森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji
 「よもや来るまいと思っていた狼が、本当に来てしまった」、米大統領選でトランプ大統領誕生についての報道です。これから「やってくる大きなリスクについて」米国をはじめ、日本の既得権支配層(エスタブリッシュメント)達の恐怖に満ちた発言です。また、トランプ対クリントンの泥仕合で増幅してしまった米国内の亀裂で、特にシアトルなど産軍複合体制の強い都市では、クリントン派の抗議デモが発生している。
 しかし、早々とオバマ現大統領の申し出で、トランプとの会談が行われ、日本から安倍総理も「トランプ詣」に出かける。それどころか、開票と同時に進んだ日本の株式市場の過剰反応で一時的暴落はあったが、翌日のニューヨーク市場など大幅な株価上昇、円高=ドル安どころか、真逆の円安=ドル高。アベノミクスでは実現できない円安=ドル高・株高が、何のことはないトランプ・ショックが実現する皮肉な市場の反応でした。
 こんな「トランプ革命」「トランプ・ショック」を予想していたわけではありませんが、当「持論時論」第51回「再論:日本資本主義の終わりは始まったのか?」の冒頭で「お断り」したように、今回の米大統領選など、大きな動きを予想して、早めにアップして貰いました。そこで書いた内容を補足する意味で、今度の「トランプ・ショツク」について、それを戦後体制の転換として位置付けてみましょう。ソ連崩壊で戦後の冷戦体制が終焉しましたが、ここで大きくアメリカ一極のグローバル化が崩れ、再編の動きが進んできたように思います。決して予想外の出来事ではない、再編に向けての大きな転換期ではないか?

 確かに暴言と放言、人格攻撃とスキャンダルの暴露など、見るに堪えない、また聞くにも堪えない泥仕合の大統領選でした。勝敗は別にして、政策論争はそっち除けの選挙戦だけで、超大国アメリカの世界支配の終わりを、内外に強く印象付けてしまったのではないか。また、それだけアメリカ国内の格差や対立、分裂、そして亀裂の深さが大きい。合衆国、移民国家、分断社会、その内部亀裂を近代国家の体制的枠組みの内部で修復できるのか?そんな課題が提起されたように思います。
 しかし、そうした政策論争不在の凄惨な選挙戦の底流に、戦後体制の転換に伴う政治的苦悩の集約を見ることができるように思います。すでに指摘しましたが、戦後世界の冷戦体制は、米ソを頂点とした東西二つの世界の対立だった。東のソ連型社会主義vs西の資本主義、ソ連型社会主義はプロレタリア独裁、西の資本主義は「自由と民主主義」、それぞれの価値観で組織化され、統合されていた。しかも、二つの世界が第2次大戦の「熱戦」ではないが、原子力の核開発を軸に「冷戦」を繰り広げる。そんな冷戦体制の時代が、ほぼ半世紀の長期にわたって持続するという、まことに奇妙な時代が続いた。そんな奇妙な時代の中で、日本経済の高度成長が実現し、GNP大国の地位を獲得したことを見逃してはなりません。
 
 1991年、核開発競争に破れたソ連が崩壊し、ここで冷戦型の戦後体制は一先ずピリオドを打った。この時点では、まだ中国をはじめ、それまで「第三世界」と呼ばれていた発展途上の国や地域は、世界経済や国際関係に大きな影響力を持たなかった。そのためポスト冷戦は、アメリカ一極の超大国による覇権支配の体制となり、折からのICT革命によるブームもあり、アメリカ主導の世界秩序が形成されたのです。また、冷戦下の価値観だった「自由と民主主義」が、新たな世界支配の価値観となり、世界経済は「新自由主義」のもとで国際金融資本の「マネーワールド」を形成し、アメリカが「世界の警察官」「世界の保安官」として、世界戦略が推進されることになったのです。とくに米の共和党ブッシュ政権のもとで、トロツキスト崩れと言われる「ネオコン」グループによって、「グローバリズム」「グローバル資本主義」が唱道されることになった。
 今回の大統領選で、トランプ候補が口汚く暴言、放言した、その批判の根底にあるのは、他ならぬ「ネオコン」が唱道してきた「グローバリズム」批判です。日本では、わざわざトランプ当選に当てつけて強行採決したTPPですが、それにに対しては「大統領就任の日にでも撤退する」と豪語する。また、「世界の保安官にはならない」、そればかりか日本などの駐留米軍も撤退する、要するに「グローバリズム」に対するアメリカ内部からの告発であり、内部批判だと思います。「トランプ革命」は、ポスト冷戦後の「グローバリズム」からの転換であり,アメリカ一極覇権主義の終わりである。トランプの「もう一度偉大なアメリカを」の怒号は、ポスト冷戦の現実を無視して続いてきた覇権国家からの撤退宣言であり、アメリカ一国のモンロー主義への回帰宣言でしょう。その意味で、ポスト冷戦後の新たな国際関係への転換点を迎えたことになります。

