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by morristokenji
 1906年(明39)幸徳秋水にまねかれ、岡山から上京し堺利彦の『平民新聞』の編集を手伝った山川均は、国家論をめぐって堺と幸徳秋水の討論に立ち会った。「幸徳の無政府主義と堺のマルクス派的な社会主義とが鋭利に対立し、二人の議論は次第にハサミ状にはなれてゆくばかりで、---二人は―少なくとも理論の上では―タモトを分つほかなかった。二人の議論は何度となくこの点にきた。しかし幸徳のがわでも堺のがわでも、実際運動の上ではどうしてもタモトを分かつに忍びないものがあったと思う。そこで議論はまた出発点に立ちもどり、明日に明後日に持ちこされた。」(山川『自伝』283-4頁)無政府主義と「マルクス派的な社会主義」の対立が土着社会主義の水脈の中で渦を巻いていた。それは少し遡って1870年代、パリ・コンミューンをめぐるマルクス派対プルードン無政府主義派の対立にも似た思想的対立だったかもしれないのだ。この対立の中で、マルクスも組織的運動に関わり『フランスの内乱』を書き、組織的統一に努力したにもかかわらず、第一インターは組織面から崩壊、マルクスにとっても手痛い政治的失敗を犯した。こうした中で、60年代『資本論』刊行のあと、晩期マルクスの思想的転機が訪れていたことも、念のため指摘しておきたい。
 ここで土着社会主義をめぐる思想循環の渦中で、無政府主義と「マルクス派的な社会主義」の立ち位置を確かめるために、堺自身が整理してまとめた「社会主義鳥観図」を予め提示し、それに従って組織的対立の流れをみることにしよう。ただこの鳥観図は、

# by morristokenji | 2019-03-20 10:18
 土着社会主義のタームで「労農派の思想」を探る、それを考えたのは上山春平氏の著作『日本の思想』を読んだ時からである。「日本の土着思想と周辺」として書かれた著作の増補版とのことで、「第一部 土着思想の系譜」の一つに「土着の社会主義ー労農派の思想」が載っている。上山氏らしいシャープな問題意識が満ち溢れ、興味深く読んだ。そんな経験から、平山氏との共著『土着社会主義の水脈を求めて』を纏めるについても、上山氏の著作が念頭にあり、第一部を「労農派とその周辺」、第二部を「労農派と宇野弘蔵」というタイトルにした。ただ、上山氏の著作との関係はとくに触れなかったが、第二部の宇野理論の「三段階論」の方法についても、「土着社会主義」を強く念頭に置いて書いたつもりである。
 そこで上山氏の土着社会主義としての「労農派の思想」だが、中国の毛沢東が日本社会党について、「不思議な党だ」と言ったそうだが、その「第二半インター」性も、日本社会党の「労農派の伝統」に負うところ大だと見る。日本社会党は「左右二本」社会党と揶揄され、左派はソ連派で右派の社民系と対立していた。左右の対立だけではない、中ソ論争もあり、ソ連派と中国派が対立、仙台出身の佐々木更三委員長は中国派の領袖だった。旧ソ連がコミンテルンなどの「プロレタリア国際主義」に対して、中国派は批判的であり、その点では「労農派の伝統」かも知れない。念のため指摘すれば、今日の中国共産党の「新時代の中国の特色ある社会主義」、さらに「新しいマルクス主義」「社会主義市場経済」などは、ソ連型の国際主義の否定であり、「労農派の伝統」の土着社会主義なのかどうか?
 労農派は、言うまでもなく講座派との対立を指し、それは戦前の1930年代の日本資本主義論争の対立の呼称だった。しかし、1917年のロシア革命、とくに戦後は冷戦下、社会主義は完全にソ連のマルクス・レーニン主義一辺倒となり、そのソ連が崩壊して、とくに日本では「社会主義」は完全に死語と化してしまった。「労農派の伝統」も同じ運命に流されているわけだが、米国のトランプ路線に対抗する「新時代の中国の特色ある社会主義」の習近平路線とともに、講座派との対立の次元を超えて、土着社会主義としての「労農派の伝統」を再検討する意義は大きいと思う。その意味で、「労農派系の学者たちは、---マルクス理論を経済学にかたよらせてとらえる経済主義的傾向をまぬがれていない。こうした傾向を克服しながら、マルクス理論の現代的発展を試みることが、彼らに残された課題であろう。」では、どうするのか?
