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by morristokenji
 純粋資本主義の抽象に成功したマルクス『資本論』を踏まえ、モリスは「歴史と論理」の統一のドグマや、「理論と実践」の統一のテーゼからも自由になり、階級闘争の実践についてまとめることが出来た。その上でモリスは、さらに「科学とイデオロギー」のドグマからも解放されたことになる。現実の資本主義の発展を踏まえながら、恐慌=革命テーゼなどの自動崩壊論ではなく、人間の主体的実践の役割に基づく、社会主義の思想による人類の解放の理想を語ろうとするのだ。
 モリスは、社会主義の発展の成果を、「社会主義の勝利(Triumphant)」として総括している。彼の社会主義論の総括であり、唯物史観の延長上でのマルクス・レーニン主義のそれではない。『資本論』から学び取った、彼の独自の「科学的社会主義」論だし、「科学からユートピア」への提示に他ならない。ここには科学よりも、文化・道徳・芸術・宗教などが凝縮された理想の歴史的道程を描くことになるのだ。『ユートピア便り』を社会主義論として裏付ける作業でもあるだろう。
 歴史と論理、ないし理論と実践の統一と言う唯物史観のドグマなら、資本主義社会は恐慌や戦争で崩壊する。いわゆる自動崩壊論であり、実践の意味も単なる階級闘争に還元されるだけで、主体的意義は希薄になる。すでに周期的恐慌が6回も7回も繰り返されても、48年恐慌期は例外だったのだろう、政治的危機は訪れない。むしろ恐慌を梃子に、資本主義経済は成長発展を繰り返し、イギリスはヴィクトリア朝の黄金時代を謳歌したのだ。マルクスは、だからこそ唯物史観のドグマを超えて、純粋資本主義を抽象し『資本論』を書いた。そしてモリスは、その『資本論』を繰り返し読んだ。
 モリスは、23章の冒頭で、「われわれは、過去の生活については、一つの方法で描写するのは可能である。」持っている過去の正確な情報に基づいて描写すればいい。しかし「将来について言うなら、何も持っていないし、歴史的な発展の単なる抽象の他には、また適正に評価できなかった要素と抵触するかも知れない論理的結論しか持ち合わせないのだ。これらは、来るべき将来に進む生活の骨組みの抽象に過ぎない。」
 「それゆえ、近代文明が社会主義へ転換するのは疑いないとしても、われわれは将来の社会生活がどんな形をとることになるのか、正確には予言できないし、T・モアーやL・ベーコンが言う様に、商業化時代の初めの生活より良くなるかどうか、今日の資本主義の時代から見通すことができない。」
 「われわれは、将来の生活を積極的に実現できないにもかかわらず、現実の社会の原則が一般に受け入れられ、日常生活上の実践として適用される際、われわれは問題の否定的側面を見ることにはなるが、大部分が社会主義の闘いの必然的な結果により、空白が充たされざるをえないのだ。現在の社会は発展するだろうし、その付属物や安定装置も付いていくことを知っている。新しい社会の基礎が何たるかを、少なからず知っているのだ。だが、新しい社会が、自由や共同を基礎に、いかに構築されるか、それは思索以上のものではないのだ。」
 「疑いもなく、ある種の移行は、その状況で決まる性格にもよるが、政治の単位が国家れある現在の状態から、連邦化されたコミュニティの体制が国家に取って代わるものになるだろう。しかし、本章では移行期よりも、新しい社会の最終的な実現を扱うので、その点には立ち入らない」
 「われわれは新しい社会を読者が、政治的にはコミュニティの組織体としてイメージして欲しい。それは各個人の事情によるが、代表者の共和制で結ばれ、その機能は社会の洗練された原則を維持する。そこでは<教区の小区画」>であるTawn Ship又はコミュニティと共和制の権力の2つからなり、その体制では両者の間に2つの極があり、一方は共和制の原則があり、他方では自然的な環境、それには例えば言語、気象、あるいは地域区分などの共通性で結ばれる。」
「このような社会では、人々の安全や共同体内部の議論のために、法律が必要だし、それが社会の基本的原則の表現になる以上、普遍性を持たねばならないだろう。また、最終的には権力ですすめられるが,中央の規制体の保護が必要だろう。明らかにコミュニティは、どんな口実にせよ、労働の搾取や報復の刑法といった、反動的なものの復活は認めない。そうした政策が許されれば、地方のどんな些細な事件でも、コミュニティ社会の基礎を崩してしまうことになろう。こうした共和制の単位は、要するに政治的、かつ行政的な事柄を、最小限に縮小するため唯一の方法の表れなのだ。それは社会の単位として、個人を保障するし、その能力の発展や満足を得るための自由を、可能な限り保障する。」