 アメリカの一極覇権の「グローバリズム」からの脱却という点では、すでに述べましたが「ネオコン」の影響力の強かったブッシュ父子の共和党政権から、オバマの民主党政権への転換があった。ブッシュ政権ではイラク戦争の失敗など中東支配からの撤退を余儀なくされていたし、経済的には2008年のリーマンショックによる世界金融恐慌の打撃も大きかった。オバマの「変革<Change! Yes,we can>」の大統領就任宣言も、ネオコンなどの産軍複合体制からの脱却を目指していた。2013年9月の対シリア内戦への軍事不介入の際、「もはやアメリカが世界の警察官ではない」と宣言し、中東からの米軍の撤退をはじめ、広く世界を主導する立場を公然と否定し、「リバランス」政策に転換した。また、核廃絶を訴えてノーベル平和賞を貰った。しかし、この「リバランス」の中身が曖昧であり、中国の急速な台頭もあって、単なる世界支配の戦線縮小で「アジア太平洋地域」へのセットバックに止まってしまった。それだけ米を中心とした産軍複合体制の既得権力が強かったとも言えるでしょう。
 長期にわたる戦後体制の続く中で、産軍複合体制をバックに、広く既得権支配層(エスタブリッシュメント)が、政治も経済ばかりか、マスコミまでも支配している。オバマよりも、体制寄りのヒラリー・クリントン候補の立ち位置の曖昧さが、選挙戦においても目立ったわけです。さらにヨーロッパや日本もそうですが、米の民主vs共和の対立の構図も完全に崩れています。共和党の異端分子のトランプが、既存の枠組みを超えて、大統領の座を射止めたのです。対立軸は、もはや保守vs革新、そして共和vs民主では無くなっている。既得権支配層vs非権益・低中所得層の対立だし、その背後には移民国家らしく白人層vs移民層、しかも移民も黒人とヒスパニック系、アジア系に分かれ、女性層の投票も白人と移民との差が目立ったようです。EUとは違った形ではあるが、移民国家の亀裂が大きく浮かび上がっている。さらに地域的対立も大きく、大都市と中小都市・農村との対立が、特に北東ー中西部の白人労働者と大都市移民との分裂となって現れているようです。

 ポスト冷戦により、米一極支配の構造が続きましたが、「グローバル資本主義」の破綻は、単に所得や資産の大幅な格差を産んだだけではない。一握りの巨額な富裕層と99%の貧困層の格差といった対立図式には収まり切らない亀裂が走っている。巨大な移民国家の中の白人と移民の対立であり、さらに金融国際都市に流れ込んだ移民と白人産業労働者や農民層の対立です。こうした複雑な活断層を抱え込みながら、トランプのアメリカは巨大な覇権国家から、北米の「一つの大国」の座に降りる選択をした。戦後体制の国際関係は、東西対立の冷戦時代から、グローバリズムの過渡期を経て、新たな多極化へ移行することになる。そのための転換点が、今度の米大統領選であり、トランプ政権の誕生です。罵詈雑言、誹謗中傷の選挙戦の背後に進む、戦後体制の新たな国際関係の再編の意義を見逃すべきではないでしょう。
 ただ、新たな国際関係の行方については、暴言・放言が目立っただけに、トランプ政権の真意が測りかねています。しかし、依然として日米安保の体制にしがみ付こうとする日本、大量の移民・難民を抱え込み統合の維持に苦悩するEU、そしてEU離脱の英国、さらに中・露とともに、ソ連崩壊時点とは大きく変貌した新興諸国の動向です。とくに米に次ぐ世界第2のGDP大国の中国の動向でしょう。嫌中・反中イデオロギーで盲目になった日本を尻目に、ASEANなど東アジア各国は、中国とともに多極化の担い手を進めようとしている。米国の植民地だったフィリピン大統領の発言にみられる通りです。米中関係を中心に、多極化する新たな国際関係の秩序形成に成功するかどうか?日本資本主義の終わりのシナリオも、新たなページを準備しなければならないでしょう。 
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# by morristokenji | 2016-11-11 12:49
 すっかり影の薄くなってしまったアベノミクスですが、何とか衣替えで出直しをはかる以外に手が無くなったのでしょうか?新アベノミクスか?改定版アベノミクスか?国家総動員体制ともいえる「一億総活躍社会」を打ち出そうとしています。「成長戦略」のための金融政策や財政政策の矢を放ってみたものの、矢はどこに飛んで行ったものやら?年率2%目標のインフレ物価上昇は、このところ物価下落が続き、とてもデフレマインドを変えることは出来ない。経済成長のシグナルGDP成長率もゼロ成長をふら付いていて慢性不況がすっかり定着してしまった。成長政策にせよ、景気対策にせよ、従来の経済政策の次元では、もはや政策の手は打ちようが無くなってしまった。そこで苦肉の策として提起されたのが、GDP600兆円を目指す「一億総活躍社会」なのでしょう。

