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by morristokenji
 「同一労働・同一賃金」のガイドラインが、政策なき運動として進められるについては、すでに説明の通り、安倍一強内閣が「一億総活躍社会」を目指し、国民運動として「働き方改革」を推進する政策的意図が強いと思います。国家権力が前面に躍り出て、国民総動員で「成長戦略」を実現しょう、そのためには少子高齢化で限界が来ている就業労働力を何としてでも確保したい。そのための国民運動こそが、まさに「働き方改革」のスローガンではないか?「何のため」、「誰のため」に働くのか、それを政権主導で、国家権力が進める国民運動です。

 いうまでもなく資本家的経営においては、労働市場において労働力が商品として企業に売られ、賃労働として労働者は雇用されます。労働力の商品化が前提される、いわゆる資本・賃労働の階級関係です。ここでは、資本家的経営に雇用される限り、労働力は資本に売られ、資本が労働力を使用する以上、労働力は資本のために働くのです。「何のため」に働く?それは資本のために働く。そして、資本家的経営の企業である以上、経営の目的は企業の利潤追求であり、株式会社であれば株主の配当=利殖のために働くことにならざるを得ません。労働力の企業への貢献についても、要するに企業の利潤追求への貢献以外の何物でもないのです。
 こうした企業の労使関係は、両者の契約関係である以上、資本を代表する経営者と労働者の間の関係です。経営者の組織と労働組合との団体交渉で決められる場合も、労使の契約関係であることに変わりはない。また、契約関係で働く以上、労働者は企業の職場で、経営者の管理の下で働くことになる。そして、労働者が生産した物もサービスも、労働者のモノではない。すべて資本家的企業のモノになる。労働者は、自分で作ったクルマも、企業から購買する以外にない、それが資本家的経営の現実です。その点で、労働基準法など、長時間労働や最低賃金が決められていても、それは大枠のことであり、基本は労使の自由な契約に任されているのです。その限りにおいては、国家権力である政府が、「働き方改革」と称して、労使の契約関係に介入するのは、労使関係に対する重大な干渉になるでしょう。

 さらに労使の契約関係では、労働条件である賃金、労働時間などが交渉で決められる。これは、あくまでも労働市場の労働力の売買のレベルの話であり、売り方の労働者はできるだけ高く、買い方の資本の側は安く買い叩こうとします。買い物をする時の、売り手と買い手の立場と同じで、市場原理です。労働組合が交渉に関与する場合も同じで、資本を代表する経営者組織と、労働者を代表する労働組合の市場取引です。労働組合は組織の力で交渉力を強め、より有利に労働力の取引を行うだけです。労働組合の力が無くなって、最近のように「官製春闘」と呼ばれる、政府の力を借りる賃金交渉では、当然のことながら政府からデフレ脱却のための消費拡大の代償を求められることにもなるのでしょう。
 戦後日本経済の高度成長時代、賃金交渉は総評を中心に、春闘方式で行われてきました。名前だけは官製春闘として残っていますが、賃上げ交渉を①時期的には春季に、②全国横並びに統一的に、③ベースアップとして基本給の一律アップを目指し、賃上げの相場形成をリードしました。年中行事の春闘は、全国規模の一斉ストライキを構え、大きな社会問題として国際的にも話題を集めました。SOHYOと言う和製英語が国際的に通用した時代だったのです。また、日本経済の高度成長とともに、国際的な日本の低賃金が大幅に改善され、特に年齢別賃金格差が改善されて、いわゆる「一億総中流」時代が到来したのです。

 しかし、80年代の終わり、労働戦線の統一が実現し、連合が結成されて総評が解散したあと、春闘方式による賃金上昇は急速に減速しました。春闘の終焉とも言えますが、それはなぜか?総評の応援団として協力した経験からすれば、そもそも春闘は高度成長に便乗したものでした。日本経済の高度成長は、別の機会に説明しましたが、輸出依存・民間投資主導型でした。その民間投資主導の成長に、企業内組合は容易に便乗しやすい。賃上げも成長実現と同時に実現され、しかもインフレ物価上昇とも結びついた。基本給の一律アップの要求に、消費者物価の年率上昇率が加算され、全国統一の
春闘相場の形成とゼネストに結びついたのです。文字通り、春闘方式は「高度成長+インフレ便乗型」賃上げ方式だった。
 しかし、こうした春闘方式を中心とした労働組合の運動は、高度成長それ自身より内部矛盾が拡大し、組織の劣化が浸透しました。すでに前回(上)説明しましたが、企業別組合を含む日本型経営の3点セットのうち、年功序列型賃金を支えていた、若年労働力の不足と賃金上昇が急速に進んだ。とくに地方の農村部の若年労働力の雇用拡大と年齢別賃金格差が縮小する。それと同時に、年功給が維持できなくなり、それこそ「同一労働・同一賃金」の職務給が導入されるとともに、年功給に支えられていた終身雇用制も次第に制度疲労が進むことになぅたからです。そうなれば、もともと3点セットで維持され、春闘方式とともに、日本経済の高度成長を主導してきた企業別組合も組織的な危機を迎えることになる。上記の総評解散、労線統一、そして連合の誕生は、こうした企業別組合の内部事情から必然だったように思われます。