「社会福祉や生存に必要な労働の方法として、広義の共同が必要だろう。もちろん、それは社会の実際の福祉には付随的なものであり、商品の生産は(現在は利潤の担い手の商品だが)社会の目的と見なされるのではなく、生活の便益や幸福の手段と見なされる。それゆえ、それは必需品についての誤った考え方や、安楽か奢侈かの月並みな点の犠牲にさらされてはならない。例えば、どんな社会でも、木綿の生地は最小の労働投下で生産されるのが望ましいが、黒人社会のように、共同体社会では、人口の一部を悲惨な状態で生活させられないし、どんな程度でも他の人々より悪く生活させるわけにもいかない。コミュニティにとり労働の投下を減らすためには、価格がどうあろうと、紡績や織布職人が他の人と同じように良い生活が出来るようにしなければならない。」
 「また、安楽の慣習的な水準に関しても、ある友人が与えてくれたのだが、奢侈ついての良い定義を引用しよう。ある品物について、消費者が自分で持っていれば、仕事の全価値を払う必要がない。それを自分で作るとなれば、それを作るのに等しい自分の労働を犠牲にしなければならない。例えば、いま一人の婦人がマクリーンレースのベールを自分で作るつもりになるか、あるいはそれを作ってくれる人の生活に支払いするか、そのためにはYpresとその周辺の沢山の婦人や少女が飢餓賃金で働かねばならないのだ。」
 「コミュニズムの下で生産することは、明らかにコミューナル社会が必要な様々な種類の仕事を考えねばならない。」
 「第1に、普通の人は嫌がるだろうが、しなければならない必要労働の一定量が存在する。その若干の量、恐らく大部分になるが、機械で行われるだろう。そして、利潤追求の要求による生産の限界が変わると、躊躇なく機械が改良され完成に向かう。しかし、必要だが嫌がられる仕事は、機械でもなされないだろう。この部分には、ボランティアが当てられるし、それも難しくなれば、社会的義務の見地から、必要労働に着目する習慣を考えることが一般化する。そうなれば、普通では好まれない仕事への反対も変わる、特別な国民的傾向が存在するかもしれないのだ。」
 「加えて、こうした仕事のほとんどが、受け入れにくいけれども、精神的能力は必要としないし、それに従事する人間には最小限の責任を負わせるだけでいい。われわれは、この点を、それ自身受け入れにくい性格の仕事への保証と指摘しておこう。」
 「必要だが嫌われる仕事の例として、廃品業、汚水清掃業、石炭採掘業、助産婦、機械的事務職を挙げておく。」
 「われわれの現在のシステムでは、この種の仕事の大部分が、利益を上げる資本のもとで育成されているのであり、雇用をめぐってのプロレタリアの競争が、そうさせている点を考えなければならない。一方、<共同体社会>では、そうした仕事は出来る限り配分されてしまうだろう。共同体社会が、過去の時代の復活として、受け入れにくい仕事をも、それ自身に課されたものとして、また必要でないように除去するだろう。」
 「第2に、仕事はそれ自身、多かれ少なかれ受け入れ難いし、それが絶対的に必要でなければ、そのために支払われるものが少ない方が望ましい。それが機械で容易になるなら、そうしたら良いかも知れない。そうでなければ、その目的のために、ボランティアを頼む価値もないかも知れない。なぜなら、それは自分の犠牲で行うべきだ、と市民が考えるからだ。一般的には喜ばれないが、必要だし期待される仕事の問題から離れる前に、われわれはもう一度、多くの人々がやりたいと思っている特異な性癖(idiosyncrasy)に注意したい。多くの点で、われわれの困難を解決する上で、idiosyncrasyには分類できないが、普通の趣味の多様性に注意したいのだ。例えば、ある程度苦難を伴う荒っぽい職業が存在する。それは、冒険や変化もあり、健康や体力を超えても、多くの人に受け入れられる。また、海釣りや新たな国への探検のように、特別のエネルギーがいる楽しい運動のように、勇気や速断、敏捷を示す職業もある。また、多くの人は田舎の生活を愛したり、動物を飼ったりして、その種の仕事も退屈には見えないだろう。端的にいって、われわれはこの主題に長くかかわりすぎているが、われわれの進む一歩一歩が、生産における努力への刺激が多様なこと、複雑なこと、そして万事が金銭で計量されるいまの時代に考えられているよりも、されに一層そうなるのだ。」
 「第3に、われわれが希望するある種の仕事が、現在のそれより共同体の生活においては、ずっと高い地位にあるところに来ている。それが多かれ少なかれアートの仕事であり、われわれはアートが喜びであり、いかなる手仕事の技能にも感じられる総ての基礎である、とここでは言うべきなのだ。一般的に感じられることだが、物事はどんなものでも、有名人が牢獄に入れられるように、通常している職業から引き離された時、人間は職業のために、手仕事を切望することが証明されている。職業としてのアートについては、われわれはそれを<付随的>なものと<本質的>なアートに分ける。<付随的アート>とは、実利的機能に資するようなアートであり、例えばナイフやカップに付けられた飾りのようなもので、物を切ったり飲んだりするのに役立っている。