 アベノミクスの金融や財政の政策が、デフレ脱却のための成長戦略に結びつかない、そのため資本の絶対的過剰生産が解消しないまま、ゼロ成長の慢性的デフレが続いている。その理由に、日本経済の「潜在成長力」が低下して、金融や財政のマネタリーな面から、いくらバラ撒きを続けても経済成長に結びつかない。したがって、潜在成長力を向上するような「構造改革」、それも財政や金融のレベルを超えた日本経済の岩盤に届くような構造政策の必要性が叫ばれています。GDP600兆円の「一億総活躍社会」も、そのスローガンです。
 問題の「潜在成長力」は、いわゆる供給能力であり、それが低下すれば、いくらマネタリーな面からカネをバラ撒き、有効需要を拡大しても、経済成長にはつながらない。もともと潜在成長力は、生産活動に利用可能な労働力、つまり生産年齢人口、および労働力の発揮できる労働生産性によって決定される。生産年齢の労働力が沢山あり、その労働力の生産性が高ければ、自ずから「潜在成長力」が高くなる。逆は逆で、少子高齢化により生産年齢人口が減少し、技術革新が進まなくなれば、当然に潜在成長力が低下する。そこでGDP600兆円の金額を目標にぶら下げ、何とか生産年齢人口の労働力を増やす。また、停滞した技術革新を刺激するために「一億総活躍社会」のスローガンを振りかざして、国民を総動員しようと言うのでしょう。

 もともと「潜在成長力」は、生産労働力の数とその生産性ですから、どんな社会にも指摘できる超歴史的な供給力であり、「経済原則」です。労働・生産過程、そして社会的再生産過程を構成する要因で、それが経済成長を左右します。マルクス『資本論』では、すでに紹介しましたが、まず労働・生産過程を資本が支配する「剰余価値の生産」として、①労働時間や労働の強度による絶対的剰余価値の生産、つぎに②労働の生産性を高める相対的剰余価値の生産を説明しています。そのうえで社会的再生産の拡大である経済成長を、「資本蓄積の一般的法則」として説明します。とくに、経済原則の潜在成長力の発展を「資本主義経済の人口法則」として解明しました。経済原則の資本主義的経済法則としての解明であり、マルクスの人口論に他なりません。
 人口論と言えば、有名なマルサスの人口論があります。人口と食料の関係から、人口が幾何級数的に増加するのに、食料資源は土地の制約から算術級数的にしか増加しない。だから人口過剰が必然化するので、「過少消費説」を主張した。マルサスに対してマルクスは、資本と労働力の関係から相対的過剰人口を説明しました。ここでもう一度簡単に解説すると、マルクスは生産の拡大も資本の蓄積として進む。資本蓄積には、①資本の有機的構成不変の能力拡大型投資と、②資本の有機的構成高度化の生産性向上、省力型投資の2つのパターがあり、①のパターンで能力拡大型投資で資本蓄積が進むと、労働力不足と賃金上昇が必然化する。ここで利潤率も低下し、資本過剰が進み②の技術革新、生産性向上による省力型投資に転換し、「潜在成長力」を改善向上させて資本蓄積を進める。マルクスの資本蓄積論を整理すれば、こんな説明になります。

 マルクスの資本蓄積論では、①の能力拡大型投資を②の省力型投資に転換させ、経済原則の「潜在成長力」の改善を資本主義の経済法則として実現する。そこでは①の能力拡大型投資による労働力の雇用拡大で人口を吸収、②の省力型投資で労働生産性を向上し相対的過剰人口を形成して人口を反発、この資本蓄積による「吸収と反発」を、マルクスの人口法則としたわけです。19世紀のイギリス中心の資本主義の発展には、こうした人口問題の自己解決力があった。しかし、20世紀を迎えて、歴史的にも自己解決力が衰弱し、国家の政策的なバックアップが必要になる。
 この点もすでに説明しましたが、重化学工業による高度工業化は、資本の蓄積様式にも歴史的変化をもたらしました。金融資本による蓄積です。金融資本は、一方で独占や寡占を利用し、資本の組織化を図る。そして、資本過剰についても、それを温存して内部留保などを高め、さらに資本過剰を対外投資に向ける。金融資本の過剰資本による対外侵略であり、植民地支配です。とくに植民地支配は、日本のアジア進出でも明らかな通り、多大なカントリーリスクを伴うものの、安価な労働力を利用し、さらに株式資本の利用で、高度なプラント輸出やインフラ投資とともに技術革新を進めることもできる。金融資本の蓄積は、一方の資本過剰の温存とともに、同時に他方では技術革新による労働生産性の向上と省力化を図ることが可能です。この二つの側面が、どのように組み合わされるかは、言うまでもなく歴史的条件や植民地支配など国際関係の変化により変わってくる。
 
