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森のミュージアムの最新情報<研究ノート>を分離


by morristokenji
 総論的な部分に続いて、半田氏は地域循環について論じている。特有な面白い視点であるが、マルクス経済学としては、『資本論』との関連を確り詰めて置かねばならない。とくに地域循環との関連で農業の特殊性があるにしても、『資本論』は純粋な資本主義の抽象であるし、その中に労働力の商品化と共に、土地も商品化し「地代論」が含まれているからだ。
 『資本論』の意義は、何と言っても「純粋資本主義の抽象」にある。①スミス、リカードなど、古典派経済学の継承、②自律的「経済法則」の解明、③「法則」とともに「経済原則」の解明、④社会主義の枠組みの提示、などである。この純粋資本主義の中に農業も含まれているし、生産の三要素<1)労働力、2)労働手段、3)労働対象>の中に、土地・自然は3)の労働対象であり、さらに地代も超過利潤に還元される地代論に含まれ、純粋資本主義の法則性を構成している。その限りでは農業の特殊性は特に出て来ないし、純粋資本主義として法則的に解明される。
 それに対して、半田氏の提起する「地域循環」はどうか?地域は兎も角、「回転・循環」として『資本論』第2巻では論じられている。さらにその前提には、『資本論』特有とも言える資本流通、流通形態としての資本、さらに商品・貨幣の流通形態が並ぶ。商品、貨幣、資本の流通形態に他ならない。そして、商品・貨幣の「単純流通」、それが「貨幣の資本への転化」により「資本流通」として『資本論』で展開されている。然し『資本論』第2巻「資本の流通過程」は、度々述べる通り「晩期マルクス」の執筆であり、とくに「可変資本の回転」として、労働力A-賃金G-生活資料Wの単純流通が述べられ、生産と消費が結びつけられ、労働力Aの再生産が行われることになっている。国際化し、グローバル化する資本流通に対し、労働力の再生産の単純流通は「通勤圏」など地域的であり、「地域流通」と呼んでも良いだろう。
 単純流通の地域流通に関し、超歴史的・歴史貫通的な経済原則としては、いわゆる第1次産業があり、そこで農業の特殊性が浮かび上がる。第1次産業は、歴史貫通的伝統産業として、共同体・コミュニティの「社会的労働協同体」と結びつく。その点で、「地域流通」がクローズアップしてくるし、地域農業の特殊な位置づけも生まれるだろう。そして、このような認識のためには、共同体・コミュニティを前提とするコミュニタリアニズムの立場が必要であろう。「晩期マルクス」は、パリ・コンミュンをはじめとする1870年代の共同体研究により、新たな思想的立場を構築していたのではないか?大陸から遅れていたイギリスにも、やっとネイティブのマルクス主義の団体が生まれ、W・モリスやE・B・バックスなどと共に『社会主義―その成長と帰結』(1893年)が刊行され、日本でも宮澤賢治たちに継承されていたのである。

