森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji
 年明けの日本経済は、予想通りというか、予想を遥かに上回る大荒れでした。とくに日銀のマイナス金利導入は、アメリカ連銀の利上げとセットのドル高=円安の誘導とは真逆のドル安=円高、また株高どころか大幅な株安、特に金融株の暴落を招きました。金融破綻による金融恐慌の再来、そして日本資本主義の「終わりの始まり」の声が、またぞろ左のほうから聞こえてきます。

 今回の金融不安も、貨幣・金融恐慌に発展する可能性はあります。2008年のリーマンショックの再来を思わせる株式市場の暴落は、貨幣・金融恐慌の再来であり、約10年を周期とする恐慌を連想させます。しかし、19世紀の周期的恐慌は、初期マルクス・エンゲルスのイデオロギー的期待に反して、革命による資本主義の崩壊をもたらすどころか、むしろ貨幣・金融恐慌をバネにして、イギリスを中心に資本主義の成長力は強化・加速され、革命には結びつかなかった。初期マルクス・エンゲルスのいわゆる「恐慌・革命テーゼ」のドグマは放棄され、マルクス『資本論』を読んだウィリアム・モリスなども、バックスとの共著『社会主義』では、周期的恐慌を新たな成長のバネ、ステップとして論じていました。今回の金融不安が、世界的な貨幣・金融恐慌に発展しても、リーマンショックがそうであったように、日本資本主義の「終わりの始まり」には直結しないでしょう。

 しかし問題は、貨幣・金融恐慌が革命に結びつかないことより、むしろ日本資本主義の新たな成長のバネとして働かなくなっている点にあります。日本でも、いち早く上記「恐慌・革命テーゼ」を、独自の『資本論』研究を通して解脱していた、そして最近は佐藤 優氏などの手で復権している宇野弘蔵『恐慌論』を手がかりに、その点を説明してみましょう。

 宇野『恐慌論』は、経済学の方法論としては、原理論、段階論、現状分析の三段階論のうち、『資本論』を体系化した原理論の集約です。そこでは恐慌現象を貨幣・金融恐慌としていますが、それは資本主義の崩壊、革命には直結しない。体制変革としての革命は、段階論で解明される「戦争の必然性」、さらに現状分析の組織的な運動論を踏まえた現状分析を通して「革命の必然性」にアプローチする方法です。むしろ『恐慌論』では、恐慌に続く不況=デフレ現象の中で、つぎの成長=好況が準備されると見ています。そして恐慌は貨幣・金融恐慌として、利子率の上昇=利上げにより、低下していた企業の利潤率と衝突する現象です。その恐慌で弱小な企業は倒産し、さらに不況により資本の過剰が整理されます。この「資本過剰」の整理が重要で、企業は一方で不況で低下した過剰な資金の借り入れ、つまり「資金過剰」の利用と並んで、他方では生産性の上昇による合理化投資=省力化投資で利潤率の回復を図る。この過程で資本過剰が整理され、新たな成長が進みます。

 日本資本主義も、1990年代初頭のバブル経済崩壊のあと、デフレ=不況を脱却するために歴代政権が、手を変え品を変えて、繰り返し「成長戦略」を準備しました。中には構造改革にまで踏み込んだ成長戦略もありましたが、どれも成功しないまま、「失われた10年」さらに20年に及ぶ長期慢性不況の停滞・低成長に苦悩してきました。今度の安倍政権の「アベノミクス」もまた、どうやら成長戦略の失敗に終わりそうです。宇野『恐慌論』を下敷きにして、この成長戦略の失敗をみると、もはや資本過剰の解決ができないまま、貨幣・金融のマネタリーの次元だけで、異次元緩和を続けている、そして遂にマイナス金利という異常な次元にまで突き進んでしまった、そんな風に思われます。「資本過剰」が正しく捉えられていない、その辺に問題があるのではないか?

 バブル崩壊の後、政府の『経済白書』をはじめ多くの刊行物でも、超大型・長期のデフレ現象について、「三つの過剰」が提起されていました。バブルが崩壊し過剰な貸付が滞留してしまった「資金の過剰」、成長がバブル化して設備が過剰投資された「資本の過剰」、それにバブル崩壊で失業が大量化した「人口の過剰」の三つです。このうち「資金の過剰」は、デフレの長期化のなかで整理されたものの、08年のリーマンショックの世界金融恐慌により、新たな資金過剰の「異次元緩和」政策が進められ、ついに「マイナス金利」まで突き進んだ。こうした貨幣・金融のマネタリーな次元での過剰な資金供給も、世界金融恐慌の再発回避には役立った。しかし、一方でバブル経済の再発にもつながり、実体経済における「資本の過剰」の解決には繋がらない。さらに、新たな人口問題である「少子高齢化」による人材不足が深刻化しています。貨幣・金融面の「異次元緩和」が、なぜ実体経済面での「資本の過剰」や新たな人口問題である人材不足を引き起こしているのか?

 この設問に答えるために、宇野『恐慌論』を参考にしましょう。「資本の過剰」ですが、バブル崩壊により過剰に投資されていた設備の過剰が一挙に表面化した。白書などの「資本の過剰」は、設備としての過剰であり、それは間もなく整理され淘汰された。古典派経済学以来、資本は生産設備として、ストックとして理解されてきた、マルクスの『資本論』は、その資本概念を大きく変えました。資本は、製品や原材料の商品の形をとったり、貨幣の形をとる、もちろん生産設備の形もとる。だから設備を資本とすることが完全な誤りではないが一面的です。マルクス『資本論』の資本は、商品、貨幣、生産設備など、姿態変換する価値増殖の運動体です。この新たな資本概念を基軸として、近代社会の経済的運動法則としたのが『資本論』であり、宇野『恐慌論』です。それによれば、「資本の過剰」は単なる生産設備の過剰ではない。生産設備であれば、不況とはいえ生産で稼動していれば、時間経過と共に過剰は解消する。白書なども設備としての資本過剰の解消を主張していました。

 しかし、過剰設備が解消されたとしても、価値増殖の運動体としての「資本の過剰」は解決されない。『資本論』では第三巻の利潤論の箇所で、「資本の絶対的過剰生産」について論じていますが、そこでは投資しても価値が増殖できない、とくに追加投資が利潤ゼロまたはマイナスの状態を「資本の絶対的過剰生産」と呼んでいます。宇野『恐慌論』も、マルクスの資本過剰論の立場から、投資された資本の価値増殖が行き詰った状態が「資本の過剰」であり、その根本原因を労働力への可変資本の投資の限界に求めているのです。有名な「労働力商品の特殊性」ですが、資本主義経済では市場経済が拡大するけれども、とくに人間の労働力が商品化され、賃労働化する点に基本的特徴がある。モノではないヒトの労働力まで商品化されるが、肝心要の労働力を資本は直接には生産も再生産もできない。宇野『恐慌論』では、不況期に「資金の過剰」を利用し、生産性の上昇による合理化型=省力化投資により、相対的過剰人口を創出し、それを資本が労働力として雇用して、自ら「資本の過剰」を解決しなければならない。単なる過剰設備の解消ではない。資本と労働力の関係、資本・賃労働の関係を解決しなければならないと主張します。

 19世紀の資本主義は、約10年の規則的な景気循環で「資本の過剰」を解決し、貨幣・金融恐慌を梃子に不況期の合理化投資で労働力を確保して、自ら成長するバイタリティを持っていた。しかし、20世紀の重化学工業化で大量の化石燃料の利用を余儀なくされると共に、生産性向上による合理化投資を通じての労働力の創出、つまり「人材の確保」が困難になってきた。海外に石油など化石燃料を求め、安価な労働力の利用のために、資本の海外進出と植民地支配の時代を迎えたのです。植民地支配とそれに伴う世界戦争により、資本主義は権力的に「資本の過剰」を解決せざるをえなくなってしまった。ここに宇野理論の段階論の「戦争の必然性」が提起されます。「戦争の必然性」は、「資本の過剰」が19世紀の周期的景気循環、そこでの周期的恐慌で解決できなくなった結果です。その点では、現在も「資本の過剰」を金融恐慌では解決できず、戦争で解決したい財界などの要求は強まっていると思います。その点については、後でまた説明しましょう。