 さらにもう一点、言うまでもなく金融資本の植民地支配は、先進国の勢力圏をめぐる国際対立を激化し、それが二度の世界大戦につながった。戦後の局地戦争や部分戦争ならともかく、世界戦争ともなれば、国家間の総力戦であり、そのためには金融資本の組織化にとどまらず、広く国民全体の組織的統合が必要不可欠です。その組織化には、完全雇用を基軸とした、労働力の全面的雇用の拡大や、労働条件の改善や所得補償など、いわば「福祉国家主義」とも言える社会福祉の拡大が必要だった。第一次大戦後、大戦間に所得や資産の格差が急速に縮小し、そうした傾向が戦後の冷戦体制の時期まで持続し、ポスト冷戦の90年代以降に資産格差が再拡大している。そうした歴史的変化を、T・ピケティの『21世紀の資本論』が鋭く指摘しました。このような金融資本の蓄積と「福祉国家主義」の組織化が、今や10%の富裕層による99%の富の支配と格差社会の拡大、そして今日の「潜在成長力」の劣化と人口問題をもたらしているのではないか?
 金融資本の組織化により、対外投資が積極化する。とくに対外直接投資の拡大のためには、国内への投資を抑制し内部留保を高める。結果的に対内投資が消極化し、資本過剰が温存される。そのため国内経済の空洞化が進み、とくに地域的な格差の拡大が進む。こうした国内の過剰資本の温存は、一方で不況を長期化しつつ、同時に合理化投資による省力化も進まない。相対的過剰人口が形成できないまま、「福祉国家主義」の完全雇用による過剰雇用を抱え込んだまま、同時に人手不足による人材難も進行することになる。いわば「資本過剰」と「過剰雇用」の共存と同時に、国際関係の緊張による国家的統合の強化に乗り出そうとせざるを得ない。ここにアベノミクスが破綻した末に、「一億総活躍社会」のスローガンが必要になったものと思われます。
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# by morristokenji | 2016-10-03 18:04
 黒田・日銀による金融の異次元緩和も、いよいよ正念場を迎えたようです。異例なマイナス金利まで突き進んだものの、年率2%の物価上昇によるデフレからの脱却は、一向に進まない。それどころか、最近は物価の下落が続いている。この間の超緩和路線の「総点検」による結論は、「量から金利へ」の転換だそうですが、依然として短期金利のマイナスは続ける。さらに中央銀行の政策としては例がない長期金利に手を付ける。しかし、これもゼロ金利を維持するだけの話で、国債を買わせても利子もつけない。何のことはない、もはや金融政策としては手の打ちようも無くなったことを自認した総点検でした。
 金融政策がダメなら財政政策ですが、そもそも日銀の異次元緩和路線が、年間80兆円もの国債の買い入れを伴っていた。それがまた日銀の市中銀行から当座預金の「ブタ積み」を助長し、マイナス金利導入を招いた。これ以上赤字国債の発行はムリ、さらに予定されていた消費増税も、選挙対策上断念した。そうなると「税と社会福祉の一体改革」の公約はどうなるのか?財政再建をどうするのか?頼みの日銀からは、副総裁の談話で、企業のイノベーションによる生産性の向上、少子化対策による労働力の量的確保など、潜在成長力の向上・改善による自然利子率の回復を期待する「ボール」が投げ返されてくる。いよいよアベノミックスの政策的破綻が曝け出されています。

 こうしたアベノミクスの破綻も、もともと日本の金融資本の「資本過剰」が、もはや資本自身では自律的に解決できない。資本過剰が慢性化し、構造化したことから生まれたものです。すでに金融や財政も限界を迎えて、潜在成長力の「岩盤」に斧を振るうところまで来てしまった。「一億国民総活躍」の総動員体制の下、女性や高齢者の雇用拡大,保育所など産児拡大の政策措置、難民を含む外国人労働力の利用も、すべて権力的に推進する。消費拡大のための官製春闘を利用した賃上げ、「同一労働・同一賃金」の推進とともに、同時に金融資本の対外直接投資のリスク回避のために、「集団的自衛権」強化による安保法制の強行突破だったことを見逃してはなりません。
 では、日銀からも提起された「潜在成長力」とは何か?それが日本経済の「岩盤」と呼ばれるのはなぜか?その辺から話を始めましょう。「資本過剰」が慢性化し、デフレが長期化して、「成長戦略」が行き詰った原因として、高度成長時代と比べて潜在成長力の低下が指摘されています。いわゆる潜在成長力は、経済成長のための供給要因で、ひとつは生産に従事する「労働力の数」であり、もう一つは労働力の「労働生産性」です。生産年齢の労働力が豊富に存在し、かつ一人ひとりの労働力の生産性が高ければ、供給力が経済成長に結びつく。しかし、少子高齢化で生産年齢の労働力が減少し、技術革新も行き詰って労働生産性も上昇しなければ、供給力も発揮できないし、低成長にならざるを得ないでしょう。

