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by morristokenji

続・資本の蓄積過程

 所有法則の歴史的転変だが、『資本論』とくに仏語版では、純粋資本主義の論理と資本主義の歴史的発生・発展の過程との区分が進んでいるのだが、しかし「本源的蓄積」を含む歴史的発展過程では、マルクスがなお唯物史観のドグマに拘りを持ち続けていたとも言える。
 まず①単純商品生産者を事実上想定し、その私的・個人的労働に基づく私的・個人的所有から出発する。ついで②資本家的生産様式では、工場制度など生産の社会化が進む。この生産の社会的性格のもとでの私的・個人的所有が維持され、そこに「基本矛盾」も設定される。生産の社会的性格のもとでの所有の私的性格の矛盾である。この基本矛盾は、「否定の否定」により、③生産の社会的性格に基づく所有の社会的性格=公的・社会的所有への転換により解決される。こうした所有法則の転換こそ、すでに紹介したがエンゲルスの『空想から科学へ』において、唯物史観のドグマとして公式化されたのだ。
 もっとも『資本論』では、定式の内容のニュアンスが、やや違ったものになっいる点が重要だろう。マルクスにも迷いがあったのかも知れないが、①の単純商品生産者の所有については、所有者の「自己労働に基礎を置いた個人的な所有」とも、また「各個人の自己労働に基づく分散的な私有」としているが、この点については、モリスが極めて重要な批判的指摘を注記している。②の資本家的生産様式に基づく「資本家的個人的所有」は、社会的生産に基づく私的・個人的所有だが、さらに「否定の否定」である③については、マルクスの説明には、はっきりしない点が含まれている。
 すなわち、まず一方で「私的所有を再現するのではないが、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくり出す。すなわち、協業を基礎とし、土地の共有と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とする個人的所有」とし、その上で他方では公的所有である「社会的所有」とも述べている。要するに、生産手段の共有を基礎とする個人的所有なのか、それとも社会的所有なのか、あまりはっきりしない説明になっている。こうしたマルクスの説明の不分明なこともあり、ここでの個人的所有は、私的所有ではなく「個体的所有」だ、という独特な解釈も生じたのである。このような解釈のもとに、「市民社会」的社会主義の主張も生まれることになった。
 マルクスはここで、土地や生産手段の共同体的所有を前提とした、個人の労働による所有なのか、それとも私的・個人的所有を否定された公的・社会的所有なのか、はっきりしない叙述なのだ。資本家的生産様式を否定した、共同体的生産様式のもとでの個人の労働と所有と、国家権力を労働者が奪取して、国有ないし公有のもとでの労働配分なのか、ここでは明確な区別がないまま論じられているのではないか。その点では、マルクスの「否定の否定」としての所有法則の転変については、内容が混濁して曖昧になっているのではないか。この曖昧さは、「否定の否定」の前提である、①の前資本主義的生産様式の設定の仕方が問題だった。そこを、モリスは以下のように注記して突くのだった。
 すなわち、モリスは上記「各個人の自己労働に基づく分散的な私有」,『Socialism』では「所有者の労働に基礎を置いた個人的な私的所有」にわざわざ注記して、次のように述べる。「重要なことだが、ここで使われているように、このフレーズを誤解すべきではない。<中世>の労働は、物理的には個人的だが、精神的には完全にアソシエーションの原理によって支配されている。われわれが見た通り、その時代の親方は、ギルドの代表に過ぎなかったのだ。」ごく短い注だが、極めて大きな意味が含蓄されている。
 第1に、本書では余り注が多くないが、特に内容の補足ではなく、内容の理解に関わる注は殆どない。ここの注は例外的であり、しかも『資本論』の資本蓄積の歴史的傾向の「否定の否定」の理解に関わるものだ、という点で重要視せざるをえないであろう。
