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by morristokenji
 マルクスが経済学の研究を始めて以来、「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観が、一貫してイデオロギー的に前提されてきました。マルクスの表現を借りるなら、経済学研究のための「導きの糸」として、マルクスは資本主義を歴史的な社会としてとらえ続けてきた。それは科学的研究には不可欠な「作業仮設」であり、イデオロギー的な仮説だった。仮説は必要不可欠であり、マルクスにとっても、まさに理論的研究の「導きの糸」として役立ったし、その点で唯物史観を抜きに『資本論』もあり得ないし、唯物史観を否定してはならない。しかし、仮説はあくまでも仮設であり、理論や歴史そのものではない。理論については、理論的検討による論証が必要だし、歴史的事実については検証、実証が行われなければならない。理論的論証なしに、また歴史的実証抜きに一方的に主張されれば、それは単なるイデオロギー的なドグマになってしまう。
 まず「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観ですが、最初エンゲルスが投稿してきた『独仏年始』の経済学研究の論稿「国民経済学批判大綱」に、マルクスが強く刺激を受けた。マルクスは、もともと父親の影響もあり法律学を専攻し、ベルリン大学ではヘーゲル哲学を学び、ヘーゲル左派として活躍していた。しかし、主筆を務めた『ライン新聞』で、「森林盗伐」問題などを扱っている中で、経済学の勉強不足を痛感していた。それだけにエンゲルスの論文からの刺激が大きく、続いて二人は共同で『経済学・哲学草稿』『共産党宣言』などを書いた。「初期マルクス・エンゲルス」と表現する理由ですが、ロンドン亡命以降も二人の協力は続いものの、「中期マルクス」であり、「後期マルクス」であり、経済学研究はもっぱらマルクスが担うことになった。エンゲルスは父親の工場経営のためマンチェスターに離れてしまった。
 要するに唯物史観は、「初期マルクス・エンゲルス」の作業仮設であり、A・スミスやD・リカードなど古典派経済学の抜粋、ノート、草稿の中で「国民経済学者は私有財産制の運動を説明するのに、労働を生産の中枢として捉えながら、労働者を人間としては認めず、労働する機能としてしか見ていない」と述べている。ヘーゲル左派として、人間疎外、労働疎外の立場ではありながら、私有財産の基礎に労働をおいている。この「私有財産と労働」を起点として、階級関係も「ブルジョア(有産者)に対するプロレタリア(無産者)」であり、さらにJ・ロック以来の「労働価値説」を基礎にして、自然法に基づく「自己の労働」の果実としての私有財産を提起するのです。唯物史観は、こうした「私有財産と自己の労働」に基づく古典派労度価値説の受容にあった、と捉えることができるでしょう。

 では、その後マルクスの経済学研究が進む中で、唯物史観はどうなったのか?「中期マルクス」の『経済学批判』ですが、ここには「序説」とともに、「序文」には経済学研究のプランや唯物史観が定式化されています。マルクスは自らの経済学研究の跡を振り返り、唯物史観を定式化する。そのうえで古典派労働価値説を継承し、商品、貨幣を論じます。だから『経済学批判」は、唯物史観の定式の枠組みの中で、商品の価値や貨幣の機能が論じられているのです。商品は、古典派労働価値説によって労働生産物であり、労働生産物が富であり、「国冨」である。したがつて商品の価値は労働により決定され、交換価値も基本的に等労働量の交換比率として等労働交換である。貨幣の機能も、こうした商品論の労働価値説に基づいて展開されますが、「貨幣の資本への転化」には進めなくなった。したがって『批判』は、商品論と貨幣論だけで終わってしまったのです。そこでマルクスは、『批判』に先行して書いた草稿『経済学批判要綱』を超えて、『経哲草稿』以来3度目になる
経済学説批判の作業を進めます。『剰余価値学説史』ですが、もう一度マルクスはここでスミスやリカードの批判的研究に挑戦したのです。
 この『剰余価値学説史』の研究を通して、「後期マルクス」の『資本論』の地平が拓かれた。古典派労働価値説の批判を進め、「価値形態」、「労働力の商品化」、そして「貨幣の資本への転化」を通して、資本の生産過程による剰余価値論の展開に成功しました。その点でいえば、価値形態論と労働力商品化論は、理論的には表裏の関係にある。労働力は労働生産物ではない。しかし、労働力は土地・自然・エネルギーなどとともに、商品経済的富の原基形態をなす。労働力や土地自然まで商品化され、労働市場や不動産取引が拡大する。それが資本主義経済の商品市場の特徴です。例えばスミスは、商品を労働生産物に還元して、労働を「本源的購買貨幣」とした。生産過程を流通過程に還元し、流通主義のイデオロギーにより資本主義の絶対視に陥ったのです。マルクスは、労働力の商品化の解明に成功、それにより商品形態=価値形態を明らかにした。古典派労働価値説の批判の要諦は、価値形態と労働力の商品化の解明にあり、それによってマルクスの『資本論』は古典派経済学を科学的に批判し超克したのです。