 『資本論』の経済的運動法則では、資本の生産過程、さらに資本の蓄積・再生産過程において、以下のように説明されている。すなわち、マルクスは商品の価値形態を明らかにし、価値関係として貨幣、資本を流通形態として解明します。流通形態としての資本は、一般形式としてG-W-G'の商業活動の形式、それを補完する金融活動の形式としてG-----G'、さらに労働力の商品化を梃子にして、G-W--P--W'-G'の産業資本形式を明らかにしている。その上で、資本の価値増殖として、労働力の労働時間や労働の強度を強化しつつ可変資本の増大で雇用労働力を増加する絶対的剰余価値の生産を説明します。資本の生産過程による供給力の増加、つまり潜在成長力の強化は、資本の絶対的生産として解明さるのです。さらに、その制約を超える方法として、労働生産性の向上に基づく協業・分業・機械による労働力の組織的利用で相対的剰余価値の生産をすすめる。
 さらに資本の再生産過程では、資本の蓄積過程として潜在成長力の強化・拡大を図る。マルクスは、資本の蓄積過程として、2つの形式を説明します。一つは、蓄積のための投資の拡大が、いわゆる能力拡大型投資で、『資本論』では資本の有機的構成が不変の資本蓄積です。ここでは、同じ技術で投資が単に量的に拡大するので、労働力の雇用が拡大する。過剰労働力が雇用され、労働市場では賃金も上昇する。それに対し、もう一つの資本蓄積は、資本の有機的構成が高度化するもので、ここでは技術水準が上昇する。いわゆる合理化投資であり、労働力に雇用を節約し省力型蓄積です。この蓄積により、資本は技術革新による労働生産性の向上、合理化による労働力の相対的縮小で、労働力不足が解消し、能力拡大型投資に転換できるのです。2つの資本蓄積の様式が交互に進み、相対的過剰人口の「吸引と反発」が繰り返される人口法則が展開されるのです。
 
 このように『資本論』では、マルクスは資本の生産過程、そして再生産・蓄積過程を通して、経済法則として潜在成長力を高めながら、自律的に経済成長を資本蓄積として進める。資本蓄積の経済法則が、文字通り法則的に技術革新による労働生産性の向上、それによる労働力の自己調達の実現が、マルクスのいわゆる人口法則です。人間が自然に働きかけて生産し、生産された消費財を消費して労働力を再生産する。その自然と人間との物質代謝の過程で、技術革新と生産性の向上が進み、経済成長が実現する「経済原則」が、資本主義の再生産・蓄積過程として、いいかえれば「経済法則」として実現するのです。「原則」の「法則」としての実現に他ならない。
 また、産業構造が歴史的に高度化し、金融資本の資本蓄積でも、すでに説明した通り、一方では金融資本は組織的独占などを利用して、資本過剰を温存する。独占利潤を内部的に留保しながら、金融的支配を進めます。同時に他方では、株式資本を利用して、大衆の資金を集中・集積し、不断に技術の革新を行い、生産性を向上しつつ投資が拡大する。こうした投資の拡大が、たんに国内だけでなく、むしろ対外的に投資を拡大する。日本資本主義も、戦後の冷戦構造を利用しつつ、輸出依存民間投資主導型の資本蓄積から、しだいに内部留保を高め、対外投資を拡大しました。対外投資も、間接的な金融的投資とともに、直接的な投資の拡大で、プラント輸出やインフラ投資とともに対外進出が進むのです。国際収支表の構造的変化が現れます。