 第2に、表現上は慎重であり、『資本論』を批判するものではない。「誤解」を恐れての注意書きだが、その内容は上記①の内容設定に関わるものと言える。つまり、単純な商品生産者を事実上想定し、その自分の労働による商品生産の自己所有としての私的・個人的所有という、唯物史観のエンゲルス流の公式を真っ向から批判しているのだ。物理的には個人的労働でも、その労働は共同体の内部で、ギルド組織のもとで、したがって「精神的には完全にアソシエーションの原理」にもとづく点を強調している。つまり、①は村落的・ギルド的な組織の労働であり、その所有であって、そうした共同体の組織が前提になり、市場取引は共同体と共同体の間に成立するに過ぎないことになる。
 第3に、モリスが①に関し、このような注を付したについては、③の「否定の否定」の内容とも関連しているように推測される。つまり、マルクスも③については、上述の通り共同体的な労働、生産手段の共有を前提にして、共同体の復権を事実上想定していたのだった。生産の社会化に基づく「社会的所有」は、国家社会主義型の公有・国有ではなく、文字どうり社会的な共同体的な所有を考えていたとも言えるだろう。このような③における共同体の復権と対応して、①の生産と所有についても、共同体におけるギルド組織を明確にしておく必要を感じたものと思われる。
 このようにモリスは、資本蓄積の歴史的傾向の「否定の否定」については、いわゆる唯物史観の公式における単純商品生産を出発点とした所有法則の転変を、注記の形ではあったが事実上否定したのである。そして、村落共同体やギルド組織に基づく歴史的転変を提起しているのであり、それを『資本論』の純粋資本主義の経済法則で根拠付ける形で、「科学的社会主義」の見地をマルクスから継承しようとしたと言える。労働力の商品化に基づいた機械制大工業の組織による大量生産・大量消費のシステム転換を、ギルドに基づくコミュニティの復権に求めたのである。
 この後、モリスはエポックメーキングな『資本論』の最後が、「近代殖民論」で終わっていることを述べ、さらに第1巻から第2-3巻に展開されることが付記されている。また、『Socialism』では、マルクスの死後第2巻が出版され、さらにエンゲルスの手で第3巻の刊行が準備されている旨、とくに注記されている。
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# by morristokenji | 2008-12-05 16:06

資本の蓄積過程(結論)

 モリスは、Commonwealの第21章を、1887年8月6日付で、タイトルは「結論」としていた。しかし、内容的には『資本論』第1巻第7編「資本の蓄積過程」であり、第1巻の最後と言う意味で「結論」としたものと思われる。ただし、モリスの利用した仏語版では、独語版と異なり、「いわゆる本源的蓄積」が第8編「本源的蓄積」として独立の編になった。この独立の意味については後述しよう。
 モリスは先ず、前章の機械制大工業による資本家的生産方法での剰余価値生産について、さらに説明を続ける。技術の革新や生産力の上昇により、資本の労働支配は強められる。労働の強度が強化され、労働時間の延長も図られる。労働生産性の向上により、生活資料の価格低下など必要労働、つまり労働力の再生産に必要な労働の低減、言い換えれば剰余労働の増大を図ることができる。資本の剰余価値生産は高められる。
 ただ、マルクスは「工場法」の歴史と分析も行っているのであり、資本による労働者支配は一定の制限を免れない。しかし、その規制も資本が「自由な」労働者を確保するためのものだし、そのための組織的体制に他ならない。この工場法のもとで、労働の強化も行われたのであって、労働者は完全に機械の付属物に過ぎなくなるし、「機械に対しての人間の隷属の端的な表現でもある」とモリスは主張する。
 さらに機械化と労働者の関係として、「機械によって代替される労働者への代償」について述べている。「労働を節約する機械は、雇用される人数を減少させる傾向があるが、それは資本を雇用から自由にする。」しかしマルクスは述べるとして、『資本論』を引用する。いま、カーペット工場での機械化による合理化で、労働者の雇用が半減したとする。それにより可変資本が自由になるように見えるが、しかし機械化のために不変資本が増加するだけだし、「機械によるいかなる発展も、より少ない雇用をもたらすだけだ」と。