一般的には、装飾芸術と呼ばれるものが、この呼び方に入る。<本質的アート>は、それ自身のために美術や文学が生産されるアートであり、絵画や音楽であって、実利的な目的はない。付随的アートについては、商業社会では、美しくなければならない生産品からその存在と報酬を引き離すことにより、破壊してしまった。それは、実利的な商品のメーカーに対して、装飾品のメーカー、オーナメントのデザイナーを分離してしまった。2つのメーカーは、単なる機械となり、あとの一つも商業により、他の業者同様、社会的に市場型のウェアの生産者にならざるをえない。<共同体社会>では、この労働の分割は、できるだけデザインのアートが統合されて形作られるように、一つ一つの品物が解るように配慮される。アートそれ自身が、皆の疑問のないよう要求を充たすように機能するのだ。そうした需要を強いるものは存在しない。
 本質的アートについては、それは現象的には、常に個人の労働や熟練の産物のように見える。しかし、底流には他のどんな産物と同様に社会的産物なのだ。最も独創的なアーチスト、あるいは作家の能力といえども、実際は伝統の結果であり、彼の作品は個人に凝縮された長い社会の発展の傾向の表現に過ぎないのだ。」
 「 現在は、文明の圏外にある民族に起こりうる将来について、一つの質問が出るかもしれない。彼らに降りかかる最善の運命は、文明の不均衡による妨げなしに、現在の状況から自力で発展すべきだと言うことだ。彼らは、文明それ自体が社会主義と一体化するまで、文化を隔離しておく最も幸福なものなのだ。そして、その時こそ、彼ら自身の自然的発展が、彼らを次第に普遍的社会の生活の大海に引き込んでいく時である。」
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# by morristokenji | 2009-02-03 11:52
 理論と実践の「弁証法的統一」の詭弁のドグマから自由になっていたモリスは、実践のレベルから、当時のエキサイトな課題として、階級闘争を分析する。闘争だから、階級関係は攻める側と守りの側、攻守2つに別れることになる。モリスは、まずは守りの資本・体制側からの分析を進めるが、それが(その1)の内容だった。つぎは、攻める労働側からのアプローチが(その2)だ。
「行動は、1863年頃ドイツでラッサールにより、国民運動として始まった。それは彼の死後も、形式的には数年間拡大した。一方、『インターナショナル』(第1インター)も設立され、次第にマルクスやエンゲルスの指導下に入った。リープクネヒト、ベーベルの2人の有能で精力的な助力を得た。彼らはラッサールやシュルツなど、かってはベーベルもそうだったが、ブルジョアの協力者を、インターナショナルの考え方に転向させるのに、疲れを知らなかった。」
 以上のように述べた後、モリスはドイツを始め、各国別に運動の特徴を紹介する。ここでも簡単に紹介したい。
 ドイツについては、各政党の詳細には立ち入らないと断った上で、「マルクスの党派が急速に発展している」として、1875年のゴーター綱領、大新聞の発行、議会への進出などを挙げる。しかし、78年に皇帝の襲撃事件が起こり、新聞発行も抑圧、オープンな宣伝も不可能になった。それでも独・社民党の党勢は拡大、St.Gallen大会でも、議員達から「楽観主義」が生まれながら、党の革命性が維持された。また、若干の期間、社会主義の前進が抑圧され、愛国心の波がフランスと同様、高まりを見せた。しかし、党自身は国際主義への感情が圧倒的に強く、それが総ての問題を圧倒していた。
 フランスでは、革命運動のリーダーとしての地位が低下した。政党は、戦術上ではあるが、セクトの対立と分裂がひどかった。でも社会主義の思想は、労働者大衆に浸透し、他の国と比べると農民には距離があった。だから、未組織ながら運動は製造業のあらゆる部門に拡大した。ドイツでの様な社会主義への弾圧もなく、単に普通の政治組織からの圧迫を受けていただけだ。
 オランダは特別で、82年になって運動が始まった。宣伝活動は、最近獄中から出てきたアムステルダムで人気の高い牧師D ・Nieuwenhuisによるものだ。警察は社会主義者に暴力事件をでっち上げて攻撃し、会合の場所に入り込んだり、指導者の生活を脅かしている。
 次はベルギーだが、運動が大きく発展し、2つの政党の対立の中での発展であり、労働者の革命意識が高揚した。とくに炭鉱での悲惨な状態により、運動が刺激されている。そして1886年には、革命の形を呈するまで暴徒化し、政党も日刊紙でそれを支持するに到った。
 デンマークでも、いっそう運動が進んでいて、人口の割りに発行部数の多い2つの新聞がサポートしている。ここではリベラルが多数派だが、王党派が行き詰まり、憲法上の助けもあっての前進である。この運動は、スウエーデンにも波及し、そこでは社会主義政党が成立している。