 このように春闘方式が、「高度成長+インフレ便乗型」なるがゆえに、日本経済の長期デフレとともに終焉を迎えた。それとともに、労線統一によって誕生した連合も、「派遣型」労働力など非正規雇用の増大とともに、組織率の大幅な低下に苦悩しているだけではない。「官製春闘」に縋りつきながら、今や「同一労働・同一賃金」を梃子に「働き方改革実現」の総動員体制に組み込まれようとしている。安倍一強政権のもと、「一億総活躍社会」構築にむけて体制翼賛団体として、連合も「国家」のために働き「安保法制」の実現に参加することになりかねない。そうした政治的意図を持ちながら、「働き方改革実現」が提起されたのではないか?この間の民主党、民進党と連合の関係にも、そうした危惧を感じます。
 ただ、初めに提起したように、そもそも安部一強政権が「一億総活躍社会」や「働き方改革実現」を提起するに至ったのは、「高度成長戦略」の実現のためのアベノミクスが破綻し、もはや財政や金融のマネタリー戦略を超えて潜在成長力そのものの「岩盤」に斧を振う、そのための働き方改革です。資本過剰による長期慢性型デフレが解決できず、国家権力が正面から少子高齢化の労働力不足を解決せざるをえない。そのために「保育所」をつくり、女性の建設労働力「建設小町」を動員し、難民労働力に「田植え」をさせる、その地ならしに向けての「働き方改革」ではないか?そこまで労働力商品化の矛盾に追い詰められ日本資本主義の終わりの姿が曝け出されたなら、日本経済を救う代替戦略を提起しなければならないでしょう。

 とくに「働き方改革実現」として問題が提起されたなら、労働力商品化の賃労働については、アダム・スミスの昔から「労働は、toil & torouble(骨折りと苦労)」であり、マイナスの効用だった。しかし、それは労働力が商品として売買されるからであり、もともと人間労働は「社会的動物」としての行為であって、協業や社会的分業で相互に協力し合い、助け合って働き続けてきた。協同組合の祖であるロバート・オーエンなどは、「協同労働」を本来の労働としている。イギリス産業革命が進む中でオーエンの思想は、J・ラスキンやW・モリスに継承され、とくにモリスは「芸術は労働における喜びの表現である」と主張し、それを我が宮沢賢治は『農民芸術概論綱要』で「芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ」と強く訴えたのです。「共同社会」主義comunitarianismの思想に他なりません。
 一方、すでに高度成長の終焉した日本資本主義は、今なお「蓄積せよ蓄積せよ」の成長神話で暴走し、大量生産―大量販売―大量消費の使い捨ての仕組みの中で、「過労自死」に追い込まれ、ブラック企業の統治能力が問われ続ける「賃労働」である。しかし、この「賃労働」による「過労社会」の「働き方改革」は、「協同労働」として「実現」する道が提起できないのか?すでに資本の過剰が長期化し、アベノミクスも破綻している。資本過剰の「過労社会」は、「過労自死」の悲劇を生むだけではない。少子高齢化の名のもとに、労働力の再生産が維持できなくなっている。「保育所落ちた、日本死ね」は、労働力の再生産の機能不全の証明であり、それは資本・賃労働の社会の存続不能を意味しているのではないか。すでにビジネスモデルは、広く「社会的企業」の名で各種の協同組合、ベンチャーキャピタル、NPO、「一人親方」など、営利的個人・株式企業の行き詰まりとは対照的に増加している。こうした新たなビジネスモデルの労働組織として、既得権だけを保守する企業別組合に代わる労働組合の再生が期待されるのではなかろうか?
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# by morristokenji | 2016-12-28 13:00
 「よもや来るまいと思っていた狼が、本当に来てしまった」、米大統領選でトランプ大統領誕生についての報道です。これから「やってくる大きなリスクについて」米国をはじめ、日本の既得権支配層(エスタブリッシュメント)達の恐怖に満ちた発言です。また、トランプ対クリントンの泥仕合で増幅してしまった米国内の亀裂で、特にシアトルなど産軍複合体制の強い都市では、クリントン派の抗議デモが発生している。
 しかし、早々とオバマ現大統領の申し出で、トランプとの会談が行われ、日本から安倍総理も「トランプ詣」に出かける。それどころか、開票と同時に進んだ日本の株式市場の過剰反応で一時的暴落はあったが、翌日のニューヨーク市場など大幅な株価上昇、円高=ドル安どころか、真逆の円安=ドル高。アベノミクスでは実現できない円安=ドル高・株高が、何のことはないトランプ・ショックが実現する皮肉な市場の反応でした。
 こんな「トランプ革命」「トランプ・ショック」を予想していたわけではありませんが、当「持論時論」第51回「再論:日本資本主義の終わりは始まったのか?」の冒頭で「お断り」したように、今回の米大統領選など、大きな動きを予想して、早めにアップして貰いました。そこで書いた内容を補足する意味で、今度の「トランプ・ショツク」について、それを戦後体制の転換として位置付けてみましょう。ソ連崩壊で戦後の冷戦体制が終焉しましたが、ここで大きくアメリカ一極のグローバル化が崩れ、再編の動きが進んできたように思います。決して予想外の出来事ではない、再編に向けての大きな転換期ではないか?