 さらに引用を続けて、「機械により作業場から押し出される労働者は、労働市場に投げ出されてしまう。そして、そこでは資本家からお呼びでない労働者の群れに加わる。‐‐‐機械のこうした影響が、労働者階級への代償であり、最も恐るべき鞭なのだ。ここで、これだけは言っておこう。労働者は、産業のある部門の仕事から投げ出され、他の部門の仕事を探さねばならない。もし探すことが出来れば、新たに労働者と生活手段の結合が新しくはなるが、それは投資を求めている新規の追加的投資の仲介によるものだし、それは以前に彼らを雇っていた資本とは全く別だし、それは機械に転換してしまったいるのだ。」
 モリスはここで、『資本論』の仏語版を利用したからであろう、第5分冊では「大工業に関する諸問題と社会の変化」、第6分冊では「賃金」、第7分冊では「資本蓄積の重要問題」を取り上げるとして、単純再生産から剰余価値の資本への転化としての拡大再生産、そして「商品の生産の資本家的領有を特徴付ける所有法則の転化を述べている。‐‐‐この部分には、長くて各種の点からの資本家的蓄積に付いての一般的法則に関する長い詳細な章が含まれる」と
、その重要性を強調しているが、ここでは簡単な解説に止めている。
 『資本論』第1巻の最後には、いわゆる「本源的蓄積」が叙述されているが、モリスの利用した仏語版では、独語版と異なり「第8篇 本源的蓄積」として、独立の編別が与えられた。このように独立した地位が与えられた理由は不明だが、マルクスが独語版「第7編 資本の蓄積過程」の理論的解明の部分から、歴史的解明である「本源的蓄積」を分離して、純粋資本主義の抽象による法則性の理論と歴史分析を明確に区分しようとした意図を感じさせる。
 なお、「本源的蓄積」の取扱いの差異に関連して、独語版の第2編「貨幣の資本への転化」についても、仏語版では「資本の一般的形式」など、節が章に格上げされている。ここでも貨幣の資本への転化が、理論的に純化された形で解明される意図が強まり、歴史的過程との分離が意識されたものと推測される。こうした「貨幣に資本への転化」の取り扱いの差異が、いわば表裏の関係で、資本の蓄積過程での論理と歴史との分離した取り扱いと深く関連しているのではなかろうか。歴史と論理の統一のドグマの強かった唯物史観から、『資本論』の純粋資本主義の抽象への脱皮に向けての、マルクスの苦闘振りが感じられよう。
 モリスは『資本論』の「本源的蓄積の秘密」の初めの部分にある、有名な一節「この本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、現在が神学で演ずる役割と大体同じようなものである。---」を引用している。ここでは引用の重複は避けるが、「要するに暴力が大きな役割を演じている。穏やかな経済学では、はじめから牧歌調がみなぎっていた。はじめから正義と<労働>とが唯一の致富手段だった。‐‐‐実際は本源的方法は、他のありとあらゆるものではあっても、どうしても牧歌的ではなかった。」スミスの単純な商品生産者の牧歌的「文明社会」ではなかったわけだ。
 モリスは、さらにマルクスに従い、本源的蓄積の具体例として、英の「土地囲い込みみ運動」、浮浪者などに対する規制措置、賃金切り下げなど、さらに「マルクスは、そこで近代的な資本家的農業の誕生を描写し、都市産業での農業革命の反動や産業資本のための国内市場の創出にふれている。その矛盾を生み出した資本家的蓄積の歴史的傾向についての章に続き、将来的社会への関説として、ここで以下の文章を引用しておく必要があろう」と述べ、例の「領有法則の否定の否定」、所有法則の転変の箇所を引用している。さらにモリスは、重要な注を付して、注意を促しているのであり、ここで少し立ち入っておきたい。 
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# by morristokenji | 2008-11-30 18:12
H君
 早いもので宇野弘蔵没後30年研究集会から、もう1年経ちます。この1年、とくに秋になって、歴史的な事件が続発していますね。
 君を研究集会に誘って、直後にメールをもらいました。「私は、自称宇野派だが、実際の宇野派の先生方の難しい話を聴いていると、宇野派を自称する自信がなくなる。それにしても、今時マルクス経済学関係の集まりに、これだけの人が集まるのは、さすが宇野学派とも言えなくもないが、40年前と違って、この議論で若い人が宇野理論になじむかと思うと、とてもそうは思えないのであった。」