# by morristokenji | 2022-06-13 14:12
 「新しい資本主義」は、岸田内閣の看板政策だが、あまり評判は芳しくないようだ。経済成長と所得分配、特に賃金上昇を狙ったようだが、財界の意向だろうか、「人づくり政策」に変ったらしい。モノやサービスのように、人間は資本によって作れるわけではない。家庭の出産、教育を無視されては困る。
 「新しい資本主義」と言うからには、現代の資本主義に代わる、何か別の資本主義があるのだろうか?資本主義は、近代社会の社会体制として発展して来た。歴史的に変化し、様々な政策も繰り返された。ここへ来て体制の在り方が問われるのは、すでに国連など低炭素化を訴えているが、環境問題を越えて「気候問題」など、危機が深刻化しているからであろう。体制的危機により、日本でも婚姻率、出産率(21年生まれ全国平均1.30、宮城1.15)が低下し、人口減少が体制化してしまった。
 しかも、この少子化社会が、日本人の主食であるコメの国民1人当たり年間消費量とも深く結びついている点に注目すべきだと思う。本紙、6月6日付「22年産米 東北5県減産」の記事の中で、コメの「在庫増 価格続落懸念」とともに「コメの国民1人当たりの年間消費量は1962年度をピークに下降を始め、低迷が続く。食生活の変化や人口減少を背景に、主食用米の需要量は年10万トン前後の減少が今後も見込まれている」と主張されている。記事の主張は、当面の「転作加速」に向けられているが、本紙がハッキリとコメ過剰と少子化社会の「食生活の変化や人口減少」を結び付けた点を重視したいと思う。
 もし現代資本主義の少子化社会と主食用コメの過剰が結びついているとすれば、転作などで済ますわけには行かない。勿論、短期的には転作が必要だが、言うまでもなく資本主義社会は、近代社会と共に発展して来た。その資本主義が歴史的限界を迎え、体制的危機と共に主食用コメの過剰が露呈したとすれば、新たな社会体制を考えないわけには行かない。主食用コメの水田耕作は、わが仙台の居久根の里でも、中世以来の水神や馬頭観音への信仰とともに、農村の家庭・家族など地域の共同体コミュニティに支えられている。そうした地域共同体とともに、水田耕作を維持する決断が必要になったのではないか?

# by morristokenji | 2022-06-07 16:42
 半田氏は、すでに紹介したが、宇野理論の中では玉野井芳郎氏がエコロジー、とくにエントロピー法則などを取り上げていた点を重視している。確か1970年代のことだが、当時は東北など地方からの労働力の利用もあり、日本経済の高度成長期だった。日本が世界のトップNO.1に躍り出ると言われ、東北など地方の成長力が高く評価され、「地方の時代」と言われた。同時に中央主権主義から「地域主義」の時代が叫ばれた。
 ここで「地域主義」に立ち入るつもりはないが、玉野井氏が山口県生まれながら、東北大、東北大から東大に引き抜かれた経歴などが、「地方の時代」と関係していたかも知れない。また、小生の方も戦後の東北開発に関係したこともあり、玉野井氏から何度も意見聴取された。当時は、「地域主義」に興味を持ち、岩井克人氏などとの交流を持ったことなど思い出す。しかし、「地域主義」について言えば、その後「晩期マルクス」を踏まえたコミュニティなど、当時はコミュニタリアニズムとの関係は無かったと思う。また、現代資本主義の体制的危機は弱かったし、少子化社会の体制的危機へのオルタナティブを提起するようなものではなかったと思う。その後、立ち消えに至った理由だろう。
 確かに、半田氏の主張通り、現代資本主義の体制的危機にとつて、エコロジーが重要だし、それが現代の農業危機と結び付いていると思う。しかし、同時に体制的危機は、労働力の社会的再生産において、すでに繰り返し述べているように、婚姻率や出生率が長期的に低下し(全国平均1.30、宮城1.15、21年生まれ)、少子化社会が構造化している。しかも、この少子化が、コメの国民1人当たり年間消費量の低下と深く結びついている点に注目すべきだ(河北、6/6付参照)。主食用米の需要量の減少、その結果が在庫増、価格続落と繋がり、日本農業の構造的危機と結び付く。労働力の商品化による基本矛盾は、今やコメの生産をめぐる農業危機とも結び付きながら、少子化社会の体制的危機をもたらしている。体制的危機は、農業危機だけに起因しているわけではない。政府もまた、家事・育児などの女性偏重に起因していると見ているが、体制的危機の重要性を看過すべきではないだろう。