 しかし、『資本論』による古典派労働価値説の批判的克服は、それほど安易な作業ではなかった。価値形態論をあれほど強調し、労働力商品化による剰余価値論を展開したにもかかわらず、『資本論』の冒頭商品論では、商品は依然として労働生産物だし、等労働量交換として、価値論の展開が進められている。そのためベーム・バベルク以来、マルクス価値論批判がそこに集中して来ました。また、古典派労働価値説と密接に関連している、私有財産の自己の労働による基礎づけも、『資本論』第1巻の最後に「所有法則の転変」として残されているのです。剰余価値の資本化による資本蓄積の前提に、マルクスはまず「商品生産の所有法則」として、「最初われわれにたいして所有権は、自己の労働に基づくものとして現れた」(第22章 剰余価値の資本への転化」)と述べ、それが「社会的労働に基づく資本主義的私的所有」による資本蓄積、そして「社会的労働に基づく社会的・共同所有」として「所有法則の転変」に基づいた「資本主義的蓄積の歴史的傾向」を第7篇、第24章「いわゆる本源的蓄積」の第7節で説いているのです。
 こうしてマルクスは「初期マルクス・エンゲルス」以来の唯物史観を、ここでまた提起します。しかし『資本論』のマルクスは、一方で古典派労働価値説の根本的批判を進めていた。価値形態論と一体化された労働力商品化論、そして労働力商品化の特殊性に基づく剰余価値論、そして資本の流通過程論に他なりません。唯物史観の定式化にもかかわらず、「中期マルクス」の『批判』は上記の通り、「貨幣の資本への転化」を前にして挫折した。それを超えた「後期マルクス」の『異本論』としては、古典派労働価値説の流通主義に回帰することは許されないはずです。古典派労働価値説の批判からすれば、「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観の原点回帰は、唯物史観を作業仮設からドグマにしてしまう重大な誤りではないか。この誤りも、古典派労働価値説をマルクスが十分批判しきれなかったことによるものと言えるのです。

 以上のように「初期マルクス・エンゲルス」の唯物史観は、エンゲルスの主導で古典派労働価値説による「私的所有と労働」の関係として定立されました。もちろんヘーゲル左派の立場から、疎外論が前提され、疎外された労働による私的所有の基礎づけだった。しかし、「後期マルクス」の『資本論』における純粋資本主義の抽象による価値論が形成されるまで、価値形態論も労働力商品化論も、古典派労働価値説を批判したマルクスには、まだ十分には提起できなかったのです。それがまた「貨幣の資本への転化」に進めなかった「中期マルクス」の『批判』の限界だった。しかし、『資本論』のマルクスは、価値形態論も労働力商品化論も明確に定立し、新たな理論的地平を切り拓くことに成功したのです。『批判』の唯物史観の仮説に埋め込まれた「私的所有と労働」、そして「所有法則の転変」の歴史観からここで決別し、それまでの唯物史観の作業仮設を、純粋資本主義の自律的経済法則による論証により問い直す必要があったのではないか?
 1870年代の「晩期マルクス」にとって、すでにヨーロッパ大陸は周期的恐慌を繰り返し、金融恐慌をバネにして経済成長を続けていた。唯物史観の「恐慌・革命テーゼ」は完全に反故と化し、政治的にはパリ・コンミューンの激動が、マルクスも指導した「第一インター」の組織を崩壊に導くことになった。エンゲルスの「プロレタリア独裁」に対し、むしろマルクスは、ここでL・H・モルガン『古代社会』を読み、新たにまた「古代社会ノート」作りに進んだ。さらに、いち早く『資本論』の翻訳が進んだロシアからは、ナロードニキの女性活動家、ロシア社会民主労働党のメンシェビキ理論家ヴェラ・ザスーリチからの詰問に、事実上「所有法則の転変」を修正する返書を書かざるをえなかった。それに加えて英訳が遅れに遅れていたロンドンでも、『資本論』仏語訳の読者が広がり、マルクス主義の組織「社会主義者同盟」のE・B・バックスが、「現代思潮のリーダー達 第23回 カール・マルクス」を書きました。バックスは、『資本論』の価値形態論、労働力商品化論を高く評価したうえで、パリ・コンミューンを踏まえたのでしょう、「所有法則の転変」を超えて「共同体社会主義」を提起したのです。マルクスもまた、それを「真正社会主義」として受け止めながら、亡妻を追うように死地に赴いたことを最後に指摘しておきます。