 君らしい率直な意見で、僕も「やはりそうかな?」と考え込みました。色々反省しなければと思いながら、最近の世界史的事件をどのように受け止めるか、そんな点から去年の研究集会を振り返ってみたいと思います。君に少しでも自信を取り戻して欲しいからです。
H君
 米サブプライムローンに始まる金融破綻は、9月のリーマンブラザーズの破産によって、まさに「暗黒の金融パニック」を経験しました。僕は1932年生まれなので、29年大恐慌を経験していない、「一生に1度」の経験かも知れません。しかし、君にも話したように、株価の暴落を除けば、失業率など29年大恐慌と比べて、パニックはさほどひどくは無い。ドルの暴落も回避されている。19世紀の周期的恐慌と比べても、先進国経済に大恐慌を起こす、あるいは不幸な世界戦争へのバイタリティは無くなったと思います。
 先進国は、いずれもポスト工業化を迎えて、経済成長のバイタリティを失ってしまった、慢性的に資金の過剰(過剰貯蓄)を抱え、それが慢性的な投機化のバブル現象となっている。米の過剰消費も投機資金によるもので、サブプライムローンもその一つです。もともと投機のバブルは、弾けるからバブルなので、今度の金融危機も慢性的過剰のバブルが集約され崩壊しただけでしょう。
 このように慢性的な投機のバブルに媒介された、過剰貯蓄と過剰消費によるグローバルな先進国経済は、60-70年代と比べ低成長への移行とともに、景気循環のパターンも「衰減」したものにならざるをえない。山が低ければ谷も浅い。だからまた、低成長のまま景気の拡大期間も延長されるに過ぎない。こんな先進国経済を、「グローバル資本主義」として、新たな資本主義の発展段階とするわけにいかないと思う。「グローバル資本主義」は、今や悪名高きネオコンの単なるイデオロギー的表現、戦略スローガンに過ぎないのではないか。
H君
 金融バブル崩壊の追い風に押されるように、接戦の予想に反し米・大統領選はオバマが圧勝しましたね。オバマ勝利は、80年代からのレーガン、とくにブッシュ父子の共和党政権のイデオローグだった保守派のネオコンの完敗に他ならない。旧ソ連の崩壊による米の覇権型一極主義の世界支配のネオコンこそ、市場原理主義を生み、アメリカ・モデルの価値観を押し付け、無謀なイラク戦争を主導し、経済的には金融バブルの拡大をもたらした。そのネオコンの世界戦略が、金融バブルの崩壊とオバマの「Change!Yes,we can.」の訴えと共に、今や完全に破綻したのです。
 僕は、「グローバル資本主義」とその新発展段階説は、ネオコンのイデオローグに過ぎないと思っています。ポスト冷戦による「一人勝ち」した米の一極支配、超帝国主義論とも言える幻想です。EUなどの地域共同体、冷戦下の「新植民地支配」の破綻と中国など新興国の工業化による勃興、こうしたポスト冷戦による新たな多極化への構造転換を無視した、米主導の冷戦型イデオロギーです。その世界戦略が破綻したのです。今度の金融危機に肩を押された北朝鮮のテロ国家指定解除なども、その一例でしょうね。
 また、新興国の工業化も、中国の改革開放など、市場経済を積極的に利用するが、土地や労働力、金融など商品化には大きな「歯止め」をかけている。それがまた今日、中国の強味にもなっている。単に「市場経済だから資本主義」、計画なら社会主義と言うのでは、西欧社民主義の位置づけも出来ない。世界資本主義論の発想かも知れませんが、新旧左翼のマルクス・レーニン主義のドグマに過ぎないと思います。ロシア革命とソ連が崩壊したいま、ドグマからの自由な発想が必要だと思うし、その点で宇野3段階論についても点検は必要でしょう。
H君
 僕も宇野理論が、ロシア革命とソ連の成立で資本主義の発展段階にピリオドを打ち、それ以降を現状分析とした点は、当然のことながら疑問です。しかし、金融資本を超える新たな資本の蓄積様式は登場していない。20世紀、国家主義が台頭し、東のソ連が「国家社会主義」として発展し、西側も福祉国家など「国家資本主義」として体制の組織化を図った。それがポスト冷戦でソ連が崩壊し、西側先進国は上記のごとくネオコン戦略での統合はできぬまま破綻した。世界史は、ポスト資本主義にむけて、慢性的バブルの転換期を「過程」している。人類の「前史」の長い苦悩でしょうか?