 上山氏は、講座派と対抗する労農派の路線については、山川均の整理を紹介していた。講座派は外圧型・権威主義・前衛型であり、労農派は内発型・土着主体的社会主義だが、「共産党や講座派が、レーニン主義ないしスターリン主義を権威主義的に信奉する受動的な思想態度を脱しきれないのに対して、労農派が一方において、土着的な民主主義運動の伝統を継承しながら、他方において、マルクス理論の研究を深め」、「日本土着の社会主義思想の貴重な遺産を見いだすことができるのではあるまいか」として、土着性の継承としてはマルクス主義の「思想の内容」よりも「むしろ思想の態度なのである」と述べる。そして、中江兆民や内村鑑三の思想を挙げ、「労農派のマルクス主義摂取の態度に通じる内発性ないし土着性が認められる」とした上で、その「態度」の確立として「労農派教授たちの先輩として、先ず第一に挙げなければならないのは、堺利彦であろう」と述べ「堺利彦と労農派」に絞り込んでいる。
 さらに大内兵衛『経済学五十年』から「戦争で焼けたぼくの家の応接間には、堺枯川の<棄石埋草>という額がかかっていた。---僕は、あの字が好きであり、あの文句がすきであった。堺さんはステ石ウメ草だろうか。それ以上のものだろうか。日本社会主義がもし他日立派に立ち上がるとすれば、彼のステ石ウメ草の上にであろう」(上巻八三頁)を引用し、こう述べている。「労農派の立場は山川均によって確立されたのであるが、山川の思想形成は堺に負う所が大きい。山川が堺と行動を共にするようになったのは、明治39年からであり、この年の12月に、山川は幸徳秋水にまねかれて郷里岡山から上京し、日刊『平民新聞』の編集に参加した。当時、山川はしばしば堺と幸徳の討論に立ち会ったという。」(180頁)堺、山川、そして幸徳の名前も出てきたが、土着社会主義の源流地点に到着したようである。

# by morristokenji | 2019-03-18 14:47
 自由民権運動は、言うまでもなく明治前期、藩閥政治に対する民主主義的な政治運動であり、天賦人権の思想にもとづく藩閥打破、国会開設などの要求が進められた。広範な運動であり、全国的な広がりをもって進められたが、東北でも運動の連続面などでは、戊辰戦争との直接的なつながりはないものの、北関東から東北は大きく運動の盛り上がりが見られた地域だった。例えば、阿武隈山系の福島・石川町は、自由民権運動発祥の地として知られ、西の板垣退助と並ぶ東の河野広中が、石川区長として赴任し、民権運動を始めた。運動の結社である「石陽社」のための有志会議は1875年に開設、土佐の「立志社」に次いで東日本では最も早い活動と言われる。最近でも、福島第一原発事故に重ねながら、福島の苦悩とともに、改めて自由や人権の意味を問う演劇の上演活動を『河北新報』が伝えている。
 自由民権運動のトップリーダーは土佐の板垣退助だったが、その板垣も戊辰戦争では、土佐藩であり官軍側で東北征伐にやってきた。「奥羽の義」によれば、「1868(慶応4)年旧暦8月21日。新政府軍は会津若松を目指し、郡山市と福島県猪苗代町にまたがる母成峠を急襲した」「新政府軍は板垣退助(土佐藩)、伊地知正治(薩摩藩)率いる兵3000」、会津側の守備の手薄を衝いて、政府軍は会津軍を一気に攻め立て、会津若松の鶴ヶ城落城に道を開いた。板垣の軍功はまことに大きかったが、その板垣が自由民権運動では、明治政府の官権・藩閥政治を批判し、全国的な民権運動をリードした。薩長の藩閥政治の権力支配への批判とともに、例えば奥羽列藩同盟の側にも、仙台藩士・玉虫佐太夫などの盟約書には、「一、大義を天下に述べるを目的とし、小節細行に拘泥しない。一、重要事項は列藩で集議し、公平の旨に帰すべし。一、みだりに農民を労役するな」など、すでに民権思想が鋭く提起されていたことが、官軍の板垣に影響したかも知れないと思うところである。