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# by morristokenji | 2018-01-31 20:08
 第7篇「資本の蓄積過程」の中心は、第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」です。第21章「単純再生産」、ならびに第22章「剰余価値の資本への転化」は、再生産についての経済原則を明らかにする。拡大再生産は、いわゆる「経済成長」論であり、資本主義経済では経済の成長が資本の蓄積として法則的に実現する。第22章のタイトルが、「剰余価値の資本への転化」とされ、拡大再生産の内容が「経済学の謬見」である「節欲説」批判になっています。しかし、拡大再生産としての「経済成長」論を明らかにして、「節欲説」を批判しても良かったと思います。資本主義経済では、経済成長が「蓄積せよ、蓄積せよ」のスローガンのもと、資本蓄積として遂行され、成長至上主義が実現されます。その法則的解明が、第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」です。
 
 マルクスは一般的法則を説明するに当たり、ここで資本の構成₌可変資本v/不変資本c(有機的構成ともいう)について、①構成の「不変な場合」と②構成が「高度化する場合」の2つのパターンに分けています。①は、単なる規模拡大・能力拡大型投資で、既存の固定資本投資を前提に、労働力や原材料の流動不変資本の拡大を図る。②は、新たな固定資本投資により資本の構成v/cを高度化し、技術革新と合理化を進め省力化を図る投資です。そして、一般的法則としては、「第一節 資本構成の不変な場合における蓄積に伴う労働力需要の増加」、つまり先ずは①の能力拡大型投資の蓄積で進む。とくに資本の流通過程で明らかにしましたが、固定資本の回転の特殊性から、固定資本の償却が進まない限り、新たな設備投資による固定資本の更新ができない。したがって、既存の固定設備の利用で積極的な技術革新はなく、資本の稼働率を高め、流動不変資本と労働力の雇用拡大が進む。その結果として「蓄積に伴う労働力需要の増加」をもたらすことになります。
 ここで労働力商品の特殊性が表面化し、資本蓄積の制約要因となって、資本主義に特有な人口法則が具体化する。①の能力拡大型投資は、労働力需要の増加により雇用拡大が進むが、流動不変資本と異なり、「可変資本の回転」は、労働力の再生産としての「個人的消費」に依存せざるを得ない。雇用拡大による賃金の上昇は、労働力の再生産を刺激するが、消費生活を通しての労働力の再生産は、モノの生産、再生産ではない。人間の再生産であり、具体的には家庭で家族として子供が出生し、保育され、進学し、労働力として雇用されるまでには最低でも10数年が必要である。こうした労働力の特殊性に基づく再生産の制約が、労働市場における労働力不足・人手不足となり、賃金上昇の圧力となって剰余価値率の低下をもたらす。剰余価値率の低下は、第3巻の分配範疇では利潤率の低下、つまり資本の過剰蓄積を意味する。当然、経済原則的には、経済成長の鈍化、停滞を帰結します。
 このように①の資本蓄積が進むと、労働市場での労働力の不足、人手不足が必然化するが、それは資本蓄積が労働力商品の特殊性から、可変資本の回転を通して、労働市場の求人倍率を高める結果に他ならない。さらに、先ず①の蓄積が進むのは、固定資本の回転の特殊性が、経済原則から固定資本の償却を迫るからです。だから①の蓄積パターンの持続的進行は、労働力商品の特殊性、固定資本投資の特殊性から、経済成長の制約要因によるチェックを受けるからです。したがって、経済成長の要因の確保が必要にならざるを得ないが、それは「技術革新」による生産性の向上と、それに基づく相対的過剰人口の形成である。生産性向上により、相対的に過剰人口を形成し、それによる労働力不足・人手不足の解消を図ることになります。
 そこで資本蓄積は、マルクスのいう②の資本構成の高度化、つまり上記の合理化型投資へ転換して、資本蓄積を進めることになります。第二節のタイトルも「蓄積とそれに伴う集積との進行中における可変資本の総体的減少」です。合理化型投資は、上記の①の蓄積が進み、固定資本の回転も進んで、償却資金の積み立ても完了に近づいているので可能になる。つまり、固定設備の更新に際して、新たな生産性向上を可能にする技術革新型の投資が行われ、②の資本蓄積に転換することができる。生産性向上は、上記の通り相対的過剰人口を生み出し、それによって労働力人口を形成する。労働力商品の特殊性を「人づくり革命」ではなく、「生産性革命」への資本蓄積の法則的転換により解決するのである。こうした資本蓄積の①から②への自律的転換を通して、資本蓄積の一般的法則が貫かれる。これが『資本論』による「資本主義的人口法則」であり、こうした法則により労働力商品の特殊性、固定資本の回転の特殊性による経済原則からの制約を、資本主義は法則的に解決して経済成長を進めることができる。