 無論、世界史の新たな現実を踏まえ、石炭・鉄鋼など基礎資源型生産財だけでなく、例えば米の自動車産業など、耐久消費財を十分射程に入れた金融資本の蓄積など、段階論の修正・補強は必要です。今日、GMはじめ米ビッグ3の経営破綻による「フォーディズムの落日」を迎え、例のレギュラシオン理論の再検討をも必要としているからです。
 しかし、この段階論の修正が、純粋資本主義の否定による、世界資本主義の発展に還元する事にはならないと思う。世界資本主義論は、グローバルに拡大する世界市場に資本主義を解消し、資本主義の法則性を否定して、市場経済の歴史的変化を無原則に追い求めつつ、世界革命の妄想を残すのみで、結果的には資本主義を永遠化することになるだけでしょう。
H君
 没後30年研究集会に出席し、その後の関連論文も読んで、純粋資本主義の抽象を否定する考え方が、余りに多いのに驚きます。世界資本主義論への回帰現象でしょうか?世界資本主義VS純粋資本主義の論争は、岩田・鈴木原理論の登場もあり、すでに宇野ゼミの内部でも、散々議論されました。論点も、多少の違いがあっても、ほぼ同じ議論の蒸し返しに過ぎないと思います。しかし、純粋資本主義を否定すれば、それは3段階論の否定であり、宇野理論の死亡宣告でしょう。告別式に君を誘った積りはありませんよ。
 『資本論』での純粋資本主義の抽象ですが、単なるイデオロギー的仮説に過ぎなかった唯物史観から、マルクスが「学説史的検討」(とくに『剰余価値学説史』)に基づき、理論的に脱却した結果でした。無論、マルクスも人間だから、脱却しようとして不十分な面が残る。『資本論』が未完だったので、なおさら残滓が多かった点はある。しかし、『資本論』の対象と法則が、純粋資本主義のそれだったことは、いまさら確認の必要は無いでしょう。問題は、抽象の方法です。単なる歴史の発展の「模写」でなく、抽象の方法の模写です。 この方法の模写は、ご存知のとうり19世紀中葉のイギリス資本主義の発展が純粋化の傾向を持っていた、その歴史的傾向の模写 とされています。
 ところが、マルクスは純粋化がどこまでも拡大するとしていたが、宇野さんは「純粋化が逆転する」、この逆転を根拠に方法模写論を主張した。しかし、これでは純粋化を否定しながら、純粋化を主張する自家撞着に陥り、純粋資本主義の抽象は誤りだ、との批判です。こうした批判は、30年以上も前、宇野さんの生前にも故佐藤金三郎氏などからの批判があり、論争されていたので、その蒸し返しです。
 この論争の事情については、桜井毅『経済学を歩く』Ⅱ,1「純粋資本主義のアポリア」を是非参考にして下さい。講演なので読みやすいし、僕は全面的に賛成です。①「逆転」は、段階論との関係で、資本主義の歴史が金融資本の発展に逆転した点からみると、原理論は純粋資本主義の歴史的・現実的抽象なのだ。桜井氏の言うとおり、宇野さんの説明に不十分な点があったように思うし、論争や批判の相手があっての宇野さん論文は、とくに含蓄が深くて、難解で誤解を生みやすいのです。逆転論は、段階論と原理論の関連で意味があるだけだと思います。
  ①拙稿「『資本論』と純粋資本主義」1967年10月(「経済学論集」33巻3号)参照。本稿は   世界資本主義論に対する批判として書かれたものである。
 純粋資本主義の抽象にとって大事な点ですが、桜井氏がとくに強調しているのは、経済学説の理論史との関連です。方法の模写ですから、資本主義の発生・発展に対応して、認識の方法とともに、学説も批判的に継承され発展してきた。17世紀までの下向法=帰納法、18-9世紀古典派経済学の上向法=演繹法を踏まえ、マルクスは単なる上向法ではなく、『資本論』ではヘーゲル弁証法により、自律的運動法則として、純粋資本主義の抽象に成功した。
 僕は、ヘーゲル哲学をあまり勉強していないけれども、彼の古典経済学批判と言い、弁証法の自律的法則のロジックと言い、やはり19世紀20年代からのイギリス中心の周期的恐慌を含む景気循環の歴史的現実があったからではないか。だから、純粋資本主義の抽象は、周期的恐慌の必然性=恐慌論の解明です。イデオロギー的仮説に過ぎない唯物史観では、「恐慌=革命テーゼ」の崩壊論にはなっても、周期的恐慌の解明にはならない。マルクスも、宇野さんも、唯物史観とそのドグマに還元されていた『経済学批判体系』とプランを捨て、『資本論』の純粋資本主義の恐慌の必然性解明に取り組んだのです。
 実際、マルクスに即して宇野さんは、『経済学批判体系』プランの放棄を確認しています。②しかし、生前は原理論の整序に全力を尽くされ、方法の模写のための経済学説の理論史による検証まで十分手が廻らなった。それを十分に自覚されていて、宇野ゼミのわれわれ学生の研究テーマとされたのです。僕は、価値論を分担し『価値論の形成』③を書き、桜井氏は転形論争を踏まえた『生産価格の理論』④を書いた。一種の「研究的分業」ですね。その後、僕は宇野さんとの約束もあり、先年『恐慌論の形成』(05年)を出版した。ただ、僕の怠慢のため、生前に間に合わなかった点、申し訳なく思っている。