 ロシアでは、貴族的絶対主義が野蛮な絶対王政の復活と結びつき、それによる奇妙な政府の成立の結果、「社会革命」の前兆として憲法改正を目指すに到っている。他方、こうした事態が知識層の熱望となり、運動への賛美となって、敵からも尊敬されるほど個人的英雄主義を醸し出した。
 オーストリアでは、社会主義は一般大衆の心持にすぎない。一つには、多様で敵対する民族を帝国が統合しなければならない合成的な性格によるものだし、もう一つには「独裁的政府」の治安対策の厳しさによるものだ。明確な組織になってはいない。
 イタリーでは、運動は進んでいるが、民主制の尻尾があったり、Mazzinianの足かせがあり、
それらが牧師や王による支配制度を廃止するに到っていないように思われる。
 スペインでは、バクーニンの無政府主義思想の流れが大きな影響を持ち、運動も結果的にアナーキストの性格が強い。政党も、若干の小さい週刊誌に支えられているだけだ。
 さらにアメリカだが、運動は最近ドイツからの移民の手に完全に移ってしまったが、近年は階級闘争が著しく発展した。労使間の各種の闘争では、目標や行動が曖昧ではっきりしないものの、地域に固有な労働党が形成され、次第に労働者の団結が完全な形で承認されつつある。ヘンリー・ジョージの著作『進歩と貧困』の出版がセンセーションを巻き起こした。著者は権力や地位を求めるに当たり、運動にどんな価値があっても誤りは取り消していたが、不十分ながら影響を与えたことは疑いない。アメリカの運動の事件では、「労働の騎士」と呼ばれる巨大労組の結成があり、それにはこの国の労組と言うよりも、社会主義に向けての一定の発展の傾向がある。Powderlyのカソリック教会への媚が組織分裂をもたらしはしたが、真の社会主義がごく自然に米・労働者階級に受け入れられる期待が生まれた。これは、米・資本家の最近の法案により促進されるだろう。彼ら資本家は、賃金奴隷の団結を卑怯にも恐れているからだし、都市での絶望的な労働争議の最中には、爆弾の投げ合いもあり、それを口実にシカゴではアナーキストのリーダーが殺されもしたのだ。
 ここで、わが英国に戻るが、運動は社会主義者の組織の枠を超えて拡大している。もっとも、それは後援会の聴衆の数、雑誌やパンフの発行数だけにすぎない。実際、ここでの運動の力は知的な側面であり、行動の組織力は限られている。にもかかわらず、社会主義者の考え方の範囲は広く、また深く感じられるようになり、このことは昔のリベラルの左翼の立場から見て、彼らの数が不断に増大していることから、とくに「ラディカル」への影響が著しい。リベラルと言うのは、グランドストーンが自由党のリーダーになって以来のことで、それ以来その枠組みでの活動だった。アイルランドの運動は、底辺での謀反であり、また労働者階級の経済力の低さを反映している。「民主ラディカルと自由ラディカル」の分岐も拡がったが、社会主義の思想には、より一層耳を傾けるようになった。労働組合も、経済状態から生まれる不満の単なる安全弁の行動だったが、いまや資本主義の単なる付属品から、資本主義への不断の攻撃のための組織として、その地位を変える傾向を強めているようだ。ただ、それを気に入らない感情を持ち、それを窒息死させるためにベストを尽くすリーダーの重さが、労組の発展可能性の妨げになっている。しかし、他の障害も乗り越え、労組はこの国の社会主義の恐るべき組織になるだろう。それは、英領アイスランドの運動の力の評価の通り、経済的地位がどうあろうと、総て国内で起こっている政治的、倫理的、かつ文化的な反撃の本部となっているのだ。
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# by morristokenji | 2009-01-12 17:37
 第22章から最終章まで、モリスは社会主義の運動論・実践論を述べる。最初のタイトルは「Socialism Militant」だが、文字どうりの「戦闘的社会主義」ではなく、表記のように「社会主義の闘い」にしておいた。もう少しMilitantな表現がいいかも知れない。
 さて、ここから社会主義の運動論・実践論に入るわけだが、モリスは「エキサイティングな課題に入る」と述べている。クール・ヘッドの理論から、ワーム・ハートな実践だろう。社会主義の運動、ないし実践と、マルクスによる『資本論』の「科学的社会主義」の内容との次元の違いを意識しての課題設定ではないか。すでに再三強調してきたように、モリスは初期マルクス以来の、そしてエンゲルス『空想から科学へ』で公式化された唯物史観のイデオロギー的仮説から脱却して、純粋資本主義の『資本論』を科学として継承しようとしていた。そこに資本の原始的蓄積をめぐっての「否定の否定」に関する歴史観の違いも、実際上提起されたのだった。唯物史観が「単純商品生産史観」とするなら、モリスのそれは、「共同体・ギルド生産史観」と呼ぶことが出来るだろう。