 このように『資本論』では、資本の組成を①と②の二つのパターンに分類し、相対的過剰人口の形成などの説明では、①と②の循環的交代を説明し、資本蓄積による周期的景気循環の基礎を明らかにしています。しかし、その説明は必ずしも一貫性があるわけではない。①と②はケース・バイ・ケースで、その時の条件で決まるような説明もあるし、さらに①が歴史的に先行し、資本主義的蓄積の本格化とともに②が不断に進み、相対的過剰人口が累積的に進行する。資本蓄積が進むと、過剰人口も累積化し、失業者が増大して「貧困の蓄積」となり、いわゆる窮乏化革命が説かれることにもなります。マルクスも資本主義の「最後の鐘」を鳴らしたかったのかも知れません。しかし、「資本主義的蓄積の一般法則」としては、資本主義に特有な人口法則の解明が重要だった。
 マルクスの説明が、必ずしもスッキリ一貫したものにならなかった理由ですが、いろいろあると思います。大きな理由としては、『資本論』第2巻「資本の流通過程」で明らかにされる「可変資本の回転」による労働力商品化の特殊性、さらに「固定資本の回転」の特殊性が十分に前提されなかった。すでに紹介しましたが、マルクス自身も資本の蓄積過程が再生産過程である以上、その前提に資本の流通過程の解明が必要であることを知っていた。しかし、第1巻の取りまとめを急ぎ、「最初まず蓄積を抽象的に、すなわち単なる直接的生産過程の要因として、考察するのみである」とした。このように直接的生産過程として抽象化したことの結果として、可変資本の回転や固定資本の回転の制約が十分に評価されず、②の蓄積パターンが連続することになり、失業と貧困の蓄積となってしまった。
 もう一つ、『資本論』第1巻の取りまとめを急いだ点とも関連しますが、ここ第7篇「資本の蓄積過程」には、「所有法則の転変」を中心に、第24章「いわゆる本源的蓄積」など、理論的展開の歴史的検証や例証を超えて、資本主義の生成、発展、消滅の歴史的展開を解こうとしている。そのイデオロギー表現が有名な「収奪者が収奪され」て「最後の鐘」を鳴らすことになる。『資本論』が純粋資本主義の抽象により資本主義経済の運動法則を論理的に説明する筈が、論理的・歴史的展開を図った。そのためにイデオロギー的な作業仮設が独走し、ドグマ化してしまったのではないか?とくに所有法則の転変による「第7節 資本主義的蓄積の歴史的傾向」に集約されていますが、それについては項を改めて検討しましょう。