  ②宇野弘蔵「『経済学の方法』について」(宇野『著作集』第3巻所収)
  ③『価値論の形成』1964年東京大学出版会
  ④『生産価格の理論』1968年東京大学出版会
 H君
 僕は純粋資本主義の抽象は、資本主義の純化傾向とか、その逆転とかでなく、周期的恐慌による資本主義の「自律性」に基づくと考えています。純粋資本主義の宇野「原論」は、宇野『恐慌論』として完成された。マルクスも1857年恐慌まで抱いていた唯物史観の恐慌=革命テーゼを捨て、プランを変更して、周期的恐慌の拡大を踏まえ、『資本論』の純粋資本主義の法則性の解明を行った。キーポイントは、資本の蓄積過程を踏まえて、競争による『資本の絶対的過剰生産』の解明に成功した点でしょう。そこには1870年代の限界革命の影響でしょうか、限界原理による追加投資の資本蓄積が説かれています。
 実際、『資本論』の「近代社会の経済的運動法則」は、周期的恐慌を含んだ「絶えざる不均衡の均衡法則」、「無政府的法則性」です。いわゆる近経の「一般均衡論」とは、恐慌論があるか、無いかで大違いですが、市場の均衡論としては同じですね。だから循環的法則になるし、自働崩壊論ではないのです。そこからまた、人間の主体的実践の意味も提起できる。
 H君
 純粋資本主義の抽象による宇野『恐慌論』は、言うまでもなく労働力商品化を基本矛盾に展開されます。土地の商品化と表裏になって、市場経済の社会的再生産の全面支配となり、経済原則と共に社会的均衡を実現する。しかし、労働力商品の特殊性から、周期的恐慌を不可避とする。「絶えざる不均衡の均衡法則」の”格差社会”です。労働力商品としてアトム化され、家族や地域の意味は失われる。土地の商品化の点では、市場経済による土地自然の環境破壊に繋がる。このような基本矛盾を抱え込んだ資本主義社会が、変革の対象です。変革の主体は、労働力商品の担い手であり、働き生活する人間です。
 僕は、純粋資本主義の抽象によってのみ、社会変革の「対象と主体」が明確にできる。段階論、現状分析は、その「対象と主体」の歴史的変化、具体的あり方を解明する。それに反して、純粋資本主義を否定した唯物史観や世界資本主義論では、プロレタリア独裁や植民地解放の名の下に、周辺革命論など権力奪取による上からの国家社会主義の運動の失敗を重ねてきた。旧ソ連の崩壊も、その例に漏れないマルクス・レーニン主義のイデオロギーによるものだと思います。
 宇野『恐慌論』は、純粋資本主義の抽象により、そうしたイデオロギーから自由だった筈です。そして、あれほど厳しくスターリン論文を批判していた宇野さんが、旧ソ連を擁護し続け、ロシア革命をもって資本主義の段階的発展にピリオドを打ったのか?僕には理解できませんが、やはり戦前・戦後、ソ連崩壊まで支配した日本の伝統的左翼イデオロギーに捕われていたのでしょうか?
 H君
 最近僕は、価値論、恐慌論に続けて、『資本論と社会主義』について、マルクスの晩年の1870-80年代の国際的な社会主義論争に遡って、学説史的・思想史的アプローチで検証しようと思っています。君もご承知の通り、手始めにマルクスとの接点として、W・モリスについて研究しているのも、そのためです。⑤どうか、これからも宜しくお付き合い下さい。
  ⑤W.Morris,E.E.Bax”Socialism,its Growth and Outcome”1983

 (付記:本稿は、「宇野理論を現代にどう生かすか」Newsletter(10)添付ファイルからの転   載である。)
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# by morristokenji | 2008-11-17 22:29

近代産業の歴史的地位

 モリスは第20章「近代産業の歴史的展開に関するマルクスの解明」で、資本の蓄積過程を産業資本の組織として総括しつつ、その歴史的展開の本源にメスを入れている。『資本論』の科学的社会主義に基づく、いわばモリス特有の歴史観ともなっている。特に資本主義の「本源的蓄積」についての理解が、エンゲルス流の唯物史観との決定的な差異となっている点、あらかじめ注意したい。
 モリスはまず、「資本主義は、多数の個人的な貨幣所有者が、同じ条件で沢山の労働者を一斉に雇用するようなかたちで始まることは出来ない。」と述べ、『資本論』を引用する。「一人の資本家の指揮の下に、同じ種類の商品を生産するために、同一の場所(望むらくは同一の労働現場)で、同時に一緒に働く労働者の存在が、歴史的にも論理的にも、資本家的生産の出発点を構成する。」