 「失われた10年、さらに20年」長期・慢性的デフレが、「資本過剰」の堆積によって深刻化していますが、一面では金融資本の対外直接投資が進んでいるからです。すでに投資の主軸は、日本の国内ではなく、対外直接投資に向いている。安倍総理も、財界の代表を引き連れながら、中東やアフリカまでトップセールスのための外遊を続ける。テロ多発のリスクの大きい地帯だけに、集団的自衛権のために安保法制の強行採決も必要だった。金融資本も、史上最高の高収益を上げながら、それを内部留保して対外直接投資に向ける。その反面では、日本経済の国内投資は進まない。上記「資本過剰」は国内的には堆積したまま、投資とともに雇用の積極的拡大は進まず、非正規雇用の低賃金で消費の拡大も期待できない。
 こうした「資本過剰」を抱え込んだまま、すでに事実上財政と一体化した金融から、異次元緩和のゼロ金利マネーをバラ撒いても、景気も成長も上向くはずがない。ゼロ金利、マイナス金利は、いたずらに不動産投資の拡大で、資産格差を拡大する。さらに緩和マネーは、先進国病の少子高齢化とともに、福祉国家主義ともいえる「完全雇用」政策の持続によって、労働市場も市場経済である以上、慢性的な人手不足、人材難を深刻化するだけです。アベノミクスの三本の矢が、金融、財政から成長戦略の第三の矢に結びつかないのは、構造的な「資本過剰」を解決できないからです。ついに追い込まれた安部政権は、権力的に国家総動員体制ともいうべき「一億総活躍プラン」により、経済の岩盤に斧をふるい潜在成長力の活性化を図ろうというのです。
 
 すでに述べた通り資本主義経済は、資本の蓄積・再生産の過程を通して、「経済原則」の労働力人口の再生産による確保、また労働生産性向上に必要な技術革新を、「人口法則」として自立的に実現してきた。国家は、それを政策的にバックアップすればよかった。しかし、いまや日本資本主義の成長の行き詰まりが、「経済原則」の充足を不可能にしている。まさにアベノミクスの三本の矢の挫折でしょう。行き詰った国家権力は、一方で対外直接投資による「資本過剰」の解決のために、安保法制を準備し集団的自衛権の発動にむけた準備は完了した。他方、対外直接投資で空洞化の進む国内経済の体制の組織化が「一億総活躍プラン」ですが、その実現は権力的に進めるほかない。
 しかし、労働力の確保のために、様々な政策を準備するにしても、最後は「産めよ増やせよ国のため」とばかり、国策として結婚させ、産児を奨励する以外になくなる。技術革新も同様であり、武器輸出の拡大とともに、大学の国策的研究の推進を図ることにならざるを得ない。「経済原則」の権力的推進と実現ですが、こうした国家総動員体制がいかに危険であるかは、我々の戦争体験による教訓であると思います。

 
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# by morristokenji | 2016-09-22 20:56
 前号では、宇野『恐慌論』の「資本過剰」論、とくに「資本の絶対的過剰生産」の見地から、アベノミクスの成長戦略について、その破綻の経緯を整理してみました。90年代のバブル経済崩壊以後、資本過剰による「失われた10年、20年」の長期デフレ・停滞が続き、日銀のマイナス金利による「異次元緩和」も、すでに政策的限界を露呈してきた。戦時経済なみの借金財政を抱え込みながら、さらに「ヘリコプターマネー」を散布する「一億総活躍プラン」の総動員体制に突き進む以外になくなっている。同時に、集団的安保への「安保法制」の強行採決の背後には、不気味な「戦争への足音」も聞こえてくる。

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# by morristokenji | 2016-09-07 18:29
 アベノミクスの第一の矢、第二の矢が「成長戦略」の第三の矢に繋がらない。第三の矢は行方が知れず、もともと無かった?そんな批判もあります。金融や財政のマネタリーな面が、投資や消費の有効需要に結びつかない、そして実体経済の成長に結びつかず、デフレ脱却の道を足踏みし続けている。挙句の果てに、ついに「一億総活躍プラン」なる国家総動員体制に向けて「ヘリコプター・マネー」をばら撒く、金融の異次元緩和から「ばら撒き財政」へ舵を切っているようです。背後の舞台裏からは、集団的自衛権の「安保法制」による戦争への足音も聞こえてきます。

 『資本論』の貨幣の章では、生産と消費を繋ぐ流通、そこでの貨幣の機能を説明しました。資本主義経済は、商品と貨幣のモノとモノの価値関係が、価値形態を通して貨幣の機能、そして商品流通が生産と消費の「経済循環」を媒介する。言い換えると、商品・貨幣が「資本」に形態転化して、生産と消費による人間と自然の物質代謝を媒介するのです。この生産と消費の繋ぎ目である「資本」を説くために、マルクスは敢えて『資本』論のタイトルで『経済学批判』ではなく、別個に『資本論』を書いたのです。『資本論』の誕生に他なりません。
 しかし、マルクスが新たに『資本論』を出版したのを見て、マルクスの母親は「『資本論』など書いていないで、資本で儲けることでも考えたらいいのに」と、嫁であるマルクス夫人に手紙を書き、息子の貧乏生活を詫びたそうです。母親からの痛烈な皮肉ですが、この商品、貨幣から「資本」への転化こそ、『資本論』の真髄とも言える解明です。資本よって、その再生産によって、生産と消費の経済循環による社会的物質代謝が行われ、経済の原則が充たされ資本主義経済が近代社会として成立する。その経済的運動法則にはどんな矛盾が潜んでいるのか?アベノミクスのアキレス腱を探りましょう。