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# by morristokenji | 2018-01-28 20:30
 『資本論』第1巻に戻りますが、第2巻の「資本の流通過程」を前提することによって、とくに第7篇「資本の蓄積過程」について、改めて検討しなければならない論点が出てきます。そもそも第2巻による「補足」の必要性に気づきながら、おそらくマルクスは、第1巻の刊行を急いだのだろうと思います。そのため、論点の多くを棚上げにして、第1巻をまとめざるをえなかった。とくに「商品生産の所有法則の資本主義的領有法則への転換」を早期に提起したかった。その結果、「所有法則の転変」から、資本主義から社会主義への歴史的転換・移行を説くことにもなり、社会主義論としても色々問題を持ち込むことになってしまったように思います。まず、その点から検討しましょう。

 第一に、第7篇を開いて、まず奇異に感ずるのは、すぐ「第21章 単純再生産」を始めずに、他の篇とは異なり「まえがき」のようなコメントがあることです。「貨幣の資本への転化」を述べ、資本の循環について「資本の流通」に触れ、資本蓄積の第一の条件として「資本はその流通過程を正常な仕方で通過することが前提される。この過程のさらに詳細な分析は、第二巻で行われる」と述べているのです。つまり、資本の蓄積過程の分析のためには、第二巻の「資本の流通過程」による補足、というより「前提」が必要である点が指摘されているのです。とすれば、資本の蓄積過程の前に、「資本の流通過程」を置くことをマルクスも考えていた。しかし、第一巻を急いでまとめることにした、そこで第二巻は後回しになった、ということかと思います。さらに第三巻では、利潤、利子、地代の分配範疇を述べることも指摘し、そのため資本蓄積を「抽象的に、すなわち単なる直接的生産過程の要因として、考察する」と断っています。

 第二に、単純再生産と拡大再生産は、経済原則の説明にとって必要ですが、資本蓄積は「剰余価値の資本への転化」として、拡大再生産が経済法則として実現される過程です。その際、「第22章 剰余価値の資本への転化」として「第1節 拡大された規模における資本主義的生産過程。商品生産の所有法則の資本主義的領有法則への転換」が説かれます。ここでわざわざマルクスは「商品生産の所有法則」を持ち出し、「最初われわれにたいして所有権は、自己の労働に基づくものとして現れた。少なくとも、この過程が妥当でなければならなかった、というのは、同権の商品所有者のみが対立するのであり、他人の商品を獲得する手段は、自己の商品の譲渡のみであり、そして自己の商品は、ただ労働によってのみ作り出されうるものだからである。」(1巻732頁)言うまでもなく初期マルクス以来の「唯物史観」における「私的所有と疎外された労働」の関係であり、また「単純商品生産社会」の想定であって、所有権の基礎づけに「自己の労働」を持ち出している。こうしたマルクスの想定が、所有法則の転換による歴史的移行についての「第24章 いわゆる本源的蓄積」「第7節 資本主義的蓄積の歴史的傾向」の布石になっている。社会主義論を含めて、様々な疑問が生じます。

 第三に、「第23章 資本主義的蓄積の一般的法則」では、資本蓄積と「相対的過剰人口」の存在形態など、資本主義的人口法則が説かれます。内容的には、後に検討するとして、このように資本蓄積について「一般的法則」を説き、純粋資本主義における景気循環の基礎を明らかにした上で、さらに「第24章 いわゆる本源的蓄積」が置かれ、しかも所有法則の転変として、資本主義の歴史的生成、発展、消滅が説かれます。剰余価値論はじめ、他の先行諸篇では、歴史的資料は沢山使っていますが、資本主義社会の歴史的生成、発展、消滅を法則的に展開してはいない。とくに「所有法則の転変」としては、上記の通り「単純商品生産社会」の想定は、A・スミスの初期未開の社会など、労働を「本源的購買貨幣」とする流通主義のイデオロギーに過ぎない説明です。さらに、資本主義の歴史的生成過程としては、マルクス自身「いわゆる本源的蓄積」の過程を説いている。本源的蓄積と所有法則の転変の両者を、いかなる関連にあると考えているのか?さらに、社会変革のための組織的運動を抜きに、性急に資本主義の「消滅」を単にイデオロギー的に主張するだけではないのか、余りにも性急に「最後の鐘」を打ちすぎているのではないか等、様々な疑問が出てきます。