 アベノミクスをはじめ、成長戦略がうまく行かないのは、「資本の過剰」の解決が進まないからです。すでに化石燃料の大量消費など、人間と自然の持続可能性を危うくするような状況では、生産性を上昇させる合理化投資が困難になった。合理化投資で相対的過剰人口を創出し、労働力を雇用拡大する能力拡大型投資が進められない。生産性上昇の行き詰まりと労働力の構造的不足、つまり資本の「潜在的成長力の低下」が、「資本の過剰」の解決を困難にしている。それに加重して、現代福祉国家による完全雇用政策は、労働市場における労働力の不足を慢性化させ、それが「資本の過剰」の慢性化をもたらす。「人手不足」「人材確保」をスローガンに、労働力不足に対する「総動員体制」こそ、アベノミクスの「一億総活躍社会」の政策戦略です。

 資本の「潜在成長力」は、労働生産性の向上か、労働力の量的拡大により上昇する。しかし、今や資本主義にとって、画期的な生産性向上は期待できない。新たな産業革命と呼ばれたICT革命でも、商業や金融など、経済のソフト化・サービス化を助長するけれども、物的生産のレベルでの技術革新による労働生産性の向上は進まない。さらにまた、現代福祉国家は、福祉政策の中枢に置かれてきた完全雇用を推進する。完全雇用の実現は、資本と賃労働の労働市場では、市場メカニズムそのものにより労働力の慢性的な供給不足=人手不足をもたらす。同時にまた、生活水準の向上は、産児制限を踏まえた少子化、さらに高齢化を助長し、生産年齢の労働力の不足を構造化する。このように資本主義の「成長戦略」は、構造的な「資本の過剰」を慢性化し、持続可能な社会の発展と根本的な矛盾に陥る。この矛盾は、もはや貨幣金融恐慌で周期的に解決できるものではなく、出口のない慢性的なデフレ、構造的不況に苛まれ続けることになります。労働力商品化の矛盾は、「資本の過剰」の慢性化による成長戦略の破綻となって具体化されています。

 このような慢性化した「資本の過剰」が解決できぬまま、もっぱら財政と金融のマネタリーなレベルから「日銀マネー」の資金供給を拡大しているのが、「アベノミクス」をはじめとする異次元の緩和政策です。本来、金融政策は金利を活用して、低金利により資金を供給するのが常道です。しかし「資本の過剰」が硬直化,慢性化している以上、容易に資金は投資にも消費にも回らない。金利をゼロにしてもダメ、ゼロ金利でもダメなら、質から量へ「量的緩和」として、今までやったことのないモーレツな金融緩和に踏み切った。黒田日銀総裁の「異次元緩和」のバズーカ砲の発射です。日銀の発行する通貨の「べースマネーの供給量を倍にする」として世間を驚かせました。しかし、すでに貿易収支も赤字になっていましたから、円安が始まった。輸出企業の儲けが膨らんだものの、デフレからの脱却のメルクマールの2%の物価上昇は起こらず、国内の投資も消費も盛り上がらずに「資本の過剰」は解決しない。それどころか黒田緩和により、日銀は市中の銀行から国債を年間80兆円も買い上げることにした。銀行は日銀に手持ちの国債を買い上げてもらい、それを日銀の当座予期に積んでおけば、年0.1%の利子が付く。日銀が、この間ベースマネー212兆円も発行したのですが、市中に出回っている日銀券の増加分は11兆円しか増えていないのです。残りの201兆円はどこに消えたのか?

 日銀に開設している市中銀行の当座預金は、もともと銀行間の決済に利用されるが、黒田緩和で国債を買い上げてもらい、その資金を当座預金に積み上げておく、この「ブタ積み」に201兆円が利用されたのです。「ブタ積み」の理由は、慢性化した「資本の過剰」のため、市中銀行からの融資先がない。大企業は内部留保が厚いし、中小企業の財務は悪い。それなら0.1%の超低金利でも、当座預金に「ブタ積み」しておいたほうがよい。しかし、こんなことが長く続けられるはずはない。そこで今回、異次元緩和をさらに強化し、延長して、「ブタ積み」の当座預金の一部にマイナス金利という、保管料を召し上げることになったのです。しかし、その副作用は大きい。すでに市中銀行は、自己防衛で預金金利の引き下げや貸し出しの抑制、長期金利の低下で国債価格が暴騰し、不動産バブルなどが懸念されます。要するに実体経済面での「資本の過剰」が解決できないまま、投資も消費も進まない。そこで積み上げられる資金の過剰が、金融や財政を通して空転を続ける日本資本主義の末期的症状がますますひどくなって来ているのです。
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# by morristokenji | 2016-02-18 12:04
 予想通り、いや予想を超えた波乱と激動の新年を迎えています。昨年12月16日の米FRBの金利引き上げ(0.25~0.50%への引き上げ)は、「薄氷を踏む思いの世界金融の正常化」への期待でした。しかし、日本では円安・ドル高どころか円高・ドル安、そして株価上昇どころか、証券取引所が連日の株価暴落に見舞われました。もはや米ドル中心の世界金融の正常化は期待できない現実を曝け出したようです。
 株価暴落の原因は、中国経済の成長率低下、上海など株式市場の下落もありました。しかし、中国経済が高度成長から、ニューノーマル経済に減速することは、すでに経済戦略として提起されていたし、株価の下落も中国では限られた個人投資家の動揺でしょう。大きな原因は、原油価格の大幅な下落であり、戦後アメリカの「ドルとオイル支配」の終焉を意味していると思います。1960年代のエネルギー革命の時点では、1バーレル当たり1~2㌦だったことを考えると、原油価格の下落はまだまだ続くでしょう。

 政治的には、1月6日の北朝鮮の水爆実験があります。まさに寝耳に水のニュースで、本当に水爆の実験かどうか疑問もあるようです。早速、韓・米の軍事行動による制裁の動きもあり、一歩誤れば第三次世界大戦の引き金を引きかねない危機です。各国による北朝鮮への制裁強化では一致してはいますが、平和的解決となれば、中国が議長国の6カ国協議の再開が避けられない。ここでも米・中の話し合いが重要で、国連安保理の制裁決議が期待されています。ますます世界の動向が、米・中2大国の調整の努力に掛かっていることが、明らかになってきました。
 さらに続いて、TPP交渉でタフなネゴシエーターと評判の高かった甘利経済再生相のスキャンダルが急浮上、すでに辞任に追い込まれました。今回も「建設汚職」ですが、安倍政権のもとで「アベノミックス」の司令塔であり、TPPの立役者の辞任は、日銀のマイナス金利で破綻寸前まで追い詰められた局面だけに、TPPの国会での承認や関連法案の審議にも決定的な影響が予想されます。ここで、激動の波浪に船出のTPPを検討しましょう。すでに本欄では、第1回「TPPの危険な罠」で検討しましたが、その後の経過を踏まえて検討です。