 周知のとおり日本の社会主義思想、社会主義運動については、「明治20年代の後半は、日清戦争とその勝利による多額の賠償金により資本主義が興隆した時代であり、職工の増加とともに労働運動が起こり、そこにアメリカ帰りの一群の若者たちが労働組合や社会主義の思想を伝え、日本の社会主義運動はそこから始まったと言えるであろう。明治30年前後(1890年代末)のことである。」こうしたアメリカ帰りの外来的な思想や運動に対し、「土着社会主義」の思想や運動を見る立場からすれば、明治10年代まで遡り自由民権運動などにも接点を求める必要がある。共著『土着社会主義の水脈を求めて』では、平山昇氏は明治20年代から「二葉亭四迷の社会主義」「横山源之助と下層社会」、さらに「一葉の日記から」「北村透谷と『文学界』」など文学作品の紹介の上で、「馬場辰猪と中江兆民」「明治二十年代の幸徳秋水と堺利彦」を取り上げている。文学作品の興味深い紹介、分析は共著に譲るとして、ここでは自由民権運動との関連で「馬場辰猪と中江兆民」をまず取り上げよう。
 民権運動は、土佐に生まれた上記「立志社」、翌75年(明治8年)に大阪で「愛国社」として全国組織化され、78年に再興されて1880年の第4回大会には、全国から民権運動家が結集して「国会期成同盟」が発足した。国会開設を要求する署名は24万余に達し、自由民権運動は全国的に大きく高揚した。こうした民権運動の高揚に対して、藩閥政府は同年「集会条例」を発布して、演説会や集会を規制したが、81年になると北海道開拓使払い下げ汚職事件で追い詰められ、10月には伊藤博文は『国会開設の勅書』を発表、そこで1890年には国会を開設することにした。しかし同時に、政敵の大隈重信を政府から追放する「明治14年の政変」を断行した。
 こうした政治的動乱の中で、東京では沼間守一の「櫻鳴社」、イギリス帰りの馬場辰猪、小野梓などの「共存同衆」、福沢諭吉の慶応義塾系の「交詢社」、それに中江兆民の「仏学塾」といった演説団体、政治塾などが起こり、銀座通りには新聞社が軒を連ね、言論活動が一挙に活発化する。さらに『国会開設の詔勅』が出されると、81年に板垣退助を総理とする「自由党」、82年には大隈重信の「立憲改進党」が結成、民権運動の最盛期を迎えることになった。こうした中で、国会開設を決断した伊藤博文は、改めて新たにつくる憲法を準備するために、先進国の欧米ではなく、普仏戦争で勝利しビスマルク宰相がリードした後進国のドイツ帝国に渡り、合わせて自由党の分裂を図る動きを進めた。資金を提供された自由党の板垣退助は、国会開設により民権運動の目的が達成されたとして、憲法の内容には関心を持たず、長期のヨーロッパ漫遊を決め込んでしまった。帰国後、自由党を解党したのである。そのため民権運動の側からも批判の声が上がったし、自由党左派の指導による有名な「秩父事件」の借金党も立ち上がった。
 ここで自由党左派の論客として、馬場辰猪と中江兆民を挙げるが、土佐藩から馬場はイギリスに、中江はフランスに留学し、その点で上記の伊藤博文の後進国ドイツ帝国への渡欧とは対極的な立場を形成していた点が重要だろう。というのも1870年代であり、普仏戦争、パリ・コンミューンなどによる欧米の新たな思想形成、とくに後述するがイギリスではK・マルクスやW・モリスなども健在で、それを反映することになったからだ。馬場の代表作『天賦人権論』は、当時の東大総長、加藤弘之『人権新説』への批判だったが、加藤も天賦人権論に立脚した民権派の立場だった。それが『新説』では、進化論にもとづき「優勝劣敗、適者生存」を主張したのに対する馬場の批判だった。馬場はイギリス留学中もフランスに赴いていたが、1870年から78年まで、74年に一時帰国するが、翌年『米欧回覧実記』で有名な岩倉具視の使節団として渡英、その間政府留学生となっているが、この長期の留学中に政治思想としても言論思想の自由、「公議與論」の民権思想が固められ、左派の論客としては当時もっとも重視されていた。