 第7篇は、内容的に純粋資本主義の運動法則として、余りにも多岐、多様にわたりすぎている。『資本論』第一巻の最後の締めくくりとして、単に純粋資本主義の運動法則にとどまらず、資本主義の歴史的生成、発展、消滅まで説き、資本主義の「最後の鐘」を鳴らそうとしたのでしょうが、それは単あるイデオロギー的主張にとどまった、と言えるように思います。マルクスも、それに気づいていた。だから、自身が手を入れた『資本論』仏語版では、部分的改定のために手を入れただけでなく、資本主義の歴史的生成、発展、消滅にかかわる部分、つまり第24章「いわゆる本源的蓄積」の部分を第23章までと区分し、切り離して第8篇にしています。第23章の「資本主義的蓄積の一般的法則」の論理と、第24章以下の歴史過程の部分を峻別しようと考えたのではないか。論理と歴史、科学とイデオロギー、理論と実践の関係について、マルクス自身の内在的問題提起だと思います。 

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# by morristokenji | 2018-01-02 15:43
 資本の流通過程は、資本の一般的形式G-W-G'に基づき循環し、回転します。そこでも、生産と消費を繋ぐに当たり、労働力商品の特殊性が、経済原則の面から、可変資本の回転に制約を課しました。さらに、不変資本の投資の中にも、原材料のように一回の生産過程で全部的に価値移転して製品化するもの、それを流動資本とします。A・スミス以来、流動資本と固定資本の区別が行われてきました。『資本論』でも、その資本分類を継承していますが、流通過程と生産過程の区別を厳密にして、その上で生産資本ついて、まず固定資本は、機械などに投資された資本で、部分的にしか価値移転されず、投資の回収が長期化します。他方、全部的に価値移転が行われ、一挙に全部的に回収できる流動資本は、固定資本より投資効率が良いのは当然です。その点、固定資本は回転期間の面で制約を受ける。
 資本の生産過程では、雇用した労働力の使用価値である労働を強化する絶対的剰余価値生産、しかし労働強化には制約があった。1日は24時間だし、労働力は人間の能力であって、家畜同然の奴隷ではない。使い捨てではなく、労働力の再生産を保障して、人権を認めなければならない。それに対して、労働者が資本から必要労働を、その生活手段として買い戻すに当たり、その消費財の生産性を向上し、その価値を切り下げれば、間接的ながら必要労働による労働力の価値切り下げになる。労働強化による直接的な剰余価値生産が絶対的剰余価値生産、それに対し生産性の向上による間接的な剰余価値生産を、相対的剰余価値生産と呼んでいます。資本にとっては、絶対的剰余価値生産に色々制約があるため、むしろ相対的剰余価値生産がより重要であり、生産性向上が不可欠になります。
 
 『資本論』において、純粋資本主義として抽象されるのは、これもまた労働力の商品化に対応しますが、生産力水準としては機械制大工業です。協業や分業とともに、機械制大工業の工場制度が、生産過程の組織者になり、資本主義的生産が確立した。労働者は、工場制度の組織の中に組み込まれ、チャップリンの喜劇「モダンタイムス」のようになり、労働の生産性より機械の生産性となって、生産性向上が推進される。資本は、不断に生産性向上を求めますが、しかし固定資本の存在は、不断の生産性向上を許さない。なぜなら、固定資本に投資された資本は、流動資本と異なり、一挙に全部的に価値移転できずに、部分的に価値移転して、少しづつ償却されるからです。償却された部分は、部分的に貨幣化されますが、償却資金として積み立てて置かねばならない。償却の期間が来た時に、初めて新たな機械とともに技術革新と生産性向上が実現する。
 その点で、政府が「生産性革命」を叫び、「人づくり革命」を目指しても、固定資本の償却を無視して、機械の更新はできない。機械制大工業は、巨大化する固定設備により相対的剰余価値生産を進める以上、固定資本の償却が進み、その更新に会わせて技術革新を行わざるを得ない。不断の技術革新や不断の生産性向上は無理な話です。それに技術革新は、企業自身よりも、外部の研究機関などの研究開発で進むケースが多い。したがって、企業の固定資本の更新時に上手く技術革新が合致するとは限らない。その点でも生産性革命が不断に進み、相対的剰余価値生産が不断に推進されるわけではない。資本の流通過程も、固定資本の回転の面で、機械設備による経済原則からの制約を免れないのです。