 まずTPPの基本的性格ですが、単なる環太平洋地域の自由貿易圏ではありません。「ヒト、モノ、情報サービス、カネの移動の全面的自由化」であり、投資や労働環境、医療福祉など包括的な連携協定です。とくに注目しなければならないのは、05年のシンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの4ヶ国の小規模な協定から、2010年にアメリカが乗り出し、オーストラリアなどと共に、協定の拡大協議に参加しました。さらに、12年にはカナダ、メキシコも参加して、性格が大きく変化したのです。というのは、アメリカ、カナダ、メキシコの3ヶ国は、すでに北米自由貿易協定(NAFTA)を形成していましたから、この時点でTPPの性格は、アメリカと基軸通貨米ドルによる拡大NAFTAに変身を遂げたのです。同時にまた、中国に追い抜かれたもののGDP世界第3位の日本の参加も強く要請されることになった。米・加・日の3強による米ドル通貨ブロック圏の形成です。
 TPPについて、それを米ドル通貨ブロック圏と見る視点は、あまり強調されません。しかし、冷戦時代、西側の陣営の基軸通貨は米ドルだった。ポスト冷戦で、EUの地域統合が進み、米ドルのブロックに対抗する形で1999年、共通通貨ユーロが誕生し、EUはユーロのブロック圏です。ただ歴史的経緯で、英ポンドはまだ自立していますが、それは例外的です。
 そして、通貨ブロックから見れば、この間の中国は、明らかに独自の通貨ブロックに走り始めている。昨年来、アジア・インフラ投資銀行(AIIB)を主導、すでに参加国57ヶ国でスタートしている。これは「22世紀のシルクロード」ともよばれる「一帯一路」構想とセットになり、アジアとヨーロッパを結ぶ雄大なユーラシア圏構想ともいえます。この構想には、英、独、仏、伊、オーストラリア、イスラエル、韓国などが、ロシアと共に、こぞって参加した。「冷戦下の親米国家群は、アメリカより中国について行くのか!」といった大きな衝撃が走ったし、そのことがTPP大筋合意を促進したのです。これから中国は、元を中心に英ポンドやユーロと連携し、AIIB共通通貨を考えているし、だから国際通貨基金(IMF)に働きかけ、すでに中国・元の特別引き出し権(SDR)への参加を手に入れています。だとすればTPPに中国の参加を期待するのは無理だし、流れは大きく米ドル通貨ブロックのTPPと、元やユーロ、英ポンドなどのAIIB共通通貨ブロックの二つに分かれて対立する。そんな世界経済の対立の構図が浮かび上がりそうです。

 そこでTPPですが、「ヒト、モノ、サービス、カネ」の中、肝心要の基軸通貨ドル、それと円などの為替の関係がどう変化するのか?その点の大筋合意の中身はどうなのか?金融の変化がどうなるのか?交渉が密室で行われてきただけに、交渉の中身が解らない?密室に仕舞い込まれたままで、出てくる情報は輸出入、モノの動きだけです。わずかに昨年10月6日、大筋合意の直後のロイター通信が、「TPP参加国は為替政策の原則について協議することでも合意。米国の製造業者の間で日本が自国の自動車産業などに有利になるように円安に誘導しているとの懸念が出ていることを一部反映したものと見られる」と伝えただけです。他に見落としがあるかも知れませんが、新聞などには具体的な報道はありません。80年代プラザ合意で円安が円高へ、超円高が「異次元緩和」で逆転、円安の進む為替相場の変化が解らなければ、輸出入モノの動きや、さらにヒト、サービスの流れも、その影響もわからない、議論の仕様もありません。
 TPPが米・ドル通貨ブロックであり、「ヒト、モノ、サービス、カネの移動の完全自由化」であれば、その限りで日本もまた、カナダ、メキシコ、ニュージーランドなどと共に、いわば「TPPアメリカ連邦大国」に属する一つの「連邦」になる。そうなれば現在のアメリカの貿易赤字は、日本の黒字と相殺され、アメリカの対日債務も日本の対米債権と相殺される。「ジャパメリカ」「アメリッポン」が現実のものになります。とくにアメリカは、AIIB
共通通貨ブロックの連合軍と通貨戦争になった際、日本の対外債権(約250兆円の対外純資産)によって、巨大な米の対外債務(これまた約250兆円に上る)で相殺してもらい戦うのではないか?日本の対外純資産は、日本の高貯蓄、とくに投資と貯蓄のバランスから言えば、日本の東北地方の高貯蓄に支えられている面も少なくない。とすれば、その安易な利用は困ります。東北の地方の金融筋、信用金庫や信用組合を含めて、重大な関心を払うべきでしょう。
 さらに民間投資の少ない東北など地方では、中央・地方の公共投資への依存が大きい。その点ではTPPで、公共投資がどのような影響を受けるのか?言うまでもなく公共投資は、国や地方の個別の事情が関係します。例えば、海外建設投資が、安価な外国人建設労働力を引き連れて日本の地方の公共事業に参入する。その時、それをチェックできるのか否か、チェックしてもISDS(投資家と国・地方との紛争解決)条項により外国企業が国・地方を提訴するリスクが増加する懸念が大きいのです。医療福祉、労働環境や自然環境をめぐっては、ISDS条項による紛争の可能性が大きいだけに、大筋合意の中身が完全に開示され、充分な議論が不可欠でしょう。上記、ロイター通信も「今回の合意には、労働者の権利や環境保護をめぐる最低基準も盛り込まれている」と伝えていますが、その具体的内容は伝えられてこないのです。甘利辞任や不十分な国会審議により、曖昧なまま署名、承認が行われることは許されません。

 そこで問題の輸出入、モノに関してですが、とくに農産物の輸入については、大筋合意の内容が公表されています。主要な論点だけ取り上げますが、輸出入については、農畜水産物と工業品に大別され、それぞれ輸出、輸入について、個別商品に関して関税率の軽減が論じられたようです。とくに農畜水産品については、輸入関税には税率低減に歯止めをかけ、「守り」から輸出の拡大に利用して、「攻め」の農業へ脱皮を図るチャンスにしたいようです。しかし、そんなにうまい話かあるのか?大いに疑問です。
 
 先ず、農産物関連の輸入ですが、伝えられているようにコメなど農産5項目については、国会決議が完全に守られなかった事実は否定できないでしょう。コメは1キロ341円の高率関税が当面維持されるものの、現在も無税で年間77万トンのコメが「ミニマムアクセス」として輸入されているのに上乗せされ、36万トンの特別枠で米やオーストラリアから輸入されることになった。したがって、量的には輸入が増大し、一層の在庫増で米価にマイナスの影響が出るだろう。又、当面関税は撤廃されないが、「漸進的に撤廃されることで、例外はない」との話も出てきて合意内容が食い違っているようです。さらに詳細な点は別にしては、農林水産物の輸入については、2、328品目中1,885品目、つまり約81%が関税撤廃されることになった。ところが農水省の計算では、わずかに2100億円の生産額のマイナスに過ぎません。2013年当時には、関税全面撤廃による生産額のマイナスが3兆円と計算され、その上で農産5項目の国会決議がなされたはずですが、今回はマイナスが2100億円に縮小したのは何とも不思議な計算ではないか?
 このように「守り」は堅く、さらに輸出の「攻め」が強まる。そして、農業「新輸出大国」の夢は、現状6,100億円の農林水産物と食品の輸出額を、倍増に近い1兆円に拡大する政策大綱です。すでにTPP参加各国は、全体で98.5%に達する関税率撤廃に合意している。このチャンスを利用して、輸出強化を図る政策です。しかし、一部の特殊な農産品が短期的には輸出が進んでも、輸出大国が実現するとは思えません。政策内容も、「経営安定化」とか、「農地バンク」、高収益作物の導入、「畜産クラスター事業」などが羅列されているだけで、輸出大国の夢の実現には程遠いものでしょう。そもそも日本農業の切捨てと崩壊は、日本経済の高度成長や急激な円高による農林水産物の輸入増加などによるもので、輸出関税率が高いわけではなかったからです。言葉だけ「守り」から「攻め」の農業と叫んでも、空念仏に終わるだけではないか?
 むしろ輸出入としては、TPPにより輸入される肉やワインなどの価格が安くなり、家計に恩恵が出るかどうかです。例えば、牛肉は38.5%の関税が16年目に9%、ワインの関税も段階的に下がりゼロになる。「守り」は堅くなるどころか、むしろ武装解除で丸裸になる。しかも、原産地表示や食品添加物のルールが異なる農水産物が大量輸入され、食の安全が侵され、消費生活が犠牲になる心配があります。さらに心配なのは、輸入関税が下がり、海外からの輸入農産物が増加するなら、日本の企業は安い労働力を求めて海外生産に出て行く。そして海外で生産して、日本に逆輸入して大量販売する。「新輸出大国」どころの話ではない、農水産物の「輸入大国」の増強で日本農業は壊滅するし、地域経済は完全な空洞化です。逆に、アベノミクスの異次元緩和もあり、1ドル70円台まで進んでいた円高が、この間に円安に逆転して1ドル120円の円安=ドル高です。このまま円安が進めば、TPPで20%や30%の関税引き下げが実現しても、円安で輸入価格が上昇し、TPP効果は帳消しになります。消費者も、目先のTPP効果の宣伝に幻惑されて、地域を台無しにしてしまう愚かさには注意が必要です。