 資本の価値増殖から言っても、一人の資本家が一人の労働者を雇用するのでは、資本家的生産は成立しない。価値増殖からも、一人の資本家の下に複数の、そして多数の労働者の雇用が前提されるのであり、その点が中世のギルド組織との根本的違いなのだ。「この新たな組織形態への変化が、同時に生産のレベルや方法に大きな変化をもたらした。建物、道具、倉庫など、生産手段に格段の費用がかかった。ひとつの屋根の下に労働者が集中する結果は、職人達の性格から、親方が独立する発展でもあった。」
 もともと「ギルド職人の時代の親方は、彼自身より優れた職人であり、仲間より長い経験を持つことで、親方の地位が与えられたに過ぎない。彼は、種類において同じ仲間であり、たんに地位だけの違いに過ぎなかった。例えば、彼が病気になると、工房の組織の中で、何の抵抗もなしに、次の優れた働き手が親方の地位に付いた。」ところが「資本主義の最初の段階でも、親方は労働者としての重要性ではなく(始めは労働者として働いていたとしても)、総て重要性は仕事を統治することだった」
 このようにモリスは、中世のギルドの親方と職人の組織との対比で、資本家と労働者の関係を説明している。労使関係を、たんに労働市場や階級的搾取の関係だけでなく、むしろ産業資本の組織と統合の特殊性から捉えているのだ。そのような産業資本の組織として、「単純な協業」「分業とマニュファクチュア」「機械制大工業」を位置づけ、従って「これらのシステムは、特に他のものと互いに重なっていたことも理解されている」とモリスは解説している。
 モリスは、ここで『資本論』によりながらではあるが、機械制大工業の大量生産の契機として「分業」や「協業」を位置づけ、産業組織の特徴を、中世のギルドと対比している。そして、労働力商品の特殊性を前提にしつつ、「ここから人間の完全な相互関連が、労働者の機械の一部になることによって、労働者の誰もが彼自身では何も作れなくなる。労働の単位が、もはやグループではなく、個人のものになる。」
 さらに分業も協業も、「最終的な発展は機械への転換、分業の完全な工場制度と作業システムの転換に他ならない。新しいシステムでは、労働者のグループは、そのメンバーが手作り技能の特殊な部分を担っていたのに、今や生産された製品のある特殊な部分に帰着されてしまう。そして、これら総て全体が、結合した巧妙な操作の結果隣、労働者の働きとしても、グループとなった機械の働きのアソシエーションに帰着するのだ。労働者は、もはや仕事における主要なファクターではない。彼が使っていた道具が、全体を機械化している動力により、他の機械体系と結合した機械体系として作動しているのだ。」
 「これこそモダンタイムズの現実の機械なのだ」モリスは、道具と機械、工房と工場の差異にもふれ、さらにマルクスとともに、「機械の組織化されたシステムは、その作動が中軸となるオートメーションから伝達されるメカニズムにより交流するが、機械制生産こそ最も発展した形態である。ここでは、孤立した機械に代わり、その身体が全体の工場に満ち溢れる機械の怪物になる。その怪力は、最初はゆっくりしたベールに包まれていて、巨大な足の動きも計測できるが、最後はその計り知れぬ機能器官の急速で猛烈な回転に突進するのだ。」
 最後にモリスは、もう一度ギルドの職人と工場労働者を対比し、次のように結論する。
 「かって労働者は、自分で作った製品を総てコントロールする手作り職人だった。それが、つぎには人間機械の一部になり、最後には機械の召使や番人になってしまう。これら総てにより、十分に発展した近代の資本家が存在するのだ。」
  
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# by morristokenji | 2008-10-08 16:01

可変資本と不変資本

 貨幣の資本への転化により、貨幣は投資の形態をとる。労働力商品を前提にした生産への投資であり、いわゆる産業資本となって投資される。この際、投資は一方では労働力商品の購入に当てられ、他方では生産手段に投資される。すでに明らかなとうり、モリスも『資本論』から労働力の商品化、そして労働力商品の特殊性を十分理解していた。この限りで、モリスは『資本論』の基本的概念を理解し、それを継承したのだ。
