方で労働生産物としながら、同時に他方では交換価値をたんなる交換比率としてではなく、関係概念として価値形態としたのです。マルクスの価値形態論こそ、労働生産物を包み込みながら、労働生産物ではない労働力や土地・自然をめぐる価値関係を明らかにしているのです。

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by morristokenji | 2017-08-03 19:36
 冒頭「商品論」について
『資本論』第1巻第1章の冒頭「商品」については、その2要因である使用価値と価値について、とくに価値について労働価値説の論証が問題になってきました。マルクスは近代社会の異本主義経済の富について、その細胞ともいうべき「原基形態」を商品としました。商品経済的富の分析から出発しました。

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by morristokenji | 2017-08-03 19:35
 冒頭「商品論」について
『資本論』第1巻第1章の冒頭「商品」については、その2要因である使用価値と価値について、とくに価値について労働価値説の論証が問題になってきました。マルクスは近代社会の異本主義経済の富について、その細胞ともいうべき「原基形態」を商品としました。商品経済的富の分析から出発しました。

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by morristokenji | 2017-08-03 19:35