 工業製品については、すでに輸出入の比率が低下を続け、現地生産の流れが強まっています。関税の問題より、すでに取り上げた「投資」の問題であり、ISDS条項のリスクが大きいでしょう。ただ日米間では、自動車とその部品の輸出入に関連して交渉が難航したようです。結果的には、部品は品目数で87.4%、輸出額で81.3%の米国向け関税が即時撤廃、完成車は15年目から関税が下がり、20年目に半減、25年目にゼロになる。またオーストラリア、カナダ、ベトナムへの完成車の輸出も、即時ないし5~10年で関税は無くなります。工業製品に関しては、すでに輸出入の貿易のウエイトが下がり、海外立地の動きが盛んである以上、むしろTPPは日本企業の海外進出のために、国内の農業など地域産業の整理、淘汰を図るものとも言えます。
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# by morristokenji | 2016-01-31 16:03
 「行く年、来る年」、第三次世界大戦の足音さえ聞こえる不安を覚えての越年です。

 ソ連が崩壊し、東西世界の対立による冷戦体制は終わった。しかし、それに代わるポスト冷戦の世界秩序が定まらぬまま、世界の政治も経済も不安定が続き、さらにテロや戦闘が各地に拡大している。戦闘の拡大は、一歩間違えば第三次世界大戦にエスカレートしかねない、先行きが全く不透明な時代を迎えています。

 冷戦体制の終結により、当初は超大国アメリカの一強支配の体制による世界秩序の形成が予想されました。事実、サッチャー・レーガンなど、80年代からの新保守主義の潮流が高まり、つづいて米ブッシュ政権による「ネオコン」の台頭によって、米一極覇権主義のグローバル支配が進むかに見えた。世界史的にも「グローバル資本主義」の新たな発展段階の到来も提起されていました。しかし、米一極を頂点とした「グローバル資本主義」は、たんなる「ネオコン」のイデオロギー的主張に過ぎず、むしろ「Gゼロ」後と呼ばれる世界には、中、露、湾岸諸国など、新たな「国家社会主義」の登場となって、「自由市場の終焉」を迎えているのです。その中で”Japan as no.1”は、一体どうなってしまったのか?

 冷戦体制のもと西の中心国アメリカは、ポスト冷戦で「独り勝ち」のはずだった。しかし、ブッシュのイラク戦争の失敗をはじめ、覇権国家である米の地位低下は著しいものがあります。イスラム国の台頭など、中東における混乱の元凶も、それを突き詰めれば、戦後の米による「ドルとオイル」支配の破綻と失敗に起因すると言えるでしょう。二度の石油ショックに始まる資源ナショナリズムの台頭、それに関連する中東戦争の延長に、今日の戦闘行為の拡大やテロによる混乱の根があると思われるからです。そして、アメリカの地位低下は、むろん中東支配だけではない。

  EU諸国の英米仏など、NATO北大西洋条約により、いうまでもなく冷戦体制のもとでは、西側の体制に属していた。しかし、1993年のマーストリヒト条約の発効、つづく1999年の単一通貨ユーロの使用開始は、明らかに米ドル一極支配からの独立であり、EUは通貨ブロックの性格が強い。さらにEUは、ポスト冷戦で旧ソ連圏の東欧地域に拡大し、対露関係も複雑に動いた。その過程で2014年、米の策動もあったといわれるがウクライナ問題が急浮上、EUの対露関係も大きく動揺しました。しかし、クリミア半島の処理でも明らかですが、ウクライナでも米の策動は失敗し、米とドルの地位は対EU・ユーロ関係でも、さらに低下した。このようにポスト冷戦は、米の一極支配による「グローバル資本主義」どころか、むしろ米の支配体制の後退とアメリカの地位低下を決定的にしている。アメリカは、ポスト冷戦で対外関係では一強どころか、世界支配の全面的見直しを迫られ、それがオバマの「リバランスRebalance」政策ではないかと思われます。

 冷戦構造は、上記の通り世界通貨米ドルを基軸通貨とする世界金融組織でした。IMF(国際通貨基金)、GATT(関税と貿易に関する一般協定)、それに世界銀行が付随していた。東の世界は、ソ連のルーブル、そしてコメコン体制のもとに統合され、東西2つの世界が対立したのです。ソ連が崩壊して米ドルの基軸性が強化されるはずだったが、EU・ユーロの台頭、新興国の登場などにより、むしろ米ドルの基軸性は後退し、地位低下を見せはじめた。その傾向を決定的にしたのが、米国発のリーマンショックであり、1929年恐慌の再来といわれた2008年9・15の世界金融恐慌です。米連邦準備銀行FRBは、まさに異次元緩和ともいえるゼロ金利による超低金利の大幅な金融緩和政策を、それも7年間の長期にわたり続けざるをえない状況に追い込まれた。2015年12・16、ようやくFRBは0.25~0.50%へと金利引き上げることができた。しかも、薄氷を踏む思いの正常化に過ぎず、いつ危機の再発が起こってもおかしくない。

 リーマンショックによる世界金融恐慌まで、中国とその通貨・元の地位は、決して高いものではなかった。事実、中国の社会主義の現実は、とくに毛沢東の文化大革命の失敗により、経済的には荒廃の極に達するほど地に堕ちていました。その点で改革開放路線は、止む終えざる現実的選択ともいえるし、レーニンのNEP(新経済政策)への一時的避難の面が強かった。この路線転換が、中国共産党政権の主導で行われた以上、それは一党独裁プラス市場経済への移行として定式化され、「社会主義市場経済」として定着をみることになりました。しかし、マルクス・レーニン主義によるソ連型社会主義のようなモデル化が行われているわけではない。その点では、過渡的な性格が強いし、今後大きな路線転換の可能性が秘められている。そこに可能性と同時に、不安定性もあることを指摘しておきましょう。

 中国の改革開放路線にとって幸運だったのは、80年代の新自由主義と呼ばれる市場拡大に連動したこと、続いて上記「自由市場の終焉」と呼ばれる国家社会主義の台頭とも結びついたことです。しかし、決定的だったのは、08年のリーマンショックによる世界金融恐慌の発生への対応であり、米国をはじめ日本など先進大国群が軒並み長期不況に沈み続けた中で、中国が09年、さらに10年と、GDP成長率が年率9%を越える高成長を持続して、世界経済を支え続けたことです。それにより中国は日本経済を追い越して、世界第2位の経済大国となり、通貨・元の国際的地位も上昇しました。「沈むアメリカ、昇る中国」、米中の新しい大国関係による国際的秩序の形成が日程に上ってきました。