 確かに暴言と放言、人格攻撃とスキャンダルの暴露など、見るに堪えない、また聞くにも堪えない泥仕合の大統領選でした。勝敗は別にして、政策論争はそっち除けの選挙戦だけで、超大国アメリカの世界支配の終わりを、内外に強く印象付けてしまったのではないか。また、それだけアメリカ国内の格差や対立、分裂、そして亀裂の深さが大きい。合衆国、移民国家、分断社会、その内部亀裂を近代国家の体制的枠組みの内部で修復できるのか?そんな課題が提起されたように思います。
 しかし、そうした政策論争不在の凄惨な選挙戦の底流に、戦後体制の転換に伴う政治的苦悩の集約を見ることができるように思います。すでに指摘しましたが、戦後世界の冷戦体制は、米ソを頂点とした東西二つの世界の対立だった。東のソ連型社会主義vs西の資本主義、ソ連型社会主義はプロレタリア独裁、西の資本主義は「自由と民主主義」、それぞれの価値観で組織化され、統合されていた。しかも、二つの世界が第2次大戦の「熱戦」ではないが、原子力の核開発を軸に「冷戦」を繰り広げる。そんな冷戦体制の時代が、ほぼ半世紀の長期にわたって持続するという、まことに奇妙な時代が続いた。そんな奇妙な時代の中で、日本経済の高度成長が実現し、GNP大国の地位を獲得したことを見逃してはなりません。
 
 1991年、核開発競争に破れたソ連が崩壊し、ここで冷戦型の戦後体制は一先ずピリオドを打った。この時点では、まだ中国をはじめ、それまで「第三世界」と呼ばれていた発展途上の国や地域は、世界経済や国際関係に大きな影響力を持たなかった。そのためポスト冷戦は、アメリカ一極の超大国による覇権支配の体制となり、折からのICT革命によるブームもあり、アメリカ主導の世界秩序が形成されたのです。また、冷戦下の価値観だった「自由と民主主義」が、新たな世界支配の価値観となり、世界経済は「新自由主義」のもとで国際金融資本の「マネーワールド」を形成し、アメリカが「世界の警察官」「世界の保安官」として、世界戦略が推進されることになったのです。とくに米の共和党ブッシュ政権のもとで、トロツキスト崩れと言われる「ネオコン」グループによって、「グローバリズム」「グローバル資本主義」が唱道されることになった。
 今回の大統領選で、トランプ候補が口汚く暴言、放言した、その批判の根底にあるのは、他ならぬ「ネオコン」が唱道してきた「グローバリズム」批判です。日本では、わざわざトランプ当選に当てつけて強行採決したTPPですが、それにに対しては「大統領就任の日にでも撤退する」と豪語する。また、「世界の保安官にはならない」、そればかりか日本などの駐留米軍も撤退する、要するに「グローバリズム」に対するアメリカ内部からの告発であり、内部批判だと思います。「トランプ革命」は、ポスト冷戦後の「グローバリズム」からの転換であり,アメリカ一極覇権主義の終わりである。トランプの「もう一度偉大なアメリカを」の怒号は、ポスト冷戦の現実を無視して続いてきた覇権国家からの撤退宣言であり、アメリカ一国のモンロー主義への回帰宣言でしょう。その意味で、ポスト冷戦後の新たな国際関係への転換点を迎えたことになります。