 なお、馬場の最初の英国留学だが、土佐藩の5人の留学生を迎えた「イギリス人の牧師ダニエル(J.J.Daniell)に連れられて、ロンドンの西方約百マイルにあるヴィルトシャー州(Wiltshire)の町チペナン(Chippenham)に行き、そこからさらに、その郊外にあるラングレー(Langley)という小村に移った。ダニエルがそこの教区の牧師をしていたのである。」(萩原延寿『馬場辰猪』29頁)ヴィルトシャー州、チペナンといえばNHKテレビでも「イギリスで一番美しい村」と紹介され、今日でもイギリス観光のスポットであるコッツウォルズ地方に属する。そこで5人が1年間も過ごしているのであり、さらにコッツウォルズといえば、後に日本でも堺利彦が抄訳『理想郷』として紹介したW・モリスのファンタジックロマンの名作『ユートピア便り』の舞台にもなった。土佐藩の英国留学が、こうした地域を選んだことは、馬場をはじめとする自由民権運動にも、興味深い影響を与えたに違いないと思う。
 さらに土佐藩からは、中江兆民がフランスに留学した。馬場が二度目の留学となった岩倉使節団に司法省9等出仕として採用されたのである。普仏戦争とパリ・コンミューン直後のパリやリヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合い、イギリス留学の馬場とはドーバー海峡を挟んで何回か交流していた。そうした点からも、当時のヨ―ㇿッパ思想の変転を受け入れながら、幅広く自由民権運動を進めることになったのであろう。74年には、中江は馬場よりも早く帰国し、後に「仏学塾」となる仏蘭西学舎を開き、ルソーの『社会契約論』の翻訳など、民権思想の普及に務めた。一方の馬場は帰国後、自由党左派の最高の論客として活躍し、1883年には当時の警視総監から東京での政治演説の禁止を申し渡されるほどだった。その後、著作活動が中心になつたが、そうした中で「観念としての民衆と事実としての民衆の乖離」「理念に対する確信と運動に対する失望」に苦悩しつつ、1886年にはアメリカに渡ったが、88年にフィラデルフィアで結核のため客死してしまった。
 残された中江は、ルソーの思想紹介など、主としてジャーナリズムを中心に、自由民権運動の理論的指導者として活躍した。「東洋のルソー」とも評され、第一回の衆議院総選挙では大阪4区から立候補し、当選者の一人となった。それも自ら本籍地を大阪の被差別部落に移し、「余は社会の最下層の、さらにその下層におる種族にして、インドの<バリヤー>、ギリシャの<イロット>と同僚なる新平民にして、昔日公らの穢多(えた)と呼び倣わしたる人物なり」と自称し、トップ当選を果たしている。しかし、議員を途中で辞職し、北海道の小樽に移り、地方の新聞創刊などジャーナリズムで活躍、さらに鉄道事業などの事業活動も手掛けたが、その後政界への復帰はないまま、1901年に死去した。『三酔人経綸問答』『一年有半』などの著作を残しているが、兆民は号で「億兆の民」の意味、さらに「秋水」とも名乗ったが、それは弟子の幸徳秋水に譲り渡している。





































































