# by morristokenji | 2022-06-06 10:06
 半田氏は続いて、マルクス主義ついてのベストセラー作家 斎藤幸平氏の批判に移る。折角なのでここでも取り上げるが、すでに断片的批判は試みているので、大筋だけに止めたい。
 斎藤氏は、拙論と同じく「晩期マルクス」に立脚し、ザスーリチへのマルクスの返書など「ヨーロッパ中心主義」から脱却、「自然と人間の生態系に基づく物質代謝を、人類社会における基本作用ととらえ、その歴史貫通的作用が現代の資本主義においては修復不可能な<亀裂>を帯びている」点に体制的危機を捉えている。その上で「資本主義のオルタナティブとして<コモニズム>(=<コモン>領域の漸次的拡大)を提唱」しているとする。半田氏らしい紹介だが、こうした視点には異論はない。さらに「評価すべき点」として、①現代資本主義の体制的危機の現状認識、②「資本主義批判の視座」③「オルタナティブ社会の構想」④拙論と同様「晩期マルクス」を「マルクス理論の集大成とみる。」結論として,上記の通り「コモニズム」としている。
 しかし「疑問を感じる点」として、半田氏は「①所有/私有概念の認識の問題点」を挙げている。初期マルクス・エンゲルスの唯物史観は、イデオロギー的作業仮説であり、それが「マルクスの<否定の否定>の無批判的取り込み」として『資本論』のいわゆる「所有法則の転変」などの中に入り込んでいる。「②人間と自然の物質代謝に注目しながら、これ〈経済原則〉ととらえた先行研究(➜宇野弘蔵)を無視。」そのため「経済原則」と「経済法則」の区別と関連が付いていない。要するに『資本論』の経済法則がイデオロギー的作業仮説に過ぎない「唯物史観」の所有法則に解消される決定的的な誤りである。これら斉藤氏の誤りは、拙論でも指摘したので繰り返さない。さらに「③人間と自然との物質代謝の<亀裂>を捉える際に、物質代謝をエコロジー(生態学)の視点から再定義した先行研究の成果を取り込ま(め)ず。」エントロピー法則の視点の欠落などを批判している。
 要するに斎藤氏は、『資本論』を十分理解せず、その法則性を唯物史観のイデオロギー的仮説に還元している,と言う真に適切な批判である。これでは「晩期マルクス」によるコミュニティ重視、「社会的労働協同体」の意義などは欠落する。さらに言えば、共同体の視点の欠落により、すでに強調している婚姻率、出産率の低下などによる「少子化社会」の矛盾も提起できない。結果的に、体制的危機に瀕する現代資本主義のオルタナティブも、何のことは無い上記の「コモニズム」(社会的「公共財」の拡充)に還元されてしまう。


# by morristokenji | 2022-06-03 09:03
 羅須ゼミの間に、多少の時間もあるので、主要な論点を巡り、私見を述べさせて頂きたい。オルタナティブ社会をめぐる論点の整理は、半田氏の整理にほぼ賛成である。まず、「現代資本主義の体制的危機」について、大きく3点を挙げている。
 ①グローバル企業による経済社会維持についての歴史的・社会的限界
 ②金融膨張=金融市場のカジノ化としての現象
 ③生態系の”欠壊/毀損”
 まず①であるが、ソ連崩壊・ポスト冷戦で、米・一極支配が出現したが、それをグローバリズム、グローバル段階と見るのは、米の過大評価、同時に中国の社会主義のミスリードによる過小評価にならないか?ソ連に代わって中国がGDP世界2位の経済大国となり、ポスト冷戦体制を担ってオルタナティブの一角を形成している点が重要ではないか?中国の危機乗り切りについても検討が必要だと思う。
 ②については、金融資本の発展を取り上げ、「カジノ化」など体制的危機に繋がる点を解明するのは賛成だが、情報化やソフト化が、③の生態系の崩壊に繋がる炭素化など、具体的解明が必要だろう。②と③を総合化して、すでに「人づくり政策」=人造人間にまで手を伸ばさざるを得なくなっている岸田政権の「新しい資本主義」政策に対抗しなければならない。
 その点では、「少子化社会」による資本主義の体制的危機の解明が是非とも欲しいと思う。マスコミの中で「日経」紙だけが先行していた「少子化社会」問題の、体制的批判が急務であろう。すでに拙論でも述べているが、「少子化社会」批判は、晩期マルクスの「社会的労働協同体」、とりわけ地域コミュニティの立場が重要であり、そこから現代資本主義のオルタナティブも提起されなければなるまい。

# by morristokenji | 2022-05-27 10:58