 アメリカの一極覇権の「グローバリズム」からの脱却という点では、すでに述べましたが「ネオコン」の影響力の強かったブッシュ父子の共和党政権から、オバマの民主党政権への転換があった。ブッシュ政権ではイラク戦争の失敗など中東支配からの撤退を余儀なくされていたし、経済的には2008年のリーマンショックによる世界金融恐慌の打撃も大きかった。オバマの「変革<Change! Yes,we can>」の大統領就任宣言も、ネオコンなどの産軍複合体制からの脱却を目指していた。2013年9月の対シリア内戦への軍事不介入の際、「もはやアメリカが世界の警察官ではない」と宣言し、中東からの米軍の撤退をはじめ、広く世界を主導する立場を公然と否定し、「リバランス」政策に転換した。また、核廃絶を訴えてノーベル平和賞を貰った。しかし、この「リバランス」の中身が曖昧であり、中国の急速な台頭もあって、単なる世界支配の戦線縮小で「アジア太平洋地域」へのセットバックに止まってしまった。それだけ米を中心とした産軍複合体制の既得権力が強かったとも言えるでしょう。
 長期にわたる戦後体制の続く中で、産軍複合体制をバックに、広く既得権支配層(エスタブリッシュメント)が、政治も経済ばかりか、マスコミまでも支配している。オバマよりも、体制寄りのヒラリー・クリントン候補の立ち位置の曖昧さが、選挙戦においても目立ったわけです。さらにヨーロッパや日本もそうですが、米の民主vs共和の対立の構図も完全に崩れています。共和党の異端分子のトランプが、既存の枠組みを超えて、大統領の座を射止めたのです。対立軸は、もはや保守vs革新、そして共和vs民主では無くなっている。既得権支配層vs非権益・低中所得層の対立だし、その背後には移民国家らしく白人層vs移民層、しかも移民も黒人とヒスパニック系、アジア系に分かれ、女性層の投票も白人と移民との差が目立ったようです。EUとは違った形ではあるが、移民国家の亀裂が大きく浮かび上がっている。さらに地域的対立も大きく、大都市と中小都市・農村との対立が、特に北東ー中西部の白人労働者と大都市移民との分裂となって現れているようです。

 ポスト冷戦により、米一極支配の構造が続きましたが、「グローバル資本主義」の破綻は、単に所得や資産の大幅な格差を産んだだけではない。一握りの巨額な富裕層と99%の貧困層の格差といった対立図式には収まり切らない亀裂が走っている。巨大な移民国家の中の白人と移民の対立であり、さらに金融国際都市に流れ込んだ移民と白人産業労働者や農民層の対立です。こうした複雑な活断層を抱え込みながら、トランプのアメリカは巨大な覇権国家から、北米の「一つの大国」の座に降りる選択をした。戦後体制の国際関係は、東西対立の冷戦時代から、グローバリズムの過渡期を経て、新たな多極化へ移行することになる。そのための転換点が、今度の米大統領選であり、トランプ政権の誕生です。罵詈雑言、誹謗中傷の選挙戦の背後に進む、戦後体制の新たな国際関係の再編の意義を見逃すべきではないでしょう。
 ただ、新たな国際関係の行方については、暴言・放言が目立っただけに、トランプ政権の真意が測りかねています。しかし、依然として日米安保の体制にしがみ付こうとする日本、大量の移民・難民を抱え込み統合の維持に苦悩するEU、そしてEU離脱の英国、さらに中・露とともに、ソ連崩壊時点とは大きく変貌した新興諸国の動向です。とくに米に次ぐ世界第2のGDP大国の中国の動向でしょう。嫌中・反中イデオロギーで盲目になった日本を尻目に、ASEANなど東アジア各国は、中国とともに多極化の担い手を進めようとしている。米国の植民地だったフィリピン大統領の発言にみられる通りです。米中関係を中心に、多極化する新たな国際関係の秩序形成に成功するかどうか?日本資本主義の終わりのシナリオも、新たなページを準備しなければならないでしょう。 
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# by morristokenji | 2016-11-11 12:49
 すっかり影の薄くなってしまったアベノミクスですが、何とか衣替えで出直しをはかる以外に手が無くなったのでしょうか?新アベノミクスか?改定版アベノミクスか?国家総動員体制ともいえる「一億総活躍社会」を打ち出そうとしています。「成長戦略」のための金融政策や財政政策の矢を放ってみたものの、矢はどこに飛んで行ったものやら?年率2%目標のインフレ物価上昇は、このところ物価下落が続き、とてもデフレマインドを変えることは出来ない。経済成長のシグナルGDP成長率もゼロ成長をふら付いていて慢性不況がすっかり定着してしまった。成長政策にせよ、景気対策にせよ、従来の経済政策の次元では、もはや政策の手は打ちようが無くなってしまった。そこで苦肉の策として提起されたのが、GDP600兆円を目指す「一億総活躍社会」なのでしょう。