 中国の急速な台頭に対して、アメリカも上記のようにオバマの「リバランス」路線により、アジア太平洋の地域にセットバックを始めています。とくに2015年10月5日、大筋合意に達したといわれる環太平洋連携協定(TPP)は、05年のシンガポール、ニュージーランドなど4カ国の協定から、大きく性格が変わりました。2010年にアメリカがオーストラリアなどと共に、協定の拡大協議に参加、さらに12年にはカナダ、メキシコが参加しました。アメリカ、カナダ、メキシコ3国は、すでに北米自由貿易協定(NAFTA)を形成していますから、この時点からTPPの性格は、アメリカ、そして基軸通貨米ドルによる拡大NAFTAの性格を濃厚にしたのです。その点でGDP世界第3位の日本の参加が強く要請されることにもなった。米・加・日による米ドル通貨ブロックの形成です。それにより上昇の著しい中国と通貨・元に対抗する戦略に他なりません。

 一方、中国はアジアインフラ投資銀行(AIIB)を主導し、すでに参加国が57ヶ国に達しました。「22世紀のシルクロード」と呼ばれる「一帯一路」構想とセットで、アジアとヨーロッパを結ぶ雄大なるユーラシアの構想ともいえます。ただ、そもそもは改革開放路線の延長に生まれたもので、当初は深センや上海など、沿海部の経済特区の開発構想、これは日本の太平洋ベルトの拠点開発構想の中国版で、輸出主導の重化学工業化を、内陸部に拡大延長する。その成長路線として、中国内陸部にはシルクロードの復活が提起されていたようです。ただ、こうした中国の改革開放の開発路線が、上述のEUの拡大延長やロシアの東方政策とも結びつき、「AIIB事件」と呼ばれる大きな反響を呼ぶことになった。英、独、仏、伊、オーストラリア、イスラエル、韓国などが、一挙に参加を決めたからです。「冷戦下の親米国家群は、アメリカより中国に付くのか!」といった大きな衝撃となった。

 ただアメリカ側、そして唯一ともいえる日本の対米従属のイデオロギー的反発は別にして、リーマンショックの衝撃が大きかった。100年に一度の米国発の世界金融恐慌の発生は、アメリカの政治経済的地位を一挙に低下させた。とくに世界に基軸通貨ドルへの信頼を動揺させた。そして、大恐慌による落ち込みの下支えさせられたのが、他ならぬ中国であり、通貨・元であった。中国経済の高成長の持続を抜きに、世界経済の安定を確保できない。そうしたポスト・リーマンショックの現実が、中国のAIIBを生み、英国をはじめEU諸国、さらにロシアまで巻き込むAIIB旋風となったと言えます。こうした脈絡から言えば、中国は通貨・元の地位を、転落の著しい米国経済、そして米ドルに対抗し、少なくとも米・ドルのブロック化に進むTPPに匹敵する地位につけておきたい。そのためにはAIIBの実現に結び付けて、今や世界第2位のGDP大国である「チャイナマネー中国・元」の基軸性を強めたい。そのために中国・元のSDR(特別引出し権)への参加であり、それを成功させました。

 こうした中国・元のSDR参加による米・ドルへの対抗軸の形成からすれば、対米従属の同盟国・日本の期待にもかかわらず、中国のTPP参加を期待することはできない。しかも、日本ではまだ大筋合意だし、その内容も秘密で完全には公開されないし、国会の審議もできないにもかかわらず、一部財界の意向で既成事実化が先行している。しかし、大統領選を控えた米国をはじめ、完全合意までは時間も距離もある、そんなTPPにかかわっている暇はない、それが中国の現在の立場でしょう。今後、米中2極の「平和共存」の新たな世界秩序外貨に形成されるか、22世紀へ向けての大きな課題でしょう。
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# by morristokenji | 2015-12-27 20:49

宮沢賢治と「産業組合」

 宮沢賢治の研究は沢山あります。とくに文学関係の作品については、おそらく日本の作家のなかでは、最も研究が進んでいる作家の一人でしょう。そして、文学作品のなかに出てくる人物や事象についても、いろいろな角度から研究が行われています。しかし、ここで取り上げる「産業組合」については、まだ十分に検討されていない、空白ともいえる部分ではないかと思われます。

 まず「産業組合」ですが、これは戦前の呼称であって、現在は使われていない。現在は、一般に「協同組合」と呼ばれる組織、団体のことで、戦前は農業団体を中心に、広く生活協同組合まで含む組織の名称だったようです。日本では1920年に、当初は信用事業が中心だったようですが、「産業組合法」が公布されました。それ以前は、頼母子講や無尽講、報徳社などの勤倹貯蓄の組織、また地域の販売・購買の組合などが自発的に誕生していた。それを品川弥二郎や平田東助などが、ドイツの協同組合を参考にして法制化したものだそうです。

 その時点では、信用事業を中心とする農村組合だったので、組合員も富裕な地主や農民が中心だった。しかし、1905年に中央会が創設され、さらに各県に分会が組織され、系統化が進んだ。こうした盛り上がりを背景に中央会が23年に「国際協同組合同盟」(ICA)に加入、また中央金庫法が公布、設立され、さらに全国購買組合連合会も設立されました。労働運動の盛り上がりと共に生協運動も活発化し、「日本一のマンモス生協」として有名な神戸の灘生協も、21年に賀川豊彦の指導のもと「神戸購買組合」「灘購買組合」として誕生しました。24年には利用事業の兼営も許可され「醸造工場」を設置し、味噌・醤油の製造・販売も開始しました。

 当時は、第一次大戦後の「大正デモクラシー」の時代、1917年のロシア革命で民主主義や社会主義の運動が高揚し、その中で日本では「産業組合」の名前で協同組合運動が始まっていました。しかし、間もなく戦後景気が終わり、23年には関東大震災があり、25年には治安維持法が成立、政府の労働運動、農民運動への弾圧も厳しくなります。27年には金融恐慌が起こり、さらに29年の世界大恐慌につながる時代でした。そうした中で、とくに東北農村は凶作の年がつづき、農民は疲弊のどん底に突き落とされ、娘の身売りなどが続出する惨状を呈していました。宮沢賢治は大正が昭和に代る1926年、花巻農学校を依願退職し、「本物の百姓」を目指して、地域の農民たちの「自由学校」である「羅須地人協会」を始めたのです。この辺の事情は、拙稿「宮沢賢治の<羅須地人協会>―賢治とモリスの館開館十周年を迎えて」に詳しく書きましたので省略します。

 では、宮沢賢治は当時の「産業組合」、つまり協同組合の運動に、どのように関心を寄せ、運動に関わっていたのか。賢治が花巻農学校を退職し、羅須地人協会を始める2年前、1924年に「産業組合青年会」という詩を書いています。ここで賢治が産業組合に関心を持ち、とくに若い組合員である青年会活動に期待を寄せていることがわかります。この青年会活動は、1930年代に入って、さらに活発になり、40年には「農村共同体建設同盟」に発展したといわれています。それだけに政府の弾圧も受けて解散させられますが、賢治は早くから青年会の活動に注目、それに期待を寄せていたのでしょう、彼は死の直前33年の9月の初めに、上記「産業組合青年会」を『北方詩人』に発表のため送っていたのです。
 