# by morristokenji | 2019-03-03 15:46
 2018年、日本近代の幕開けとなった明治維新から150年、つまり奥羽越列藩同盟が薩長の官軍と戦った戊辰戦争に敗れ、東北が「白川以北一山百文」と蔑まれ、収奪され続けてきた歴史の節目の年だ。東北の解放と開発を社是として、2011年東日本大震災にも地道な取材報道を続けている仙台の地方紙『河北新報』は、戊辰150年を迎え「奥羽の義」というタイトルで長い連載を試みた。薩長との国内戦に敗れ、賊軍の汚名に泣かされてきたけれども、敗北した奥羽の側にも多少の「義」のあったことを実証し強調し、積年の恨みを晴らしたい、そんな心情は東北人として好く理解できる。しかし、「義」は義でも、それは大義ではない。中義ないし小義を意味しているのであろう。だから連載も「奥羽の大義」にせず、単なる「義」にしたのではなかろうか?
 その伏線として、連載に先立ち「論考ー維新と東北」として、何人かの識者の「視点」を紹介している。その中で作家・原田伊織氏の見解に代表されるが、日本資本主義の近代化、ブルジョア革命である明治維新について、それが「テロリズムを背景にしたクーデターに過ぎない」という視点である。もし明治維新の王政復古が単なるクーデターに過ぎないとすれば、そもそも革命に大義などなかった。とすれば、それに対する奥羽越列藩同盟も、戊辰戦争も、大規模な内戦になってしまつたものの、そもそも大義などあり得ない。そして敗北した東北の側にも、クーデターに反対した中義、小義が残されているだけになってしまう。戊辰戦争の歴史的意義は、多くの犠牲に比べて、決して大きくはないことになるだろう。
 こうした視点が提起される根拠だが、改めて確認しておくと「1868年4月4日、江戸城に東征軍の勅使が入り、徳川家への沙汰状を公式に交付した。この日をもって徳川政権は公式に終わった」歴史的事実が存在する。欧米先進国から大幅に遅れ、後進国ドイツからも遅れた二重の後進日本資本主義のブルジョア革命は、倒幕戦争など不必要な無血平和革命が成功したのであり、戊辰戦争もブルジョア革命との大義に直結する問題は存在しない、単なる「テロリズムを背景としたクーデターに過ぎない。」倒幕戦争などではなく、薩長の明治新政府軍が、それ以前の「8・18政変」など、東北の会津藩などに対する「私怨にもとづく報復」とみるのであり、仙台藩なども仲裁に入るだけだったところ、クーデターに巻き込まれてしまった。したがってブルジョア革命の大義とは無関係に、私怨の報復戦争が拡大してしまったのである。
 その点で、のちに東北から宰相の地位に上った岩手の原敬が、1917年(大正6年)盛岡の法恩寺での「戊辰戦争殉難者50年祭」においてささげた祭文の一節が興味深い。「かえりみるに昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。戊辰戦役は政見の異同のみ。当時、勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり、その真相を語るものなり」戊辰戦争は、大義なき「政見の異同」だけ、たんに政治的見解が異なるだけで、一方が勝ったからといって、負けた方を処断できる筋合いではない、と主張している。大正デモクラシーの風潮を背景にした原敬の政友会総裁としての直言である。しかし、明治維新に始まる日本近代史を振り返るならば、それだけでは済まない歴史の現実も否定できない。