 アベノミクスの金融や財政の政策が、デフレ脱却のための成長戦略に結びつかない、そのため資本の絶対的過剰生産が解消しないまま、ゼロ成長の慢性的デフレが続いている。その理由に、日本経済の「潜在成長力」が低下して、金融や財政のマネタリーな面から、いくらバラ撒きを続けても経済成長に結びつかない。したがって、潜在成長力を向上するような「構造改革」、それも財政や金融のレベルを超えた日本経済の岩盤に届くような構造政策の必要性が叫ばれています。GDP600兆円の「一億総活躍社会」も、そのスローガンです。
 問題の「潜在成長力」は、いわゆる供給能力であり、それが低下すれば、いくらマネタリーな面からカネをバラ撒き、有効需要を拡大しても、経済成長にはつながらない。もともと潜在成長力は、生産活動に利用可能な労働力、つまり生産年齢人口、および労働力の発揮できる労働生産性によって決定される。生産年齢の労働力が沢山あり、その労働力の生産性が高ければ、自ずから「潜在成長力」が高くなる。逆は逆で、少子高齢化により生産年齢人口が減少し、技術革新が進まなくなれば、当然に潜在成長力が低下する。そこでGDP600兆円の金額を目標にぶら下げ、何とか生産年齢人口の労働力を増やす。また、停滞した技術革新を刺激するために「一億総活躍社会」のスローガンを振りかざして、国民を総動員しようと言うのでしょう。

 もともと「潜在成長力」は、生産労働力の数とその生産性ですから、どんな社会にも指摘できる超歴史的な供給力であり、「経済原則」です。労働・生産過程、そして社会的再生産過程を構成する要因で、それが経済成長を左右します。マルクス『資本論』では、すでに紹介しましたが、まず労働・生産過程を資本が支配する「剰余価値の生産」として、①労働時間や労働の強度による絶対的剰余価値の生産、つぎに②労働の生産性を高める相対的剰余価値の生産を説明しています。そのうえで社会的再生産の拡大である経済成長を、「資本蓄積の一般的法則」として説明します。とくに、経済原則の潜在成長力の発展を「資本主義経済の人口法則」として解明しました。経済原則の資本主義的経済法則としての解明であり、マルクスの人口論に他なりません。
 人口論と言えば、有名なマルサスの人口論があります。人口と食料の関係から、人口が幾何級数的に増加するのに、食料資源は土地の制約から算術級数的にしか増加しない。だから人口過剰が必然化するので、「過少消費説」を主張した。マルサスに対してマルクスは、資本と労働力の関係から相対的過剰人口を説明しました。ここでもう一度簡単に解説すると、マルクスは生産の拡大も資本の蓄積として進む。資本蓄積には、①資本の有機的構成不変の能力拡大型投資と、②資本の有機的構成高度化の生産性向上、省力型投資の2つのパターがあり、①のパターンで能力拡大型投資で資本蓄積が進むと、労働力不足と賃金上昇が必然化する。ここで利潤率も低下し、資本過剰が進み②の技術革新、生産性向上による省力型投資に転換し、「潜在成長力」を改善向上させて資本蓄積を進める。マルクスの資本蓄積論を整理すれば、こんな説明になります。