 それだけではない。死後1934年に雑誌『銀河』に発表された「ポラーノの広場」ですが、その初稿、最初の草稿「ポランの広場」もまた、産業組合の活動を題材にして、1924年に書かれているのです。さらに花巻農学校の生徒と一緒に、演劇「ポランの広場」の脚本を書き、それを上演しました。みずから「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「銀河ステーション」とともに、自伝的な「少年小説」としていた「ポラーノの広場」の初稿は、さらに1927年に羅須地人協会の活動の中で書かれ推敲され、それが賢治の死後ですが、上記の通り『銀河』に発表されたのです。羅須地人協会の活動も、砕石工場の技師としての仕事も、賢治にとっては産業組合、その青年部の地域活動と深く繋がっていたように思われます。

 こうした経緯をみると、賢治の羅須地人協会の活動の夢、そして彼の理想郷である「イーハトヴ」の夢は、じつは協同組合としての産業組合、とくに青年部の活動により「ポラーノの広場」に実現されると考えていた。青年部の若い農民たちが「立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と酢酸とオートミル」を製造する。それらを「モリーオの市やセンダードの市はもちろん広くどこへも出るようになりました」と賢治は『ポラーノの広場』の最後で述べて、『ポラーノの広場』の歌を皆で合唱し乾杯する。この点では、ウィリアム・モリスの代表作『ユートピアだより』の最後のシーンにも通底する。「世界で一番美しい村」といわれるロンドンからテムズ川の源流、コッツウオールズの教会で秋の収穫を祝う祭りです。モリスの共同体主義(コミュ二タリアニズム)の夢が、田園の小さな教会の賛美歌と共に歌われています。賢治の「ポラーノの広場」の合唱も賛美歌448番です。日蓮宗の南無妙法蓮華経が、なぜ賛美歌なのか?

 その点で紹介したいのは、賢治の盛岡高等農林のクラスメイトであり、寮友、親友だった高橋秀松の影響です。彼は敬虔なクリスチャンで、宮城県の名取出身、高等農林を卒業後、賢治は花巻農学校、秀松は茨城の農学校で教鞭をとった。その後、京大の経済学部の選科生として勉強し、安田系の金融機関で働きました。賢治とは生涯の友として、お互いに励まし、かつ刺激し合った。賢治も羅須地人協会を始めた時点で「自分の弱い農業経済について仙台の東北大で勉強したい」と漏らしたそうですが、親友・秀松からの影響もあった。二人は、当時の「産業組合」の活動に深い関心を寄せていたと思う。

 クリスチャンの秀松は戦後、故郷の名取に戻る。初代の名取市長でした。また、仙南地域の農協活動に熱心に取り組み、宮城県農業共済組合連合会理事長を務め、自ら「新しい農村建設に意を用いている」と書いています。賢治と秀松、二人の交友を辿り、さらに秀松の戦後の農協活動を調べることは、戦前の産業組合、そして戦後の協同組合運動を継承発展する意味からも、大変意義あることだし、大事なことだと思っています。