 モリスは、唯物史観のドグマから自由になり、純粋資本主義の法則性を学び、それと歴史的過程を区別する視点に立つことが出来た。歴史と科学・論理の峻別である。それはまた、理論と実践の区別、さらに科学とイデオロギーの区分をモリスに迫ることになる。新旧左翼に伝統的だった歴史と論理、理論と実践、科学と思想の3つの「弁証法的統一」のドグマからの自由に他ならない。モリスは、21章まで『資本論』の論理を概説し、その上で社会主義イデオロギーの思想とその実践についての章に改め、別の次元で社会主義の思想と運動をエキサイティングに論じようとしているのだ。そして、そのエキサイティングな課題は、「自分が単に純粋な理論の立場につくことを選らばなければ、社会主義者を自認する人すべてにとって、社会主義の政治実践にとり検討しなければならない」と述べている。以下、モリスの所説を紹介しよう。
 社会主義が、近代生活の総ての関心を含むものである以上、その時代の深刻な問題の一つである事が理解され始めたが、過去において攻防のあった相関関係について見ておこう。はじめに防御の側についてだが、われわれは忠告するように言葉を選ぼう。なぜなら、今日では支配的で優越していた階級が、それ自身で古い中世の支配階級を吸収してしまった以上、そしていったん後者によりその地位が占められていれば、もはや攻撃すべきものは持たないからだ。ある時期、ビクトリア時代の中産階級がその地位にあったが、しかし今やついに覚醒して、攻撃に転ずべき敵を見ることが出来るに到ったからだ。中産階級は、外見上も民主的ではなくなったし、表面的には労働者階級と一体化し、それに従属するに到っているのだ。事態の状況は、仏革命で最高に到達し、次第に労働者の団結の指標になった。そして、それは1848年革命時点まで続いたのだ。そこまで優勢だった中産階級は、中世の反対者の最後の余燼を踏みつけながら、成功を持続させる実蹟だけしか見えなくなった。成功を基礎づけていた原理と言えども、すでに到達点を越えた明確な目標を持てなくなっていたのだ。
 英国で、労働者階級が最初に独自で、能動的に共同体への感情を持って,明確な運動を起こしたのはチャーチストのアジテーションだった。しかし、これはすでに前章でも説明した様に、大陸ではマンチェスター・スクールと呼ばれた、コブデン・ブライトの成功に見られるとうり、イギリスの商業的繁栄の大きな波により押し流されてしまった。この繁栄の波の主な結末は、中産階級の数と力の著しい増大だし、それに応じた快適な生活水準への上昇だった。それは、しばしば労働者階級が50年前にそうだった水準より良い状態になった、あるいは19世紀の主要な成果であるとも申し立てられている。しかし、そうした改善は疑わしいし、それが嘘だということも推測されているのだ。50年前は、巨大な機械制工業により厳しい産業革命を通過していたのが現実だし、前にも述べたとうり労働者階級は、その間経験したことのないような悲惨な状態だった。また、その危機の収束も、限られた範囲で、一時的に特別に悲惨な状態を救っただけなのだ。しかし、それを離れてみても、労働貴族の状態でさえ、良くなったとはいえ大したものではない。現実には、上記の中産階級の増加や繁栄だけだった。しかも、その圧倒的に大きな繁栄さえも、いまや深刻な脅威にさらされている。世界市場の競争の激化、それは労働生産性の不断、かつ急速な上昇を伴いながら、相互に作用し合い、新たな商業革命をもたらしつつ、その利潤が消失するほど減少しながら、巨大資本に合同、合併などしつつ生き残るほか無かった。資本家もまた、経営者になったり、大資本の召使になるほか無かったのだ。この過程は、さらに進み完全に商業貴族に従属させられた、新たなより下層な中産階級を生み出している。こうした中産階級の上昇の下で、利便性が階級の落とし穴になっている。子供たちに、何か「期待を持たせる」事が一般家庭でも困難なことは、今や完全に在り来りになった。若者を「元気づける」職業もストックオーバーだ。安上がりな教育は普及したが、伝統的な商業的価値を失って、歴史的な場でさえ、教育が商業的競争に晒されている。芸術や文学の格が下がっても、仕事として続ける喜びからプロになろうとする人は多い。しかし、それらの人々も、普通の教育を受けたものと同じ低い市場価値しか見出せないのだ。商業的な学者と同様、職業について特別な才能が要求されぬまま、知的プロレタリアになってしまい、その労働は肉体労働より低い地位と同じぐらいの報酬しか得られない。雇用されている限り、その地位は他人の意思に依存し、満足は得られなくなるのだ。
全体として、中産階級にとり利便性の水準は向上し、むしろ良好だった時以上の財力を得たにもかかわらず、今はその力や所有地を失うことに恐れを抱いている。そして、今や労働者が団結することを学び始めたし、また良くなってもブルジョアよりは劣ってしまった地位に甘んじてしまっている後者、中産階級と連帯し始めている。