 マルクスの資本蓄積論では、①の能力拡大型投資を②の省力型投資に転換させ、経済原則の「潜在成長力」の改善を資本主義の経済法則として実現する。そこでは①の能力拡大型投資による労働力の雇用拡大で人口を吸収、②の省力型投資で労働生産性を向上し相対的過剰人口を形成して人口を反発、この資本蓄積による「吸収と反発」を、マルクスの人口法則としたわけです。19世紀のイギリス中心の資本主義の発展には、こうした人口問題の自己解決力があった。しかし、20世紀を迎えて、歴史的にも自己解決力が衰弱し、国家の政策的なバックアップが必要になる。
 この点もすでに説明しましたが、重化学工業による高度工業化は、資本の蓄積様式にも歴史的変化をもたらしました。金融資本による蓄積です。金融資本は、一方で独占や寡占を利用し、資本の組織化を図る。そして、資本過剰についても、それを温存して内部留保などを高め、さらに資本過剰を対外投資に向ける。金融資本の過剰資本による対外侵略であり、植民地支配です。とくに植民地支配は、日本のアジア進出でも明らかな通り、多大なカントリーリスクを伴うものの、安価な労働力を利用し、さらに株式資本の利用で、高度なプラント輸出やインフラ投資とともに技術革新を進めることもできる。金融資本の蓄積は、一方の資本過剰の温存とともに、同時に他方では技術革新による労働生産性の向上と省力化を図ることが可能です。この二つの側面が、どのように組み合わされるかは、言うまでもなく歴史的条件や植民地支配など国際関係の変化により変わってくる。
 
 さらにもう一点、言うまでもなく金融資本の植民地支配は、先進国の勢力圏をめぐる国際対立を激化し、それが二度の世界大戦につながった。戦後の局地戦争や部分戦争ならともかく、世界戦争ともなれば、国家間の総力戦であり、そのためには金融資本の組織化にとどまらず、広く国民全体の組織的統合が必要不可欠です。その組織化には、完全雇用を基軸とした、労働力の全面的雇用の拡大や、労働条件の改善や所得補償など、いわば「福祉国家主義」とも言える社会福祉の拡大が必要だった。第一次大戦後、大戦間に所得や資産の格差が急速に縮小し、そうした傾向が戦後の冷戦体制の時期まで持続し、ポスト冷戦の90年代以降に資産格差が再拡大している。そうした歴史的変化を、T・ピケティの『21世紀の資本論』が鋭く指摘しました。このような金融資本の蓄積と「福祉国家主義」の組織化が、今や10%の富裕層による99%の富の支配と格差社会の拡大、そして今日の「潜在成長力」の劣化と人口問題をもたらしているのではないか?
 金融資本の組織化により、対外投資が積極化する。とくに対外直接投資の拡大のためには、国内への投資を抑制し内部留保を高める。結果的に対内投資が消極化し、資本過剰が温存される。そのため国内経済の空洞化が進み、とくに地域的な格差の拡大が進む。こうした国内の過剰資本の温存は、一方で不況を長期化しつつ、同時に合理化投資による省力化も進まない。相対的過剰人口が形成できないまま、「福祉国家主義」の完全雇用による過剰雇用を抱え込んだまま、同時に人手不足による人材難も進行することになる。いわば「資本過剰」と「過剰雇用」の共存と同時に、国際関係の緊張による国家的統合の強化に乗り出そうとせざるを得ない。ここにアベノミクスが破綻した末に、「一億総活躍社会」のスローガンが必要になったものと思われます。
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# by morristokenji | 2016-10-03 18:04
 黒田・日銀による金融の異次元緩和も、いよいよ正念場を迎えたようです。異例なマイナス金利まで突き進んだものの、年率2%の物価上昇によるデフレからの脱却は、一向に進まない。それどころか、最近は物価の下落が続いている。この間の超緩和路線の「総点検」による結論は、「量から金利へ」の転換だそうですが、依然として短期金利のマイナスは続ける。さらに中央銀行の政策としては例がない長期金利に手を付ける。しかし、これもゼロ金利を維持するだけの話で、国債を買わせても利子もつけない。何のことはない、もはや金融政策としては手の打ちようも無くなったことを自認した総点検でした。
 金融政策がダメなら財政政策ですが、そもそも日銀の異次元緩和路線が、年間80兆円もの国債の買い入れを伴っていた。それがまた日銀の市中銀行から当座預金の「ブタ積み」を助長し、マイナス金利導入を招いた。これ以上赤字国債の発行はムリ、さらに予定されていた消費増税も、選挙対策上断念した。そうなると「税と社会福祉の一体改革」の公約はどうなるのか?財政再建をどうするのか?頼みの日銀からは、副総裁の談話で、企業のイノベーションによる生産性の向上、少子化対策による労働力の量的確保など、潜在成長力の向上・改善による自然利子率の回復を期待する「ボール」が投げ返されてくる。いよいよアベノミックスの政策的破綻が曝け出されています。