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# by morristokenji | 2015-12-02 17:53
(1)今なぜ「水系モデル」を提起するのか? 2011年3.11東日本大震災は、地震、津波だけでなく福島第一原子力発電所の爆発事故が重なり、未曽有の多重災害の惨禍をもたらしました。とくに原発事故は、米スリーマイル島、旧ソ連・チェルノブイリの事故に続くもので、広範な放射能の汚染処理や多くの発電施設の廃炉作業など、予想の全く困難な復旧作業が横たわっています。その意味で、震災からの復旧・復興は、いまなお想定の範囲をはるかに超えた「未知の世界」に遠のいてしまっている、ともいえます。被災地は、これからどうなるのか?被災住民は、これからどうしたらいいのか?果てしない絶望的不安に慄く被災現場から眼を離すことは許されません。
 こうした人類史が体験したこともない3・11大震災の多重災害から、多くの教訓を学びとらねばなりません。なかでも、世界で唯一の原爆被爆国であり、原爆症が不治の災害であることを十分知りながら、かつ地震、津波、そして噴火の火山列島に住みながら、なぜ「安全神話」を信じ込み、原発依存の「オール電化」の夢を見ることになったのか、その辺から検討することにしましょう。
 戦後70を迎えての反省ですが、日本は狭小な「資源小国」で一億の過剰人口が生きていかなければならなかった。日本人が生きるためには、まずはアメリカへの石油依存から脱却しなければならない。「大東亜共栄圏」を築き上げ、満蒙開拓の北進論を南進論に大きく転換し、東南アジアの「石油資源」を目指して、「大東亜戦争」に勝利する。神国日本の不敗を信じて、無謀にも大国アメリカと戦いました。しかし、広島・長崎に原爆を投下され、被爆国として敗戦の憂き目をみた。資源小国・日本のアジア植民地支配の夢は、石油資源の支配であり、石油エネルギーを目指しての「聖戦」が招いたものが、惨めな敗戦だったのです。
 戦後70年の反省とともに、3・11大震災が提起している最大の問題もまた、原発事故であり、資源エネルギー問題であることを、いま日本人は冷静に直視しなければなりません。戦前から戦後へ、歴史は変わりました。その昔、農家の次三男問題など、人口過剰のマルサス主義(食糧生産は算術級数的に、人口は幾何級数的に増加する、と言う過剰人口論)は、戦後の高度成長を通して、「少子高齢化問題」に変わっています。過剰人口の捌け口として満蒙開拓団を教育し、組織した戦前ではない。むしろ逆に、今日は建設現場にも女性を迎え入れる「建設小町」を利用し、中国やベトナムの研修生を労働力として利用せざるをえない、そんな少子高齢化による過小労働力、「労働力不足」の時代に変わっています。
 しかし、資源エネルギー問題は違います。いぜんとしてリリパット(小人島)的な日本列島は、資源エネルギーが不足し、海外から輸入しなければならない「資源小国」の厳しい呪縛に取り憑かれている。最近の円安は、対外輸出にマイナスだけでなく、資源エネルギーの輸入コスト増大で貿易収支を圧迫する。そのために原発の再稼働も避けられない、という理屈です。資源小国・日本のトラウマともいえるでしょう。しかし、本当に資源小国なのか?アラブの石油に依存し、さらに原子力の原料ウランに依存し、アメリカに従属しなければならない資源小国なのか?
 戦前の話に立ち入ることは避けますが、当時の日本は、80%以上もアメリカの石油に依存していた。しかし、まだ軍需用の石油が中心だったと思います。第一次大戦で、日本も重化学工業化に転換したといっても、クルマ社会はまだだし、暖房も石油ストーブの普及はまだだった。民需は少なく、官需は軍需中心だった。それは、第一次大戦後、航空機が普及し始め、とくに19世紀までの陸海軍中心の戦争から、空軍の戦闘に転換したからです。日本も明治以来、軍需主導の重化学工業化であり、それだけに軍需中心に石油への依存が急速に高まった。それによる対米石油依存ですが、その弱みをアメリカは対日経済封鎖で突いてきた。ここから石油エネルギー問題が提起され、日本の「資源小国」がクローズアップすることになったのです。
 1945年の敗戦は、「資源小国」についても、厳しい反省を迫ったことは言うまでもありません。対米石油依存を反省し、国内の資源エネルギーの活用に転換せざるを得なかった。それに現実問題として、戦災によって食料まで不足し、石油エネルギーを輸入する外貨もなかった。日本経済の再建は、軍需依存の体質を根本的に転換し、まずは日本列島の国内に賦存する自然再生エネルギー資源の開発・利用から始めざるを得なかった。食糧増産のための治山治水から、工業生産についても、傾斜生産方式として石炭産業、水力による電力事業など、もっぱら国内の地域資源の開発利用を中心に地域の産業振興をはかり、日本経済の再建に乗り出したのです。平和国家・日本の「平和経済」のスタートです。この地域資源の開発による産業振興について、戦後経済にとり決定的な意味をもったのが、「国土開発」でした。以下、戦後日本の国土開発の軌跡を辿りながら資源エネルギー問題の推移を見ることにします。
2)戦後日本の国土開発とエネルギー革命:太平洋ベルト地帯構想の拠点開発「臨海モデル」
 日本の地域開発は、戦後1950年(昭25)に決定された「国土総合開発法」(略称、国土法)によって進められました。具体的には、この法律に基づく全国総合開発計画(全総計画)によって進められたのですが、しかし出発に当たっては、全国レベルの計画は決定されませんでした。1962年(昭37)まで、20年近くも全総計画のないまま、地域開発が進められたのです。まず北海道開発に始まり、特定地域の開発計画、続いて例えば「東北開発促進法」などに基づく地方レベルの開発計画が次々に策定され、それらが先行することになった。そこにまた、当時の資源エネルギー問題の所在と政策的特徴が現れていたと思います。特定地域として選ばれたのは、東北では「阿仁田沢」「北上」「最上」「只見」ですが、いうまでもなく東北を代表する河川の「水系」であり、自然エネルギーを中心とした資源開発だった。また多目的ダムの建設など「災害防除」や、都市部への連結などが考慮された地域開発でした。
 このように地域に特有な自然エネルギー資源の開発と利用だからこそ、それはまた地方レベルの開発計画が先行することにもなったのです。北海道開発に続いて、1957年(昭32)には東北開発の計画が、いわゆる「東北開発三法」により具体化しました。東北開発促進法、東北開発株式会社法、北海道東北開発公庫法の三法です。東北に賦存する豊かな資源エネルギーを開発利用し、そのための開発投資主体として特殊会社の東北開発株式会社を活用し、資源開発の地域金融機関として北海道東北開発公庫が拡充、設置されたのです。東北には、農村の食料資源をはじめ、上記の代表的河川の水力エネルギー資源、国有林など豊かな森林資源、石灰岩などセメント建設材料資源、さらに常磐炭鉱など各種の鉱物資源にも恵まれた、まさに「自然エネルギーの宝庫」である。それを総合的に開発利用して、地方分権型の地域開発、そして地域民主主義の理念を実現するのが東北開発の「初心」だった筈です。
 日本経済は、朝鮮動乱の特需で再建の切っ掛けをつかみ、さらに神武景気から岩戸景気へと戦後成長のステップを踏み固めました。その上で、1962年(昭37)10月に懸案だった全総計画が閣議決定され、国土法による国家レベルの上からの総合開発計画が始動することになります。池田内閣の下、戦後の経済計画を代表する国民所得倍増計画とセットになり、高度成長経済への移行とそれに伴う地域間格差の是正を目指しました。基幹産業としては重化学工業、そして所得倍増計画の「太平洋ベルト地帯構想」を推進する拠点開発方式が採用され、京浜、中京、阪神の工業地帯を結ぶ三大都市圏、その延長上に工業整備特別地域、さらに新産業都市を整備する方式です。戦後の高度成長経済は、ほぼこの枠組みで進められ、GDP成長率が年率10%にも達する奇跡的成長を実現しました。
 しかし、ここで注意すべき点は、この枠組みが朝鮮動乱から、さらにベトナム戦争など、戦後の冷戦体制に組み込まれていたことです。とくに、60年(昭35)日米安保の改定によって、「経済安保」の枠組みがつくられました。さらに戦後のエネルギー革命による石炭から中東の石油への転換とも結びつくことになったのです。当時、エネルギー革命を象徴した三井三池の反合理化闘争、そして60年安保反対の闘争が、当時の政治・社会の重大事件だった。日米安保が、日米経済協力のもとに構築され、戦後のアメリカの中東支配が進み、世界のメジャー石油資本による経済支配に日本経済も組み込まれることになったのです。その結果として、東北を中心とした豊富な自然再生エネルギー資源にもとづく平和経済の夢も、ここで潰え去ってしまった。東北開発三法もまた、冷戦体制のエネルギー革命による高度成長の陰に隠れ、その存在も消失することになったのです。
 本来、アメリカの石油開発は、20世紀アメリカ金融資本による重化学工業化をリードし、第2次大戦の勝利と共に、さらに中東支配に発展しました。冷戦体制の下での石油需要の拡大に、原油採掘技術の飛躍的発展が、安価な石油の大量供給を可能にする。このアラブで開発された安価な石油資源が、日本列島の太平洋ベルト地帯に拠点開発された臨海型コンビナートに大量輸入される。「重厚長大」と呼ばれた基礎資源素材型の臨海型重化学コンビナートで低次加工され、1$=360円の超円安の為替レートで対米輸出される、こうして石炭から石油への化石燃料エネルギー革命が、輸出主導型の成長パターンとして、日本経済の超高度成長を主導することになったのです。
 (3)石油ショックと「原発国家」への転換:チェルノブイリ原発事故と「ソ連モデル」の崩壊