 しかも、労働者の地位が最高になるかも知れない、と言うブルジョアの考えは実現されないし、実現の可能性も無い。また上記のとうり労働者階級は、現在の時代に満足している特別な理由も無いのだ。不熟練労働階級は、そのシステムが仲間との不断の競争に駆り立てられるのに、たんに生活維持の賃金しか与えられていない。しかも、こうした階級が次第に増加し、新たな機械導入によって熟練労働の生産性は向上するが、不熟練労働の補助的地位に甘んぜざるをえなくなるし、熟練工芸家もその地位を失い、不熟練労働者の地位に甘んぜざるを得なくなろうとしている。
 細かく数字を見ても、一般的には労働者の地位は向上している。、それは正当なことだし、無論ケースにもよるが、労働者の一部のグループは、そうだろう。しかし、それでも彼らが求めているもの、例えば平均賃金がこれこれだと言うことを証明してはいない。また、どんな取引でもそうだが、すべての労働者が減額されずに総額を受け取ることは無いだろう。取引が盛んな時でも、ほとんどの労働者が常用雇用ではないし、評価されている賃金も、労働組合により決められたものだが、大部分の労働者が組合に守られてはいない。悪い時には、組合内部でも十分な賃金を得てはいないのだ。ビルディング組合のように、ある部分は年間大部分雇用されないし、ほとんどの産業で時折ストやロックアウトしなければ、賃金の上昇は不可能なのだ。また労働者は、しばしば組合費や共済費として寄付の形式で課税されるし、見方を変えると、貧困税の形式で雇用主を助けてもいるのだ。さらに、組合がいつも不況に対し十分強く闘っているかも疑問だ。
 しかしながら、このより恵まれた労働者の地位向上が疑問な点も、ついでの話なのだ。現実のポイントは、先ず第1に、この向上も労働生産性の不断の向上には繋がらないことだ。それは熟練の体制の状態が不確実なこと。第2に、労働者の状態が改善されても、彼らはその地位に不満が募っているのであり、それが劣等感の一つで、しかも必然的でもないことが、彼らにも明らかになりつつある。そして特に、いわゆるマニュファクチャが行っていた生産の管理が少なくなればなるほど、ますます手や経営が過酷な労働から恩恵を受ける、単なる金融家になったり、配当取得者になりつつある。
 これらすべてが、大陸の労働者、特に1848年のブルジョア革命以来、ドイツの労働者(それはイギリスの労働者より知的にすぐれている)に明らかになってきている。
 
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# by morristokenji | 2008-12-15 15:14

続・資本の蓄積過程

 所有法則の歴史的転変だが、『資本論』とくに仏語版では、純粋資本主義の論理と資本主義の歴史的発生・発展の過程との区分が進んでいるのだが、しかし「本源的蓄積」を含む歴史的発展過程では、マルクスがなお唯物史観のドグマに拘りを持ち続けていたとも言える。
 まず①単純商品生産者を事実上想定し、その私的・個人的労働に基づく私的・個人的所有から出発する。ついで②資本家的生産様式では、工場制度など生産の社会化が進む。この生産の社会的性格のもとでの私的・個人的所有が維持され、そこに「基本矛盾」も設定される。生産の社会的性格のもとでの所有の私的性格の矛盾である。この基本矛盾は、「否定の否定」により、③生産の社会的性格に基づく所有の社会的性格=公的・社会的所有への転換により解決される。こうした所有法則の転換こそ、すでに紹介したがエンゲルスの『空想から科学へ』において、唯物史観のドグマとして公式化されたのだ。
 もっとも『資本論』では、定式の内容のニュアンスが、やや違ったものになっいる点が重要だろう。マルクスにも迷いがあったのかも知れないが、①の単純商品生産者の所有については、所有者の「自己労働に基礎を置いた個人的な所有」とも、また「各個人の自己労働に基づく分散的な私有」としているが、この点については、モリスが極めて重要な批判的指摘を注記している。②の資本家的生産様式に基づく「資本家的個人的所有」は、社会的生産に基づく私的・個人的所有だが、さらに「否定の否定」である③については、マルクスの説明には、はっきりしない点が含まれている。
 すなわち、まず一方で「私的所有を再現するのではないが、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくり出す。すなわち、協業を基礎とし、土地の共有と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とする個人的所有」とし、その上で他方では公的所有である「社会的所有」とも述べている。要するに、生産手段の共有を基礎とする個人的所有なのか、それとも社会的所有なのか、あまりはっきりしない説明になっている。こうしたマルクスの説明の不分明なこともあり、ここでの個人的所有は、私的所有ではなく「個体的所有」だ、という独特な解釈も生じたのである。このような解釈のもとに、「市民社会」的社会主義の主張も生まれることになった。