 こうしたアベノミクスの破綻も、もともと日本の金融資本の「資本過剰」が、もはや資本自身では自律的に解決できない。資本過剰が慢性化し、構造化したことから生まれたものです。すでに金融や財政も限界を迎えて、潜在成長力の「岩盤」に斧を振るうところまで来てしまった。「一億国民総活躍」の総動員体制の下、女性や高齢者の雇用拡大,保育所など産児拡大の政策措置、難民を含む外国人労働力の利用も、すべて権力的に推進する。消費拡大のための官製春闘を利用した賃上げ、「同一労働・同一賃金」の推進とともに、同時に金融資本の対外直接投資のリスク回避のために、「集団的自衛権」強化による安保法制の強行突破だったことを見逃してはなりません。
 では、日銀からも提起された「潜在成長力」とは何か?それが日本経済の「岩盤」と呼ばれるのはなぜか?その辺から話を始めましょう。「資本過剰」が慢性化し、デフレが長期化して、「成長戦略」が行き詰った原因として、高度成長時代と比べて潜在成長力の低下が指摘されています。いわゆる潜在成長力は、経済成長のための供給要因で、ひとつは生産に従事する「労働力の数」であり、もう一つは労働力の「労働生産性」です。生産年齢の労働力が豊富に存在し、かつ一人ひとりの労働力の生産性が高ければ、供給力が経済成長に結びつく。しかし、少子高齢化で生産年齢の労働力が減少し、技術革新も行き詰って労働生産性も上昇しなければ、供給力も発揮できないし、低成長にならざるを得ないでしょう。

 『資本論』の経済的運動法則では、資本の生産過程、さらに資本の蓄積・再生産過程において、以下のように説明されている。すなわち、マルクスは商品の価値形態を明らかにし、価値関係として貨幣、資本を流通形態として解明します。流通形態としての資本は、一般形式としてG-W-G'の商業活動の形式、それを補完する金融活動の形式としてG-----G'、さらに労働力の商品化を梃子にして、G-W--P--W'-G'の産業資本形式を明らかにしている。その上で、資本の価値増殖として、労働力の労働時間や労働の強度を強化しつつ可変資本の増大で雇用労働力を増加する絶対的剰余価値の生産を説明します。資本の生産過程による供給力の増加、つまり潜在成長力の強化は、資本の絶対的生産として解明さるのです。さらに、その制約を超える方法として、労働生産性の向上に基づく協業・分業・機械による労働力の組織的利用で相対的剰余価値の生産をすすめる。
 さらに資本の再生産過程では、資本の蓄積過程として潜在成長力の強化・拡大を図る。マルクスは、資本の蓄積過程として、2つの形式を説明します。一つは、蓄積のための投資の拡大が、いわゆる能力拡大型投資で、『資本論』では資本の有機的構成が不変の資本蓄積です。ここでは、同じ技術で投資が単に量的に拡大するので、労働力の雇用が拡大する。過剰労働力が雇用され、労働市場では賃金も上昇する。それに対し、もう一つの資本蓄積は、資本の有機的構成が高度化するもので、ここでは技術水準が上昇する。いわゆる合理化投資であり、労働力に雇用を節約し省力型蓄積です。この蓄積により、資本は技術革新による労働生産性の向上、合理化による労働力の相対的縮小で、労働力不足が解消し、能力拡大型投資に転換できるのです。2つの資本蓄積の様式が交互に進み、相対的過剰人口の「吸引と反発」が繰り返される人口法則が展開されるのです。
 