 この中東からの大量輸入石油資源による高度成長も、1970年代に大きな転機を迎えます。1973年(昭48)及び79年(昭54)の2度に及ぶ石油ショックです。ポスト・ベトナムによる新植民地主義の敗北に刺激され、中東アラブ諸国VSイスラエルの中東戦争を切っ掛けに、アラブ産油国は大幅な石油の供給削減、それによる原油価格の急騰にもとづく狂乱インフレが起こりました。すでに1971年(昭46)、アメリカのドル危機による1$=308円への円の大幅な切り上げ=ニクソン・ショックがあり、それで割安になったアラブの輸入原油を「湯水のごとく」使って、「石油漬け」だった日本経済は、石油ショックでマイナス成長の不況に遭遇しました。中東からの石油を中心に臨海型企業立地による輸入資源大量消費型、そして超円安の為替レートで輸出依存・民間投資主導型といわれた日本経済の高度成長パターンを、ここで見直す良い機会だったかもしれません。東北開発の初心に戻って、豊かな国内資源にもとづく経済成長の道を選択することもできた。しかし、1$=360円から308円への円切り上げにつづく固定相場制から変動相場制への移行が、その選択を許しませんでした。
 変動相場制により、円高基調の輸出依存型の成長は、一時的にブレーキがかかりマイナス成長も経験した。しかし、その円高は輸入にとっては大幅な円高差益を生む。石油ショックによる原油の値上がりも、円高=ドル安によって相殺し、輸出のマイナスを輸入のプラスで相殺する新しいメカニズムが機能することになった。したがって、石油ショックにより超高度成長が安定成長に調整される効果があったものの、むしろ先進国の中では石油ショックからの回復、不況克服の「成功物語」、「JAPAN AS NO.1」となった。こうして、戦後の冷戦体制の日米「経済安保」体制で再生をみた「資源小国」の呪縛は続いたのです。それどころではない。変動相場制による市場原理に強化は、ドル安の進行と共にプラザ合意など、日本経済の円高基調をますます強めました。円高は、オイルショックの相殺作用だけではなく、むしろ木材や農水産物など輸入資源の急増を招き、第一次産業の切捨てを決定的にしたのです。
 さらに冷戦体制の下、米ソを中心とする東西の対立は、核全面戦争こそ回避されたものの、核兵器の開発と共に核の平和利用の名のもとに、原発の開発競争がエスカレートしました。「熱戦の原爆」と「冷戦の原発」は、東西の核開発競争のもとで表裏の一体化だった。米が核実験すれば、ソ連が原発の開発を進める、それをまた米が追う、こういった核開発競争が冷戦体制だった。そうした体制下、被爆国日本も原発の開発では、戦後10年も経たない1954年(昭29)日本学術会議が「原子力3原則」声明、翌年「原子力基本法」制定など、早々と研究開発がスタートした。63年(昭38)には、東海村に実験炉も開発されました。これが石油ショックで、一挙に「夢のエネルギー」として脚光を浴び、被爆国として核アレルギーはあったものの、平和利用として70年代に18基、80年代に16基、90年代15基と続きました。「原発国家」の登場であり、発電所建設に補助金が交付される「電源三法」により、国家的事業として強行されたのです。
 とくに今回の原発事故の東京電力「福島第一原子力発電所」の6基すべてが、70年代に先陣を切るように集中立地され東北の「原発銀座」と呼ばれました。戦後の東北開発の出発点で提起された自然エネルギーによる開発は、ここで原子力利用に一変した。この東北の原発も、実は石油ショックに先行して、水面下で準備されていました。前記の全総計画に続く新全国総合開発計画(1966年制定)では、太平洋ベルト地帯のさらに延長上に、「大規模工業基地」として九州の志布志湾、北東北・北海道のむつ小川原、苫小牧東部の遠隔地立地です。ここでも重化学工業化、輸出依存・輸入資源エネルギー大量消費が目指され、その輸入基地として、志布志湾はアラブの石油備蓄基地、むつ小川原・苫小牧東部は石油基地だけでなく、原子力利用のエネルギー戦略が立てられ、それが70年代石油ショックにより福島第一原発の「原発銀座」が一挙に推進されることになった。太平洋ベルトの東北三陸の津波常襲地帯を挟み、重化学工業化の臨海型拠点開発が、アラブの石油エネルギーに変わり、対米依存の原子力利用に転換したのです。
 しかし、石油エネルギーから原子力への転換が、順調に進んだわけではない。米ソの核開発競争が激化する中で、まず1979年(昭54)には米スリーマイル島の原発事故、続いて86年(昭61)には旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起こりました。原子力の平和利用として推進された原発「安全神話」が、米ソの2大事故により根底から動揺し、70~80年代に急増しつつあった原発ブームも冷却しました。それどころか、ロシア革命の後1920年(大13)全ロシア・ソヴェト大会で「共産主義とは、ソヴェト権力プラス全国の電化である」と演説したレーニン、その「レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所」が爆発し、欧州全域に放射能を拡散した。原発は一時再稼動したものの、91年にはソ連が崩壊して冷戦体制が終幕を迎えたのです。ソ連崩壊は、発送電一体の戦時体制をっ引き継いだまま、9電力による地域独占で「ソ連以上に社会主義」と批判されてきた、わが日本の電力事業にも、まさに「他山の石」だった。ところが、具体的には92年の「地球サミット」、とくに97年の京都議定書が温室効果ガスの削減目標を打ち出しました。地球温暖化が世界的にクローズアップされ、再生可能エネルギーによる「低炭素化経済Low-carbon Economy」が提起されたのです。
 この低炭素化に割り込む形で、原子力エネルギーの利用が息を吹き返した。「原発ルネサンス」に他なりません。化石エネルギーに対して、原子力は二酸化炭素による温室効果ガスの発生を伴わない。集権システムのコントロールによる安定供給、低コストの原子力利用の優位性が、誇大ともいえる「安全神話」のキャンペーンに乗って登場しました。しかし、原発の安全神話は、今回の東日本大震災の平成三陸大津波により、瞬時にして崩壊、拡散される放射能汚染は、インターネットでグローバルに情報開示されたのです。LCEへの産業構造の転換は、度重なる原発事故、地球温暖化に対として、すでにヨーロッパ各国では環境対策として本格化してきた。また、米民主党のリベラル派が08年の米大統領選の公約として「グリーン・ニューディール」
を準備しました。スマート・グリッド(次世代送電網)など情報通信(ICT)革命と結合、LCE+ICT革命として新たな産業構造の転換に向っているのではないか?
 4)自然再生可能エネルギーの低炭素化社会:「自然豊国」の「水系モデル」
 2011年3・11東日本大震災により、とくに福島第一原発事故によって、原発の「安全神話」が崩れ去りました。同時にまた、例外的な近代科学技術信仰の原理主義者を除けば、時期の問題があるにせよ「脱原発」の国民的合意は形成されたといえます。現実に、節電、蓄電、ソーラー創電など、脱原発への努力によって、利便至上の「オール電化」の生活スタイルからの転換が始まり、「原発ゼロ」の国民生活が定着しています。原発再稼動は、一方で利益の獲得を回復したにもかかわらず、もっぱら集権型地域独占企業の電力企業による既得権益の確保だけでしょう。そうした意味で、多大な犠牲を払いながら、「熱戦」「冷戦」の異常な時代に日本人を拘束し続けてきた「資源小国」の呪縛から、戦後70年ようやく解放される時代を迎えたともいえるのです。そして、戦後日本の再建にあたり、東北に賦存すう豊かなエネルギー資源を活用するための「東北開発」の初心にも立ち返りながら、自然再生エネルギーによる低炭素化社会の構築のデザインを準備しなければならない。その論点を摘記してみましょう。
 ①「成長戦略」からの転換:輸入資源大量消費、そして対米輸出依存民間投資主導型の高度成長は、冷戦体制のもと、中東の石油支配によるエネルギー革命、日米「経済安保」の枠組みのもとで進められてきた。しかし、すでにポスト冷戦、アメリカのリバランス政策など、高度成長の体制的枠組みが大きく変化した。さらに、少子化など日本経済の潜在成長力そのものが低下、すでに国際収支の構造も、対外直接投資・所得収支依存型に転換している。こうした構造的変化を直視せず、相変わらず「坂の上の雲」を追い求める「成長戦略」の発想を捨て、経済不安と格差是正のための経済運営が不可避になった。
 ②「臨海型モデル」から「水系モデル」への転換」:戦後体制の枠組みの変化と成長力の低下は、輸入資源大量消費・輸出依存の成長パターンを支えた太平洋ベルト地帯構想の拠点開発方式「臨海モデル」からの転換を迫っている。3・11大震災は、「臨海モデル」の福島第一原発」事故だけではなかった。原町火力、仙台火力、新仙台火力など、福島原発と並ぶ臨海型沿岸立地の火力発電をはじめ、「新産業都市」作りのために開発された施設が軒並み津波に浚われ機能を停止した。それに引き換え、同じ東北電力の三居沢水力発電所は、ほとんど停止せず震災の町に電気の灯を届け続けた。明治以来の日本最初の水力発電所の「水系モデル」の健在ぶりこそ、東北「資源豊国」の生きた記念碑だろう。
 ③自然再生可能エネの低炭素化(L-CE)+情報通信技術(ICT)の産業創出:環境省の調査によれば、「資源豊国」東北の自然再生エネルギーの賦存に変りはなく健在である。日の丸を国旗とするほどの太陽光・ソーラー発電に地域差はない。しかし東北は、風力16%、地熱25%、中小水力31%の対全国比で、高い地域「電源構成」を確保している。この資源エネルギーを地産地消型の生産・消費の再生産に結びつけるICT技術も進んでいる。すでにゼロ・エネルギー・ハウスなど、建築設備、温室栽培、水産加工の分野。インフラ整備は、発送電の分離など電力改革による、道路、交通、通信などのスマートグリッド、さらに医療・福祉、セキュリティのエコタウン創造など、まさに「地産地消」の循環型社会が実現するだろう。
 ④スマートコミュニテイのソーシャルデザイン:こうした自然再生エネルギーを基礎とする自然と人間との物質代謝は、地産地消の生産と消費の循環型社会の創造として、新たな都市と農村の統合を目指すことになる。とくに東北の米作りは、水田耕作による自然再生エネルギー・水力の地産地消によって、村落共同体の強い「絆」が維持され、地域の共生も維持されてきた。いま、L-CE+ICTによる産業構造の転換は、自然再生エネルギーによる「水系モデル」により、地域再生の「スマートコミュニティ」をソーシャルデザインすることにより、22世紀に向けての都市と農村の統合を可視化することになるだろう。
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# by morristokenji | 2015-09-07 13:54