 マルクスはここで、土地や生産手段の共同体的所有を前提とした、個人の労働による所有なのか、それとも私的・個人的所有を否定された公的・社会的所有なのか、はっきりしない叙述なのだ。資本家的生産様式を否定した、共同体的生産様式のもとでの個人の労働と所有と、国家権力を労働者が奪取して、国有ないし公有のもとでの労働配分なのか、ここでは明確な区別がないまま論じられているのではないか。その点では、マルクスの「否定の否定」としての所有法則の転変については、内容が混濁して曖昧になっているのではないか。この曖昧さは、「否定の否定」の前提である、①の前資本主義的生産様式の設定の仕方が問題だった。そこを、モリスは以下のように注記して突くのだった。
 すなわち、モリスは上記「各個人の自己労働に基づく分散的な私有」,『Socialism』では「所有者の労働に基礎を置いた個人的な私的所有」にわざわざ注記して、次のように述べる。「重要なことだが、ここで使われているように、このフレーズを誤解すべきではない。<中世>の労働は、物理的には個人的だが、精神的には完全にアソシエーションの原理によって支配されている。われわれが見た通り、その時代の親方は、ギルドの代表に過ぎなかったのだ。」ごく短い注だが、極めて大きな意味が含蓄されている。
 第1に、本書では余り注が多くないが、特に内容の補足ではなく、内容の理解に関わる注は殆どない。ここの注は例外的であり、しかも『資本論』の資本蓄積の歴史的傾向の「否定の否定」の理解に関わるものだ、という点で重要視せざるをえないであろう。
 第2に、表現上は慎重であり、『資本論』を批判するものではない。「誤解」を恐れての注意書きだが、その内容は上記①の内容設定に関わるものと言える。つまり、単純な商品生産者を事実上想定し、その自分の労働による商品生産の自己所有としての私的・個人的所有という、唯物史観のエンゲルス流の公式を真っ向から批判しているのだ。物理的には個人的労働でも、その労働は共同体の内部で、ギルド組織のもとで、したがって「精神的には完全にアソシエーションの原理」にもとづく点を強調している。つまり、①は村落的・ギルド的な組織の労働であり、その所有であって、そうした共同体の組織が前提になり、市場取引は共同体と共同体の間に成立するに過ぎないことになる。
 第3に、モリスが①に関し、このような注を付したについては、③の「否定の否定」の内容とも関連しているように推測される。つまり、マルクスも③については、上述の通り共同体的な労働、生産手段の共有を前提にして、共同体の復権を事実上想定していたのだった。生産の社会化に基づく「社会的所有」は、国家社会主義型の公有・国有ではなく、文字どうり社会的な共同体的な所有を考えていたとも言えるだろう。このような③における共同体の復権と対応して、①の生産と所有についても、共同体におけるギルド組織を明確にしておく必要を感じたものと思われる。
 このようにモリスは、資本蓄積の歴史的傾向の「否定の否定」については、いわゆる唯物史観の公式における単純商品生産を出発点とした所有法則の転変を、注記の形ではあったが事実上否定したのである。そして、村落共同体やギルド組織に基づく歴史的転変を提起しているのであり、それを『資本論』の純粋資本主義の経済法則で根拠付ける形で、「科学的社会主義」の見地をマルクスから継承しようとしたと言える。労働力の商品化に基づいた機械制大工業の組織による大量生産・大量消費のシステム転換を、ギルドに基づくコミュニティの復権に求めたのである。
 この後、モリスはエポックメーキングな『資本論』の最後が、「近代殖民論」で終わっていることを述べ、さらに第1巻から第2-3巻に展開されることが付記されている。また、『Socialism』では、マルクスの死後第2巻が出版され、さらにエンゲルスの手で第3巻の刊行が準備されている旨、とくに注記されている。
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# by morristokenji | 2008-12-05 16:06

資本の蓄積過程(結論)

 モリスは、Commonwealの第21章を、1887年8月6日付で、タイトルは「結論」としていた。しかし、内容的には『資本論』第1巻第7編「資本の蓄積過程」であり、第1巻の最後と言う意味で「結論」としたものと思われる。ただし、モリスの利用した仏語版では、独語版と異なり、「いわゆる本源的蓄積」が第8編「本源的蓄積」として独立の編になった。この独立の意味については後述しよう。
 モリスは先ず、前章の機械制大工業による資本家的生産方法での剰余価値生産について、さらに説明を続ける。技術の革新や生産力の上昇により、資本の労働支配は強められる。労働の強度が強化され、労働時間の延長も図られる。労働生産性の向上により、生活資料の価格低下など必要労働、つまり労働力の再生産に必要な労働の低減、言い換えれば剰余労働の増大を図ることができる。資本の剰余価値生産は高められる。