 こうした固定資本の償却については、『資本論』で特に説明がありませんが、非資本主義的な「社会的生産の基礎上では、比較的長期間にわたり、その期間中
は有用効果としての生産物を供給することなしに労働力と生産手段を引き上げるこれらの作業が、一年中連続的にか、また数回にわたり、労働力と生産手段を引き上げるだけでなく、生活手段と生産手段を供給もする諸生産部門を害することなしに遂行できる基準が決定されねばならない。」と述べ、こうした経済原則が貨幣資本との関連で「貨幣資本は社会的生産においてはなくなる。社会が労働力と生産手段とを種々の事業部門に分配する。生産者はたとえば指定券を受け取って、それと引き換えに、社会的消費用備蓄の中から、彼らの労働時間に相応する量を引き出すことになってもよい。この指定券は貨幣ではないし、流通しない。」(2巻、423頁)
 ここでは貨幣資本と貨幣について興味深い問題提起がありますが、それはともかく「社会的生産」でも、固定設備の更新のために「指定券」を準備し、それに相当する更新のための新たな固定設備に一定の労働や生活手段、生産手段を充当して準備しなければならない点を指摘している。上述の労働力商品の特殊性に基づく可変資本の回転とともに、固定資本の特殊性に伴う回転と経済原則の緊張関係がここでは重要である。こうした重要性を無視して「生産性革命」や「人づくり革命」を政府が強調しても、資本主義や「社会的生産」を無視して強権主義に行き着くだけだろうと思います。

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# by morristokenji | 2017-12-31 16:09
 『資本論』第2巻の「資本の流通過程」にとり一番重要なことは、「貨幣の資本への転化」に立ち戻って、マルクスが「資本の一般的形式」としてG-W-G'、つまり商品、貨幣とともに、流通形態として「資本」を定義したことです。流通形態だから産業資本もG-W--P--W'-G'の流通形態とすることになったし、資本の流通過程の分析もまた、G'-W--P--W'-G'の姿態変換(メタモルフォーゼ)から回転に入ることになったのです。W'の実現、生産された剰余価値の実現も、資本の姿態変換の一環に組み込まれて処理されることになるのです。とくに商品資本の循環=姿態変換形式W'-G'-W--P--W'により、W'のG'への実現は、資本家の所得の支出、貨幣の流通速度のアップなど、十分に可能であり、循環が進むことができます。
 資本の流通過程にとっての中心課題は、流通形態としての運動にとっての時間的経過、つまり「期間」であり、その期間に伴う資本の回転です。資本の価値増殖は、より多くの剰余価値を、「より早く」獲得することです。期間として資本の流通過程を捉えれば、流通期間と生産期間に大別されますが、そこでの資本の構成要素の機能と運動が、資本の回転を左右することになる。とくに、労働力商品に投資され、労働者へ賃金として支給される可変資本の循環は、資本の生産過程での労働による剰余価値の生産とは別の意味で、ここでも「労働力商品の特殊性」が資本の回転に特有な問題を提起し、可変資本の回転として論じられることになります。

 労働力商品の特殊性は、資本の生産過程では、必要労働により労働力商品の価値を形成し、それを労働者は賃金により生活資料として買い戻す。さらに労働者は、剰余労働により剰余価値を生産し、資本の価値増殖の手段に利用される。労働力の使用価値である人間労働は、必要労働だけでなく剰余労働を含み、マルクスも言及していますが、B・フランクリンの「道具を作る動物」として人間社会を支えます。その人間労働を、資本は価値増殖の手段とするのです。①長時間労働などの労働強化による絶対的剰余価値生産、②必要労働の賃金を実質的に切り下げるための技術革新と生産性向上による相対的剰余価値生産の2つの方法です。この生産過程の剰余価値生産をより早く回転させる、それが資本の流通過程の課題です。
 資本の流通過程は、G-W-G'の一般的形式を前提にして、貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環の姿態変換(メタモルホーゼ)を繰り返しますが、労働者が労働力を資本に販売するA-G-W'は、資本の循環形式ではない。言うまでもなく形式はW-G-Wの単純流通です。労働の生産物ではない、資本の生産物でもない労働力商品Aは、土地自然エネルギーと共に、商品流通に参加していますが、そして資本の流通過程に組み込まれますが、しかし資本の流通形式ではない単純流通の形式です。ここに労働力商品の特殊性が発現する。