 『資本論」では、貨幣の章を『世界貨幣」で締めくくったからでしょうが、「貨幣の資本への転化」の説明に当たって、マルクスはまず、歴史的に16世紀に遡り、世界商業と世界市場による「資本の近代的生活史」を提示します。そして、そこでの貨幣財産を「資本の最初の現象形態」として、前期的な「商人資本と高利資本」を持ち出し、商品流通のW-G-Wに対し、G-W-Gの形式を対置し、「資本の一般的形式」としています。そして、G-W-Gの形式では、W-G-Wと違って、GのG'への価値増殖の運動体G-W-G'でなければならず、循環的運動を繰り返す「無限の価値増殖」を求める。資本の致富衝動に他なりません。ここから資本は「蓄積せよ!蓄積せよ!」の成長神話も生まれます。
 しかし、このように歴史的な商人資本や前期的な金貸高利資本を持ち出すと、『資本論』において、マルクスが折角、近代社会の経済的運動法則として「純粋な資本主義」を抽象した方法を否定することにならないか?そして、いわゆる「世界資本主義論」の方法、つまり世界市場の歴史的な拡大・発展への経済的運動法則の解消になってしまい、『経済学批判』以前の唯物史観の「歴史と論理の統一」のドグマに回帰することにならないか?その結果として、「資本の一般的形式」から産業資本を論理的に説明できなくなる。ここでは、前期的商人資本や金貸し本を持ち出すことなく、純粋資本主義から抽象された商品と貨幣、そして「貨幣としての貨幣」の機能から、論理的に「資本の一般的形式」を展開してみたいと思います。

 『資本論』では、冒頭の商品論から労働生産物を富として、等労働量交換を等価交換として、労働価値説を論証していました。そして、社会的労働を「内在的価値尺度」として、商品の価値が尺度され、貨幣の価値尺度も等価交換の実現だった。しかし、価値形態論を前提にして、価値の価格としての表現は一方的表現だし、、価格は価値を質的にも、量的にも、乖離せざるを得ない。貨幣の価値尺度は、貨幣の購買による「外在的尺度」でしかないし、それゆえに商品は、貨幣により繰り返し購買されるなかで、価格の基準も形成されるし、いわゆる一物一価の法則として実現されるのです。さらに、貨幣による商品の購買機能は、流通手段の機能、貨幣としての貨幣の機能、さらに資本の運動として、より具体化するのです。
 ところが労働価値説が前提され、そして等労働交換の「内在的価値尺度」の貨幣の機能が前提されてしまえば、価格の価値からの乖離は必然化しなくなる。等価交換のドグマは、G-W-G'の成立を否定排除し、G-W-Gの形式しか導くことが出来ない。そこで「世界貨幣」まで展開してきた『資本論』では、上記のように16世紀の世界市場まで歴史的に遡り、地中海やヨーロッパの地域市場、中東やアジアなどの複数の地域市場を持ち出して、そこで市場圏ごとに価格基準など価格体系が異なるのを前提する。そして、市場圏が拡大する過程で、G-W-G'が成立するとしたのです。地中海市場のカルタゴでWを安く買って、ヨーロッパ市場のロンドンで高く売る。それでGをG'にして、価値の増殖を図る「資本の一般形式」としたのです。このG-W-G'と等労働交換としての等価交換とは矛盾する。その矛盾を説く形で「貨幣から資本への転化」をマルクスは説明しました。
 