 ただ、マルクスは「工場法」の歴史と分析も行っているのであり、資本による労働者支配は一定の制限を免れない。しかし、その規制も資本が「自由な」労働者を確保するためのものだし、そのための組織的体制に他ならない。この工場法のもとで、労働の強化も行われたのであって、労働者は完全に機械の付属物に過ぎなくなるし、「機械に対しての人間の隷属の端的な表現でもある」とモリスは主張する。
 さらに機械化と労働者の関係として、「機械によって代替される労働者への代償」について述べている。「労働を節約する機械は、雇用される人数を減少させる傾向があるが、それは資本を雇用から自由にする。」しかしマルクスは述べるとして、『資本論』を引用する。いま、カーペット工場での機械化による合理化で、労働者の雇用が半減したとする。それにより可変資本が自由になるように見えるが、しかし機械化のために不変資本が増加するだけだし、「機械によるいかなる発展も、より少ない雇用をもたらすだけだ」と。
 さらに引用を続けて、「機械により作業場から押し出される労働者は、労働市場に投げ出されてしまう。そして、そこでは資本家からお呼びでない労働者の群れに加わる。‐‐‐機械のこうした影響が、労働者階級への代償であり、最も恐るべき鞭なのだ。ここで、これだけは言っておこう。労働者は、産業のある部門の仕事から投げ出され、他の部門の仕事を探さねばならない。もし探すことが出来れば、新たに労働者と生活手段の結合が新しくはなるが、それは投資を求めている新規の追加的投資の仲介によるものだし、それは以前に彼らを雇っていた資本とは全く別だし、それは機械に転換してしまったいるのだ。」
 モリスはここで、『資本論』の仏語版を利用したからであろう、第5分冊では「大工業に関する諸問題と社会の変化」、第6分冊では「賃金」、第7分冊では「資本蓄積の重要問題」を取り上げるとして、単純再生産から剰余価値の資本への転化としての拡大再生産、そして「商品の生産の資本家的領有を特徴付ける所有法則の転化を述べている。‐‐‐この部分には、長くて各種の点からの資本家的蓄積に付いての一般的法則に関する長い詳細な章が含まれる」と
、その重要性を強調しているが、ここでは簡単な解説に止めている。
 『資本論』第1巻の最後には、いわゆる「本源的蓄積」が叙述されているが、モリスの利用した仏語版では、独語版と異なり「第8篇 本源的蓄積」として、独立の編別が与えられた。このように独立した地位が与えられた理由は不明だが、マルクスが独語版「第7編 資本の蓄積過程」の理論的解明の部分から、歴史的解明である「本源的蓄積」を分離して、純粋資本主義の抽象による法則性の理論と歴史分析を明確に区分しようとした意図を感じさせる。
 なお、「本源的蓄積」の取扱いの差異に関連して、独語版の第2編「貨幣の資本への転化」についても、仏語版では「資本の一般的形式」など、節が章に格上げされている。ここでも貨幣の資本への転化が、理論的に純化された形で解明される意図が強まり、歴史的過程との分離が意識されたものと推測される。こうした「貨幣に資本への転化」の取り扱いの差異が、いわば表裏の関係で、資本の蓄積過程での論理と歴史との分離した取り扱いと深く関連しているのではなかろうか。歴史と論理の統一のドグマの強かった唯物史観から、『資本論』の純粋資本主義の抽象への脱皮に向けての、マルクスの苦闘振りが感じられよう。
 モリスは『資本論』の「本源的蓄積の秘密」の初めの部分にある、有名な一節「この本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、現在が神学で演ずる役割と大体同じようなものである。---」を引用している。ここでは引用の重複は避けるが、「要するに暴力が大きな役割を演じている。穏やかな経済学では、はじめから牧歌調がみなぎっていた。はじめから正義と<労働>とが唯一の致富手段だった。‐‐‐実際は本源的方法は、他のありとあらゆるものではあっても、どうしても牧歌的ではなかった。」スミスの単純な商品生産者の牧歌的「文明社会」ではなかったわけだ。
 モリスは、さらにマルクスに従い、本源的蓄積の具体例として、英の「土地囲い込みみ運動」、浮浪者などに対する規制措置、賃金切り下げなど、さらに「マルクスは、そこで近代的な資本家的農業の誕生を描写し、都市産業での農業革命の反動や産業資本のための国内市場の創出にふれている。その矛盾を生み出した資本家的蓄積の歴史的傾向についての章に続き、将来的社会への関説として、ここで以下の文章を引用しておく必要があろう」と述べ、例の「領有法則の否定の否定」、所有法則の転変の箇所を引用している。さらにモリスは、重要な注を付して、注意を促しているのであり、ここで少し立ち入っておきたい。 
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# by morristokenji | 2008-11-30 18:12