 確かに「戊辰の義」を読んでいても、私怨の報復戦争の色彩が極めて強い。そのための犠牲があまりにも大きいし、会津をはじめ東北の怨念も大きく根深い。しかし、そうだとしても薩長の官軍側としては、孝明天皇の崩御により、天皇制の権力奪取を強め、国権の掌握を強化することによって、維新のブルジョア革命を推進した現実を重視しなければならない。その点では、戊辰戦争も明治維新の延長であり、廃藩置県、秩禄処分、地租改正など、維新のブルジョア革命による「賊軍」の東北に対する仕打ちと差別は大きかった。例えば地租改正にしても、「賊軍の東北諸侯などに土地の私有権を認められない。そのため北海道などに追放し、特に山林は国有林にしたのだ。東北に国有林が多いのはそのためなのだ」その昔、恩師で戦前・東北大に在職していた宇野弘蔵氏による説明を思い出す。
 それに付けても戦後、1960年代初めの話だが、仙台市民の仲間に入れてもらい、選挙権も得た。東北の政治動向を知りたいとも思い、選挙の立会演説会を覘いたことがある。そこで抜群の雄弁をふるっていたのが只野直三郎という候補者で、1932年東北大法文学部卒業、戦後「日本人民党」を結成、「一人一党」で旧宮城一区から何回も当選していた。驚いたことに「国有林野を解放し、廃藩置県とは逆に廃県置藩、幕藩体制に戻して、林野を地域に開放すべきだ」と訴えていたのである。この超革命的な訴えがトップ当選につながる、それが戦後東北・仙台の政治風土だったのだ。首都の東京とは全く違う政治風土を感じ、恩師にも話した、その報告に対する宇野先生の回答が、上記のような内容であった。すでに50年以上も前の話だが、東北を理解する大切な鍵だと思い続けてきた。
 天皇制を利用した明治・絶対主義の明治維新は、上記の廃藩置県・秩禄処分。地租改正など、日本資本主義の創出のために、戊辰戦争の勝利を十二分に利用したことを見落としてはならない。東北諸藩の賊軍を追放し、身分制度を廃絶することにより、資本主義経済の大前提となった二重の意味で自由な「近代的労働力商品」を創出したのだ。明治初年の激しいインフレとデフレも加わり、没落士族と下層農民の労働者化による資本の「本源的蓄積」のための重要な槓桿となったのが、ほかならぬ戊辰戦争の薩長、官軍の勝利と奥羽羽越列藩同盟の敗北と賊軍だったと思う。この日本資本主義の近代化の裏面を忘れるわけにはいかない。それから150年、東北の近代化による開発は、戊辰の敗北とともに今日まで、その裏面を打ち消すことができない。秋田など市町村の自治体廃止まで進む人口減少、各県の最低賃銀など所得格差の拡大、そして東日本大震災による福島原発事故のエネルギー政策の矛盾に至るまで、日本資本主義の裏面であり、負の遺産でしかない。戊辰戦争150年の感懐である。
 

# by morristokenji | 2019-02-25 09:01
 昨2017年8月から、新しい『資本論』ぜミナールをスタートさせて、本ブログにアップしてきました。しかし、諸般の事情から、この間中断しましたが、新たな体制の下で『資本論』ゼミナールを再開することにしました。

①引き続き仙台・羅須地人協会のゼミナールとして開催する。毎月、第3土曜日、午後2時から、仙台市内、東一番町サンモール商店街、NPO法人「市民のためのシニアネット仙台」にて開催する。
②テキストとして『資本論』をベースに、すでに本ブログにアップしてきた拙稿を使い、その検討を進める。
③宇野弘蔵の「三段階論」(経済学原理論、発展段階論、現状分析論)の発祥の地とも言える仙台で、宇野理論の創造的発展を目指し、新しい『資本論』研究のゼミナールとする。
④現代の日本資本主義が当面する諸問題を念頭に置き、仙台・羅須地人協会のホームページhttp://rasuchijin.jpn.org/に連載している「田園から―オピニオンー」大内秀明「持論時論」なども討論の対象として、現代世界経済の現状分析の発展を目指す。一例として「持論時論」第80回「<入管法>と労働力商品の特殊性:資本主義的人口法則の矛盾」など。

# by morristokenji | 2018-12-09 10:14