 このように『資本論』では、マルクスは資本の生産過程、そして再生産・蓄積過程を通して、経済法則として潜在成長力を高めながら、自律的に経済成長を資本蓄積として進める。資本蓄積の経済法則が、文字通り法則的に技術革新による労働生産性の向上、それによる労働力の自己調達の実現が、マルクスのいわゆる人口法則です。人間が自然に働きかけて生産し、生産された消費財を消費して労働力を再生産する。その自然と人間との物質代謝の過程で、技術革新と生産性の向上が進み、経済成長が実現する「経済原則」が、資本主義の再生産・蓄積過程として、いいかえれば「経済法則」として実現するのです。「原則」の「法則」としての実現に他ならない。
 また、産業構造が歴史的に高度化し、金融資本の資本蓄積でも、すでに説明した通り、一方では金融資本は組織的独占などを利用して、資本過剰を温存する。独占利潤を内部的に留保しながら、金融的支配を進めます。同時に他方では、株式資本を利用して、大衆の資金を集中・集積し、不断に技術の革新を行い、生産性を向上しつつ投資が拡大する。こうした投資の拡大が、たんに国内だけでなく、むしろ対外的に投資を拡大する。日本資本主義も、戦後の冷戦構造を利用しつつ、輸出依存民間投資主導型の資本蓄積から、しだいに内部留保を高め、対外投資を拡大しました。対外投資も、間接的な金融的投資とともに、直接的な投資の拡大で、プラント輸出やインフラ投資とともに対外進出が進むのです。国際収支表の構造的変化が現れます。

 「失われた10年、さらに20年」長期・慢性的デフレが、「資本過剰」の堆積によって深刻化していますが、一面では金融資本の対外直接投資が進んでいるからです。すでに投資の主軸は、日本の国内ではなく、対外直接投資に向いている。安倍総理も、財界の代表を引き連れながら、中東やアフリカまでトップセールスのための外遊を続ける。テロ多発のリスクの大きい地帯だけに、集団的自衛権のために安保法制の強行採決も必要だった。金融資本も、史上最高の高収益を上げながら、それを内部留保して対外直接投資に向ける。その反面では、日本経済の国内投資は進まない。上記「資本過剰」は国内的には堆積したまま、投資とともに雇用の積極的拡大は進まず、非正規雇用の低賃金で消費の拡大も期待できない。
 こうした「資本過剰」を抱え込んだまま、すでに事実上財政と一体化した金融から、異次元緩和のゼロ金利マネーをバラ撒いても、景気も成長も上向くはずがない。ゼロ金利、マイナス金利は、いたずらに不動産投資の拡大で、資産格差を拡大する。さらに緩和マネーは、先進国病の少子高齢化とともに、福祉国家主義ともいえる「完全雇用」政策の持続によって、労働市場も市場経済である以上、慢性的な人手不足、人材難を深刻化するだけです。アベノミクスの三本の矢が、金融、財政から成長戦略の第三の矢に結びつかないのは、構造的な「資本過剰」を解決できないからです。ついに追い込まれた安部政権は、権力的に国家総動員体制ともいうべき「一億総活躍プラン」により、経済の岩盤に斧をふるい潜在成長力の活性化を図ろうというのです。
 
 すでに述べた通り資本主義経済は、資本の蓄積・再生産の過程を通して、「経済原則」の労働力人口の再生産による確保、また労働生産性向上に必要な技術革新を、「人口法則」として自立的に実現してきた。国家は、それを政策的にバックアップすればよかった。しかし、いまや日本資本主義の成長の行き詰まりが、「経済原則」の充足を不可能にしている。まさにアベノミクスの三本の矢の挫折でしょう。行き詰った国家権力は、一方で対外直接投資による「資本過剰」の解決のために、安保法制を準備し集団的自衛権の発動にむけた準備は完了した。他方、対外直接投資で空洞化の進む国内経済の体制の組織化が「一億総活躍プラン」ですが、その実現は権力的に進めるほかない。
 しかし、労働力の確保のために、様々な政策を準備するにしても、最後は「産めよ増やせよ国のため」とばかり、国策として結婚させ、産児を奨励する以外になくなる。技術革新も同様であり、武器輸出の拡大とともに、大学の国策的研究の推進を図ることにならざるを得ない。「経済原則」の権力的推進と実現ですが、こうした国家総動員体制がいかに危険であるかは、我々の戦争体験による教訓であると思います。

 
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# by morristokenji | 2016-09-22 20:56
 前号では、宇野『恐慌論』の「資本過剰」論、とくに「資本の絶対的過剰生産」の見地から、アベノミクスの成長戦略について、その破綻の経緯を整理してみました。90年代のバブル経済崩壊以後、資本過剰による「失われた10年、20年」の長期デフレ・停滞が続き、日銀のマイナス金利による「異次元緩和」も、すでに政策的限界を露呈してきた。戦時経済なみの借金財政を抱え込みながら、さらに「ヘリコプターマネー」を散布する「一億総活躍プラン」の総動員体制に突き進む以外になくなっている。同時に、集団的安保への「安保法制」の強行採決の背後には、不気味な「戦争への足音」も聞こえてくる。

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# by morristokenji | 2016-09-07 18:29