 こうした理解が前提になり、労働力商品(L)の購入としての投資を、モリスは『資本論』と同様「可変資本」とした。そして、生産手段(Pm)への投資は、「不変資本」としている。それゆえ産業資本としての投資は、可変資本と不変資本の2つに区別されることになり、モリスは第19章の表題を「不変資本と可変資本」として、解説を続ける。ただ、共著『社会主義』では、なぜかこの部分が省略されている。おそらく簡略化のためだろうが、理論的には「資本と収入」の関連で、マルクスは可変資本の概念を重要視している。少し立ち入っておこう。
 「労働者は、すでにみた通り、彼がそれに働きかける原料に価値を付け加える。だがそれは、彼が古い価値を維持しつつ、新たな価値を付け加える行動によってである。だから彼は、一方において新しい価値を付け加えるし、他方において彼は存在する価値を維持する。彼は賃金で働くことにより、紡績、織布、鍛冶など、働くことにより影響を与え、すでにある以上のより大きな有用性を付与するのだ。」
 つまり、ここでもモリスは『資本論』によりつつ、一方で労働力による可変資本の価値の形成と増殖、つまり付加価値の生産を説明する。他方で、不変資本である生産手段については、既存の価値の移転を説明している。この点では、付加価値の生産、既存価値の移転の解説であり、いわゆる近代経済学でも、ほぼ同一の説明内容だと思われる。しかし、労働力商品に投下された可変資本については、労働者に労働力の対価として、可変資本が賃金として支払われてしまう。つまり、ここで労働者への価値の引渡しが行われる。
 資本の側は労働力を手に入れるが、ここでもその特殊性が制約要因となる。つまり、労働力は人間の能力であり、奴隷のように物として転売したり、処分するわけにはいかない。労働過程で生産に従事してもらう以外にない。労働・生産過程での資本の労働者の支配と管理の必然性だ。この点にこそ、単なる物に過ぎない生産手段と人間の能力としての労働力との決定的な違いがあるのだ。だから可変資本は、賃金として支払われ、労働者に価値が引き渡され、その代わりに労働過程を通して、価値が形成され増殖される。つまり、付加価値を生産し形成するのだ。『資本論』では、「価値生産物」の生産に他ならない。
 モリスは、すでに見た通り人間の能力である労働力商品の特殊性を強調していた。しかし、可変資本の価値と所得としての賃金の関係については、特に立ち入ってはいない。可変資本と不変資本の差異の説明だけにとどまっている。『資本論』の説明も、必ずしも十分ではないが、労働力商品の特殊性が基礎になって、労働力商品への投資が、資本の立場では可変資本での「価値生産物」=付加価値の生産、労働者の立場では賃金収入になる。「資本と収入」の区別と関連である。
 このように可変資本の概念が、「資本と収入」の区別、特に賃金を利潤、地代、利子などと同じレベルの分配範疇から区別される点で、そして資本家と労働者の階級関係の理解の根底に置かれることになっている。そして、「価値生産物」の分割比率として、「剰余価値率」が提起されるのだ。剰余価値率は、付加価値の「分配率」に近い概念だが、「資本と収入」の区別と関連が両者の違いとなる。モリスは、『資本論』の可変資本と不変資本の明確な区別を継承し、その上で剰余価値率を前提に、絶対的ならびに相対的剰余価値の生産を、ごく簡単ながら説明している。
 「マルクスは剰余価値率、つまり剰余価値の形成による比率の詳細で膨大な分析に入る。また彼は、労働日の持続についての重要な主題を扱っている」と述べるだけで、詳細な説明は省略している。その上で「マルクスは絶対的および相対的剰余価値を区別いている。絶対的というのは、労働者の必要な生活資料の生産(必要労働)を超える労働日の生産物のことであり、‐‐‐他方、相対的剰余価値は、新しい技術や機械、向上する技能、労働の組織や統合が、それらにより労働者の生存に必要な生産物のために必要な時間(必要労働時間)を一定の範囲で短縮することによる労働の生産性向上で決定される。」
 このようにモリスは、『資本論』に従い、絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産の区別の上で、資本の剰余価値の生産を説明している。そして、資本の労働者支配については、「一旦は労働者の手に彼の労働の成果がもたらされかも知れないが、‐‐‐資本家にとって必要な手段は、利潤の生産のための単なる手段だと言うこと、それが労働者自身が生きている条件になるのである。道具、機械、工場、流通手段など、総てが生きている機械としての人間労働力を働かせるための媒介手段でしかないのだ。」
 このようにモリスは、『資本論』の剰余価値論を解説しつつ、資本による労働者の支配と組織を明らかにしている。
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# by morristokenji | 2008-10-05 22:36