 『資本論』では、「資本の一般形式」の矛盾として、等労働交換と「一般形式」の矛盾を説明しています。しかし、それは内的な矛盾でも何でもない。等価交換を前提し、例えばWを80円で買い、それを100円で売れば、20円儲かる。しかし80円で売った方は20円の損、「一方の剰余価値として現れるものは、他方では不足価値」にすぎず、これでは等価交換と不等価交換の両者の違いを説明しているだけではないか?ところが、価値形態を前提に、価格の実現としての貨幣の価値尺度機能は、価格の価値からの量的乖離を必然としていた。つまり、Wの価格差が前提されている。その価格差を利用する形で、Wの安い場所と時期に購買G-Wし、高い場所と時期に販売W-G'すれば、「資本の一般形式」は成立する。『資本論』では、前期的な金貸し資本の役割は、ほとんど説明が出てきませんが、「貨幣としての貨幣」の支払い手段の機能は、債権・債務の貸付・返済の関係から、「資本の資本」としての資本の金融的機能が、G-W-G'の商業的機能を積極的に媒介します。
 しかも、金融的機能に媒介され、商業的な商品の購買が積極的に繰り返され、価格差の解消に拍車がかかる。したがって、「一物一価」として価格の基準が形成されるのは、貨幣の諸機能とともに、それと結びついた商業や金融の資本の価格差利用に含まれた貨幣機能によるのです。さらに、ここで資本がWを安く購買し、それを高く販売する行為は、安く需要し、高く供給する行為に他ならない。一方で、安い商品Wへの需要は活発化し、価格を高める。同時に、高い価格でのWの供給は、供給の増加・拡大とともに価格を低下させる。結果的に、価格差の解消であり、それこそ「資本の一般形式」の内的矛盾の展開に他ならないでしょう。資本の価値増殖は、「流通部面で行われなければならないし、流通部面で行われてはならない。」そこでマルクスは「ここがロドスだ、飛んでみろ!」として、「労働力の売買」に進むのです。

 労働力は、人間と自然の物質代謝にとって、基本的な生産要素です。生産の主体であり、生産対象の土地自然とともに、近代社会の資本主義経済では、労働力と土地が商品の形態をとり、すべての富が商品として、形態規定を与えられているのです。単なる労働の生産物ではない労働力が、土地・自然とともに商品となり、価値形態を与えられ労働市場や不動産市場に登場している。それが『資本論』の対象となっている近代社会の資本主義経済です。土地と労働力が商品となり、資本による富の生産と消費が全面化し、自律的に運動する純粋資本主義の世界、それが『資本論』の世界です。マルクスは、労働力の商品化について、労働者が①身分的な自由、②土地を含む生産手段から切り離された自由、「二重の自由」が与えられる歴史的条件を挙げています。この条件は、労働力が商品化されるために必要な「助産婦」としての国家の役割、いわゆる「資本の原始的蓄積」が歴史的には必要だった。
 しかし『資本論』は、イデオロギー的仮設に過ぎない唯物史観として、ここで「原蓄国家」の役割を説く方法をとらなかった。マルクスは、『経済学批判』を『資本論』に書き換える中で、プランを変更して「原蓄国家」の助産婦的役割を、資本蓄積論の「付論」として、第一巻の最後の第二四章に置いたのです。ですから「貨幣の資本への転化」の章では、歴史的に「原蓄国家」を持ち出すことなく、資本が労働市場で労働力を商品として購入=雇用して、いかに流通面から生産面への「命がけの飛躍」を説くのです。では、労働市場から労働力を商品として購入した資本は、いかにして生産を支配し、価値増殖を進めるのか?マルクスは、ここで労働力商品の特殊性について述べています。

 労働力商品は、人間の労働能力であり、単なるモノではない。そこに労働力の特殊性があるのですが、しかし例えばポラン二ーのように「擬制的商品」であるとか、「本来商品たるものではない」(宇野『資本論入門』)というのは適切ではないと思う。むしろ、労働力が商品化している点にこそ、資本主義経済の価値関係の根本が指摘できるし、価値形態の根拠もあるのではないか?労働力商品の特殊性は、人間の主体的能力が商品形態のために疎外され、物化して資本に運動の主体が奪われる点にある。しかし、資本は購入した労働力商品を、他の生産要素、例えば原料や機械のように不用なら商品として他に転売できない。奴隷とは異なり、資本は労働力を自ら管理して使うほかない。つまり労働力の使用価値を消費するほかない。消費する点では、価値関係が切断されることになるが、労働者にとっては労働することで、人間労働は必要労働だけでなく、剰余労働も可能であり、資本は剰余労働を剰余価値として、資本の価値増殖に利用するのです。
 『資本論』では、労働力の特殊性を、もっぱら等価交換を前提し、剰余労働の搾取と資本の価値増殖の根拠にしています。労働力の使用価値が、生産過程の労働であり、剰余労働が剰余価値として阿智増殖をもたらす点は重要です。しかし、ここでも等価交換の前提が強調されると、労働力が①人間の主体的な能力である点、②モノや家畜同様に処理される奴隷との差異、③他に転売できず生産過程で労働させる以外にない、こういった労働力商品の特殊性が看過されることになる。その結果、労働力商品の特殊性から生起する資本の再生産過程での矛盾、とくに資本過剰による恐慌の必然性の解明への道が曖昧になる点などを指摘しておきましょう。労働力商品の特殊性の科学的解明こそ、単位剰余労働の搾取だけでなく、人間の物化による疎外論の基礎として、資本主義経済の基本矛盾であることが重要です。
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# by morristokenji | 2016-07-18 12:06