 『資本論』では、「可変資本の回転」ついては、「剰余価値率の年率」について説明しています。5週間で回転する資本と、回転に1年間かかる資本の2つを挙げ、剰余価値率は同じでも、その年率は前者が1000%、後者が100%に過ぎない両者の相違が生ずる。資本の回転の効率からいえば、前者の効率が良いわけで、資本はとりわけ可変資本について、その年率を考慮し回転期間の短い投資を選択しようとする。また、回転期間を短くするよう努力することにもなる。さらに個別資本の立場からの回転から、その社会的な関連について考えると、上記の労働力商品の特殊性が、可変資本の回転に大きな影響を与えることが判ります。
 労働者の立場からみれば、上記の通りA-G-Wは資本の流通過程から独立した単純流通です。それも、生産と個人的消費をつなぐ役割を担っている。すなわち、労働者が労働力を売るA-Gは、資本からはG-W(A)--Pであり、労働者は生産過程--Pに従事する。剰余価値とともに価値を生産する。同時に、労働力の価値部分を、労働者はG-Wで消費財Wを購入し買い戻す。そして、家計の消費活動に入り、労働力の再生産を図る。この家計の消費活動は、言うまでもなく毎日行われなければならず、消費財も毎日の労働者の消費に充当されるように配分されなければならない。だから、上記の一年間も回転期間がかかり、剰余価値年率の低い投資は、生産が毎日行われ剰余価値も生産され、賃金も支払わなければならないのに、貨幣資本としては回収できない。賃金支払いだけは続けるから、賃金ファンドは5週間の資本と比べるなら、10倍以上も必要になってしまう。

 さらにG-W(A)として投資された可変資本は、労働力が人間の労働能力であるから、G-W(Pm)の原材料のように、必要なくなったら商品として転売することもできない。そこが労働力商品の賃労働と、モノ同然の奴隷との差異になる。また、賃金は日給にせよ、週給にせよ、月給にせよ、消費生活に合わせて支払はねばならないし、それも原材料と異なり、手形ではなく現金で規則的に支給されねばならない。こうして労働者の人権として必要労働の買戻しを保障するとともに、生産の継続と結びついた賃金支払いによる消費生活の維持が経済原則の面からも要請されることになる。
 『資本論』でも、次のように述べている。「社会が資本主義的ではなく共産主義的なもの」でも、「鉄道建設のように、一年またはそれ以上の比較的長期間にわたって生産手段も生活手段も、また何らの効用も供給しないが、しかし年々の総生産から労働、生産手段、および生活手段を引き上げる事業部門に、社会が、どれだけの労働、生産手段、および生活手段を、何らの損害もなく振り向けうるかを、社会はあらかじめ計算せねばならない。」ここでマルクスは、労働だけでなく生産手段も挙げていますが、根本は労働力商品の特殊性から、賃金ファンドや生活手段の消費財、そして消費生活の維持と保障を指摘していると見ていいでしょう。このように可変資本の回転と経済原則との関係で労働力商品の特殊性が重視されなければならない。

 このように労働力商品の特殊性は、資本の流通過程に於いても、資本は必要労働
を労働力の価値として、労働者に規則的に引き渡し、それで労働者は労働力の再生産を図る。にもかかわらず生産期間や流通期間が長期にわたれば、労働者に労働力の価値を引き渡してしまうために、賃金支払いのファンドが嵩んでくる。剰余価値年率が悪化して、資本の投資効率が低下する。労働力商品化の矛盾が、経済原則と経済法則の接点と両者の緊張関係が現出するわけです。こうした矛盾をはらみながら、生産と消費の経済循環が実現されるのです。短期の価値増殖を目指す資本にとり、鉄道投資や林業など、生産期間や流通機関の長期化せざるを得ない投資が敬遠される矛盾を孕んでいます。

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# by morristokenji | 2017-10-28 20:31